不文律のカーテンの向こう側
旧校舎は重要文化財に指定される予定があったほどアンティークな建物だ。明治時代中期の二階建ての木造の建築物だったが戦後に補修と増設、改築が施され建設当時のまま残っているのは二階しかないため、重要文化財の話はご破算になった。二階は平成に入ってから老朽化が進んでいるため、階段はロープで塞がれ立入禁止となっている。一階は廃棄処分待ちの教材などの物置として使われている。
旧校舎内は喧騒のない静謐な空間だった。二年生になる透でも初めて踏み入る空間だったがどこか落ち着かせてくれる不思議な空間だった。思わず用事を忘れてくつろいでしまう。慌てて透視を始め、廊下を大股で歩く。
トイレ前を通りすぎようとした時に中に小さな人影を見つけた。すぐに注視するとそれが自分の探しものだとわかった。
ついにマルコの後ろ姿を捉えた。マルコは旧校舎のトイレの中にいた。しかし様子が少しおかしい。着替えを済ませておらず制服のままな上、誰かと会話をしているようだった。壁が薄いため会話を完全に聞き取れないものの中から声が漏れて廊下でもかろうじて聞こえた。マルコではない他の誰か、もう一人、女性の声も聞こえた。頭の中で忌々しいある女の顔が浮かべるも中にいるのはマルコ一人だけだった。女性の姿はトイレの中にも天井裏にも見当たらない。
一人で話しているとなると携帯電話だろうか。ここに隠れて電話する理由は何だろうか。推測ではあるが急に家族から着信が入り、さらにその会話を他人に聞かれたくなかったのだろうか。旧校舎までやってきてすることでもないと思うが等と邪推する。
どんな会話をしているか気になるが、覗きはしても盗聴はしないのが透視能力者里見透の考えるエチケットだった。中から声が聞こえなくなるまで廊下で待つことにした。ここで一人置いて行くこともできたが、待たないと教師に言い訳ができなくなる。ここは迷子を保護したという嘘で罪を軽くするのが定石だ。マルコも隠れて電話したと堂々と言えないだろうし、人参玉ねぎ平和友好条約締結時のように再びお互いに手を組み合えるはずだ。
マルコの無事の姿を確認して、ほっとして透視を止めた。安心感から腰が抜け、がに股で尻もちをつく。女らしさの欠片のない、みっともない格好だったが本人にとって些細な問題に過ぎなかった。
五分もしない内に中から声が聞こえなくなった。
頃合いを見て、大声を上げる。わざとらしくマルコを探している演技をしながら。
「おーい、マルコちゃーん。いたら返事してー」
唐突な声に中から素っ頓狂な声が聞こえる。またしどろもどろになっているようだった。
「はは、はい! その声は透さんですか!?」
「あーこっちにいたのかー。いきなりいなくなるから心配したよー」
「すみません! 急にトイレ行きたくなって!」
「おーそうなのー。でもなんでこんな遠くの旧校舎までー?」
「でんわ……トイレを探してたら迷子になっちゃいまして!」
「そうかーそうかー、それでもう済んだー?」
「まだです! すぐに済みますから! すみません!」
扉を開け、個室に入る音がする。電話だけでなく、本当にトイレも目的に入っていたようだ。
続いて中から便座を上げる音がした。もう一枚、便座を上げる音がした。
やれやれ、と透は腰を上げて体操着についたホコリを払い、背筋を伸ばすストレッチをしてからようやく違和感に気付いた。聞き慣れないというより余分に音が聞こえた。
一つ多い便座を上げる音がしたような気がした。
よせばいいものをもう一度透視を試みようと考えたが、用を足している最中の幼気な子を覗くのは憚れた。いくら透視能力者とはいえ、見て良いもの悪いものの区別はある。プライバシーについては自分なりに考えているつもりだった。先生や母親に教わった自分がやられたくないことは他人にもしないという教えに則り、透視してもいいのは自分が見られてもいいものまでだ。しかし毒を食らわば皿まで。先程もトイレの中に人がいたにも関わらず、覗いてしまっているので罪悪感が薄れていた。
不必要なコミュニケーションを拒む彼女が特定の人物にここまで手間をかけ、気にかけることは初めてだった。
覚悟をし、トイレに抜き足差し足忍び足で侵入し、閉まっている個室のドアの前に立った。鼻で深呼吸をし、透視を始める。じわりじわりと扉が透けていく。本来の実力なら核シェルターのような厚みのある壁も一瞬にして透明化できるが彼女は緊張し心拍数があがり、コンディションが乱れていた。超能力はコンディションの小さい変化でも大きく能力が左右される。
里見透はこの時は知る由もなかった。この透視、のぞき見が彼女の今後の人生を大いに左右する行いとなる。もしこの時彼女は一般常識を忘れずに我慢していれば平穏な人生を送るはずだった。一抹の興味に身を任せたばかり彼女の今後は苦難の連続となる。
このトイレは透視能力である彼女にしか開けないパンドラの箱だった。
暴かれた真実に、箱の中身に驚愕し、透は絶叫した。
「お、おとこのこおおおおおお!?」
中には立ちながら用を足すマルコの姿があった。
それはすなわち男という動かぬ証拠だった。さらに言えばリボンが超絶似合う可愛い男の娘だった。
時が止まったかのようにまで錯覚させるほど静寂な旧校舎にやまびこのように彼女の絶叫が響く。あまりの衝撃に集中力と一緒に透視能力が途切れる。
絶叫の次に来るのは絶句だった。あんなに可愛い子が女の子ではなく、男のこなのか。なぜあんなにも女装が似合うのか、髪型のせいだろうか、これが噂のこんなにかわいいこがおんなのこなわけがない等など。そういう下らない疑問が脳内を占領してしまい、ここは女子校であり、男児が性別を隠し留学し潜伏している謎は一切考えようとしなかった。
静寂から一転、個室から水が吸い込まれる音がした。そして扉が開いた。錆びた金属がこすれ合って不気味な音がする。雰囲気的にホラー映画なら花子さんが出てくるが男のこのマルコが俯いて立っていた。身長差から表情が伺えず、透からはつむじしか見えない。
「……見たんですか」
声変わりも終わってない子供の声なのにえらくどすの利いたように聞こえる問いに透はまたも返答に困らせられた。正直に答え暴露主義の変態に成り下がるか、嘘を吐き隠蔽主義の変態に成り下がるか。いや待て、この選択はおかしい。真っ先に気遣うべきは覗かれた彼のメンタルだ。
「あぁ……見てない見てない私は何も見てないよ」
「……見てないって何を見てないんですか」
「あーーー……そうそう! 携帯電話で誰かと隠れて電話してるところだよ」
絶妙な躱しができたとほっとする間もなく、
「……それで何で男の子って叫ばれるんですか」
当たり前の言及が突き刺さる。最早言い逃れができないほど彼女の罪は明白だった。
「男の子じゃなくて……小野小町って叫んだんだよ、ね、聞こえない? って聞こえるか!」
「…………」
痛快なノリツッコミ虚しく無言の圧力。問い詰められなくなり頭のメモリが言い訳作りから開放され、罪悪感を駆り立てるタスクに切り替わる。見苦しいことこの上ない。いっそのこと、今なら謝れば命だけは許してやると言ってくれれば土下座でも何でもするのに。
「……素直に謝ってもらえれば命だけは許してあげます」
「すみませんしたっっっっ」
女子高生が即座に小学生相手に対し、親にもしたことがない土下座をした。放置され長年掃除されていないトイレの床だろうが気にせずに膝を着き、手を着き、額を着き、鼻先すらも潰れて変形するほど擦りつけた。
「見ました! となり町の駅前にある小便小僧のようにばっちりと見ました!」
「そこまで言わなくていいです……」
「いいえ、全部白状しますので楽にさせてください! 私は確かに見ました! つるつるなところもしっかりと……」
罪状を最後まで述べることができなかった。突然トイレ内に異変が起き始め、思わず透は頭を上げる。
マルコを中心に見えない謎の力が働く。密閉した空間内で空気が揺れ、天井が軋み埃が落ちてくる。便器内に溜まった水が波立ち始める。
「……お姉ちゃんにも……」
窓が大きな音を立てながら木製の枠ごと外れ、鏡にヒビが入る。この怪奇現象は決して地震に依るものではない。
「お姉ちゃんにも見られたことがないのにい!」
悲痛な叫びとともに塞き止められていた力が鉄砲水の如く、渦潮の如く空間を引っ掻き回す。透明な渦が手狭な室内に幾つも生じ、通常ならはるか頭上にしか起きない乱気流が顕現する。
天井に大穴が空き、個室の囲いはなぎ倒され、鏡が粉々に割れた。
トイレ内のあらかたの備品を壊し尽くした頃にようやく嵐が過ぎ去った。
旧校舎に永遠に続くような静寂が戻る。しかしそこには台風一過のような安寧な落ち着きはなく、元の原型がわからなくなるまで砕かれた木片やコンクリートの欠片が床に累々と散らばる物々しい惨状に変わり果てていた。
その惨状の中に透は横たわっていた。彼女は逃げる間もなく状況を飲み込む間もなく為す術もなく巻き込まれていた。幸いにも壁まで吹き飛ばされ背中を強く打ち付けただけで済み、ギリギリ意識を保っていた。背中に走る激痛に耐えながらもマルコからは目を離さなかった。台風のような鎌鼬に巻き込まれ怪我をしてないか、その安否を気遣った。
マルコは透の傍らで膝を着いて透の名前を叫びながら体を揺らしていた。台風の目にいたのか、彼に目立った外傷はなかった。
マルコの無事を確認し気の緩んだ瞬間、意識が遠のいていく。その薄れていく意識の中、今の超常現象の解析を急いだ。地震ではないとなるとポルターガイストだろうか。否、それよりももっと手っ取り早く説明できる明快な奇跡を知っている。これは念動力の類、超能力の一種だ。しかしその明快な答えは一つの大きな矛盾を抱えていた。その矛盾は超能力者の絶対条件に反していた。
今では普遍的特徴になりつつある超能力には調査や研究を重ねた結果、初期段階で世界中で共通して絶対となる条件が二つ見つかっている。
一つは一人に持てる超能力は一つだけであるということ。残るもう一つは超能力者になれるのは女性しかいないということだ。