姉の遺産・1
マルコはエメラルドグリーンの色をした目を二つとも丸くさせて驚いた。自宅の長らく空っぽだった車庫に見かけない新品の車が入っていた。二人家族なのに五人乗りのミニバンだった。
「カレン、これどうしたの」
週に一度しか帰ってこない多忙な姉が昨晩夜遅くに電話してきたかと思うと試作品開発に成功したから明日から長期休暇を取ると言われ、そして起きてみれば免許を取得していないはずの姉が車に乗って帰って来た。
「買ったのよ、一括で。新車で」
栗毛に茶色の瞳をした少女、カレン・リードは自慢気にそう言った。
「でも今から日本に行くんだよね、なんでこのタイミングで」
「空港まで行くのに必要でしょう、何言ってるの」
「カレンこそ何言ってるの……でも良かった、空港までなんだね。それと飛行機なんだね」
無茶苦茶な姉なのでたまに暴走するが慣れていた。慣れてはいるがこの車で海を渡ると言い出されたら逃げるだろう。
「長期休暇のうちにやりたいことをまとめてやりたかったのよ、それだけ。日本でも乗り回したかったけど時間が許してくれなかったわ」
少年は安堵のため息をこぼす。
「買ってくるなら○ロリアンが良かったのに……」
落胆のため息もこぼす。
「ぶつけてもぶつけられても壊れなさそうな頑丈な車を買ってきたのよ。マルコのお気に入り、追突したらすぐぺちゃんこになるらしいじゃない。候補にはあったけど弟を危ない目に合わせるわけにはいかないわ。まあ追突しそうになったら前の車には小鳥さんになって避けてもらうけど」
車に翼を授けるつもりか、この人は。
「僕、交通事故以外で警察のお世話になるのは嫌だなぁ」
「デメリットばかりとは限らないわ、交通事故だと減点だけど、その他の事件なら免許に傷はつかない」
「今日のところは空港じゃなくて自動車学校へ行ったほうがいいと思うよ、一から勉強しなおしたほうがいいよ」
「嫌よ、私はこれから絶対に日本に行くの」
「じゃあ僕は留守番してるね、お休みなさい」
マルコは着替え直して二度寝に入ろうとする。
「弟と! 絶対に行くの!」
ふわっとマルコの体が浮かぶ。この頃の彼に超能力はない。彼の身体が浮かんだのはカレンの仕業だった。
「カレン! 抱っこされなくても自分で乗れるよ!」
聞く耳を持たず、少年を浮かせたまま、車のドアの取っ手を念動力で器用に引っ張って開ける。音もなく少年は助手席へ運ばれていった。座ると同時に自動でシートベルトを装着させられる。無論車にそんな機能はなく、カレンの熟練した念動力が成せる技だった。
「さあ行くわよ、出発進行!」
気の良い掛け声と快調なエンジンの始動音だったが、初っ端からエンストさせてしまった。
「カレン……本当に免許取れたの……」
数年前は姉の輝かしい活躍を誰よりも近く信じて見守っていたが、今日は姉を心配する。完璧に見えてこういう抜けたことがあると思い出す。顔を合わせることが少なくなり、忘れていたがこういう人だった。思い出すと同時に安堵する。今や世界に名を知らない者はいないほどの有名な姉だったが、世界中が知らない彼女の本当の姿を自分は知っている。それは自分がこの人の弟であるから知ることを許されている特権だ。遠くに感じていた姉を久方ぶりに近くに感じられ幸福感で満たされていた。
「ここだけの話、実はね、私、実技は全部超能力で乗り切ったのよ。坂道発進と脱輪を六回は上手く誤魔化せたわ」
「やだー! そんな事実知りたくなかった! おろしてー!」
「冗談よ。でも集中したいから大人しくしてなさい」
「声が本気だよ……」
「私を信じなさい」
「そりゃ信じたいけど不安だな」
「心配症のマルコくんに不安が吹っ飛ぶ魔法をしてあげるわ」
「もうそれもいいよ、子供じゃないんだから」
そうは言ったがマルコは拒まず魔法を受ける態勢に入る。魔法とは姉から頬に軽いキスを受けることだった。
「それじゃあ僕からも運転がうまくなる魔法をしてあげる」
お返しに姉の頬に軽いキスをした。
魔法の掛け合いが終わったところでカレンはエンジンをかけ直す。問題なく、エンジンは動き出す。さすがは新車で不調な様子はどこもない。
今度は上手く発進ができた。一速から二速の切り替えも滑るようにスムーズにできた。
遠ざかっていく車庫のシャッターをルームミラー越しで念動力で下ろす。
「シャッターのカギは閉めないの」
「別に盗まれて困る物は……あぁ……金庫に大切なものを入れっぱなしかも……」
「金庫ってあの金庫?」
大の大人が数人集まれば家の外に持っていけそうなやや信頼性に欠ける金庫がある。カレンの部屋のクローゼットの中に置いている。その金庫の在処を知っているのは姉と自分だけだ。
「不用心だなぁ、もう。それじゃあ引き返そうか」
あわよくば交通手段はバスに切り替えよう。
「まあいっか。鍵かけてあるし」
「……大丈夫なの?」
マルコの不安そうな問いに、
「……いいの」
カレンも不安になる。
「空き巣にそのまま持っていかれるんじゃ……」
「いいのよ! 盗まれて困るのは愛する弟のみ! 他は全部オマケ!」
カレンに押しのける。マルコは何度も飛んでくる愛情表現に照れてしまい、それ以上追求しなかった。誤魔化そうと、ある提案を出した。
「カレン、日本に着いたらさ、お互い日本語だけで話すゲームをしない?」
「日本語かー、自信ないなー」
「罰ゲームはカレンが考えてよ。なんでもいいよ」
これで自然と姉をあの呼び方ができる布石を打った。罰ゲームなどどうせ軽いものだとたかをくくって助手席でふんぞり返る。
「それじゃあ負けたほうは一生日本で暮らすことにしましょう。絶対に日本から出ちゃダメ。勝ったほうしかアメリカに帰られません」
「重いよ! 簡単なゲームに人生に左右されたくないよ!」
なんて無茶苦茶な姉だ、ここまで厳しいとは思わなかった。
「まあ例え私が勝ったとしてもアメリカに帰らず弟と一緒に日本で一生のんびりと暮らすけどね。離れ離れなんかには絶対にならないわ」
またも唐突な愛情表現に面食らってしまう。誤魔化しても誤魔化しても猛攻は終わらない。
「……僕が勝ってもカレンと一緒にいるよ。日本で暮らす」
観念して姉に素直に甘えることにした。カレン・リードに甘えられるのも弟の特権だ。フル活用しなくては勿体無い。
「いけないわね、これじゃあ罰ゲームにならないか」
広い車内で前に寄り添うように座る二人は笑い合う。お互いが一緒にいることを約束した瞬間だった。
その瞬間と同時に二人の幸せが満ちた空間を引き裂くように突如爆発が起きる。密閉した空間に飽和する灼熱の炎が二人を問答無用で襲った。
爆発は全てを奪っていった。




