鉄槌の時
倉庫の中はもやっとした熱気が篭っていた。それもそうだ、窓すら開けない上に中では運動会が開催されている。雲とまでも行かないものの、霞のような気象現象が室内で発生しそうだった。
「みんなー、飲み物買ってきたよー」
何食わぬ顔で小見山は帰還し、ビニール袋からスポーツ飲料やジュースを出した。
「よぉし! お前ら、休憩!」
胡桃の合図で汗だくの少女たちはその場に倒れこんだ。体力が底を尽くも這ってでも水分補給に向かっている。
そんな彼女らを横目に小見山はジンジャーエールと紙コップを持って胡桃の前まで運ぶ。
「もう、2リットルのやつ買って来いなんて人使いが粗すぎるんじゃない」
「おうおう、ご苦労さん」
ぞんだいな労いをされても注いだコップを両手で持って丁寧に手渡しする。目上の人への礼儀を尽くしている。ただ目線は合わせずにじっとコップを見つめていた。
コップの縁は乾燥気味の唇と距離を縮めていく。あと5センチでくっつくところで、
「そういや異変はなかったか?」
急に離れる。
「え、異変!?」
不意打ちの問いかけに大声を上げてしまう。
「そうだよ、魔女とかその手先、瑠璃の野郎は見かけなかったか?」
「あ、うん、そんな遠くまで行かなかったから見かけなかったよ」
「透視までして探しただろうな?」
「探して欲しいなら出る前に言ってよ」
「ちっ、使えねーなー」
理不尽な愚痴にも小見山は困り顔で笑っているも、ただ視線だけは胡桃の唇に近づいていくコップから離さない。あと1センチでくっつくところで、
「そうだ、頑張ったお前を褒美をやらないとな」
再び離れる。
小見山は困り笑いをする。褒美についてはどうでもいいが今の彼女の目下の目標である目前が唇に届かず困却としていた。
胡桃の持っているジンジャーエールはただのジンジャーエールではない。実は倉庫に戻ってくる前に開栓し強力な下剤が混ざっている。飲めば30分後にはトイレから出られなくなるほどの便意が襲うという聞いただけで震える効力だが一般に市販されている。
他の飲料にも混ぜるのが手っ取り早いが他の仲間を巻き込むことになる。だが幸いにも胡桃から希望の飲み物を指名してくれたおかげで狙いを絞ることができた。
「褒美は瑠璃ちゃんの復帰だけでいいから」
それが一番だ。ちなみに二番は胡桃が出て行ってもらうことだ。
「いやいやいや、こんな炎天下で買い出しに行ってくれたんだ。それに帰りも重かっただろう?」
胡桃がやけに親切だ。褒美なんて元々期待していない。こんな場所で喜ぶ景品を用意できるとは思えない。
不気味だ、と感じた瞬間に親切の謎が解ける。
「まずは一杯、お前が飲めよ」
「え!? いいよ、いいよ。さっき飲んできたから」
押し付けられるコップを両手で斥ける。
「いいから、いいから。飲めよ」
それでもなおしつこく絡んでくる。まんま飲み会の席の上司のようだ。
もしやと思い、小見山は今度こそ胡桃の顔をしっかりと捉えた。予感は的中していた。
上から下へ見下ろす、いたいけな子供を弄んだ時と同じ下賤な笑いを浮かべている。
確信した。策はバレている。
浅はかだったと反省する。目の前の女は一切人を信用しない人間だと悟った。
しかしここまで来て引き下がるほど小見山は甘くなかった。
「それじゃお先にいただきます」
一度は渡したコップを引き取った。そう、彼女は下剤の入ったジンジャーエールを飲むつもりだった。下剤を入れたのはペットボトルだ。ここで毒味を誇示すればまだチャンスは残る。もちろん胡桃がこのまま飲まない未来も容易に想像できるがやれるだけのことをやるまでだ。
闘志と同時に後ろめたさがあった。良かれと思った振る舞いや落ち度でいろんな人に迷惑をかけた。その贖罪ではないが、それでもほんの少しでも雪げればと考えていた。
この毒入り作戦を考案したのは何を隠そう、彼女自身だった。実行が可能なのは彼女だけな上、失敗したとしてもピンチになるのは彼女だけというリスクマネジメントの点では非常に合理的だった。
白の器でカラメル色の液体が音を立てている。海外の童話に出てくる魔女が鍋で作っている薬のようだ。臭いも生姜の香りがするのでそれっぽさもある。
小見山はまずツバを飲み込んだ。ジンジャーエールを一滴も口に含めていないのにすでに舌の上で味の再現が始まっている。それをリセットするためにも舌の上から余分な水分を拭き取る。
「……いただきます」
コップを唇に触れる、その瞬間だった。
左側から何かが飛んできてコップを弾き飛ばした。
「な、なに……!?」
状況がわかっていないのは小見山のみだった。
胡桃はゆっくりと飛来物が来た方向へ首を向けた。
「よぅ、遅かったじゃないか……師範代」
「そうですね、遅くなりました」
そこには闘志は燃え盛りながらも極めて冷静な美丈夫が立っていた。




