第1話(2):過去
過去・第3大隧道
でたらめに撒き散らした木切れが、泥の中へバラバラに突き刺さった――そういう印象を与える街並みだった。板もむき出しの、粗末な造りの家々が、夜闇の中に黒く鋭い影を映す。その影の林を横切って、一人の男が走っていた。
走って、というのは少々良く言いすぎだっただろうか。その足取りはひどく不確かで、足はもつれがち、時折体を苦しげに傾ける。傷を負っているようだ。荒い息遣いにつれて、ダークスーツの裾がはためく。真っ暗闇だというのにかぶっている黒い帽子が、時々滑稽なほどに高く跳ね上がる。
男は裏通りを進み、開けた場所に出た。足を止め、不安げにあたりを窺う。細い裏道では、闇の中に黒いスーツが溶け込んで男の姿を隠していた。だが今や、男は大通りに出ようとしていた。通りは家々から漏れ出る明かりでほのかに照らされている。男は迷い、来た道を振り返った。と、その耳がいくつかの気配を捕らえた――追うものの気配だ。複数、違う道を通ってきてはいるが、じきに巡りあうだろう。そう遠い未来ではない。ものの数分だ。男は焦り、再び左右を見回した。その時だった。
ひときわ強い灯りが、傾いだ家々の一軒から漏れていた。カーテンの隙間から漏れる光ではない。わずかではあるが、扉が開いているのだ。男は身をひるがえし、脱兎のごとく通りを駆け抜けて、その戸に飛びついた。
慌てながらも、軋む音を立てぬよう注意しながら扉を開ける。体がやっと通る程度の細い隙間を開け、男はするりと家の中に忍び込んだ。
外面に違わず、武骨で殺風景な家だった。内壁も板張りが剥き出しで、床も板を張っただけ。男は念のため入ってきた扉を閉じると、足音を忍ばせながら廊下を進み、奥へと向かった。歩きながらよく見ると、男が進んでいたのは廊下ではなかった。部屋の一部だ。ひと部屋だけの家を、パーテーションのようなもので区切ってあるのだ。男はひとまず、ついたての端へ忍び寄り、向こう側を窺った。
別段、面白いものも無かった。入口と同じく質素な部屋だった。続き部屋になっているわけだから、それも当然ではあるが。家具はほとんどない。ただ、向こう側の壁際に粗末な書き物机があるだけだ。
頭まですっぽり覆うローブをかぶった人影が、その机に向かっていた。
男は思案した――追っ手は、ここまで入り込んでくるだろうか? 付近の家の者を叩き起こして、怪しい奴を見なかったか聞いて回る、なんてのは、まああり得ないことじゃない。奴らだってことを表沙汰にしたくはないはずだが、言い訳は何とでも立つ。盗人を追いかけてきただの適当な説明をしておけばいいのだ。
奴らが訪ねてきて、この家の住人が応対に出る。そうなったら隠れる場所がない。確実に見つかって、騒ぎが起こるだろう。そして怪しんだ追っ手は家に押し入り――男は首を振った。それはまずい。いっそのこと、机に向かうあいつを脅して、黙らせておいた方がいいかも知れない。男は唾を飲みこみ、ジャケットの上から腹の辺りを叩いた。ジャケットの内ポケットには、拳銃が1丁。
銃の重みを確認し、再び男は部屋の中に目を向けた。その時だった。
机に向かっていた人物が、静かに立ち上がった。男は体をこわばらせ、服の中の拳銃を掴みながら息を殺して見守った。部屋の住人はその場で軽く首をひねった後、くるりと振り返り、男の方へ歩き出した――いや、男の方へではない。パーテーションに向かっているようだ。やがて住人は、パーテーションに手を差し伸べ、そこから一冊の古びた本を取り出すと、踵を返して机の方に戻っていった。
男の肩から、ふっと力が抜けた。パーテーションだと思っていたのは、本棚だったのだ。複数の本棚を並べて、部屋の間仕切りにしているのだろう。男はひと息つきながらも、なおも油断なく住人の姿を見守った。住人はフードを下ろすこともせず、ランプの明かりの下で熱心に本を読んでいる様子だった。この分では、後ろから忍び寄っていっても気づかないかもしれない。幸い光源は相手の手元にある。影が落ちて気づかれる心配はない。男は覚悟を決め、拳銃の撃鉄を起こした。
「やめといてくれないかな。耳障りだ、真夜中に」
ざらついた、妙に舌ったらずな声が響いた。男は身を硬くした。フードの男は机から立ち上がっていた。バレていたのか――どうして!? 驚きと混乱の中、男は半ば破れかぶれで銃を構えながら本棚の陰を飛び出した。
「動くな。
悪いな、夜分に。ちょいとばかり場所を貸してほしい……なに、大人しくしてりゃ痛い目には合わせない、すぐに済むさ」
男は押し殺した声で言った。フードの男は、脅迫の言葉を聞いても動ずる様子もなく、ただゆっくりと男の方を振り返り、手袋をはめた手でフードを外した。
「な……! 」
男はあんぐりと口を開け、フードの下から現れた顔を見つめた。巨大な目が、ランプの光を跳ね返して黄色く輝いている。顔の色は緑。びっしりと生えた、硬い鱗の色だ。そして細く針のように尖った牙。
「ば、バケモノ……! 」
男は拳銃を構え直し、引鉄を引こうとした。だが、驚きに硬直していた瞬間の分、トカゲ男の方が早かった。フードの裾をかき分け、長い脚が飛んだ。しゅっと風を切る音がして、拳銃は蹴り飛ばされて床に転がった。唖然とする男のスーツを、トカゲ男の手が掴む。トカゲ男は相手の顔に牙を近づけ、おぞましい笑顔を作った。
「夜中に人の家へ押しかけておいて、『バケモノ』もないもんだ……そう、思わないか? 」
「……悪かった。つい、口が滑ったんだ。謝るよ。客として、ホストに対する礼儀が足りなかった」
男はかすれ声で言った。その時、狙いすましたようなタイミングで、表の戸を叩く音がした。
「夜分遅く済みません。商工ギルドの者ですが」
スーツの男は、びくりと体を震わせた。追手だ。こんなに早く手が回るとは、流石に思わなかった。どうするか? どうしようもない。トカゲ男を振りほどいて逃げようにも、銃は取られてしまったし、騒ぎを起こせばそれこそ連中はすっ飛んでくるだろう。逃げ場なしだ。
絶望し、ぐったりとしかかったその時――男は、不意に体が自由になるのを感じた。トカゲ男が、胸ぐらを掴んでいた手を離したのだ。ぽかんとする彼をよそに、トカゲ男はフードをかぶり直して、玄関の方へ出て行った。
扉を開ける音がした。スーツの男は床にべったりと座り、なすすべもなくその様子を聞いていた。トカゲ男と追っ手の話す声が、本棚越しにくぐもって聞こえた。
「失礼します……実は、この付近の商店に強盗が入りましてね。拳銃を持っている、危険な男です。何か怪しげな物音を聞いたりはしませんでしたか? 」
スーツ男は乾いた唇をなめた。しばしの間の後、トカゲ男が答える声が聞こえた。
「……さあねえ、静かに本を読んでいましたが、何も気づきませんでしたよ」
「本当ですか? 」
追っ手たちの訝しげな声が聞こえた。部屋の中で、男も訝しんでいた。何のつもりだ? この俺を、庇おうというのか? トカゲ男は、そっけない口調でなおも続けた。
「私は耳が鋭い方ですから、外で何かあったらまず気づきますよ。ほら、こういう生まれですからね」
言葉の後に、かすかな衣擦れの音がした。フードを脱いだのだ。追っ手たちの間から、息を呑む声が上がった。
「な、なるほど。ご協力感謝いたします。では我々はこれで……」
追っ手たちは挨拶もそこそこに引き上げていった。スーツの男は、信じられないといった顔つきで呆然と座っていた。そこに、フードを引き上げながらトカゲ男が戻ってきた。
「さて、ひとまず緊急の用事は片付いたと……察するに、連中に追われていたんだろう。折角だから詳しい話を聞かせてくれよ」
「……耳か」
「はぁ? 」
スーツの男はのろのろと立ち上がり、トカゲ男の方を指さして言った。
「耳が鋭いって言ってただろ。俺が入ってくる音を聞いたんだな。だから、俺が近づいていったのも分かった――そうだろう? 」
「それ、今言わなきゃいけないことなのか? 」
トカゲ男は呆れた様子で肩をすくめ、椅子に腰を下ろした。
「まぁいいや。あんた、強盗なんかじゃないんだろう? この近くには強盗に入られるほど儲かってる店なんてないし、第一あんた、強盗にしちゃ間抜けすぎるよ。一体、何者なんだ? 」
フードの下から好奇心をありありと滲ませて聞いてくるトカゲ男に、スーツの男は逆に聞き返した。
「こっちだって、聞きたいことがある。何だって俺をかくまった? お前さんにとって、何のメリットもないだろうに」
「ただの好奇心さ」
トカゲ男は軽く肩をすくめて答えた。
「大体、私はギルドの連中が嫌いなんだ。徒党を組むことと、深層の遺跡を踏み荒らすことしか能のない連中だ。そのくせ態度だけはデカいときてる。あんな奴らに手を貸すくらいなら、黒ずくめのマヌケに拳銃で狙われる方がマシだよ」
「……そうかい。ま、何にしても、助けてもらって感謝するよ。
そう言や、まだ名前も聞いてなかったな。お互い自己紹介からってわけにもいかない出会いだったから、仕方ないけど。
俺はブライ。ブライ・ブランダルってんだ。探偵をやってる。強盗じゃなく、な。仲間うちじゃ『ブラッド』って呼ばれてる。この髪のせいで」
男――ブライは帽子を取り、ちょっと自慢げに髪を指さした。ややウェーブのかかったその髪は、乾いた血のような赤褐色をしていた。トカゲ男は目を細めてブライの顔を眺めていたが、やがて独り言のようにぼそりと言った。
「ベク=ベキム……私の名だ。深層の出、『うちびと』だ。見れば分かるだろうがな」
「確かに、そんな男前は外にゃちょっといない――おっと、済まねえ。気を悪くしたんなら謝る。ものを考えずに喋る性格でね」
帽子をかぶり直しながら笑うブライに、ベキムは少し目を細めてから、フームと長い息をついた。




