第1話(1):現在
今日も今日とて、太陽苔は光をさんさんと放っている。
私は裏庭の柵に腰かけ、大竪穴を眺めていた。手にはウィスキー『ファイア・スターター』のポケット瓶。ほろ酔い加減で見る大竪穴は、いつにも増して壮観だ。
私の家があるのは第6大隧道と第7大隧道の間。深層と呼ぶには浅いが、外界にもそう近くはないあたりだ。上を見上げれば遥かに高い竪穴の岩壁、下を覗けばこれまた果てしなく深い底なしの大穴。崖っぷちに建った私の家の中でも、裏庭は最も竪穴に近い。柵を越えてひょいと跳べば、もう奈落の底へ真っ逆さまだ。今の私には、それが何となく気楽に思えて快かった。
この間の仕事から、どうも毎日がこんな具合だ――久々に、ひどいザマだった。真実を暴くことは出来なかった。依頼人は私の目の前で死んだ。それも、まだほんの子供だったのにだ。別れの言葉すらなく、納得も満足もないままに、ただ生まれたことがウソだったかのように……腹の底から、嫌な言葉がぶつぶつと泡のごとく浮き上がってくる。それをかき消すべく、私はウィスキーを呷った。大竪穴の壁が、ぐらりと揺らぎ、止まった。耳の奥がガランガランと鳴った。
いや、これは耳鳴りじゃない。
現実の音だ――私は慌てて顔を上げた。玄関の呼び鈴を誰かが鳴らしている。私は少し迷った。出ていくべきか? こんな状態で? だが……考えている間にも、呼び鈴は執念深くなり続ける。もう、どうとでもなれ。私は半ばヤケになって、もつれがちな大股で玄関の方へ向かった。
「……ああ、大丈夫、大丈夫。聞こえてるから、そんなに鳴らさなくてもいい」
私は額を押さえながら、玄関ポーチの上を見上げ、扉の前に立つ人影に声をかけた。
その女性は――客は、女だった――大きく口を開け、目を丸くして私の顔を見た。桜色の、大きく広がった大時代なドレスを着ている。背中まで伸ばした長い赤毛が、太陽苔の光を浴びてきらめいていた。齢の頃は……私よりかなり若いことは分かるが、ハッキリしたことは何とも言えない。女性の齢を当てるのは苦手だ。純粋人類の齢は、特に。
「あ……あ……」
彼女は口に手を当て、言葉にならない声を上げて私を見つめていた。私はため息をついた。帽子を忘れていた。蜥蜴人種の顔を見て喜ぶ女性というのは少ない。悲しいことに。
「こんな聞き方するのも、バカみたいなんですが……用があっていらっしゃったんでしょう? 差し支えなければ、お聞きしたいんですがね」
「あの……こちらが、ブラッド探偵社でしょうか? 」
彼女は思いがけない言葉を口にした。私のぼやけた視界が揺れ、一瞬だけ色を失って、元に戻る。言葉を失った私に気付かず、彼女はさらに続けた。
「『ブラッド』に、会いに来たんです。彼は今、どちらに? 」
私は頭に手をやり、帽子を直そうとして、今日は帽子をかぶっていないことに気付いた。宙に浮いたままの手を気まずくひらつかせながら、私は答えた。
「ブラッド――ブラッドねえ。あなたの口からその名前を聞くとは。しかも、今になって」
彼女はちょっと怪訝そうな顔をした。
「私に、何かご不審な点でも? 」
「いや……ただ、あなたは若すぎるもんでね。彼を知っているような齢にも見えない。随分昔の話ですよ、『ブラッド』――ブライ・ブランダルが死んだのは」
「死んだ……! 」
彼女は目を大きく見開き、また口を両手で押さえた。だが、今度の驚きには何か、諦めのような色も混じっていた。こうなることは、薄々予想していたというような。私は低い唸り声を上げ、酔いにふらつく足を引きずって玄関のポーチを上がった。
「まあ、立ち話もなんです。中にどうぞ。詳しい話は、中で伺いますよ――『コールドブラッド探偵社』の中でね」
私の舌が重苦しくなったのは、なにも酔いのせいばかりではなかった。ブライ・ブランダル。その名を口にするのも久しぶりだ。重苦しい気分のまま、私は扉を開けた。
客をソファに座らせ、私は台所へ向かった。戸棚を引っ掻き回し、珈琲石のかけらを見つけ出す。湯を沸かし、ポットと客用のカップを盆に載せて戻ると、客人は緊張した様子で大人しく座っていた。事務所の中を見回そうともしない。
彼女は差し出された鉱石珈琲を黙って一口飲み、妙な顔をした。私は頷く。
「あまり、お気に召さなかったようですね、やっぱり――外から来た方は、大抵そういう反応をする」
彼女は驚いた様子で私の顔を見つめた。
「……私、言いましたか? 外界から降りて来たって……」
私は首を振り、机の上から黒のフェルト帽を取りあげて被ると、彼女の向かい側の椅子に腰かけた。
「鉱石珈琲を初めて飲むと、『そとびと』は大抵顔をしかめるんですよ。香りで普通の珈琲だと思ってるところへ、金属くささがツンとくるんでね。ご存じないようですから説明しときますが、こいつは普通の珈琲じゃなく、鉱石珈琲です。湯に溶くとコーヒーそっくりの味になる、大竪穴特有の代用品です。
それから、服装も違うあなたの服装は外界風だ。そういうひらひらしたスカートは、大竪穴で着るにはちょいと華美すぎるし、実用性に欠ける。。憚りながら、着るものに関してはうるさい方でしてね。今日は訳あって、あんまり着飾っちゃいないが」
私は自分の服装を親指で指した。ここのところ着っぱなしの、よれよれになったラピスラズリ色のシャツ。彼女は一瞥して、曖昧な笑みを浮かべた。私は帽子のつばを深く下げた。いくら落ち込んでいるときでも、服装だけはきちんと決めておくべきだった。いつ、女性の相手をすることにならないとも限らないのだから――今後の教訓にしよう。
「……さて、冗談はこれくらいにして。まずはどのようなご用件で来られたのか伺いましょうか。はるばる外界から来られたんだ、よほどの訳がおありと見えますが」
客は、私の顔をまじまじと見つめた。
「それを……失礼ですが、何の権利があって、あなたはそう聞くんです? さっきも言いましたけれど、私は『ブラッド』と話しに来たんです」
「こちらも先ほど言ったように、ブラッドは死にました。ずっと昔にね。そして私は、ブラッドの……」
言いかけて、はたと言葉に詰まった。私にとって、彼はどういう存在だったのだろう? 友人、師、思い浮かぶ名称はどれも不十分で、同時に過剰だった。
「……仕事の上でのつきあい、と言いましょうかね。私は彼の事務所を貰い受け、『コールドブラッド探偵社』と名を改めた。そういう縁だと思ってくだされば結構。お気に召さなければ、無理に話していただく必要はありませんよ。ただ、ひとの話を聞くのが私の仕事ですから――だから、こうしているだけのことでしてね」
私はぐったりと椅子にもたれかかりながら、手だけ振って、彼女を促した。彼女はまだしばらくためらっていたが、やがてふっと息をつくと、コーヒーのカップを置き、居ずまいを正した。
「そう言えば、まだ名前も言っていませんでしたね。私はルカ・ズィエタ。母の名は、カミル・ズィエタ……そう言って、ご存じかどうかは分かりませんけど」
私は無表情を保ったまま、あるかなきかくらいに頷いた。無論知っている――だが、今ここでそう答えるのが果たして得策かどうか。ともかく、相手の出方をうかがうことにした。
「つまり、母君から彼の話を聞いたということで? ブライの友人にしちゃ、若すぎると思ってたところですが……」
「今年で、18になります」
「おや、これはどうも。その割には落ち着いておいでだ。やっぱり外は栄養がいいんですかね。それとも、あの、『太陽』ってやつのお蔭なのかな? 」
私は気のない風を装ってそんな軽口を叩いたが、ルカはほんのわずか眉をひそめただけだった。
「……話を続けても? 」
その問いに肩をすくめて答えると、ルカは傍らに置いていたハンドバッグから、小さな円盤を取り出した。青銅で出来た、手のひらにすっぽり収まるくらいの板だ。渦巻きのような、複雑な文様が記されているところを見ると、深層で作られたものだろう。古美術に関しては私も目利きとは言えないが、錆び具合から察するに正真正銘、古代『うちびと』文明の遺物だろう。そこらの亜人が観光客用に作るレプリカの類ではなさそうだ。
「母から受け継いだものです。元は、『ブラッド』から受け取ったものだとも」
ルカは円盤をテーブルの上で滑らせ、私の元へ差し出した。円盤には穴が開いており、そこに極彩色の縞模様をした紐が通してある。首に掛けられるようになっているらしい。私は円盤を拾い上げ、まじまじと見た。手袋をしているとはいえ、左手の契約印には何も感じない。魔導具か何かであれば、多少は魔力の反応を感じられるところだ。とすると、本当に単なる装飾品か。ひと通り眺めた後、私は円盤をテーブルに置き、ルカの方へ目を戻した。
「……それで? 何も美術品の鑑定をお望みと言うわけじゃないんでしょう? 」
私は少々焦れた口調で聞いた。ルカはひと息おいて、おもむろに、無造作な口調で言った。
「母さんは、ひと月ほど前に亡くなりました」
「……! 」
私の脳裏に、一瞬だけいくつもの顔や風景が浮かび――消えた。軽い眩暈を感じて、私は鉱石珈琲に口をつけた。まだ、酔いが残っているのか? いや、違う。どんな強いウィスキーよりも、人の心を狂わせるもの――それは過去だ。
「この青銅盤は、母さんの遺品です。知っているかどうか分かりませんが、母さんは昔、大竪穴の新聞社で働いていたそうです。当時としては大竪穴でも珍しい、女性記者として。その時に『ブラッド』と出会い、何かの事件を共に追いかけ……大竪穴を追われた。その時に、『ブラッド』からこれを受け取った。自分から語ってはくれませんでしたが、断片的な話や、死後に出て来た日記類から推測すると、多分そういうことのようです」
「フーム……」
私は唸り、半ば夢の中にいるような心持で椅子に体を預けた。
そうか、カミルは外界で生き、死んだのか……天井を見上げながら、私は何とも言いようのない寂寞に襲われていた。「どこかで生きている」と思うことでうやむやに済ませて来た全てのことが、今や取り返しのつかない現実として私を取り巻いていた。
私は今一度、ルカの顔を見た。何故気づかなかったのだろう、こんなにも似ているのに――意志の強そうな目、黒く長い髪。私の知る彼女は、今のルカよりもいくらか年かさだった。当時の私よりも年上だったろう。それに、ブライもだ。彼らは私にとって、あるいは兄や姉のような存在だったのかもしれない。
私はルカの顔を通して、過去に思いを馳せた。遥か昔、まだ第3大隧道で考古学研究の手伝いをしていたころのことだ。




