第7話(後)
部屋の鍵を返しに行くと、寮監のハウプ女史は眼鏡をかけて書類を読んでいるところだった。
「おや、もうお発ちですか? 」
私の荷物を見て眼鏡を外しながら言うハウプに、私は帽子を取り、頭を下げた。
「どうも、お世話になりました。ジョルダンスン教授によろしくお伝えください」
「何か、ご不便などありませんでした? 何のお構い立ても出来ませんで……」
私は慌てて手を振った。
「いやァ、とんでもない……実に快適でした。自分の家以外で、こんなにくつろいだ気分で寝起きしたのは久しぶりですよ。それに、あなたには間接的に命を助けられたことだし」
私は思い出し、クツクツと独り笑いを漏らした。訝しげな顔をするハウプに手を振って見せ、帽子をかぶる。
「いや、こっちの話です。では、ごきげんよう」
事務局を出ると、寮の玄関でシエラが待っていた。相変わらず飾り気のない白のシャツに作業着のようなベージュのズボンといういでたちだが、流石に今日は寝癖は無かった。
「わざわざ見送りに来てくれなくても良かったのに。人知れず来て人知れず去っていくのが、探偵ってもんだしな」
「それは、どうもすみません」
クスクス笑いながらシエラは答える。
「でも、やっぱりどうしても一言お礼を言っておきたくて……本当に、色々とありがとうございました」
その言葉が、完全に真実でないことを私は知っていた。シエラの瞳は揺れていた。自分でも整理のつかぬ感情と、もう戻らない何かを悼む思いとが、その胸に透けて見えた。私はなるべく彼女の瞳を見ないようにしながら、最後に一つ伝えなくてはならないことを口にした。
「言っておかなければならないことがある……あの、『写本』だ。あれについては、精緻な研究をしてほしい。ハパールク氏の遺族の所有になるんだろうが、出来ればアカデミーで買い上げた方がいいな。特に、炎の魔術にかかわる研究は細かくやってくれ」
シエラは首を傾げた?
「あれを……? だって、あれは捏造だと……」
「文面は、な」
私は頷く。
「だが、その原紙となった書物はどうだろう? アーキソン教授は、発掘された書物を白紙の本だと思って、その上に自ら作った『歌』を書いた。だが、それは本当に白紙だったのか?
メイユレグの連中が、気になることを言っていた。『それを写本だと思っているのか』と……裏を返せば、連中は初めからそれが『写本』でないことを知っていた。知っていて、手に入れようとしていたんだ。それだけの意味があるものだったんだよ、連中には」
「だから、調べろと? 何かが、隠されているかもしれないから……」
目を丸くするシエラに、もう一つ頷くと、私は帽子をかぶり直してその脇をすり抜けた。振り返り、最後の言葉を投げかける。
「深層から上がってきた矮鬼人は、炎の魔術を使った――それがキーという可能性は十分ありうる。ジョルダンスン教授にも相談することだ。それじゃ」
私は白手袋をはめた手を振り、早足に歩き始めた。後ろでシエラが頭を下げるのを、風の動きで感じた。少々急ぐ必要がある。竜列車の時間にはまだ早いが、あと一つ用事を済ませるには、決して余裕のある時間とは言えない。
「何だ、わざわざ見送りに来てくれんでも良かったのに」
私は思わず笑ってしまった。似たようなことを言う奴もあったもんだ。こうして考えると、この人と私は似ているのかもしれない。意地っぱりな所が、特に――ただし、男ぶりは私の方が上だ。
「何だ、何を笑っている? 」
やくたいもないことを考えて一人ニヤついていた私に、旅装束のアーキソン教授は怪訝な目を向けた。私は慌てて顔から笑いを吹き消し、バツの悪さをごまかすためにあたりを見回した。
彼の研究室は、一部を除いてもとのままだった。『うちびと』関連の収集物はそのままに、机の上に置いてあった書類や、棚の薬草酒のビンなどが消えている。ところどころ毛の抜けた病気の獣のような風情が、何もかも無くなっている以上に物悲しさを強めていた。
「収集品や資料の類は、こっちに置いていくことにした。せめてもの償いだ」
私の考えを読み取ったらしく、アーキソン教授は静かに言った。
「私のしたことを考えれば、そんなことで償いになるはずもないが、もうこれくらいしか残っていないんでな……さて、荷造りもひと段落したところだ。お互いの門出を祝って、乾杯でもするか? 」
アーキソン教授は旅行用マントの奥から、一本のビンを取り出した。また薬草酒かと思ってよく見ると、それは、生のままのウィスキーのビンだった。ファイア・スターター、それも開拓時代のビンテージものだ。目を見張る私に、教授はにやりと笑って見せた。
「こいつだけは、薬草酒にしてしまうのが勿体なくてな。秘蔵の品だ。ま、こういう日には似合いだろうて。さて……」
教授はソファに腰かけ、相変わらず唐突な口調で、言った。
「言いたいことがあるのなら、まずは言ってからにしたらどうだね? 」
私は気を削がれ、答えることが出来なかった。確かに、わざわざ帰り際に彼を訪ねたのは、一つ聞きたいことがあったからだ。しかしこうも面と向かって言われるとは……ためらっている私に、教授は苛立たしげに指を振った。
「何の遠慮も要らん。どうせ私はもう、アカデミーの教授でもなければ君の雇主でもない。ただの老いぼれだ。君は普段の仕事でも、ただの老いぼれに質問をすることさえためらうほどに人見知りなのかね? 」
この期に及んで、言ってくれる。私は苦笑いしながら、小さく息を吸い、話し始めた。
「何と言いますか……やはり、納得出来ないんですよ。あなたは何故、私を雇ったのか? シエラの前ではもっともらしいことを言いましたが、そうは言ってもハパールクが写本と絵の両方を同時に手放す確率なんて微々たるものでしょう。それが偶然1つになる危険よりは、無駄に騒ぎを起こして写本に注意を向けるリスクの方がはるかに大きかったはずだ」
「私も、どうかしてたと見えるな。罪悪感と恐怖で、頭がおかしくなっていたんだろう」
他人事のように肩をすくめる教授に、私はなおも食い下がった。
「だとしてもです。メイユレグがハパールクの写本を狙っていると聞いた時点で、あなたは依頼を打ち切ってもよかったはずだ。連中が、アカデミーの内紛にまで首を突っ込みたがっているとも思えませんからね。奴らが写本を手に入れてしまえば、結果的にあなたの安全は保障されることになる。なのにあなたは、依頼を撤回するどころか、私にハパールクを守れと命じた」
「それで、結論はどういうことになる? 君の話はいちいち冗長でいかん」
アーキソン教授は何気ない風を装って言った――だが、その厳しい目には、徐々に怒りの色が宿りつつあった。私は気にせず続ける。
あなたは、最初から写本の捏造が露見するように動いていたんじゃないですか? 自分で自分のしたことに、決着をつけるために。他人に類が及ばないよう、自分が疑いようもない悪者と分かる筋書きを書いて、そして……」
「聞いた風な口を利くな!! 」
雷のような怒声が、部屋中をびりびりと震わせた。私は思わず首をすくめた。アーキソン教授は、これまで見たことのないような憤怒の形相を浮かべ、ソファから立ち上がっていた。さらに続けて、雷の一撃を食らわそうとし、私が伸ばしかけた首をまたひっこめた時、教授はふいと我に返った。初めて見るもののように部屋の中を見回すと、アーキソン教授は深い深いため息をついて、テーブルの上のビンに手を伸ばした。
ファイア・スターター、開拓時代もの。無造作に栓を開けると、教授はその首をひっつかんで、勢いよくラッパ呑みした。たちまちむせ返り、ソファに座り込んで激しく咳き込む。駆け寄ろうとする私に平手を向けて「心配無用」の意を表し、教授はしばらくの間苦しげに喉を鳴らしていた。
やがて、教授は落ち着きを取り戻した。まだ赤みの残る顔をゆっくり上げ、私を見るともなしに見た後、教授はうつむき、語りだした。
「私の悪癖だ。自分より若いものを侮ってかかる。結局、最後まで治らなかったというわけだ……そう、最初から間違っていたのだな。他人を思い通りに操ろうなどと」
「私は、若いなんて言っていただくほど若くもないですよ」
口を挟む私に、教授はじろりと一瞥をくれた。
「私から見たら、十分に若いさ。君の年なら、何かと取り返しやまき直しも利く……まあ、そんなことはどうでもいい。
君の質問に答えよう。確かに、私が君を雇ったのは、私自身の罪を暴いてもらうためだった」
立ち尽くす私に、アーキソン教授はゆっくりと手を上げ、ソファと向かい合う椅子の一脚を示した。私は驚きつつもその椅子に座った。教授が椅子を他人に勧めるとは――そんなことを考えられるとは、思ってもみなかった。
「そもそもの始まりは、君が言った通り、ハパールクの子倅が美術品を手放し始めたことにある。あの男は気の毒したな――とは言え、私の評価は覆らん。あいつはろくでなしだ。あいつも、あいつの因業な親父もな。カネにあかせて自分では価値も分からない遺物を買いあさる、ハゲタカどもだ。
だがまあ、それはいい。美術品を手放しだしたこと――つまり、写本と絵がマーケットに出ることを知って、私が恐怖しなかったと言えば嘘になる。学者としての名声も、どころか人としての信頼も、一夜にして失われる可能性が出てきたんだからな。だが、同時にどこか安心も感じていた。自分のやったペテンが、ついに見つかるのだと思うと、重荷を下ろすような不思議な解放感があったんだ。考えた挙句、私は解放感の方を選ぶことにした。
何も起こらなければ、私は自分からアカデミーに捏造のことを切りだすつもりだった――こんなことを言っても、今さら言い訳にしか聞こえないだろうがな。違うかね? 」
アーキソン教授はちょっと言葉を切って私を見た。私は首を振った。彼の言葉は真実だった。目を見れば、それが分かった。寂しくなるほどに。
教授は一つフンと鼻を鳴らしただけだった。
「ところがそこへ、例の予備論文だ」
渋い顔でアーキソン教授は首を振った。
「私は元々、シエラ・パルテのことは買っていた。今どき珍しい、ホネのある若造だからな。目端も利く。それがあの『写本』に関する論文を書いて来たんだから、私は因果のようなものを感じたよ。あの写本がニセモノだと気づくとは、勘働きにしても大したものだ。
だが、困ったことになったとも思った。ここで私が、あの写本がニセモノだったと自分から告白すれば、彼女の論文はニセモノに騙されて書いたヨタ話ということになってしまう。学会での彼女の立場はなくなるだろう。
かと言って、なりゆきに任せておけば、それこそアカデミー外部の第三者の手で秘密が暴かれてしまう可能性もある。スキャンダルは避けられん。私も、未来ある学者であるシエラも巻き込んだスキャンダルだ。
となれば、私の考え付いた方法は一つだった。正義の味方を一人用意して、私の悪事を暴かせるのだ。私は『最悪の捏造者』という妥当な評価を手に入れて、研究界から身を引く。シエラは偽りを暴いた英雄として、華々しい一歩を踏み出せる――そういう、勝手な筋書きだったというわけだ」
「その正義の味方ですが、シエラ本人にやらせた方が良かったのでは? なぜ、わざわざ私だったんです? 」
私が聞くと、教授は口の端を歪めて笑い、両手を上げて見せた。
「師に――ヴァーニ君に似たのだろうがね。彼女は研究に関する才能こそズバ抜けているが、その手のコス狡い手にはまったく疎くてね。私を疑ってみることさえ、敢えてはしなかっただろう。研究者なら、誰でも聖人君子だとでも思っているのだろうかね、まったく」
その口調には、しかし、苦い自嘲がこもっていた。私は少し迷った後、思い切って尋ねた。
「なぜ、あんな捏造をしたのか――聞いてもよろしいでしょうか? 」
ほんの一瞬、教授の目に激しいものがよぎった。が、すぐ消えた。もはやどうでもいい、と言ったなげやりな鷹揚さで、アーキソン教授は答えを語り始めた。
「時代のせい……などと言ったら、あまりにも言い訳じみているな。金が欲しかったのもある。資金はいくらでも要った。当時の王立アカデミーの吝嗇ときたら――価値ある遺物がバカものどもの手に渡っていくのを見て、どれほど歯噛みしたことか。
だが、それだけではなかった。私怨だよ。カネがあるばかりで、見る目がない連中への。本来、連中には貴重な資料を所有する権利などないんだ。なぜなら、それが貴重だという事さえ奴らには分かっていないんだから。ただ、金額を知っているだけだ――手に入れるのにかかった金額、ただそれだけ。
それなら、思うさまカネを使わしてやればいい。下らないものに大金をはたくのも、我々学者にとって貴重な遺物を踏みにじるのにカネをかけるのも、同じことじゃないのか? そう、私は思っていた」
アーキソン教授はため息をつき、もう一度テーブルの上のウィスキーに手を伸ばした――が、考え直し、手を引っ込めて言葉を続けた。
「私にとって最大の誤算は、本物の『イユル=ゲマフの歌』の全文がそれっきり見つからなかったということだ。それが見つかれば、私の捏造はバレていた――いや、そこまではいかないまでも、シエラの当初の主張通り、後世の偽作だということにされていたはずだ。それならそれでよかった。だが本物は見つからず、結果あの偽写本は『唯一無二の資料』としてもてはやされた。
こう言ったからといって罪が軽くなるものでもないが、私は随分苦しんだよ。他人を、ことに愚図な成金を騙すことには、一片の罪悪感もなかった。だが、この私ともあろうものが、歴史を騙すハメに陥ろうとは……」
肩を落としたアーキソン教授は、別人のように小さく見えた。
私は椅子に腰かけ、身勝手な男の、身勝手な告白を黙って聞いていた。彼の行動を肯定する気はなかった。だが、それを非難する気にもなれなかった。真実というのは、結局誰かの身勝手という形しかとらないものなのだろう、そう思っていた。
「それで、どうする? 」
アーキソン教授は顔を上げた。
「君はこのことを、誰かに伝えるか? 」
私は考えた。シエラの涙のことを少しだけ思った。
そして、答えた。
「私はあなたに腹を立てています、アーキソン教授。その尊大なもの言いも、私をいいように操って学者生活の幕引きを演出したことも、その結果シエラ・パルテが味わった苦痛も、どうにも腹に据えかねる。結局はあなたの思い通りに事が運んだのだと考えると、実に気に入らない。
しかし……何故だか、自分でも分からないが、誰にも言わないでしょうな」
「結構だ」
アーキソン教授は、弱弱しい笑みを浮かべた。
「そうだろうな、そう言うと思ったよ。私の講義でなら、満点をやれる答えだ。君はそういう奴だろうと思っていたんだ」
私は答えず、テーブルに置かれたファイア・スターターのビンをかっさらい、ぐいとひと口呑んだ。柔らかい口当たりと火のような香りが、同時に広がる。
「酒なら、歳月によって丸くなる」
こちらの考えを読んだかのように、アーキソン教授は言い、立ち上がった。
「古い酒は角が取れ、まろやかになっていく……だが、歳月と共に尖って苦味を増すだけのものもある。それが何かは、今さら言うまでもないだろうな。そういうものには、幕を下ろしてしまうのが一番いい。終わらせてしまうのが。
残りの酒は君にやるよ。列車内でのヒマつぶしにでも使ってくれ」
立ち去ろうとする教授に、私は最後の問いを投げかけた。
「これから、どうなさるんです? 外界にお帰りになるんですか? 」
「外? 何のためにそんな所へ? 」
教授は素っ頓狂な声を上げ、目を丸くして聞き返した。
「私は、外へなど行かんよ。
私などに、こう言う権利はないのかも知れんが……私は『うちびと』の歴史に魅了されているのだ。その文学に、魔神信仰に、骨の髄までのめりこんでおる。私は深層に潜るつもりだ。潜って、そこで何か仕事を探す。
冒険者のために鑑定仕事をしたり、それこそ市場で真贋の目利きをしたっていいかもしれんな。とにかく、私の知識が役に立つ場所は、深層にだってあるさ。
さて、そろそろ行くとするか、ベキム君。体に気をつけてな。あるいはまた会うこともあるかも知れん。今度会うときは、私は教授ではないが――さて、何になっていることやら。盗人か、故買屋か、もっと不名誉なものか。ま、何になっていても、私は後悔するまいよ。それでは、失礼」
今やアーキソン教授は、再び両の脚でまっすぐに堂々と立っていた。私は脱帽してその後姿を見送った。未だ、彼を好きにはなれなかったが、それでも奇妙な形の尊敬が私の中にあった。あるいは、真実への敬意が。




