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冷血探偵  作者: 曲瀬 湧泥
~ かくて幕は降り…… ~
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第7話(前)

 私は帽子を下げて、眩しい太陽苔の光から目を守った。明るさのピークはもう過ぎているが、暗がりから急に出ていくと少々目にこたえる。


 さて、これからどうするか……書置きを残してきたので、遅かれ早かれ自警団の連中がここへやってくるだろう。矮鬼人(コボルト)の死体もじきに見つかる。その場に居合わせたら、また面倒なことになる。まだ私にはやるべきことが残っているのだ――ジャケットのポケットに収まった写本を布地越しに触りつつ、その場から離れようと歩みを速めた時だった。


 温かい丸太のようなものが、私の首に絡みついた。弾力ある力瘤が私の気管の上で動く。私はすぐに思い当った。あの巨猪人(オーク)――相手は独りではなかったのだ。私を始末しに行った仲間が戻ってこないので、様子を見に来たわけか。

 拳を固めて背後を闇雲に殴りつけたが、無駄だった。そもそも、まともに入ったところで私のパンチでは、巨猪人(オーク)の土壁のような体に通用するわけもない。左手の契約印も、生き物相手には何力もない。

空気が遮断され、体の力が抜けていく。ここまでか……写本を無造作にジャケットに入れたままだったことを、私は悔やんだ。このまま、こんな連中の手に写本を渡してやることになるのか。


 と、背後で鈍い音がし、不意に喉の圧迫が消えた。弾みを食らって前へ倒れかかる体を危うく立て直し、私は咳き込んだ。ぼやけかけていたあたりの景色が、色彩を取り戻す。煤けた倉庫の群れが、いやに色鮮やかに見えた。


「……大丈夫、ですか? 」


 その色鮮やかな建物群を背景に、シエラが心配そうな顔で私を見つめていた。手には、巨大なスコップが握られている。足元を見ると、巨猪人(オーク)が力なく倒れていた。死んではいないようだが、当分目を覚ましそうにはない。流石の巨猪人(オーク)と言えど、後ろからしたたかにスコップで殴られたのではひとたまりもあるまい。


「いや、大丈夫だ、助かった。しかしまあ、勇敢なお嬢さんだとは思っていたが、これほどとはね」


「体力勝負ですからね、深層の学者は」


ちょっと恥ずかしそうに、シエラはスコップを体の後ろに隠した。


「ハウプさんから、護身術も習ってますし」


 私はあやうく吹きだすところだった。あの巨猪人(オーク)の老婦人が、一体どんな相手から身を守るというのだろう。


「それより、こいつ……こいつが、あの……」


 シエラは巨猪人(オーク)を指さし、言葉を詰まらせた。「ハパールクを殺した犯人か」と問いたいのだろう。私は頷いた。


「もう1人いたが、そいつも今は――その厩舎の中で大人しくしているよ。ちょいとばかり、君に見せるには忍びない格好になっちまってるがね」


 シエラは恐ろしい魔物でも見るかのような目で私を見た。それも仕方あるまい。彼女の生活と、私の送る日常は相容れない。たまたま2人の道が交差してしまった今回の件が、そもそも異常なのだ。私は大きく一つ息をついた。


「それにしても、よくここが分かったね? 」


「偶然ですよ。みんなで手分けして探すことにして、私がたまたまこっちの方に来ただけで」


「みんな? すると、自警団の連中も来てるんだな? 」


 私は少々焦った。早いところ立ち去らなくては。シエラは怪訝そうな顔をする。


「でも、早く事情を説明してあげた方がいいんじゃ? 私からも一応は話してますけど、みんな半信半疑みたいでしたし、ヘタしたら犯人扱いされてしまいますよ? 」


「まあ、それはそうなんだが……ここに居るのを見つかると、話がややこしくなるんだ。さっきも言った通り、じきにもう1人分の死体が見つかることになるし。

 それに、まだやるべきことが残ってる。これだ」


 私はジャケットから、問題の写本を取り出して見せた。シエラが息を呑む。


「無事だったんですね、イユル=ゲマフの歌――」


「これが必要なんだよ。いや、正確には、これそのものがどうこうっていうんじゃないが。

 さて、自警団の連中と話をするなら、こいつも差し出さなくちゃならない。重要な証拠物件でもあるしね。だが、もしも連中と会わなかったら――何しろ人殺しなんて大事件があった後だ。うっかり証拠となる物品を提出し忘れたとしても、そりゃ不可抗力と言っていい。そうじゃないかな? 」


 シエラは目を見張った。


「証拠を隠すんですか、自警団から? 」


 私は肩をすくめる。


「君自身の気持ちはどうなんだ? ちょっと考えてみたまえ。詳しくは後で話すが、これから私がやろうとしていることは、この『写本』の出自を明らかにすることだ。決して楽しい話じゃないだろうが、それでも、混じりけなしの真実だ。

 どうだ? 真実が、欲しいかね? 」


 シエラはしばらく考えた後、暗い笑みを浮かべた。悪魔のささやきを受け入れて、堕落の道に足を踏み入れようとする人間が、自重するような笑みだった。


「本当に、嫌な人――ほんとうの学者なら、その言葉に逆らえるものはいないって、分かってるんでしょう? 」


「そう、嫌な人さ。見かけによらず、な」


 私は鱗の生えた顔をぐっと突き出し、そう答えた。


   *   *   *


「写本を取り戻してくれたそうだな。まずは礼を言おう」


 相変わらず、ちっともへりくだった所のない物腰で、アーキソン教授はそう言った。


「だが、わざわざこちらへ持ってくることは無かった。どうせ、それがまだハパールク氏の所有物であることには変わりないんだからな。すぐに返却しなくてはならない。彼の遺族か、商売仲間かが、所有権を主張してくるだろう。また交渉のし直しだな」


 アーキソン教授は椅子に腰かけたまま、疲れた様子で首を振った。シエラは教授と向き合って座り、緊張した様子で膝に手を置いている。

 ここはシエラの研究室だ。私がシエラに事情を話し、誰も入ってこない場所として準備してもらった。今ここに居るのは教授とシエラ、そしてテーブルの縁に腰かけている私だけだ。テーブルの真ん中には、例の『写本』が置かれている。


「ハパールク氏のところへ返す前に、一つ、確認しておきたいことがありまして。それでわざわざ、教授にもご足労願ったわけです」


 私はアーキソン教授の冷たい目を真っ向から睨んだ。相手も、探るような目つきで見返してくる。私は落ち着かない気分になった。試験を受ける前の学生は、こんな気分になるのだろうか。弱気を振り払い、私は声を強める。


「そもそも今回の依頼は、写本の真贋が議論になったことをきっかけに私に持ち込まれたものです。依頼を達成する過程で、私はその問題に対する回答を見つけた。そう、申し上げるために、わざわざ現物をここまで持って参ったのです」


 アーキソン教授は返事の代わりに、白い片眉を軽く上げて私を睨み、続けてシエラを見た。「お前たちに出来るのか」とでも問うているような顔つきだ。私もシエラを見た。青ざめた顔をややうつむけたシエラは、それでも、ゆっくりと立ち上がった。


「私から、お話しさせていただきます。調べたのはベキムさんですけど、元々議論を始めたのは私ですから」


 私は頷き、そっと『写本』をシエラの方へ滑らせた。シエラはそれを手に取り、ぱらぱらとめくった。


「結論から言って……この写本は、古代『うちびと』の著したものではありません。いいえ、『うちびと』が書いたものですらない。悪意をもって捏造されたものだと、私は思っています」


 シエラは、私が想像もしなかったほど鋭い瞳で、アーキソン教授を見据えた。炎が両目に灯っていた。若さと、情熱の炎だ。私は少しだけ憂鬱に思った。憎むべき『悪』を見つけることが出来るのは、若者の瞳だけだ。


「……何故そう思うのか、当然、説明をしてくれるのだろうね? 」


 対するアーキソン教授は冷徹そのものだった。椅子の背もたれににゆったりと身を任せた姿は、いつになく気楽そうに見えた。気を呑まれかかりながらも、シエラは声を励まして続ける。


「この『写本』――と、長く呼ばれていたものですが、その材質はまぎれもなく古代のものです。編み糸に使われるドクイバラの繊維には、少々疑問が残りますが、材料一つ一つを見れば、風化度合いから古代のものであることは疑いありません。

 ですが、だからと言って、書いてある文章までが古代のものとは限らない」


 シエラは私に目配せした。私は頷き、コートの中からもう1つの資料を取り出す。私がハパールクの屋敷から持ち出した、もう1つのもの。それは、床に叩き落されていた絵の一つだった。額縁から取り出し、1枚の紙だけになっている。私はそれをゆっくりと、シエラの持つ『写本』に近づけた――2つは、ぴったりと重なった。皺の寄り方、日焼けの仕方にいたるまでそのままだ。


「こういう、ことだったんですね」


 シエラは『写本』と絵を並べて、アーキソン教授に突き付けた。


「『写本』には、表紙があった。誰かがそれを剥がし、表紙の方は『うちびと』の絵画として、本の方には偽の記述を書き込み、当時話題になっていた『イユル=ゲマフの歌』の全文写本だとして、世間に発表した」


 シエラの手は震えていた。私はその手にそっと触れ、降ろさせた。ここから先は、学者ではなく探偵の領分だ。私は口を開いた。


「そういうことが出来たのは、あなたしかいないんだ、アーキソン教授。『写本』の発見者である、あなたしか。

 ハパールクの口から、あなたが写本を売り込んだと聞いたときから、おかしいと思っていた。学者のあなたなら、一度人手に渡った資料を取り戻すのがどれほど難しいかくらい分かっていたはずだ。そのあなたが、重大な新発見である『イユル=ゲマフの歌』を売り渡した。どうにも解せなかった。だが、そもそも『新発見』自体が捏造だったとすれば、納得がいく。


 そうなると次に、「なぜ捏造物をわざわざ買い戻そうとするのか」という疑問が生まれた。アカデミーで調べられて万一捏造がバレれば、あなたの学者生命は絶たれることになる。そんな危険な代物を、なぜ自分からアカデミーの手元に引き寄せようとするのか。

その疑問が、結局は真実に通じていた。


 発想を逆転させれば良かったんだ。バレる危険を冒してまで手元に持って来たんじゃなく、手元に置くことでバレる危険を遠ざけたんだとしたら? あの写本に対する疑問は、シエラが既に提示していた。が、どれも決め手に欠ける。そもそも「本物」のイユル=ゲマフの歌自体、まだ見つかっていないんだ。何がニセモノなのかも分かるわけがない。加えて、材料も古代のものだ。正攻法でニセモノの烙印を押すことは、まず不可能だろう。


 だから私は考えた――それでも、探偵を雇わなければいけないほどの何かがあるのだろうか? それほどまでにして隠さなければいけない証拠なんてありうるのか? その謎に答えを出すには、もう1つ飛躍しなければならなかった。

 あなたは写本が欲しかったんじゃない。写本と、ハパールクの持つこの絵とが、一緒になることを避けたかったんだ」


 アーキソン教授は、くつろいだ様子を崩さなかった。と言うより、椅子にもたれ目を閉じかかったその姿は、長きに渡り積もった疲れにへし折られかかっているとでもいった様子だった。


「……なぜそれが、写本を買い戻すことの理由になる? 今まで誰にも気づかれなかったものに、今さら構い立てをする理由が、私にあるのかね? 」


 アーキソン教授は重い声で言った。


「多分、ハパールクがコレクションを売り払い始めたことが原因だったんじゃないかと、私は考えているんですがね。ハパールクはあの写本と絵の関係に気付かなかった。だが、それが闇のマーケットに流れ、知識のある人間に鑑定されたら、どうなるか分からない。ことにハパールクは、自分のコレクションの何と何にどういう関係があるかさえ、よく分かっていませんでしたからね。セットになったものを別々に手放すことがあるなら、バラバラにしてあったものをまとめて手放すということもあり得なくはない。その危険を、あなたは永久に排除してしまおうとした。

 片方がアカデミーの図書室深くにしまわれ、片方が闇のマーケットからいずこかへ流れて行ってしまったら、2つが再び巡りあうことなどまずないでしょうから。違いますか? 」


 アーキソン教授は無言で天井あたりを見つめていた。その目は、見慣れた硬い輝きを失い、どろりと濁っていた。疲れ、敗北した人間の目だった。やがて教授はフーッと深い息を吐きだすと、シエラに向かって語調だけは鋭く尋ねた。


「今の主張を、論文にして提出するつもりかね? 」


 シエラは少しためらった後、決然として頷いた。教授も頷き返した。


「なるべく急ぎたまえ。しっかりした結論が出ているのなら、発表を遅らす理由はない。いい論文になるだろう。もっとも、私がそれを見ることはないのだろうがね」


「……教授! 」


 シエラが、思わず喉から声を絞り出す。自分が何をしようとしているのか、何を言い出そうというのか、自分でもわからないといった顔つきだった。アーキソン教授はそんなシエラを拒絶するかのように首を振り、やおら立ち上がった。


「辞表を提出する。せめてそれくらいは自分でさせてくれ。代わりに、今君たちの言ったすべてを認めよう。張本人の裏付けがあるんだ、保守的なアカデミーの連中でも流石に君の論文を認めるだろう――では、私はこれで失礼する」


 アーキソン教授は、いつもの通りのぶっきらぼうなもの言いでそれだけ言い残すと、まっすぐ大股に歩いて部屋を出て行った。私とシエラだけが、静寂の中に残された。


 シエラはゆっくりと私の方へ顔を向けた。その目には、うっすらと涙が光っていた。大きな目の縁を白く彩る、光の線。それが頬を滑り、子供のような顔を無残に切り裂いた。シエラは私の肩にすがり、細い声ですすり泣いた。自分でも説明できない、幻滅のような、痛みのような何かに突き動かされて――私はやりきれない思いで、その肩をおざなりに抱いた。


 何を言ってやることもできなかった――シエラのためにも、アーキソン教授のためにも。

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