第5話(3)
「それじゃあ……この幻覚剤が、ファントム・レディの正体だと言うんですか!? 」
ジギーが叫ぶ。その表情に、いつもの完璧なバーテンダーの面影はない。泣きわめく子供のような顔。開いた口の中の歯だけが、いつも通り完璧な形で並んでいる。それがなんだかひどく浮いて見えた。
「ファントム・レディと呼ばれる酒のすべてが、これだという確証はないが……少なくとも、この施設で精製していたものの正体がこれだということに、間違いはないだろう」
私は帽子に手をやり、ジギーの視線を避けながら答えた。
ジギーは肩を震わせながら聞いていた。やがて、ふうっと大きく息をつくと、肩の力を抜いた。
「必死に追いかけて、ついに捕まえてみれば、とんだアバズレと……ま、そんなものかもしれませんね」
「アバズレだって何だって、構うことはねえだろ? 」
ジェリオが、後ろからジギーの背中を叩いた。歯を剥きだして笑っている。
「確かにこいつは性悪かも知れねえ。だが、カネになる性悪女だぜ。『うちびと』の麻薬だ。しかるべき場所に、うまいこと売り込んだら、とんでもない財産になる……」
「ふざけないで! 」
ルビエが叫んだ。
「見たでしょう、ジョアン・ユーベルがどうなったか! こんなもの、外に出回る前に早く処分してしまわなければ……」
「処分!? 」ジェリオがルビエに食ってかかる。
「冗談じゃねえ! やっと見つけた、あの『幻の女』の実物だぞ! どれだけのカネになるか……」
「『実物』じゃない」
ジギーが、静かに呟いた。その瞳は暗く、しかし激しい感情に燃えていた。
「私が……私たちが追い求めていた『幻』は、こんなものじゃない。こんな、安っぽい幻覚と恍惚感を与えるだけの、酒とも呼べない麻薬じゃない……」
言葉の終わりは、苦いものを吐き捨てるように途切れ、消えた。誰も口を利かないまま、気まずい沈黙が数分流れた。再び口を開き、沈黙を破ったのは、ジギーだった。
「……かなり度数の高い『酒』であることに変わりはありません。火をつけたら燃えるし、ぶちまけたら揮発して幻覚ガスになる。今ここで処分するのは危険だ。このままにして外へ出て、遺跡の扉を閉じ、後はアカデミーにでも任せるのが妥当なところじゃないでしょうか」
「おいおい、お前さんもか、バーテン」
ジェリオは、引きつった苦笑を浮かべながら、私たちの顔を順番に見回した。誰も、何も答えなかった。
「……参ったね、すっかり、悪者になっちまった」
ジェリオは冗談めかして言い、額を掻いた――だが、その目は笑っていなかった。流石に見かねて、ルビエが宥めるような口調で話しかける。
「分かってもらえないかしら……こんなものを、外に出すわけにはいかないでしょう? お金のことなら、アカデミーから調査費が出るはずだわ。それで……」
言葉が、途中で飲み込まれた。
私もジギーも、まるで反応できなかった。気が付いたときには、ルビエはジェリオの足にねじ伏せられ、大剣を首に突き付けられていた。
「悪いな、姉さん」
ジェリオは屈託のない笑みを浮かべた。
「あなた……! 」
痛みや屈辱よりも、驚きの方が強い表情で、ルビエはジェリオを見上げる。その革鎧に包まれた背中を踏みつけながら、ジェリオは私たちの方へ向き直り、軽い調子で続けた。
「2人とも、分かるだろ? なァ、俺だって手荒な真似はしたくない。だが、そんな話の分からねえことを言ってさ、デカい儲け話をフイにするって手はねえぜ。山分けでいいからよ、協力しねえか? 」
口調は穏やかだったが、その声は興奮のためか、かすかに震えていた。
「とりあえず、手を挙げといてくれよ、大将――いや、やっぱりいいや。そのままでいい。どうせ、炎の魔神の力が強いこの蒸留所の中じゃ、あんたの魔術は役に立たないだろ? 」
私は肩を軽くすくめて見せた。まったく、奴の言うとおりだった。
「なぁ、どうするつもりだ、ジェリオ? 遺跡の管理者を脅迫して「宝」を手に入れたって、ギルドやアカデミーのお尋ね者になるだけだぞ? よく考えてみろ」
「お尋ね者……か。そうなるかどうかは、まだ分からねえさ」
ジェリオはルビエの鼻先に剣の先を突き立て、嘲笑った。
「俺たちは、貯蔵庫の酒だけを頂く。ルビエの姉さんには、俺たちが逃げた後に遺跡の発見をアカデミーへ報告してもらう。ちょっと時間を遅らせてもらうだけでいいんだ。
なあ、あんたたちこそよく考えてみろよ。そうした方が得なんじゃないのかね? 俺たちは、莫大なカネが手に入る。ルビエさんは、先祖のブザマな死にざまを世間に隠しておける。いいことづくめだろう? 」
眼鏡の奥で、ルビエの瞳が曇った。
「そんな……だからと言って、こんな麻薬を! 」
「どうせ『うちびと』の遺産なんて、多かれ少なかれ巡り巡って誰かを不幸にするのさ」
ジェリオは涼しい顔で言い放った。
「魔導武器なんて言わずもがな、とんでもない魔力を持った魔導具なんて、今の世の中に出てきたって脅威にしかならない。不幸の元締めみたいなもんさ、冒険者ってのは。
だったら俺たちだって、ヤマを当てる権利くらいあるだろ? 」
私は何か言おうとしたが、鼻先に剣を突き付けられたルビエを見て、思いとどまった。鏡のように磨き上げられた刃が、息のために薄く曇っている。
「さて、納得したら、仕事にかかろうか……まず、甕を一つ持ち出そう。第5大隧道にでも持って行きゃ、買い手が見つかるだろう。そしたら人足を雇って、残らず運び出しに来るんだ。それまでは、表の仕掛けを閉じときゃいい
さあ、お2人さん。そこの、フタの閉まった甕を持ち上げて、運び出すんだ。また、妙な正義感を出して、フラッとヘタな真似をするなよ、大将。女の命は俺が握ってるし、そうでなくたって、魔術の使えないここじゃあ勝ち目はねえんだから」
私はジェリオの目を見た。リラックスした、それでいて油断のない目だ。迷いはない。こいつは本気だ。やれやれ、若いってのは、本当に――私はため息をつき、顎でジギーを促しながら、甕の方へと歩いていった。
「行こう、ジギー。従うしかないようだ」
「そんな……! 」
ジギーは唇を噛んだ。無理もない。こんな「酒」を外の世界に流通させるなど、彼からしたら許しがたいことだろう。私は再び嘆息しながら、さりげなく言葉を接いだ。
「やれやれ、今度の仕事はまったく、最後まで上手くいかないことだらけだ。ひどい目に遭った。それはそうとジギー、結果はどうあれ報酬の方はキチンと頂くからな。帰ったらまた、アンバー・ピローを呑ませてくれよ」
「アンバー・ピローですか?」
ジギーが怪訝そうな顔で聞き返す。
「おい、無駄口を叩くな! 」
ジェリオが口から泡を飛ばして叫ぶ。が、私は気にせず続けた。
「そう、アンバー・ピローだ。あれを作ってくれ。それも、水割りにしてな」
「……! 」
私の言葉に、ジギーの表情が変わった。
「おい、無駄口を叩くなと言ってるだろう! さっさと……」
最後まで言う間を与えず、ジギーが動いた。腰に提げていた水筒を手に取り、蓋をしたままの注ぎ口を銃口のように構える。契約印があかあかと輝き、次の瞬間、破裂音と共に蓋がジェリオめがけて飛んだ。
「このッ、何しやがる! 」
ジェリオは手甲を嵌めた左手で、難なく蓋をはじき返した。その顔が、獰猛な怒りに歪む。
「何のつもりだ……? こんな小細工が、通用するとでも……!? 」
「体を屈めて下さい、ベキム様」
ジギーは落ち着いた様子で、私に向かって手を振った。ジェリオはジギーに向かって2、3歩よろよろと歩いたが、やがてその足を止めた。顔が、驚愕と恐怖に歪んでいる。
「何だ……また、羽虫が! 飛んできやがる! この、この光! 何だ、何なんだァ!」
ジェリオは突拍子もない大声を張り上げ、でたらめに大剣を振り回し始めた。押さえつけていた足が退いた隙に、ルビエが私たちの元へ駆けてくる。入れ替わりに私は、体勢を低くしてジェリオにタックルをかけた。
「悪いな、ちょっと寝ててもらおう……あんたも、疲れたろうからな」
私は囁くと、ジェリオの胴回りを覆う鎧に左手から魔力を注ぎ、引鉄を引いた。
どすん、という音がして、プレートアーマーがこぶし大にえぐれ、中の生身を直撃した。炎の魔神の力が流れている壁や床は無理でも、単なる鋼鉄になら大地の魔力を通せる。触れさえすれば、鎧を着ている相手は弾薬庫を着込んでいるのと同じだ。
ジェリオは一瞬目を見開いた後、声も立てずにへたへたと崩れ落ちた。
「……終わったよ、ジギー。しかし、よく気づいてくれたな」
私が声をかけると、ジギーは微笑んだ。いつも通りの、完璧なバーテンダーの顔で。
「お客様の考えていることをいち早く察するのが、バーテンダーの仕事ですので」
手の中の水筒は、ほとんど空になっていた。ジギーが炎の魔術で中身を沸騰させ、撃ち出したのだ。中身、つまりゴーレムが噴射した幻覚剤の水割りを。
「水割り」は、幻覚剤のこと。アンバー・ピローは、炎の契約印を使ったカクテル。カクテルを水割りで出せ、という不自然な会話で、「幻覚剤を炎の魔術で吹き付けろ」と合図を送ったわけだ。炎の魔術なら、酒蔵に流れる炎の魔力と干渉せず、ジギーの契約印の力でも十分な魔力が出せる。幻覚剤が空気より軽かったので、立っているジェリオだけに幻覚剤を吸わせ、倒れていたルビエや体を屈めて突進した私はガスを吸わずに済んだ。
「それで……そいつ、どうします? ギルドにでも突き出しますか? 」
ジギーが、倒れたジェリオに汚らしいものでも見るような視線を投げかける。私は少し考え、首を振った。
「出来れば、止しておきたい。私たち自身、新発見とはいえギルドの許可もなく遺跡に立ち入っているわけだし、それに……彼は、友人だからな」
「友人? 」
ジギーは驚いた顔で、私の目を見つめてきた。正気を疑っているような顔つきだ。私は苦笑いしながら、肩をすくめた。
「私の顔を怖がらない人間は、だいたいみんな友人なのさ――私にとっては、な」




