第1話
「ファントム・レディですよ」
「フーム」私は答えた。
場所は『空に星』亭、私は憂鬱と酔いのちょうど狭間に居た。ジギーが私に珍しく興奮した様子で話しかけたのは、そんな時間だったからかもしれない。
もう夜も更け、店内に客はまばら――私にとっては、居心地のいい時間だ。
私の座る席はカウンターの端で、照明の影に入る場所だ。あまり顔を見られずに済む。深層に近い空中市場とはいえ、蜥蜴人種の顔はまだ珍しい。とりわけこの『空に星』亭は、どちらかといえば純粋人類むけの高級酒場だ。亜人などとは縁がない、お高く留まった連中が酒を呑みに来る。客層だけでなく、気取った内装も私の好みとはズレている。
にも関わらず私がここを訪れるのは、この若いバーテン、ジギーの作るカクテルのためだ。私はグラスを取り上げ、口元に持って行ったところで、中身が氷だけであることに気付いた。
「ジギー、何か一杯頼む。そうだな、ウィスキーベースで何か作ってくれないか? 」
「今日は少し、ペースが速いようですね? 」
言いながらもジギーはタンブラーを手に取る。
「探偵という生き物は、本質的に常に、酔っている必要を感じ続けているものなのだよ」
ぐったりと、私は答えた。
「すると……決して酔ってはならないバーテンダーという生き物は、探偵の真逆に位置するということになりますね」
ジギーが白い歯を見せてほほ笑む。
「そりゃ、いい……相反する生き物同士に乾杯」
私は空のグラスを傾けて見せる。
「で、何の話だったか……女のことだったっけ? 」
「ファントム・レディです。ご存じありませんか? 」
ジギーはシェーカーを一旦置き、真面目な顔になった。
「ちょっと待ってくれ……なにかで、聞いたことがあるような気がする。昔の冒険者の噂話みたいなものじゃなかったか? 」
「そう、まあ、伝説ですね」
ジギーは頷いた。
「昔――それこそ、大竪穴調査の最初期に、冒険者の間で噂になったんですよ。『うちびと』が作った幻の酒――素焼きの甕に入って、昔のままに保存されてきた、極上の酒だと伝えられています」
私も、少々ぼんやりとしてきた頭で考えてみた。そう言えば、以前退屈しのぎに読んだ冒険者の旅行記に、そんな話が載っていた気もする。冒険者の間に伝わる、都市伝説のようなものとしてだったが。
「……そうだ、聞いたことがある」
私は考え考え言い、グラスを傾けようとして、中が空なのに再び気づきカウンターに置いた。
「怪談まがいの話だった……そういう酒が見つかったという話はいくつかの記録に残っているが、実物どころか物的証拠も残っていない。その上、記録を残したものは決まって謎めいた失踪を遂げているとか」
「それでついた仇名が『幻の女』。触れるものに災いをもたらすファム・ファタル」
ジギーは、完璧な歯並びを見せてニヤリと笑った。
「大竪穴で酒に関わるものならば、たとえ背骨が折れるくらい災いを背負いこんだとしても、一度は味わってみたい夢の酒ですよ」
「で、その伝説の酒が、どうしたんだ? 」
「それが、ですね」
ジギーはカウンターからぐっと乗り出してきた。両の瞳が熱っぽく輝いている。
「何でも、見つかるかもしれない、ということなんです。第6大隧道で」
「第6ゥ? 」
私は思わず声を上げてしまった。
第6大隧道は、この店がある空中市場のすぐ上あたりに位置している。すでに踏査され開発済みの大隧道だ。今では堅牢な造りの住居が立ち並び、職人や商店主が暮らす街になっている。なぜ、そんな場所に、今さら――私の疑問を見透かしたらしく、ジギーは笑って説明を始めた。
「ご存じのとおり、第6大隧道はあらかた開発しつくされてしまっています。それでも、史跡として残された『うちびと』の遺跡はある。そんな遺跡の一つに、どうやら隠し部屋があるらしいという話になっていましてね。最近、あのあたりの地図と思われる古文書が出たという話はお聞きですか? 」
私は頷いた。それなら、2、3日前に新聞で読んだ。古文書や古書のたぐいに目のない私としては、実に食指の動く話であった。
「その地図の中に、1か所だけ「実際の街には存在しない場所」があるというんです。第6大隧道の奥、ユーベル石窟の内部なんですが……」
「フーム」
私は低く唸り、グラスを口につけ、中身が空なのを思い出してカウンターに置いた。今度はうっかり手に取ってしまわないように、遠くに置いておく。
ユーベル石窟と言えば、王立アカデミーにより特定保護史跡として指定された由緒ある遺跡だ。隧道の壁を掘り抜き、言ってみれば半地下のような空間を造って、その中にひとつの小さな町が構築されている。外縁部と内部の大通りは今では記念公園として観光名所にもなっている。
そんなところに今さら謎なんて――と、思うと同時に、ユーベル石窟ならば隠し部屋の一つや二つあってもおかしくないか、という気もする。何しろ広い遺跡だし、神殿や工房の遺跡と違って都市なので、内部も入り組んでいて複雑だ。踏査しそこねた部屋がどこかにあったとしても不思議はない。
「しかし、それがなんでファントム・レディの話にまで結びつくんだ? 」
「もちろん、理由があります」
勢い込んでジギーは言った。
「そのスペースは、地図上では『酒蔵』となっているんですよ。『うちびと』の言語でね。さらに、注釈として未知の単語が書き加えられているんです。『うちびと』の酒で、未知のものと言ったら、誰だってファントム・レディを思い浮かべるでしょう?
まだ、理由はあります。ユーベル石窟の名の由来となった発見者、ジョアン・ユーベルは、ファントム・レディをも発見していた――そう記述する記録が残っているんです。信憑性はまあ、眉唾ものの噂話といったところですが。でも、確かにジョアン・ユーベルも、後に石窟の中で不自然な失踪を遂げているんです。遺族が中心となって石窟を徹底的に捜索したものの、彼の姿はどこにもなかった。死体すら見つからなかったんです。
なかなか、興味深い話でしょう? 」
「……フーム」
私は彼の勢いに少々気圧されつつ、カウンターの上のグラスに手を伸ばした。私の知るジギーは、いつも感情を抑えた微笑を浮かべている完璧なバーテンダーなのだが、こんな一面もあろうとは。まるで子供だ。ちょっと間を取ろるため私はグラスを口に運び、とっくの昔にグラスが空であることにまたもや気づいた。
「……ああ、失礼しました。つい夢中になってしまって、ご注文を失念しておりました」
ジギーは苦笑いしながらシェーカーを構え直す。
「確か、ウィスキーベースがご希望だったと思いますが……では、だいぶ夜も更けてまいりましたし、あまり強くないものをひとつ……」
ジギーは生姜のハチミツ漬けを取り出すと、中の欠片をいくつかシェーカーに放り込み、黒い手をひるがえした――無数の契約紋がびっしりと書き込まれ、黒い蜘蛛の巣を張り巡らしたようになった手を。やがてその紋章が、じわりと輝きだす。古代魔術だ。
ジギーは左手だけで、器用にシェーカーを回転させた。手から放たれる光が、銀色のシェーカーに吸い込まれてゆく。やがて、温かく甘い香りが漂い出した。炎の魔術で、内部に熱を加えているのだろう。
そのまま、空いた右手でウィスキーの瓶を手に取る。銘柄は「ファイア・スターター」。大竪穴では広く飲まれているウィスキーだが、この店で使われるのはファイア・スターターの中でも「パイオニア」と呼ばれる種類で、大竪穴に初めて入った冒険者たちが竪穴内で醸造を始めたウィスキーと同様の製法・設備で作られたものだ。強い香りと素朴な味わいが特徴である。
シェーカーを開け、ウィスキーを注ぐと、ジギーは両手でのシェイクを始めた。両手の紋章が色を変える。今度は風の魔法だ。粘りの強いハチミツとウィスキーを混ぜ合わせ、同時に呑める温度にまで冷ますため、シェーカー内に風を巻き起こしているのだ。
やがてジギーは、私の前に置いたグラスに、ゆっくりとシェーカーの中の液体を注いだ。かすかに湯気を立てる、琥珀色のカクテル。
「琥珀の枕です。どうぞ」
ジギーは額にほんのりと汗を浮かべながら微笑んだ。私はグラスを取り、鼻先で回した。ハチミツの糖分がわずかに焦げて、キャラメルのような香りが混じっている。ひと口呑むと、生姜の香りに負けないウィスキーの芳しさと、ハチミツの甘みが口の中で溶け合った。
「流石だね」
私はグラスを掲げ、ジギーに敬意を表した。
「酔いの回ってきた頃合いに、ゆっくり呑むのがいいかと存じます」
自信に溢れた笑顔で、ジギーは言った。
「ところで、ちょっと提案があるのですが――今日のお代を、私の奢りということにさせていただけませんか? 」
「うん? 」
私は、聞き間違いかと思って相手の顔を見た。ジギーは相変わらず、悠然とした笑顔を崩さない。
「ですから、私に奢らせていただけないかと申しているのでして……その代わりに、ちょっとした頼みごとを聞いていただきたいんです」
「フーム」
私は唸った。それなら、まだ分かる。しかし、何を言い出そうというのか? 私は少々不安になった。
ジギーという若者は、一言でいえば「野心家」だ。負債のために今は『空に星』亭で雇われバーテンをやっているが、内心ではこの店を嫌っており、いずれは独立して自分の店を持つつもりでいる。初めて会った時には、私をその企みに利用しようとしていた。
「勘弁してくれよ、あんまり、無茶を言うのは……」
私は受け太刀に答えた。きっぱりと断ってもいいのだが、そうするとどうもこの店に来づらくなりそうだし、聞ける頼みなら別に聞いてやってもいいか、とも思っていた。酔いで気が大きくなっていたのもあるかもしれない。
「いえ、大したことではないのですが――先ほどの話ですよ。ファントム・レディ。私はどうしても、あの噂の真偽を確かめたいんです。しかしこの店を長く離れるわけにもいかない。
そこで、ちょっと第6大隧道まで行って、様子を確かめてきてほしいんです。報酬を出す余裕はありませんが、経費くらいならお支払いしますから」
私はアンバー・ピロウをすすりながらじっくりと考えた。
何か、不都合な点があるか?ない。第6大隧道なら治安もいいし、大立ち回りを演じるような破目にも陥るまい。それに何より、幻の酒ファントム・レディには、私もかなり興味をそそられていた。
「そうだな……だが、調べたって何も出てこないかもしれないよ。だいたい、そんなに有名な話なら、もうとっくにどこかの冒険者が手を出しているんじゃないか? 」
「それでも結構です。それならそれで、「ダメだった」ということを報告してくだされば、諦めもつきますから」
ジギーは微笑みながら頭を軽く下げた。「ありがとう」とでも言うような動きだ。自然、私は既に引き受けたような形になる。
「……フーム」
私は唸った。どうも、上手いこと転がされたような感じだ。本当に、大丈夫なのだろうか?
だが、長いこと不快感を抱いたままではいられなかった。アンバー・ピロウのもたらす心地いい酔いが、疑問やら疑惑やらを押し流していった。
こうして、私は「ファントム・レディ」の一件に引き込まれたのだった。




