第5話(2)
夕暮れ時――と言っても、第5大隧道では、太陽苔の明かりは時間の目印にはならない。客を誘う魔導灯の色彩が、太陽苔のささやかな光を塗りつぶしてしまうからだ。第5大隧道は眠らない街。夕べの訪れは、客引きがけだるげに魔導灯看板を通りに出し、バネ仕掛けのからくり看板が客寄せのための動きを始めることでしか分からない。
マフィと別れた私は、重い足取りで翡翠通りへと向かっていた。足取りが重いのは、傷つき、杖を突いているから――臆病風に吹かれているからではない。そう、自分に言い聞かす。
マフィに教えてもらったバルナバス・ボルゴの事務所は、翡翠通りの表から少し奥に入ったところにあった。なかなか品のいい造りだ。板壁は白塗りだが、くすみや汚れがない。相当念入りに手入れされているのだろう。扉の脇に、金押しで小さく例の代紋が刻まれている。ひっくり返った杯のマーク。手袋に隠された右手の傷を意識しながら、その右手でドアを引いて開ける。
中は、拍子抜けするくらい普通の事務所というたたずまいだった。清潔感あるアイボリーの壁紙がまぶしい。部屋の奥に机と、手前に応接セット。その、応接セットのソファに腰かけて、2人の若者がガラステーブルの上でサイコロ賭博に興じていた。
「やあ、お楽しみ中のところすまない」
私は帽子を脱ぎながら2人に声をかけた。やや間を取って、2人に私の顔をじっくり眺める猶予を与える。
「……バルナバス・ボルゴに会いたいんだが、都合はどうだろう? あ、いや、怪しいもんじゃない。紹介状もある」
私は、マフィに貰った封をしたままの紹介状を差し出した。2人は口を半開きにし、ぽかんとこちらを見つめている。まあ、悲鳴を上げて逃げ出さないだけありがたい。
「……とりあえず、これ、届けてくれないかな? 」
もうひと押しすると、右側に座っていた方が立ち上がり、無言で紹介状の封筒をひったくると、スタスタと奥へ入って行ってしまった。
しばらく私は無言で立っていたが、何も起こらない。残った方の若者も、声をかけてくるでもなく、ただ私の顔を所在無げに見ている。別に「帰れ」とも言われないので、私は「入ってもよい」との許可を得たと考えることにし、さっきまで若者の片割れが座っていたソファに腰を降ろした。
「ちょっと失礼。待たせてもらうよ……どれくらいかかるかな? 」
私に話しかけられて、やっと若者は顔を上げ、サイコロをもてあそびながらこちらをまじまじと見た。
「しばらくかかるだろう。今、メシの支度をしてるところだから」
「フーム」
私は分かったふりをして、それらしく唸っておいた。若者はまだ、私の顔を無遠慮にじろじろと見ていた。
第5大隧道でも亜人ならありふれているが、蜥蜴人種となると少ない。私の同族は同族のみで排他的に暮らし、深層から滅多に出てこない。まあ、珍しく感じるのも仕方あるまい。
「……なあ、それ、本当に本物の顔か? 取れたりしないだろうな? 」
若者はそんなことを聞いてきた。私は顎に手をやる。
「どうだろうな。そう言えば、やってみたことがない。今日帰ったらやってみるよ」
若者は、妙な顔をして黙った。そのまま15分ほど待った後、ようやく奥から先ほどの男が戻ってきた。
「オヤジさんが会うそうだ。食堂へ案内する」
案内された「食堂」は、事務所の奥の扉から廊下を通ってさらに奥にあった。過剰なまでに分厚く大きなドアを開けると、まず白いテーブルクロスを引いた大テーブルが目に入る。スーツ姿の組合構成員が、神妙な顔で席についている。テーブルの上には、所狭しと料理の皿が並び湯気を立てている。オードブルの類からスープ、サラダ、肉料理まで、全てが大皿で一度に出されているようだ。
一番奥に、その男は居た。
巨猪人 ? ――いや、人類か。体のスケールが一人だけおかしい。小山というか、球のような肉体がダブルのスーツを窮屈そうに着込んでいる。そのてっぺんに、憂鬱そうな顔が乗っかっていた。後退しだした髪に垂れた頬、落ちくぼんだ眼には悲しげな光が宿っている。あれが、バルナバス・ボルゴだろう。
「オヤジさん、こちらが客人です」
私を連れてきた若者はそれだけ言って頭を下げると、さっさと部屋を出てしまった。私は途方に暮れて食卓の面々を見た。全員、新たに入ってきた私を怪訝そうな目で見ている。
「……席は用意している。座ってくれ。食いながら話そう」
想像より高い、澄んだ声がした。ボルゴが腕を上げ、指輪をはめた指で傍らの椅子を指さしていた。私はもう一度あたりを見回し、特に異論も出ていないらしいことを確認すると、言われるままに椅子に座った。
ふとテーブルの向かい側を見ると、中年の男が一人。小柄な男だ。彼だけスーツでなく、臙脂色のジャケットにクリーム色の毛織シャツと、商人風のいでたちだ。その顔には汗の玉が浮かび、顔色は青ざめていた。
「まあ、遠慮なくやってくれ。酒は何がいい? 」
言いながらボルゴは、傍らの給仕に目配せした。向かいの男には目もくれない。私は手を突き出す。
「お気遣いなく……まあ、あるもので結構です」
言っているそばから、給仕が私のグラスにシャンパンを注ぎ、皿にパンを乗せた。仕方がないのでとりあえずひと口すする――かなり軽めで後味のすっきりした、いい酒だ。
「別に、食事をたかりに来たわけではないのですがね」
私は少々申し訳なさを感じ、弁解口調で言った。ボルゴは興味もなさそうに手を振った。
「こっちも別に、もてなしのためにやっているんじゃない。俺が好きなんだ――こういう、大掛かりな食事がな。まあ、見てくれ」
ボルゴは食卓に向けて手をかざした。席に並ぶ組合の構成員たちは、既に各々料理を皿に取り、食べ始めている。ベリーソースをかけたツチドリの丸揚げ、肺魚のムニエル、ドラゴンの血を混ぜたオムレツ、鍋ごと出された深層風シチュー――種類も量も、なんのパーティかと思うほどだ。
「料理というのは、芸術だ。絵よりも彫刻よりも、音楽よりもな。五感で楽しむことのできる、非常に深く広い芸術だ。それが、俺の生きがいなんだ」
「しかし、そのためにわざわざこんな晩餐会を……」
「ひと品だけの料理など、音符ひとつだけの楽譜みたいなものだ」
ボルゴは眉をひそめた。
「こうして数多くの料理が並ぶさまを見てみろ。壮観だろう。こうでなければならない。食って旨いだけではない、食事の場そのものを観るのだ。
そのためには、食卓につく人数は多い方がいい。不幸にも、こう見えて俺は小食だしな」
私は耳を疑い、思わずボルゴを見つめた。悲しげな顔をする彼の手前には、確かに、肉の破片とパイの切れ端、それから小さなスープ皿があるだけだ。人は見かけによらぬものだ。
「それで、私のようなものまで、食卓に座らせてくれると……しかし、せっかく同席させていただいた身で言うのもなんですが、どうせなら内輪で食べたほうがいいのでは? 家族とか……」
「これまた残念ながら、俺は趣味人ではない。組合の長だ」
悲しげな顔でボルゴはワインを口にし、ナプキンで唇を拭いた。
「家族とは、決して寝食を共にしない――寝込みとメシ時は、奇襲にゃうってつけの時間だからな。だからここに居るのは、みんな胆の据わった連中ばかりだ。
例えば、そう、お前が俺の首を獲りに来たとしても、俺に視線すらまともに向けられんうちに心臓が動きを止めることになるだろうな」
ボルゴは面白くもなさそうに言い、ふうっとため息をついた。
「家族の食卓、というものに、憧れないでもないが……」
その声を聞いて、向かいに座る商人風の男がびくりと身を震わせた。下を向き、固く目を閉じて震えていたが、やおら男は席を蹴って立ち上がり、食堂の出口へ駆け出した。
「ああ……押し込めとけ」
低い声でボルゴが言うと、給仕は絨毯を蹴った。次の瞬間、銀の盆を持った腕が、逃げる男の首筋に食い込んでいた。男は声もなく膝から崩れ落ちた。
一瞬で、絨毯の上を音もなく移動した――靴に、風の魔導具が仕込んであるのだろう。風の噴射で体を浮かせ、絨毯の上を「滑った」のだ。空を飛ぶのでもない限り、さして強い魔力がいるわけでもない。
給仕は何事もなかったかのようにズボンの埃を払うと、壁から垂れた紐を引っ張った。遠くで鈴の鳴る音がし、ほどなくしてスーツの男たちが食堂に現れ、意識を失った男を担ぎ上げて去って行った。
その間も、ボルゴはじめ食卓の男たちは無言で食事を続けていた。
目を丸くする私に、ボルゴが声をかけた。
「すまなかったな。気にしないでくれ。ちょっとした、身内の揉め事だ」
「……あまり、食の進む見世物ではありませんな」
私は率直な感想を述べた。ボルゴの唇が曲がり、さらに憂鬱げな表情になる。
「仕方があるまい。俺は趣味人ではなく、組合の長だと、さっきも言ったろう。残念ながらな」
「食事中に席を立つ者を制裁するのが、組合の仕事ですか? 」
私は思い切って少し突っ込んだことを聞いてみた。これで私まで、マナーがなっていないとかで私刑に遭ったらたまらない。ボルゴはちょっと顔をしかめたが、静かに説明を続けた。
「食事と、奴の問題とは無関係だ……ちょっとした不始末があって、奴から話を聞いてる途中だったんだが、ちょうどメシ時になったもんだからな。頭数のために食卓に座らせたのが間違いだった」
その口調からは、ただ食卓のムードが台無しにされたことを残念に思う気持ちしか読み取れなかった。私は鱗が震えるのを必死に押さえつけた。
「……それで、私の方の用事ですが……」
震えそうになる声を張り上げて私が言うと、ボルゴは仏頂面で紹介状を取り出した。
「これだな。マフィ・エメネスの紹介……マフィといや、空中市場周りじゃ名の知れたブローカーだ。俺のとことは直接の取引こそないが、下部組織が少々世話になっている。
なんでもこの間、値段のことでモメた拍子にうちの者が「猿」という言葉を使ったせいで、ひどく叩きのめされたと聞いたな。こちらは男が3人揃っていたそうだが」
私は心の中で舌打ちした。マフィのやつめ、道理でついて来たがらないわけだ。
「ああ、何も責めているわけではない。うちのもんが悪いんだから。第5大隧道で、つまらん差別意識を振りかざして商売をダメにするようなバカは必要ない」
無表情にボルゴは言った。とりあえず、私は安心した。
「さて……紹介状によれば、だ。まず文の頭に、『革製品原料、一匹納品。若干のキズあり』とあるな」
マフィのやつめ。私は頭の中で改めて舌打ちした。私には「つまらん冗談を言うな」とクギを刺しておいて。
「ああ、それは気にしないでください。冗談の下手な奴でして」
「別に、それも怒ってはいない。冗談は嫌いじゃない」
そう言うボルゴだったが、表情はまるで緩んでいなかった。
「それはいい、それはな――だが、次からが問題だ。
『紹介した男――ベク=ベキムは、バカのくせにつまらないことにこだわるたちで、しかも一つことに没頭すると何が何でもやらずにいられないという駄々っ子のような奴です。あれこれ掘り返されるのは面倒とは思いますが、門前払いを食わすとよそでもっと面倒を引き起こしますので、一度会った方が結果的に話は早いと思います』……とある。これは、本当か? 」
マフィのやつ――3たび私はそう思った。
だが、今度はあまり怒れない。割合、真実に近いからだ。私は要らぬことにこだわるたちだし、だからこそこんなところまで踏み込んだ。ここまで来て、退くわけにはいかない。
「私というものをよく表した、名文だと思いますよ。記念に写しを貰いたいくらいだ」
私は肋骨が痛むくらいに声を張り上げた。
「さて、改めて、私はベク=ベキム。コールドブラッド社の探偵です。いくつか、お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか? 」




