第3話(前)
水の中にいるのだと思った。
喋っている声が、あまりにも遠くに聞こえたからだ。やがて、水の中から浮かび上がるときのように、声がだんだん大きく、はっきりと聞こえるようになってきた。
「……だから、先に針で止めとけっつったろう! ほれ、こんなに血が流れちまってるじゃねえか……そっちはいいか、ロギストン? 」
「あらかた塞がった。つっても仮止めだ。血流を強くしたら一発でフッ飛んじまうぞ、バーディ」
「分かってんだよ、ンなこたぁ……ありゃ! こいつ、左っかわの治りが妙に遅いと思ったら、見ろよ! 大地の契約印じゃねえか! こいつが水の魔術と拮抗してやがったんだ。所見にゃあ無かったぞ、ロギー! 」
「あったらどうしたってんだ? いっそ腕ごと切りとりゃ治りも早いってか? 」
「……勘弁してくれないか。まだ頭がボーッとして、正常な判断が下せないんだが、腕を取られたら多分困るってのはなんとなく分かるんだ」
私は口を挟んだ。誰か知らない人間が、私の頭の裏側でしゃがれ声を張り上げているように聞こえた。
「おいおいおい、ログ、ロッグ、ロギー! 聞いたかよ、こいつ、冗談言いやがったぜ! ズタボロに痛めつけられて、体中の傷口から命を半分がた垂れ流しながら、こいつ下らねえ冗談口を叩きやがった! 大発見だ。学会に発表できる」
「何て言って紹介するんだ? 大竪穴で見つけた、世界一つまらん冗談を言うトカゲか? 」
私は不本意に思い、何かとびきり洒落たことでも言ってやろうと考えたのだが、無理だった。上手い返しが思い浮かばなかったのもあるが、それより体が動かなかった。意識だけが腐りかけのどぶ泥に叩き込まれたような感覚だった。仕方がないので私は目を開け、眼球だけ動かしてあたりをうかがった。
暗く、じめじめした部屋だった。白い魔導灯がぎらぎらと灯っていた。その光に照らされて、やけに白っぽくなった人影がふたつ。片方は小さく、片方は大きい。どちらも水色のうわっぱりに水色の帽子をかぶっている。治癒魔導士の服装だ。すると、ここは病院か。
「さぁ、もうひと頑張りってとこか。ロギストン、新しい針を用意しとけよ! 」
バーディと呼ばれた小さな方は、そう叫びながら医療用魔導杖を振り回した。
杖の先端が体に近づくたび、ターコイズブルーの光が散って、流れ出ていた血がどろりと固まる。血液の流れが加速し、体中を血が駆け巡るのが分かる。水の魔術の応用だ。
基本的に、魔術は生き物の体には効果が薄い。「命」という巨大な力に、魔力が圧倒されるためだという。しかし水の魔術は例外的に生体への影響力が強い。生き物の体の大部分をを構成する、水分そのものに作用するからだ。それを利用して、血を止めたり、逆に体内の血行を促進して強心作用をもたらしたり、体液の粘性を上げて傷を塞いだりするのが医療用治癒魔術である。
水の魔術に切られた傷を、水の魔術で塞がれるというのも乙なものだ。
塞がった傷口を、大男のロギストンがグローブのような手を器用に動かして縫っていく。痛みはわずかだ。手際がいいからだろう。叩きのめされすぎて感覚がバカになっているというのもあるだろうが。
「……で、ここは病院かい? 」
私は痛む喉からやっとそれだけ言葉を絞り出した。
「大正解だ、よく分かったな、爬虫類ヅラ」
バーディが魔導杖で背中を掻きながら答えた。
「翡翠通りの診療所だよ。路地裏に投げ捨てられて、ボロクズみてえになってたお前を通行人が見つけてな。人だかりになってたぜ」
「それで、たまたま通りがかったバーディが、お前さんを診療所に担ぎこんだってわけだ」
ロギストンが手を動かしながら続ける。バーディは渋い顔になった。
「俺ぁ非番だったんだぞ。それが、ストリップ小屋から出てみりゃ、ケガ人がいるっていうじゃねえか。何だか医者を探してやがるしよぉ。放っとくわけにもいかねえだろ」
「いや、助かった。礼を言うよ。ついでに、看護婦もつけてくれたら、もっと助かったんだが」
「……おい、ログ、ロッグ、ロギーよォ、あんなこと言ってるぜ。どうする? こういう奴に、鎮痛剤を処方してやるべきかどうか? 」
「カラシでも塗ってやろうか。昼飯にサンドイッチ作った時の残りが、まだあるんだ」
「悪かったよ、悪かったってば! 医者にかかるときはいつも言う冗談なんだ。気にしないでくれ」
私は慌てて言った。
バーディとロギストンは顔を見合わせ、フンと同時に鼻を鳴らした。
「で、私はどれくらいのケガなんだ? あと、どのくらいで立って歩ける? 」
「そんなに長く寝かしとくつもりゃねえよ。うちは宿屋じゃねえんだ」
バーディが吐き捨てるように言った。
「松葉づえにすがりゃ、もう1日で立てるようにはなるだろう。
で、ケガの内訳か? そうさな……体じゅうそれこそ数えきれないほどの打撲と切り傷、鱗も風呂場の床が敷けそうな量剥がれてるな。骨折はアバラが数か所と、腕だか足だかにもいくらかヒビが入ってたような……おいロギー、お前覚えてるか? 」
ロギストンは秀でた額をコリコリと掻いた。
「いや、めくらめっぽうに添え木はしたが、正確にどこがどれだけってのは覚えてないな……おい、トカゲの旦那、試しに叩いてみて確認してもいいか? 」
「面白い冗談を言うのはやめてくれ。今度こそ笑い死にしちまう」
私は答え、目を閉じて少し考えた。
メイユレグの連中は――あるいはバークは、何のつもりだったのか? 私をわざわざアジトに連れ込み、「警告」を与えたのはなぜか? 探偵のひとりくらい、ウロウロさせておけばいい話だ。バークを見つけたとはいえ、メイユレグ自体のことは何も分からず、途方に暮れていたのだから。
それとも――私は自分で思うより、核心に近づいていたのだろうか?
私は懸命に、意識が飛ぶ前の最後の記憶を掘り出そうとした。
私を殴った樽が壊れて、酒場に席が足りなくなる――バカな、そんなことを思い出してどうする。もっと前だ。そう、バークが襲ってきた時のことだ。奴は急に激昂し、私をこのまま帰すわけにはいかないと言った。何故だ? 私の言葉の何が、そんなにも奴の気に障ったのか? 私は考え、そして、目を開けた。
「なあ、バーディって言ったかな、医者の先生。ちょっと聞きたいことがあるんだが」
「あん? なんだよ、ケガ人」
バーディは私の顔を上から覗き込んだ。
「あんた、ストリップ小屋から出てきたって言ったな、確か。それ、翡翠通りの角の小屋で、間違いないか? 」
「ああ、そうだが、それがどうした? 」
「いや、何というか……」
私は口ごもり、うまい言い方を探した。
「あのさ、看板に『水中交歓ショー』ってのあったろ? あれ、どんな感じだった? 」
「ああ、アレか」
バーディはげんなりした顔で首を振った。
「ひでぇもんだった。水槽の中でハダカの女が浮いてるだけでな。面白くもなんともない。交歓と言いながら相手すらいねえしよ、何するのかと思ったらしばらく水に潜ってフワフワ漂ってるだけで、5分くらいしたら裏方が出てきて水槽ごと片づけちめえやんの。呆れたね、俺は。あの5分間分のカネは返してくれるべきだと思ったぜ」
「なんだ、そうか」
私はため息をつき、目を閉じた。
「そうか、って……それがどうしたんだよ? 」
「いや、単に気になってたからさ。面白いんなら、這ってでも見に行こうと思ってたが……いや、ありがとう。チケット代が節約できた」
「……ロギー、そこらに何か重たいもんないか? このバカ、殴ってでも眠らせねえとバカ話を止めそうにねえぞ」
「見舞の花を活ける鉄の花瓶があるけど」
ロギストンは面白くもなさそうに言った。
「でも、万一死なれて、万一幽霊にでもなられたら、たまったもんじゃないぞ。つまらない冗談を言い続けるトカゲ顔の幽霊なんて、考えただけで気が滅入ってくる」
「悪かった、悪かったって。考えなしに冗談を言うのは、私のクセなんだ。もう黙る。しばらく眠るよ。これで、なかなかしんどいんだ」
言って、私は口を閉じた。
直後に、疲れと体力の消耗が、本当に私を深い眠りへと引き込んでいった。




