第7話
『空に星』亭のドアをくぐり、まっすぐにカウンターを目指す。
今日、私は帽子をかぶっていなかった。傷だらけの、蜥蜴人種の顔がむき出しになっている。時刻は夕方。大入り満員と言うわけではなかったが、それでも何人か呑んでいる客がいて、私の顔を無言で見つめていた。
構うものか。見つめさせておけ。私は苛立っているのだ。
ジギーは前と同じように、表情一つ変えずこの異形の顔を迎えた。
「いらっしゃいませ。ベク=ベキム様、でしたか。お久しぶりです。何にいたしましょう? 」
「店主と――ザナ・ステラと話がしたい」
ジギーは相変わらず平板な微笑を浮かべていた。
「それはまあ、お呼びいたしますが、しかしお話を伺うかどうかは……」
「いいから、呼んできてくれ」
私は強い口調で言った。拍子に、唇の脇の傷口が開き、血がにじむのが分かった。ジギーは黙って私にナプキンを差し出すと、裏に引っこんでいった。
しばらくナプキンで口を押えながら座っていると、奥からザナ・ステラが出てきた。前見たのと同じ、黒のドレスを着ている。あるいは、ただ単に生地や仕立てが似ているだけの、別のドレスかもしれない。ザナはカウンターに2、3歩歩み寄って、初めて私の顔に気付いたらしく、愕然として足を止めた。背後ではジギーが静かに笑みを浮かべている。ほんの少しだけ、歪んだ笑みだ。誰が来たのかをわざと言わずに取り次いだのだろう。
ザナはなんとか笑顔を作り、私に話しかけた。
「……どうも、今晩は、探偵さん。私に何かご用とかで」
「ヒューゴー・アルカヒムは殺されたよ」
ザナはこわばった笑みを浮かべたままだった。
「そう……ですか。彼が……」
「私が殺した」
私は静かな声で言った。店の客たちには聞こえないくらいの声だった。
「盗掘は失敗した。そもそも炎の神の神殿なんかは無かった。ヒューゴー・アルカヒムも、トッシュ・ガルムも、ありもしない宝のために馬鹿を見た。そういうことになったよ」
言い終えて、私はザナ・ステラの顔を見た。固まっていた表情筋が、蝋が解けるように動き出し、悲しみの表情を作った。
「お話はよく分かりませんが、ヒューゴーが亡くなったのは悲しいことです。お店にとっても常連でしたし、個人的にも親しくしていました――お知らせいただき、ありがとうございます」
ザナは静かに頭を下げた。頭が上がるころには、その顔には謎めいた笑みがもどっていた。
「どうか、今日はゆっくりしてらしてくださいな。ヒューゴーのお弔いも兼ねて、おもてなしいたしますわ。ジギー、お客様にお飲み物を」
「……かしこまりました」
冷たい声を響かせて、ジギーが進み出た。私はぎらぎら光る眼でしばらくザナを見つめていた。視線で蝋細工の顔を溶かして、その向こうにあるものを覗けたら、と思いながら。いくら見つめても、刃のような微笑以外何も見えなかった。私は大きく息をつくと、ジギーの方に向き直った。
「この店、オリジナル以外のカクテルも出すのかい? 」
ジギーは一瞬、怪訝そうな顔をした。
「それは、まあ。頼まれればお作りいたしますが……」
「それじゃあ、そうだな、ダイキリを頼む」
ザナが、ふっと笑った。
「何か、おかしいかな? 」
「ダイキリで、よろしいんですか? ラムベースのカクテルですのに」
「……そうか、そうだったな。ダイキリはラムを使う。早い時間にラムの匂いを嗅ぐと、頭が鈍るんだ、私は」
数秒、ザナは何の表情も見せなかった。やがてその美しい顔が、みしみしと歪んでいく。
「……何が、おっしゃりたいんです? 今さら」
「そうだな。今さらだ。ヒューゴーは死んで、奴とあんたのつながりを証明できる者はいない。あんたが、奴とバザールを両天秤にかけてたって証拠もないし、バザールに奴を売ったのが、あんただってことも証明はできない。ないないづくしだ。何もできない探偵の、まあ、憎まれ口だと思ってくれ」
ザナは青ざめた顔で、しばらく私を睨んでいた。が、じきに平静を取り戻した。体のこわばりが消え、美しい無表情が戻ってくる。
「そうですか。それでは、お客様、ごゆっくり」
笑顔さえ見せてそう言うと、ザナは大股に店の奥へと歩いて行った。しなやかな足運びだった。均衡のとれた姿勢だ。
ザナは私とヒューゴーとの会話を聞いていたのだ。私がラムの話をしたのはあの時だけだ。恐らく、店自体にそのための仕掛けがあるのだろう。ヒューゴーの話を聞き、バザールの手が回る前に遺物を回収できる見込みがないと踏んだ彼女は、バザール上層部にヒューゴーの計画をバラした。彼を売ったのだ。それで、ああも都合よくバザール委員会の手が回った理由が分かる。
ザナはトッシュ・ガルムという男を知っていた。使い捨ての道具にされてもそれを認められず、いつか店に戻ろうと枝道の裏側で機会をうかがっていた男を。最後の最後まで、女をかばおうと見ず知らずの探偵に口約束を頼んだ男を。あの男に、バザールを敵に回して魔導遺物を捌く器量などない。それを知っていた。だからこそ、ヒューゴーの話が的外れだと見抜き、彼を見限ったのだ。
「お客様、ダイキリは……」
目をぱちくりさせながら、ジギーが聞いてきた。
「ああ、済まない。忘れていた。やっぱりダイキリはなしにしよう。代わりに、何かラムでオリジナルを作ってくれ。いいラムが入っていると聞いた。たまには、早いうちから頭を鈍らせとくのもいいもんさ」
ジギーは、いつもの完璧な笑顔に戻りながら言った。
「かしこまりました。では、私のレパートリーからとっておきのものを」
既に出してきていたラムの小瓶に加えて、ジギーはクレームドカカオとドラゴンの血を取り出した。ドラゴンの血は香辛料だ。ドラゴンの血液そのものに加え、凝固を防ぐためと香り付けのために、薬草を何種類か漬け込んである。手際よくすべての材料をシェーカーに入れていくジギーに、私は低い声で呟きかけた。
「……結局、君の思惑はどうしたって外れることになったわけだ」
「なんのことです? 」
ジギーの手は淀みなく、シェーカーを取り上げる。その手に刻まれた契約紋がじわりと輝きだす。
「君がくれた情報のことだ。
君は気まぐれなんかで動くたちの男じゃない。ヒューゴーとザナが共謀していることを知った君は、ザナとガルムの関係を私に教えた。あの時点では2人が隠しておきたかった情報――ガルムたちの調査そのものが、ヒューゴーの差し金で行われた「盗掘」だということを暗示するために。それはつまり、ヒューゴーがバザールを裏切っていたということであり、ザナがその片棒を担いでいたということでもある。
私がそれを明らかにすれば、2人はバザールの怒りを買い、『空に星』亭の店主もすげ代わるだろう。雇われバーテンが直接雇い主を売れば後の評判に響くが、どこの馬の骨とも知れぬ探偵が暴くなら自分に危険は及ばない――それが、狙いだったんじゃないか? 」
ジギーのシェーカー捌きには一分のためらいもない。まるで機械だ。
「そんな……私がなぜ、そのようなことをしなければならないんです? 」
「実は、私もそれが聞きたいんだ。君がザナ・ステラを見る目は普通じゃない。あからさまな敵意がある。なんだ? 何が君を、そうまでさせる? 」
ジギーは黙ってシェーカーを振った。
次第に、シェーカーの銀色の輪郭が膨らみ始める。手の紋章がひときわ強い光を放つ。大地の魔術だ。シェーカーの金属に魔力を加え、無理矢理に引き伸ばしている。私の見ている前でシェーカーはほとんど球状にまで膨らんだ。ジギーの額に汗がにじんでいる。彼の手の動きとともに、こちらにひんやりとした風が流れてくる。冷気が、シェーカーの中で生まれているのだ。容器が膨れ、中の空気が急激に薄くなったためだ。
やがてジギーは球体となったシェーカーのフタをはずし、中身をカクテル・グラスに空けた。
「どうぞ。『ビトレイヤル』でございます。冷たいうちに、お呑みください」
固まりかけた血のように、赤黒いカクテルだ。冷気がうっすらと白い靄になり、グラスの周りを漂っている。私がグラスの足をつまむと、ジギーは、独り言のようにぽつりとつぶやいた。
「店の名前……ですかね」
「名前? 」
「気に入らないんですよ、それが。『空の星』亭だなんてねえ。あるいは、具体的な理由と言ったらそれだけかも知れない。とにかく何かが気に入らない。自分の思い通りじゃない。雰囲気なのか、客の質なのか、自分でも分かりませんがね。
まあ、長くは続きませんよ、こんな状態も。今度のことがなくたって、どうにかしていずれ出ていくつもりでした。自分の店を持ちたいと思ってるんです。いずれはね」
ジギーはにッと歯をむき出して笑った。自信家の笑みだ。完璧な歯並び。私はカクテルを一口に飲み干した。とろけるような甘みと舌を刺す苦み。氷のような冷たさ。裏切りの味、ビトレイヤル。
「君の店は、きっといい店になるんだろうが」
私はフーッと息を吹きだしながら言った。
「私個人としては、その店じゃくつろげないと思うよ」
「有難い助言として、承っておきます」
ジギーは静かに、頭を下げた。




