第5話(2):過去
「ちょっ……な、何だあ!? 」
まだ事態が把握できていない様子で、ブライは床に倒れたまま素っ頓狂な声を上げた。その頭上を炎の舌がかすめ、帽子のつばをわずかに焦がす。炎の勢いは一向に弱まらず、壁一面がオレンジの光の滝と化していた。
「分からん……とにかく、逃げなければ」
ベキムは喘ぐような息遣いの下から何とかそれだけ言った。フードをかぶり直す手が小刻みに震えている。そのまま出口へと向かいかけるベキムの腕を、ブライが掴んで止めた。
「待て……どこへ行く気だ? 」
「どこって……出るんだよ! 分からないのか? 襲われてるんだ、私たちは! 」
ベキムは上ずった声で叫んだ。ブライは帽子の焦げを気にしながらゆっくりと立ち上がり、炎を避けて本棚に寄りかかった。
「まあ、落ち着け……見ろ、他の壁には燃え移っていない。ありゃあ魔術の炎だ。魔術の炎自体は燃え広がったりしない。もっとも、放っときゃ回りの温度が上がって、自然発火で普通の炎が広がってくだろうが、それだってまだいくらか先だ。考えるくらいの時間はある」
「考えるって、何をだ? 」
ベキムはややヒステリックな口調で聞き返す。その肩に手を置き、ブライはなだめるような口調で静かに説明した。
「いいか、これは魔術だ。誰かが炎の魔術で、この家ごと俺たちを焼き殺そうとしている……そんな奴が、壁にだけ火を放って、出口を塞いでないなんてことがあると思うか? 」
ブライが最後まで言い終わらないうちに、その言葉を裏書きするかのように壁のもう一面から炎が噴き出した。今やベキムの部屋の中は光の海と化していた。太陽というやつに近づいたら、こういう感じなのだろうか――ぼんやりとそんなことを考えていたベキムを、ブライが肘で小突いた。
ハッと息を呑むベキムに、ブライは手を差し出した。
「俺の、銃をよこせ」
その表情は、普段のにやけ面からは想像もできないほど冷たく、厳しいものだった。状況の切迫感とブライの迫力に圧倒され、ベキムは言われるがままにコートの中から拳銃を取り出し、手渡した。
ブライは数秒間ほど拳銃の重みを確かめ、忘れかけた感覚を取り戻そうとするかのように手の中で転がしていたが、やおら炎に向かって銃口を向け、腰を落として構えた。
「おい、何をする気なんだよ……」
弱々しい声で聞くベキムに、ブライは顔を動かすことなく答えた。
「今から、炎に「穴」を開ける……お前さん、大地の魔術が使えるんだったよな? 俺が「穴」を開けたら、そこへ向かって何かを撃ち出して、穴が塞がらないようにしてくれ。砂でも埃でもなんだっていい。分かったな? 」
炎に、「穴」……? ベキムは困惑したが、ブライの強い口調に押されて思わず頷いてしまった。ブライは口の端だけでニヤリと笑うと、眩しさに目を細めながら銃を構え直し、引鉄を引いた。
炎の燃える音をかき消して轟音が響き、鉛玉がひと筋の糸にも似た軌道を空中に一瞬だけ描いた。炎の壁は弾丸を飲みこみ、そして、それきりだった。何の変化もない――いや、一泊遅れて、変化は現れた。炎の一部が揺らめき、ちょうど霧の晴れ間が出来るかのごとく、ぽっかりと穴が開いたのだ。穴の向こうには、通りの風景があった。本来の壁は既に焼け崩れ、素通しになっていたのだ。
「早く、大地の魔術だ! 長くは持たねえぞ! あそこから飛び出せ! 」
ブライの叫び声を聞き、ベキムは床に左手を叩きつけた。床の上に薄く積もった埃が巻き上がり、魔力をまとったまま波のように壁の方へ走る。「穴」の縁に触れて、砂埃から火花が散る。埃にまとわりついた大地の魔力と、炎の魔力が拮抗し、弾き返しているのだ。
「やった……だが、こっちも長くは持たん」
ベキムは言いながら既に身を起こし、壁に向かって走り出していた。
「長居は無用、ってか。全面的に同意だね」
ブライも後から続く。2人は続けざまに「穴」を通り、外へ転がり出た。ほぼ同時に、炎の壁は再構築され、「穴」は塞がった。後には、未だオレンジ色の輝きを放ちながら燃え続けるベキムの家だけが見えた。
「……しまったな。本を持ち出すのを忘れた」
地面に転がったまま、ベキムはぽつりと呟いた。フードを降ろそうとして、フード部分が既に焼け落ちてしまっていることに気付き、舌打ちする。その姿を、やはり仰向けに寝転がったままブライは愉快そうに見守っていた。
「命からがら逃げだした後の、第一声がそれかよ。本の虫も大概にしろよな」
「あの中には、借りた本もあるんだ……何と言って謝りゃいい? どこかのバカが家に火をかけましたので、なんて言って、信じてもらえると思うか? 」
「そう焦らなくても、本は無事だろうさ。魔術の炎は、あらかじめ定まった効果範囲から外へは勝手に燃え広がらねえ。あの場合だったら、壁は燃やし尽くしても、部屋の中まで火が入ることはねえだろ。さっきも言ったように内部にこもった熱が発火点を越えれば自然発火もするだろうが、そうなる前にギルドの消防隊がなんとかするだろう」
「あれ、どうやったんだ? つまり、さっきの、炎に穴をあけたやつさ」
ベキムが問うと、ブライは得意げに口を曲げて笑った。
「今回使われたのは、時限式の魔導具だ。炎の魔力を込めて壁に貼り付けておくんだ。時間が来ると溜まった魔力を噴き出し、一定範囲を炎に包む。壁が炎に包まれてから、一向に炎が奥へ入ってこないのを見て気づいたんだ。ああいう罠の効果範囲は、そう広くないからな。
で、あとは簡単だ。燃え方から判断して、炎を噴き出している「本体」の場所にあたりをつけ、そこに銃弾を撃ち込んだ。その程度で壊れはしないが、それでも一時的に機能を麻痺させることは出来る。その結果、ああして壁の1か所に炎の途切れる場所が出来た……ってわけさ」
ブライは言いながら立ち上がり、スーツに付いた埃を叩き落として、帽子をかぶり直した。あの騒ぎの中でも、帽子だけは後生大事に手放さなかったのだ。大した奴だと、ベキムは妙なところで感心した。
「さて、こっからが問題だ……お前さんも、しばらくは家でくつろげなくなっちまったな。あの燃え方じゃ……それに、お前さんの家が狙われたってことは、俺があそこに隠れてるってことがバレたってことで、つまりはお前さんが俺を匿ってたことがバレたってことでもある。お前さんは共犯者――あるいは、一緒に始末しても構わない人間として認識されてるらしいな」
「薄々、こういうことになるんじゃないかとは思ってたさ」
ぐったりと寝ころんだまま、ベキムは答えた。驚きと恐怖が臨界点を超えて、もはや何も感じなくなってしまったとでもいうような顔だった。
「どうしたもんだろうな……お前さん、どっか隠れる場所に心当たりは? 」
「あるわけないだろう。あんたみたいに、後ろ暗い人間とは違うんだ」
皮肉な口調でベキムは答えた。
「そりゃ、アカデミーの知り合いだったら、頼めば泊めてくれるだろうが……そうしたらその人たちまで巻き込むことになる。世話になった人の家を焼いて回る疫病神なんてのは、あんまりなりたいもんじゃないな」
「ま、そりゃそうだ」
ブライは答え、しばらく考えているようだった。と、何か思いついた様子で膝をポンと叩く。
「そうだ、逆転の発想だ……お前さん、俺と一緒に深層へ来ないか? 」
「深層へ? 」
ベキムはおうむ返しに声を上げ、地面から体を起こした。
「そうだ。正確に言えば、俺の事務所へだがな……どうせ俺の仕事が終わるまで、お前さんも安心して眠れやしないんだ。俺とお前さんは運命共同体ってわけだ。俺の家だったら、誰かに迷惑をかけるなんて心配もなしに隠れられるだろう。
それに、お返しって意味もあるしな。今まで俺がお前さんの家に匿われてたんだ。今度は俺からお返しさせてくれよ」
ブライはしたり顔で説明した。ベキムは驚きから立ち直ると、ブライの提案に何かアラがないかと考えを巡らせた。が、特に難癖をつけられるような点は見当たらなかった。どうせベキム自身も狙われる身となったのなら、ブライと一緒の方が却って安全かもしれない。1人より2人だ。
「……いずれこういうことになるんじゃないかとは思っていたんだ。何度も言うようだが」
ベキムは力なく言い、立ち上がった。
「分かった。頼む。あんたの事務所まで連れてってくれ」
「そうこなくっちゃな、相棒」
ブライは笑いながらベキムの肩を拳で突いた。ベキムは、何かおぞましい物でも見るような目でブライの顔を見た。
「……私がいつ、あんたの相棒になった? 」
「何だ、弟子から大昇格を果たしたってのに、浮かない顔じゃねえか、相棒」
笑うブライを無視し、ベキムはまたフードをかぶろうとして、フードが焼けてしまったことに再び気づき、再び舌打ちをしたのだった。
* * *
「……流石に、こんなことになるとは思ってもみなかったな」
ベキムは身をかがめながら、小声で呟いた。傍らにうずくまるブライが、一本指を立ててシッと注意する。
「静かにしろ。出来るだけ、身動きもするな。そろそろ見回りが来る時間だ……大丈夫、動き出すまでの辛抱だ。長距離列車じゃ、わざわざ車内で切符なんて改めやしないからな」
2人は、第6行き竜列車直通便の貨物車両に隠れていた。本来だったら、ブライの「依頼人」が竜列車の切符を手配してくれているはずだった。だが、ベキムの家が襲撃されたことで予定が早まった。直通便は本数が少ないために完全予約制で、予定の変更が難しい。かと言って普通便を乗り継いでいったのでは時間がかかりすぎるし、敵に見つかる危険性も大きくなる。そこでブライは、発車前の車両に忍び込むという古典的な手をとることに決めたのだ。
2人が隠れた貨物車両は食糧用のものらしかった。場所は列車の末尾で、扉を薄く開けるとホームの様子がかろうじて見える。見回りが来たらすぐに隠れられるよう、2人は扉から必死で外を覗いていたのだった。
まったく、何だってこんな目に――ベキムは何十回目か分からないため息をついた。好奇心で妙な事件に手を出してしまったのは、自分の自業自得だ。家を焼かれたことだって、まあ予想はしていなかったにしろ覚悟はしていた。しかし、塩漬け肉やら干し魚やらのむっとする臭いが漂う密室で、硬い床に這いつくばってビクビクしながら扉の隙間を覗くだなんて……今からでも帰っちまおうか、そう考え出した時だった。
ベキムは、ぶるっとひとつ大きく震えた。
「どうした? 」
ブライが気づき、声をかける。ベキムはゆっくりと向き直り、何やら迷っている様子だったが、やがて口を開くと、小声で言った。
「あいつだ」
「はぁ? 」
「一瞬しか見えなかったが、多分間違いない。あいつだ。しかも、乗ったのが見えた。あいつも、第6に降りるつもりなんだ」
ぼそぼそと、早口に言うベキムに、苛立った口調でブライは聞き返した。
「だから、何のことだよ? 『あいつ』って誰だ? 」
ベキムは大きな目を更に大きく見開いて答えた。
「前に話しただろう……私を尾けてきた、義手の男だ。あいつが、この竜列車に乗っている」




