第1話(前)
窓を開けて風を嗅ぎながら珈琲石に湯を注ぐと、湯気の粒が光を受けて輝いた。
昨日の雨のおかげで、太陽苔が活性化しているようだ。そういう匂いもした。
こういうとき、いい所に事務所を持ったとしみじみ思う。私の家は大竪穴のふち、ちょいと押したら落っこちそうなくらいのぎりぎりに建ててある。窓から顔を出せば、遥か地底まで続く底なしの大竪穴が見下ろせるというわけだ。
開いた窓から、大竪穴を吹き上げる風がゆったりと流れ込んでくる。
苔の匂いと、砂粒のようにかすかに混じる人ごみの匂い。遥か下方にある空中市場の賑わいのかけらだ。
クリーム色の陽ざしに向かってポットを突き出すと、中の珈琲石が琥珀色の煙を湯の中に漂わせながらゆらゆらと踊った。だいぶ小さくなってきている。
珈琲石は空気に触れると表面が風化する性質を持ち、風化した部分を湯に溶くと鉱石珈琲になる。比較的浅い階層でも採れるありふれた鉱物だが、含まれる不純物の種類と割合によって味が変わる。好みのものが手に入るかどうかは運しだいだ。これはかなり気に入っていたが、あと3月ほども保たないだろう。
なるべく長持ちさせようと、まだ薄い湯から珈琲石を取り出そうとした――その瞬間、玄関の呼び鈴が鳴った。
私は目を細め、つば広のフェルト帽をかぶり直した。
あのチャイムが以前に鳴ったのはいつだったか――昨日今日という話でないのは間違いない。積もった埃で金属音がわずかに歪んでいる。
そのまま2度ほど、外の誰かが鳴らすチャイムを聞いた後、私は立ち上がった。
真鍮ドアの磁力錠に左手をかざす。大地の魔力で帯びていた強磁力が消え、閂が生き物のようにするりと抜ける。
私がノブを掴む前に、ドアは荒々しく開かれた。埃の詰まった蝶番がひどい音を立てる。扉の向こうには、背の高い半白の髪の男が私を見下ろしていた。
「……あんたが、ベク=ベキム? 」
「……まあ、入って、座ってください。ちょうど鉱石珈琲が入ったとこだ」
「ベク=ベキムというのは、あんたか、と聞いとるんだ」
男は眉ひとつ動かさず、ドアノブを掴んだまま繰り返した。ノブを握った手は花崗岩のようにごつごつして丸く、ところどころに刀疵が刻まれている。
私はため息をついて、ドアから一歩下がった。
「いかにも。私がベク=ベキム。コールドブラッド探偵社のベク=ベキムです」
半白髪の男は私が後ずさったのに誘われるようにして大股に部屋に入ってきた。
窓から差す太陽苔の明かりの下で見てみると、背が高いだけでなく横幅も広い。ベテランの冒険者、それも剣士といったところか。
一線を退いてかなり経つのだろうが、まだ眼光の鋭さは衰えていない――少なくとも、当人は衰えていないつもりだろう。
男は黒光りする鱗革のロングコートを脱ごうともせず、客用ソファにどっかり腰を下ろしてから、思い出したように言った。
「そうだ、帽子を取ってくれ」
「帽子を?」
反射的に私はフェルト帽の庇に触れていた。そのしぐさが気に障ったのか、男の濃い眉がぎりりと上がった。
「噂通りかどうか確かめたい。自称だけで、あんたがベク=ベキムだと信じ込むわけにもいかんしな」
「……。」
まったく、仰せの通りだ。
こういう時私の顔は便利である。身分を偽るすべがない、ということは、逆に信用につながる。しかし……ためらいながらも、私は帽子をゆっくりと取った。
口元が、頬が、眼が、太陽苔の黄ばんだ光に晒される。顔じゅうを覆い尽くすエメラルド色の小さな鱗、針のような歯がびっしり生えそろった口、黄金色に輝く大きな眼には、歪んだアーモンド形の瞳が浮かんでいる。
普段は帽子の下に隠している、蜥蜴人種の異貌だ。
相手の息をのむ音が聞こえた。私はわざと歯をむき出し、笑い顔を作りながら息を吐いた。
尖った歯の隙間を冷たい呼気が通り抜け、細い笛のような音を立てた。
「……なるほど、本物のようだ」
半白髪の男は両手をもみ合わせながら、小声で言った。
「初めてですか? 蜥蜴人種を見るのは」
私はゆっくりと喋った。先の割れた、青い舌を歯の間から閃かせながら。この舌の形で、純粋な人間と同じくらい流暢にまともな言葉を喋るのには、相当の訓練が要った。
「初めてではない。深層で、何度か見かけたことがある。その……野生というか、土着の連中をな。君のようなのを見たのは初めてだ。まともな口を利く、というか、いや、その……」
「人種的配慮は結構」
白手袋に包まれた手をかざし、私は相手の言葉を遮った。
「私がなに者であれ関係ない――少なくとも、私には関係ない。私は仕事をする。あなたは仕事をさせたい。でしょう?」
「いや、まあ……」
「鉱石珈琲をお飲みなさい。もっとも、だいぶ濃く出すぎてしまったかもしれないが」
私はデスクに置きっぱなしのポットとカップを取り、その代わりにフェルト帽を置いた。かなり小さくなってしまった珈琲石を取り出し、余分のカップを戸棚から出しながら、私は話をつづけた。
「だいたい、まだ依頼を受けるともなんとも言っちゃいないんだ。なにしろ、名前さえ教えてもらってないんですからね」
「ヒューゴーという。ヒューゴー・アルカヒム」
悪びれる様子もなく、半白髪の男ヒューゴーは答え、コーヒーカップを受け取った。
「『バザール』の運営委員会に雇われている者だ。今日は、委員会の代理で来た」
ヒューゴーはいかつい眉を片方上げてみせた。私は黙って、コーヒーを飲んだ。
『バザール』は、大竪穴の中でも最も大規模な商業スペースである「空中市場」の運営を担う、商業ギルド複合体である。
当然私兵も抱えているし、大手の冒険者ギルドやパーティを動かすこととて出来るだろう。それが、こんな場末の探偵のところに、剣士くずれを送り込んでくる。
「どうにも、いやな匂いだ」
「なに?」
「いや、コーヒーのこと。失礼。やっぱり出すぎている……なんだったらそれ、飲まなくて結構ですよ」
ヒューゴーはフンと鼻を一つ鳴らした。コーヒーには目もくれない。
まあ結構。さっきの言葉はかなり本心だ。入れすぎた鉱石珈琲は金気臭くて飲めたものではない。
「とにかく、まずは心得ておいてもらいたい……この依頼は、『バザール』から直接出されたものではない。が、実質、私の言葉は『バザール』の意志だと思ってもらって構わない。わかるね? 」
今度は、私が鼻を鳴らす番だ――どうにもきな臭い。だが、それが何を意味するのかは分からない。
「……話を進めていいのかね?」
私は肩をすくめた。
「話を続けたいのは、あなただと思ってましたがね。私は別に、このままあなたと睨みあいながらまずいコーヒーをすすってたっていいんです。ヒマですしね」
またも、眉が動く。
「率直に言って、不愉快な男だね、君は」
「心が汚いんですよ、顔がいい代わりにね」
親指で顔を指して見せたが、ヒューゴーは笑わなかった。まったく、この冗談を聞いても、誰も笑わないのはどうしたわけだろう。
「まあ、いい。とにかく話だけは聞かせる。それが仕事なんでな」
ヒューゴーは手の傷痕に指を這わせながら、居ずまいを正し、ゆっくりと語りだした。