葬られた名
葬られた名
姉は全てを偽り、弟は全てを受け入れた。
姉は群れ、弟は孤独に戦うことを決めた。
これで、私も傍観して入られないのだろう。
不死たる仲間たちと、私もこの手に剣を取らねばなるまい。
彼らを過去の呪縛から解放しよう。
天高くにたなびく雲が早送りのように頭上を過ぎていく。
一層下のコッペパンのような雲は、置いてけぼりをくらって孤独に佇んでいた。
流れる雲、残される雲。
世の中の流れに取り残された寂寥に似た感覚を憶える。
「シェス?」
後ろに神官兵団を引き連れて英雄墓地に現れた僕の姉。
やっぱり来たか。
ローブの裾を激しくはためかす風が冷たい。
片時雨が次々と場所を変えて、赤い花を叩いた。
穢れのない純白のローブに金銀の糸で大きな十字架が描かれた、カズラと呼ばれる豪奢な前垂れを掛け、絹糸で編まれたストールを首に巻き、頭にはミトルという大司教のみが被ることを許される帽子を載せていた。
その手には撲るに適さない司教杖。
はるか昔に父親が身につけているのを見たきりだ。
「似合わないね。」
思わず眉を顰めてしまう。
他意も悪意もなかったのだが、シェス姉の横に立っていた近衛兵に問答無用に打ち据えられた。
反論するのを遮るように傘持ちをしていた神官兵が怒鳴った。
「大司教の御前で無礼だぞ!」
怒鳴る神官兵を手で制すると、シェス姉は静かな口調で訊ねてきた。
「スコールはどこ?」
「彼女に何の用?」
踏み躙られる彼岸花に憐憫を覚える。
違う場所にいればよかったと、少しだけ後悔した。
でも、ここじゃないとダメだったんだ。
ゴメン。暗黒神殿の方々。
ここには僕の背中を無言で押してくれる骨がいるから。
シェス姉を目の前に冷静を保つためには、ここでなければ僕は耐えられる気がしない。
「私の質問だけに答えなさい。スコール・ライネージはどこ?」
「大司教の言葉は御神の言葉ぞ!
早く答えろ!」
近衛の片割れが怒鳴って、僕を跪かせた。
五月蝿い!
所詮、代理だろうが。
口に出せずに奴らを睨みつけた。
僕を見下ろすシェスの冷たい視線。
「デルヴィ・ヴィクセン。
あなたがかばっている女は、前大司教とその妻を殺害した罪人です。
おとなしく引き渡しなさい。」
鈍く痛む首や肩を摩りながら立ち上がり、シェスの視線を真っ直ぐに受け止めた。
「シェスってこんな顔だっけ…?」
当たり前に隣にあったものへの違和感。
瞳の色も髪型も、背の高さも体つきも、話し方はさておき発せられる声も、全部他人に見えた。
「シェスの瞳って、そんな濁った色してた?」
「黙りなさい!」
僅かに動揺の色が見えた。
周囲の神官にバレないように歯噛みしていた。
大司教だろうが、今更命令なんか聞く気はない。
殺すなら殺せよ。
どうせ、僕は全部失ったんだ。
なので、最も気になっていたことを訊ねてみた。
「シェスは天使にのみこまれても、死ななかったんでしょ?
僕だけを殺そうとしたの?」
気色ばんだ。
「真名、違うこと知ったよ。
あの神官はシェスが雇ったの?
実は〈天使の召喚〉で僕だけ殺して、自分だけ何故助かったのだろうなんて、泣く予定だったの?」
悪魔のように歪んだ。
あのスクランブル交差点。
僕の信じていた日常が崩れるきっかけになった場所。
入り乱れたヒトビトの声。
突然自分たちの真名が聞こえたから、僕は動揺した。
しかし、シェスの動揺はそこではなかった。
本当はあの神官が僕らを襲う計画ではなかったのだ。
「僕らを襲った神官って、シェスが雇ったはずの神官の部下かなんか?」
シェス姉が依頼したはずの神官は、僕らの到着前にメールに殺されていた。
偶然なのかは判らない。
メールも曖昧にごまかしていた。
いずれにせよ、シェス姉殺害を依頼した神官はこれず、違う神官が来た。
依頼した神官が死んでも未遂で終わらなかったのは、シェスの懇意にする派閥があるということなのだろう。僕や父も知らないところで、だ。
もちろん想像の域を脱しない。
「僕はもちろん、シェスも知らない神官だったってことは、その手の裏仕事専門の神官なの?」
イレギュラーがあったとはいえ計画は続行された。しかし、その派閥グループからの第二の刺客は、僕らのことをよく知らない神官だった。
シェスも見覚えのないヒトだった。それは本当のことなのだろう。
そして、そここそが誤算だったということか。
あの人ごみだ。僕らを見つけることは困難だったのだろう。
光明神の神官着を着た二十代の男女。目印は僕の背負ったトネリコの木の十字架。
だから、司祭は「そうだろ」と始めに確認した。
雑踏の騒々しさにかき消された言葉の前半には、僕ら二人がヴィクセン家の悪魔であることを確認する内容があったに違いない。
無事僕らを発見し、誘導したまでは曲がりなりにも成功したといえるだろう。
しかし、二つ目のイレギュラーで計画は完全に頓挫した。
思わぬ乱入者によって司祭が召喚した、おそらく裏で動いた上位クラスの神官に準備されたと思われるのだが、上級天使はあっさり喰われた。
司祭の怯えた目は、乱入してきたミサとメールに向けられたのではなく、僕に計画がばれるのを恐れたシェスに向けられていたのだ。
失敗には死を。
「僕を殺せなかった神官をシェスは殺したんだね。
せっかくメールが記憶を封じて解放したのに。」
無礼なとばかりに鼻白む神官兵団を尻目に、彼女に詰め寄った。
「スコールに呼び出されたってことからウソだったんでしょ。
スコールがこの街に滞在していると知って、僕を亡き者にしようとしたんだ。」
語調が荒くなるのを抑えきれない。
「大司教になるために。
いや、ヘスを大司教にする為に。」
ムカついてるのだろうか、悔しいのだろうか、それとも悲しいのだろうか。
「自分の血を分けた子供なら誰でもよかったんだろうね。
たとえ僕との間に生まれた子でなかったとしても。」
周囲がざわめいた。
シェスもうかつだね、と少しだけ嘲笑を浮かべてしまう。
罪人の戯言と一笑に付したところで、別に批難されることはないだろうに。
不自然に黙り込んだから、周囲が動揺している。
「大司教を殺したのはスコールじゃないと言いたいの?」
お互い会話する気はないみたいだ。
僕は諦めて溜息交じりに答えた。
「動機がない。
確かにアリバイもないけど。」
「怨恨で誰かを殺すこと以外に動機なんて考えられないわ。」
シェスは呆れたように言った。
ほら見たことか、とでも言いたげに周囲が僕に攻撃的な目を向けた。
たぶんアリバイがないことに対するものだ。
動機はあると信じ込んでいるのがわかった。
みんな知ってるのだ。
スコールが、つまるところライネージ家の最後の人間がヴィクセン家を怨んでいることを。
「シェス…いや、大司教…それは違います。
スコールはヴィクセン家に怨恨はありません。」
また、無礼者とばかりに槍で叩かれたので、僕は敬語で答えた。
シェスに敬語?
昨日までは想像もしていなかった。
そんな皮肉に気づいているのか、シェス大司教は偉そうに鼻で笑い飛ばした。
「馬鹿げたことを!」
「正確に言えば、スコールがここに来た三日前から本人ではないのです。」
何を騙っているんだ、と周囲の目が痛い。
しかし、事実だ。
冷静に事実だけを説明した。
「スコールの身体の中には、リヤという別人がいます。
ミサも認めました。
ミサ・モストーン。短剣戦争の英雄で神殺しのミサです。
なので、僕が彼女に逢ったときにはスコールの記憶はなかったんです。
確かにフラッシュバックしたのは見ましたが、それも一瞬のこと。
奥深くに封じたので、次の日の朝にはなくなっていたのです。
だとしたら、怨恨なんてありえないことだと思います。」
訥々と語る僕を憎らしげに睨む姉。
あんな瞳、今まで見たことがあっただろうか。
僕はその瞳に耐え切れず、
「スコールは渡しません。彼女は無実ですから。」
と颯爽と踵を返して姉に背を向けた。
邪眼にも似た視線を心の中で必死に振り払った。
「待ちなさい。」
静かな声だった。
僕は歩みを止めた。
「では、デルヴィ、貴方に罰を与えましょう。
彼女の罪を貴方自身で償いなさい。」
毅然としていた。
僕の記憶にあるシェスからは想像もつかない。
「フフ…また、あの頃に戻るのね。」
最後に小さく付け加えた言葉が、むしろ本音のシェスに思えた。
心の底から発した愉悦の言葉。
僕にとって、死よりもの苦痛と、死ぬ気すら失った虚無しか存在しないあの頃。
孤独に苛まれ、頼りどころのない弟を自分だけのものにしてきた。
姉にとっては、至福のときだったのか。
「捕らえよ。」
姉は大司教として冷酷に告げた。
僕は下唇を噛み締めて空を見上げた。
蒼穹が僕を見下ろしていた。
神官兵に取り囲まれた。
何人かの掌が僕の腕を掴んだ。
ゆっくりと視線をおろす。
筋雲が空を流れていく。
墓石が静止画のように静かに並んでいた。
脇で神官たちが何事か叫んでいた。
奇麗な絵を乱すな、五月蝿い。
そんなことだけ考えていた。景色が揺らいでいった。
抵抗することなく牢に入った僕を姉はどう思ったのだろうか。
薄暗い箱の中でぼんやりと思う。
僕の閉じ込められた冷たい鉄の箱には、天井近くにある明かり取りの小窓と、目線の高さに覗き窓がある扉があった。
それと部屋の隅に丸い木の蓋。
臭気が漂っているから、排泄用の穴でもあるのだろう。
そして、毛布が一枚。
あまりに殺風景だった。
体力と気力、どっちが先に尽きるのだろう。
どうでもいいことに笑みが浮かんでしまう。
シェス大司教は、スコールの居場所を話せという。
しかし、工業区で彼女と別れた後の所在は知らない。
そう何度も答えたが、信じてはもらえなかった。
僕がシェスのことを信じられなくなったのと同じなのかもしれない。
「もう戻れないのかな…」
虚空に独り呟いた。
戻りたい場所、戻りたい時。
戻りたい何かすら失ったみたいだ。
「ミサの父親もそんなこと呟いてたなぁ。懐かしいわ。」
「…また来たんですか?」
ゆっくりと頭を上げた先には、黒マントの女性が胡坐をかいていた。
ニタリと口角が上がり、鋭い犬歯が覗いた。
「ずいぶんツレないわね。」
何がおかしいのか、けらけらと笑った。
僕は溜息をついた。
「小窓から蝙蝠の姿が見えてたんで。
で、ミサのお父さんと同じこと言ってたってどういうことですか?」
「あのヒトも囚われビトだったから。
その淋しさからミサが生まれたようなもんだし。」
なるほど、その頃からの付き合いなのか。
「メールが母親なの?」
なので、つい訊いてしまった。
ぽかんと口を半開きにするのを見て、我ながら馬鹿なことを訊いたものだと恥ずかしくなった。
「そーね…あたし、淋しいヒトが好きなのかな。
だから、ミサにもキミにも構っちゃうんだ。
ある意味母性本能?
あ、でも、ミサの母親ではないよ。」
ホンキのような、ウソのような。
感情が読み取れず、そっか、とだけ答えた。
「で、今日はどんな情報をくれるんですか?」
僕の前に座ったままだから、ふらりと立ち寄ったとか、励ましたくてとかではないのだろう。
僕はメールの言葉を待った。
「スコールがミサに逢いにきたわ。」
「リヤが、じゃなくて?」
訝しげに眉をひそめた。
そしたら、スコールが、と強調された。
「リヤは、彼女の中からいなくなったのよ。」
「じゃあ、ミサさんの方がヘコんでるんじゃないですか。
僕よりカレのほうについていたほうがいいんじゃない?」
言外の意味を察したらしく、感嘆の目を向けてきた。
まぁ、早い話がミサはフラレたってことだ。
しかも死人に。
意外なような気もするし、そうなるような気もしていた。
リヤは自分の望む場所に逝ったのだ。
「外目には変わらないわよ。淡々としたもの。
泣き崩れるわけでもなく、怒りを周囲にぶちまけるでもなく。」
とメールは苦笑いを浮かべて肩をすくめて見せた。
隣にあなたがいるからでしょ。
とは言わないでおいた。
そんなことを口にしたら、ミサに狙い打たれそうだから。
表しきれない感情を受け入れてくれるヒトがいて、でも、それを言葉にしないのは、男の安っぽいプライドだったりして。
メールが傍にいることで、ミサは現在の痛みと永すぎる過去と永くつづくだろう未来を乗り越えているんだ。
メールが僕に何かを突き出してきた。
「骨?」
「リヤの。
お墓に戻す?」
埋めるのが筋だろう。
でも、何故頭蓋骨だけ?
無言の間を悟ってくれた。
「リヤの遺言なのよ。
ばらばらに捨ててって言われたの。」
「ミサさんに復活させないため?」
「だろうね。」
「自意識過剰。」
吐き捨ててみた。
しかし、メールにはバレバレのウソだ。
ミサはいつかリヤを復活させようとするだろう。
解る。
なぜならば僕だって…
「スコールに逢いたい?」
それを察したメールが目を細めた。
僕はしばらく逡巡したのち肯いた。
そう、と彼女は言った。
それから窓を見上げ、少し待っててね、と僕を優しく諭した。
別に焦る気はなかった。が、口にすることなく、彼女の優しさを素直に受け取る。
ささくれ立った僕の心が、久方ぶりに平穏を取り戻した。
それから、一時間弱、鉄牢の西の壁に光が差した。
満月だ。
さらに待つ。
真っ白な、でも薄く儚い光が格子窓から部屋いっぱいに降り注いできた。
「準備はできたわ。後は二人でごゆっくり。」
ふわっと黒いマントを翻す。
白い光が一瞬闇に包まれる。
再び月光が僕を照らしたときには、眼前に違う女性が立っていた。
もう立ち上がれない、なんて思っていた。
なのに、はじかれるように、僕は立ち上がった。
「スコール?」
疑いつつも、嬉しい気持ちが頬に表れてしまう。
女性も照れた様に笑った。
「リミットは部屋から月明かりが消えるまでよ。」
窓の外の蝙蝠が僕らの邪魔をする。
「ありがとう。」
ちょっと苦笑いでお礼を述べると、蝙蝠はさっさと夜空に飛んでいった。
いつからだったっけ。
揺さぶられるような激しい気持ちを持つようになったのは。
「一応確認していい?」
僕は話し出しに困り、彼女に訊ねた。
何? と小首を傾げる。
「リヤは?
ラクス…姉さんは?」
その問いにむくれた。
僕は慌てて、弁解した。
「い、いや、スコールなんだよね。
でも、ほら、なんだか雰囲気違ったから。
あ、じゃなく…」
弁解にもなっていない。
スコールは呆れたような、困ったような溜息をついた。
「メールも言ってたでしょ。
リヤはいなくなったわ。
あなたのお姉さんは…まだいるけど、黙っててくれるみたい。」
いるんだ。
「あ、でも、記憶やら感情やらは、全部あたし。
中で切り替えられるの。
前から一人ずつになれたのよ。
最初は色々混在してパニクったけど、心の中で会議開いて必要な記憶は共有して、共有したくない記憶は自分の引き出しに入れておく、みたいな。」
「ってことは…」
英雄墓地での出来事、工業区での出来事。
スコールではないとみなした会話。
メールに消してもらった記憶。
全部覚えているということだ。
だとすれば、訊きたいことがいっぱいある。
確認しなければならないことだらけだ。
この街に僕らを呼び出した理由も、そのときシェスに何て言ったのかも。
リヤを受け入れ、ラクス姉さんを受け入れた理由や、ミサとメールとの関係だって聞かせて欲しい。
辛い過去だって、ヴィクセン家への恨み言だってぶつけて構わない。
「そんなに困った顔しないでよ。せっかく逢えたのに。」
グロスを塗った光沢のある薄桃の唇をとんがらせて、僕を詰る。
「何から訊けばいいんだろ、ってところかしら。」
何でも知ってんだから、と自慢げに僕を覗き込む一重瞼でぱっちりした目。
瞳の中のヒース色の草原が、まるで風に吹かれたように揺らいでいた。
「相変わらず優柔不断ね。
時は待っててくれないんだから。」
しょうがないな、と小さな手が僕の手を取った。
いろんなものから傷つけられ、時には傷つけてきた掌。
乾燥肌ぎみだけど、でもとっても温かい掌。
僕は黙ってスコールの体を抱きしめた。
「あらら。」
少し困ったような、でも、どこか嬉しそうな。
「じゃあねぇ、わたしからひとつだけ言うね。」
耳元に囁いてきた。
「あなたの父親を殺したのはわたしじゃない。」
一瞬戸惑った。
もっと艶っぽい台詞を期待してた、のが本音だ。
でも、スコールの言葉はもっと大事だった。
「うん。信じてる。」
僕は大きく肯いた。
僕らは窓の真下に座った。
特に何を話すのでもなく、床を照らす白い光を二人で眺めていた。
スコールを問い詰めるのは断念した。
そんなことをしたら、ここにいるスコールを、この場をセッティングしてくれたメールを、僕自身を裏切る気がした。
「時がゆっくり過ぎていく。」
僕の言葉にスコールは柔らかく微笑んだ。
月白がゆっくりと床を横切っていく。
二人だけの時間が、二人の中に積み重ねられていく。
時の経過を嘆くでもなく、焦るでもなく。
ただ穏やかに、お互いの存在を、それぞれの心の奥深くへと溶かしていった。
差し込む月光が右手の壁に達した。
スコールが深く息を吐き出し、立ち上がった。
つられて立った僕をぎゅっと抱きしめて、頬を寄せた。
「あたし…」
「僕は貴女のことを愛してます。
愛する資格があるとは思えないんだけど、それでも、貴女が好きです。」
シェス姉の裏切りへの報復のような気もする。
年に数回しか逢わないくせに、とも思う。
血脈から逃れたいだけな気もする。
愛人をキープするお偉いさんと変わらないんじゃないか、とも思う。
「あたしはズルいんだ。
でもね、あたしもデルのこと大好きだよ。」
僕をじっと見つめる彼女の瞳の中の僕は、うまく笑顔を作れていなかった。
それとも、彼女の瞳が揺らめいていたのだろうか。
「お姉さんに替わる?」
「えっ?」
「じゃ、替わるね。」
体を離したスコールは、さっき違う雰囲気を醸し出していた。
「ホントに替わったの?」
自分の体を確認している女性に、僕は戸惑いながら訊いた。
「みたいですよ。」
なんだろう、この既視感。
僕を見つめる瞳は、紫ではなく漆黒。
やや血色の悪くなった唇から、生真面目そうな声がした。
「はじめまして。デルヴィ・ヴィクセン。
わたしはラクス・ヴィクセン。
貴方の実の姉です。」
「はじめまして。
あなたの実の弟のデルヴィ・ヴィクセンです。」
どう答えていいか判らず、鸚鵡に返した。
ふと疑問がわいた。
「初めてなんですか?
僕たちが逢うのは。」
「私が死んだのは二歳になるかならないかの頃なの。
貴方が産まれてすぐのことよ。貴方も私も記憶に残る年齢ではないわ。」
とくすくす笑った。
そうですね、としか答えられない。
そして、どう接していいか解らない。
「吸血鬼さんが言ってた通りだわ。
反応が希薄で、思考回路ばかりが働いて、身体機能が停止する。」
余計なこと伝えやがって。
ラクス姉さんが、むつける僕に訊ねてきた。
「スコールさんがわたしに替わった理由は解るかしら?」
「えっと、情報をくれるため?
あ、いや違くて…」
焦る。
よく考えずにしゃべるとコレだ。
「女心ぜんぜんね。わが弟ながら、呆れますわ。
バカ。」
さも呆れたように言われた。
「情報なら手記にして、時空神図書館におきました。」
「あ、はい。ありがとうございます。」
いまいち距離感が掴めない。
それでも、手記に書かれていないであろうことは確認しておきたかった。
「あの…つかぬ事をお伺いしますが、僕のことを見てました?」
「見てましたよ。
もちろん別のあるヒトの手を借りて、本当のわたしが立ってても違和感がない場所で、ですが。」
そっか。ちょっと嬉しくなる。
勢いでもう一つ訊いてみようか。
「貴女は…」
きっと手記には書いていないだろうから。
もしかしたら他殺めいた表現すらしていないかもしれないから。
ラクス姉さんは月夜に映える女性だった。
夜の狂気も痛みも罪も享楽や悲しみも、静かに見守ってくれるそんな月みたいな女のヒト。
「なに?」
僅かに口角の上がった悲哀の横顔にやっぱり問い質せなかった。
あなたは誰に殺されたのですか?
僕はうやむやに笑んだ。
「そろそろ時間のようです。」
「え? あ、そうですね。」
ラクス姉さんの足首が闇に融けていた。
徐々に闇が侵食していく。
「最後にきちんと話せてうれしかったわ。
何も詮索しなかったのは、デルヴィの優しさだったのかしら?」
僕は大きく否定した。
優しいなんて…と言いかけて、戸惑うような、がっかりしているような彼女から目線をそらしてしまった。
「僕もラクス姉さんと話せて、嬉しかったです。
優しいなんて言ってくれて、ホント嬉しかったです。」
僕らは笑顔で握手を交わし、軽く抱き合い、再び見つめ合った。
「デルヴィ、生きてくださいね。
わたしたち三人の分まで。」
闇を照らす光はすでに壁の真ん中辺り。
彼女が消えるまであと僅か。
もう一度スコールの声を聞きたかった。
「さよなら。お元気で。」
「さようなら。ありがとう。」
三人の声が重なったように聞こえた。
二人じゃなかったのか?
虹色に包まれた。
しかし、それは刹那のことで、濃厚な闇がまとわりついた。
壁を昇る光を見ていた。
月白の方舟が、三人の天女を乗せて昇っていった。