晒された名
晒された名
私は弟の身体も心を守れなかった。
姉は弟の身体を守ったが、心を守れなかった。
ヒトは皆、どこか歪んだ心を矯正していくものなのかもしれない。
ヒトと出逢うことによって。
弟の愛するヒトならば、私はその娘を全力で守ろうではないか。
少し引っかかる部分はあるにせよ、そこまでは墓場を表示した地図では一般的だ。
引っかかるのは場所と時間。
黒色がある。
例えば街の地図を見たとしたならば、ほぼ黒一色だ。それらが縦横無尽に行き違う地図が表示されるだろう。
街は生者の活動する場所。当然だ。
でも、ここは墓地。
しかも、周囲を魔法の障壁で囲まれた場所で、かつ夜中である。本来ありえない。
すなわち現世に生きているヒトが僕混ぜて四人分表示されていた。
しかも三つの点はかなりの高速移動をしているようだ。
僕は黒マークの位置を確認しながら忍び足で移動した。
もしかしたら盗掘団かもしれない。
しだいに距離がつまり、その姿を視認できるとこまで来た。
女が二人と男が、いやそっちも女か? そんなヒトが一人。
先を走る女性の銀灰の胸あてが、僕の〈鬼火〉を照り返した。彼女は片手持ちの剣を闇雲に振り回していた。その背後からはローブを着たのと、黒いマントを羽織ったの。
追われているらしい。
「へ?」
それは見知った顔だった。
スコールがミサとメールに追われていた。
「な、なんで?」
いや、そういえばメールがあの時言ってた。
スコールを守るのかって。
すれ違いざま、慌ててスコールの腕を取り、自分の背後へと導いた。
「ずいぶんとおかしな時間に逢っちゃったね。」
なんて、柄にもなく軽口を叩いてみるもシカトされた。
本来なら明日の午前十時にライネージ家の墓の前で逢う予定だったのだ。
あ、聞こえてないのか。
捕らえたのが僕だ、ということすら気づいていない。
必死に手足をバタつかせて抵抗していた。
「スコール、僕だよ。デルヴィ。
ちょっと落ち着いて、目を開いて。」
ようやくスコールの抵抗が弱まった。
うっすらと開いた目から涙が零れ落ちた。
一瞬安堵の表情を浮かべた。しかし、すぐに怯えだす。
足音が近づいているから?
いや、僕に怯えているような気がする。
それを確かめる余裕はなかった。
僕の目の前に一組の男女が走りこんできた。男が。その背後に女が。
あの細い身体のどこにそんな瞬発力と持久力があるのだろうと思えるくらいの勢いで、
スコールを見つけ、立ち止まった。そして、彼女を守るように立つ僕を見つけた。
当然、驚くと思いきや、
「あら? お姉さまは?」
と開口一番、メールにからかわれた。
ミサが何か言おうとしたみたいだが僕の一言が遮る。
「別れた。」
他意はなく言ったつもりだったが、スコールが確実に勘違いをしている表情で僕を見た。
「彼女、すごく怯えてましたけど、何したんですか?」
僕は強い口調で二人に尋ねた。
「殺す為に追ってたの。」
無言のミサの隣でメールがさらりと答えた。
言葉の意味とは裏腹に、ナンパでもするかのような軽い口調で言われ、少し苛立つ。
それでも、感情を覚られぬよう冷静を装った。
「スコールは今回の、僕の相談人です。
お引取りください。」
「はい、そうですか。わかりました。
とは言えないわ。
ウチらの目的は、スコール・ライネージの抹殺。こないだそんな話したはずでしょ。」
とメールがめんどくさそうに言う。
彼女は積極的に動く気はない。性格もあるだろうが、おそらくミサの代弁をしているだけ、とのポーズに見える。
「いずれにせよその娘を渡して欲しい。
リヤの居場所を訊いて、始末する。」
そのミサは相変わらずの呟き声で、僕の肩を押しやろうとした。
「理由を。」
シェス並みのはったりをきかせられればカッコいいんだろうけど、残念ながら僕の声は震えていた。
「話す理由はない。」
決して威圧的ではない。
相手に対する憎しみとか、追い詰めた高揚とか、そんなものは皆無だった。
言うなら、渇ききった諦観、世の中の全てを悟りきった絶望のようなもの。
隙を見て逃げ出したいのだが、その隙を見出せない。
あまりに隙が多すぎて、タイミングが掴めないのだ。
一人はへらへらと笑ってるし、一人は他人事のようにぼんやりしてるし。
「スコール、何をしたの?」
と背後で震えているスコールに訊いてみた。
返答はない。
カサカサ。
沈黙の合間を風だけが通り過ぎた。
焦れたミサが早口に僕に告げる。僅かに苛立ちという感情が垣間見えた。
「それでも理由が必要なら話そう。」
ミサが剣先を下ろした。
僕はスコールの方を振り返って彼女を見つめた。
小さく首を横に振っていた。訊かれたくないという意思表示なのだろう。
少し躊躇したけど、
「聞かせて下さい。」
僕は極力冷静に聞こえるように答えた。
スコールの目が僕をなじっていた。
「予想できてるかもしれないけど、彼女がリヤの墓を発いた。」
集まったのがこの面子だ。
そういった意味では、信じたくはないが、確かに予想はできていた。
って死体に関してじゃないか。情報共有の取り決めはウソかい…
「ホントなの?」
僕は背後に確認する。
答えが返ってくるとは思っていなかったのだが、意外とはっきりした返答が戻ってきた。
「ホント…」
ふぅ、溜息が漏れる。
「何で?」
彼女は何も答えない。
答えられない。答えたくない。誰かをかばってる。
いろいろ脳裏を駆け巡る。
ただ、黙秘はむしろ彼女の罪を確信させた。
助けた僕も共犯かな。そんなことを考えながら、震えるスコールの手を握った。
訝しげな三人の視線を浴びる。
「…あー、もうどうにでもなれ!」
僕は魔力を解放した。
攻撃魔法ではない。ただ、光と音と魔力と、なんと言うか気配を周囲にぶちまけた。
と同時に、スコールの体を引き寄せた。隣の墓石の陰に。
「消えた?」
すぐ傍を通り過ぎるミサの声。
僕らは息を殺して、気配を絶つ。
「二手に別れて、追う。」
大して焦ったようには聞こえなかったが、見事に惑わされた二人の気配が遠くへ去っていった。
しばし、時を待つ。二人の心音のみが異様に響いてる。
「行くよ。」
撒いたとはいえ、気づかれるのもすぐだろう。
均された道に出ず、墓石の合間を縫うように僕らはその場を移動した。
足元すらやっとの闇の中、僕らはさっき見ていた地図盤を頼りにジグザグ歩く。
とりあえず、彼らの探索直後のエリアを目指した。
「逃げ切れたかな…」
僕は小声で呟いた。
息が切れて、でも深呼吸したら居場所がばれそうで、僕は小刻みに肩を揺らしながら、酸素を入れていく。
スコールは体育座りで僕の足の間にうずくまっていた。
震える体を静かに抱いた。ぽんぽんとあやすように背を叩いた。
驚いた顔して見上げた彼女に優しく囁いた。
「大丈夫だよ。」
根拠はない。
ミサ・モストーンに勝てるとは思えない。
それでも強がるしかないだろう。
怯え震える女の子の前で、格好つけられないほど男は捨てていないつもりだ。
にしても、スコールって、女の子って、こんな小さかったっけ?
ヒースのような鈍い紫色のくせっ毛が、僕の鼻先をくすぐる。
その髪を優しく撫でると、細い肩を小さく震わせた。
大きなアーモンド形の目を潤ませながら僕を見上げていた。
大丈夫と囁き続けた。
潤む瞳もヒース色。僕は何よりこの瞳に惹かれたのだ。
ヒースの花言葉、孤独、を湛えた瞳を思い出すたび、スコールに逢いにいった。
出逢った頃は警戒と嫌悪と敵意に満ちていた。
いつからか困惑と僅かな喜悦に変わっていった。
しかし、彼女のほうから逢いにくることはなかった。
僕はそんなことを懐かしんでいた。
とはいえ、スコールをあやしながらも、周囲に神経を尖らせるのを忘れることはなかった。
ミサは見当違いなエリアを探している。しばらくはもちそうだ。
「あらためて訊いていい?
なんで墓荒しなんてしたの?」
スコールの体の震えが収まるのを待ってから、威圧的にならないように僕は尋ねた。
無言の答えに溜息が出る。
「僕はスコールに呼ばれて来たんだよ。
その理由も聞いてないし、今回の件も含めての相談事じゃないの?」
意を決したように彼女は顔を上げて、僕を見つめた。
目に比べて、アンバランスに小さい唇が僅かに動いた。
しかし、言葉は発せられない。
代わりに驚愕の表情を浮かべた。
そして、すぐに俯いた。小さな体が再び細かに震えだした。
「見っけ。」
僕の寄りかかる墓石の真上から突然声がした。
僕は苛立ちと諦念をない交ぜにした顔で頭上を見上げた。
かくれんぼの鬼は、本当の鬼だ。声の主が白い牙をむき出して笑っていた。
「どうしてここが?」
「匂うわ。それだけ血を流しておいて、吸血鬼から逃げられると思って?」
小さく舌打つ。
心身ともに傷つけられたスコールは声の主を見上げることはなかった。ただただ震えていた。
「大丈夫。」
僕はもう一度、彼女に言い聞かせた。
いや、自分にか?
「僕も一緒に殺す?」
「やっちゃならないんでしょ?」
気づくと眼前に移っていた。
蝙蝠が羽を広げ飛んでいくように、夜闇にシルエットが浮かび上がる。
「ミサならまだ見当違いなトコ捜してる。
二つ三つ訊いていいかしら。
まず、なんで、この娘を助けるの?」
僕は重い腰を上げた。
スコールはビクリと体を震わせて僕を見上げた。
「スコールが何で追われているのか、まだわからない。
ミサやスコールが言ったことが本当なのか、まだ判断がついてない。
だったら、仲間を助ける。それだけだよ。」
理解不能とでも言いたげに、メールは肩をすくめた。
「ミサは容赦ないよ。
じゃあ次。
昨日逃がした光明神の神官いたさ。あれ、殺した?」
「僕が?」
眉をひそめて訊きなおす。
メールが肯く。
「北の端っこに死体があった。」
地図に表示されていた列を外れた青い点はそれか。
「理由がない。
だって、記憶奪ってくれたんでしょ?」
「殺されかけたから、後追っかけて襲った…ってワケではなさそうね。
じゃあね、次。」
ヴァンパイアは笑顔で僕を見つめた。
「何?」
しばし沈黙が辺りを満たす。
りん…りりん…
小さく虫が鳴いた。
「何であなたたち姉弟は揃って悪魔の名前をつけられたの?」
メールが何を言っていて、何を訊きたいのか、僕には全く理解できなかった。
ついでに、何故今ここでその質問?
「あたしは生まれたときからヴァンパイアで、独りだったからよく解らないんだけどさ。
ヒトの親って自分の子どもに不吉な名前は付けないものじゃないの?」
そういうことか。
ここ何十年生きてきて初めて気づかされた。
しかも、親のいない種族の女に。
「それってつまり、生まれたときから不吉な悪魔の子だから、あなたの父親が名をつけたってことよね? あなたの姉は何かしらの事情があったかもしれない。
でも、二人目は何で?
だって、光明神の神殿で生まれたんでしょ?」
僕は返答に困り、ヴァンパイアを不可思議そうに見つめるばかりだった。
子供は親に望まれ、神に祝福され生まれてくる。
子供は希望である。
光明神殿で祝福を受ける父母とその子供。
光明神の大司教は彼らにそんなことを言っていた。
なのに自分の子供には悪魔の名を付ける。
言われてみれば、道理がない。
「何故だろ。考えたこともなかった。」
僕は呟いた。
僕が生まれたこと自体が罪だ、と毎日なじられて育った。
だからだろうか。そのことに疑問を持つことはなかった。
「キミは社会を客観的に見れても、自分のことは見れないんだね。」
さも哀れむようにメールは長い溜息をついた。
そのとき、
「あはははははあっはぁ!」
突然背後で笑いが起こる。
気が違ったかのような、でも、明らかに僕のことを馬鹿にしたような笑い声だった。
僕は怒りも顕わに背後を睨んだ。
さっきまで虚ろな瞳で震えていたスコールが、腹を抱えて笑い転げていた。
「何のつもり!」
思わず怒声が僕の口から出てきた。
一瞬びくっと僕を見つめた。
しかし、それも刹那、再度口角が歪み、笑い始める。
「スコールは何か知ってるの?」
矛先を彼女に向けた。
嘲笑を浮かべていた。紫の瞳が怪しく揺れる。
「知らないんだ。」
僕は訝しげに彼女を見つめた。
「あんたたちの母親が暗黒神の神官だからよ。」
驚愕に開いた口がふさがらなかった。
母親の出自そのものもそうだが、僕ら子供が出自を訊くことすらしてなかった事実に、我ながら驚いた。
「そんな…」
ありえないことなのだ。
太陽が東から昇って、西に落ちていく。
それを疑わないのと同じだ。
光明神官と暗黒神官の契りは常識的にありえないことだから、疑問すら、想像すらしていなかった。
対して、メールは何故だかわからないといった風に見えた。
「暗黒神官の子供は悪魔の子?
暗黒神の神官の子供って、悪魔の名前をつけけなきゃなんないの?」
僕に目を向け、スコールを見た。
スコールは吸血鬼の疑問を完全に無視して、したり顔で僕に言った。
「信じられない?
あんたらの父親、大司教様が一目惚れしたのか知んないけど、無理やり手篭めにした女神官があなたたちの母親。」
ニヤニヤと話を続ける。
「ライネージ家はそれを知っていた。
だから、私の両親は光明神殿から追い出されたのよ。まだ幼い私も一緒に。」
スコールの表情が不自然に歪む。
右は怒りを、左は笑いを浮かべている。
「ただ街から追い出したんじゃないのよ。
二度と街に戻れないようにしたの。島流しってヤツ。
ほら大陸の北にあるじゃない。
北の大戮国の海の向こう。」
スコールがゆらりと立ち上がる。
まるで幽霊のようにゆらりゆらりと、僕のほうへ歩を進める。
僕は気圧されるように後ずさった。
「ホントの名前は知らないわ。時代によって獄門島とか鬼ヶ島とか言われてるわよね。」
僕の肩を掴み、無理やり口角を持ち上げていた。
「ホントに鬼がいるのよ、あそこ。
死刑にできない罪人とか。
造られて、弄られて、壊れちゃったヒトとか。」
見開かれていた目が歪み、涙が零れ落ちる。
ひっひっと何かを必死に抑えるように、食いしばる歯の隙間から息が漏れる。
「炎天山の麓に、あの島に行ける洞窟があるのよ。
草木に隠された人一人がかがんでくぐれるような鉄の扉があってね。それをくぐると、中は天井も幅も傍にあるなって位の広さなんだけど、真っ暗闇で怖いの。なのに、数珠繋ぎにされたあたしたち家族の背中を槍でつっつくの。
仕方なくあたしたちは暗闇を歩いたわ。
しばらく歩かされて、縄を解かれて、それまでは松明の灯りがあったから、少しは周り見えたんだけど、槍でつっついてたヒトたちだけが帰って、帰り道がふさがれたのか見つかんなくて。手探りで、歩いたら、そこから真っ暗闇の一本道が続いてるの。
最初は少しずつ下にいってる感じだったんだけど、それもわかんなくなってきて、食べ物も水も少ししかなくて一ヶ月以上歩いたかしら。
でもね三日くらい歩いてると、古くなったパンとか湧き水が出てるとことかがあったりするの。まるでダンジョンゲームみたいに。半端に希望を持って、死なないくらいの不安と飢えで歩き続けた。
気が狂いそうだったわ。」
僕の肩に爪が食い込んだ。
痛みに身をよじるも、その手が離されることはなかった。
「何とか洞窟を抜けた。やっと太陽を拝めた。そのときの嬉しさったらなかったわ。
でもね、外のほうが…」
呻くようにスコールは話し続けた。
聞きたくない。でも、僕は彼女の手を振りほどけなかった。
「地獄って、ああいうトコなのかしらね。
弱ったヒトから喰われていくの。ヒューマン族もエルフ族も。男も女も。子供も老人も。犯され、奪われ、喰われていくのよ。」
少女の絶望が僕を斬り裂いた。
イタイイタイイタイ…
この頬に流れる涙は同情なのだろうか。
恐怖なのだろうか。
懺悔なのだろうか。
僕は、自らの言葉で自らを切り刻む少女の心も、斬り刻まれていく僕の心も守ることはできない。
「父は大司教への恨み言を延々としゃべり続けた。
仲間だったのに。親友だったのに。裏切るつもりなんてないのにって。裏切り者はヤツだって。」
両親からは何も聞いていない。
僕のことをおもちゃのように壊し続けた母親でさえも、そんな話はしていなかった。
「母は野獣に犯され死んだわ。
野獣といっても、ヒトの形をしていた。優しげな笑顔で、母のおなかに何かの肋骨を刺しながら、犯し続けた。
父はそれをぼんやり見ながら、大司教の恨み言をぶつぶつ呟いてるだけだった。
助けようとした私は、後から来た何かに襲われた。」
ぶるぶると突然震えだした。
額に大量の脂汗を流しながら、絶え絶えに呼吸していた。
「メ、メール…」
途方にくれる僕から奪うように、メールがスコールの体を引き剥がした。
五本の爪が僕の皮膚を抉る。
皮膚の裂ける痛みに呻く僕の横で、メールがスコールに何事か囁いた。
途端、彼女は目を閉じてその場に崩れ落ちた。
「とりあえず寝てもらったわ。」
地面に横たわったスコールを横目にメールは言った。
「フラッシュバックかなぁ。
鬼族島から戻されたときに封じられてた記憶なんだと思う。
まさかこんな展開になるなんて予想しなかったわ。
ゴメンね。」
軽く謝られた。
あまりに場違いな明るさに、怒りがこみ上げてきた。
それなのに僕は彼女を攻めるどころか返事一つできなかった。
立ち尽くす僕をからかうようにメールが背後に回り、体を寄せてきた。
「あらあら、ずいぶんときつい烙印を遺したわね。まだ血が出てるわ。」
耳元で囁く声。
舌先が僕の肩口をゆっくりと這った。
痛みが僕を覚醒させていく。必死に声を絞り出した。
「メール…」
僕は横たわるスコールをじっと見据えたまま、背後に問う。
「メールは何でミサに従うの?」
蠢く舌が止まった。
滑った温かみが消えた。
「真名を押さえられているから。」
こともなげに答えた。
冥族との契約。別に珍しいことではない。
それだけとは思えない二人の関係に違和感を覚えながらも、目的を果たす方に集中した。
「行動に制限はあるの?」
「ないわ。
そういった意味では、自由意思で彼の傍にいるわね。」
真名は重要でない。彼女はそう続けて笑んだ。
笑顔にウソやごまかしは見出せなかった。
僕はしばし考え、覚悟を決めた。
「彼女の、スコールの記憶を奪ってくれないか?」
「奪うの?
もう一回封じるんじゃなくて?」
訝しげに眉を寄せたメールに、僕は小さく肯いた。
「かなり深部まで記憶を弄らなきゃ無理よ。名前すら忘れるかも。」
「だから、これからは僕が傍にいる。」
小さく、でもしっかりと彼女に告げる。
メールは鼻で笑い飛ばしたような息をついた。
「偽善だわ。
そんなにこの娘がかわいそうなの?」
わかってる。
自分が責任取る理由もない。
全ては僕の父親のせいだ。
それでも、何も知らずに傍にいたのは、僕の罪だ。
逢うたびに能天気に笑う僕を見て、彼女はどんなに怒り、悲しみ、怯え、苦しんだのだろう。
「かわいそう…かも知れない。
偽善。
それも正しいと思う。
それでも、あんな痛みを抱えたまま、生きる必要はないと思う。」
「そういうもん?」
「あんたにはわかんないさ。」
吸血鬼に解られてたまるか。
真横にある彼女の深紅の瞳が揺らいだような気がした。
しばし、沈黙で満たされる。
ここは墓場だ。
生物の発する音は、動物のものすらない。
ただ、風だけが行過ぎる。
ククっとメールが笑った。
「いいわよ。血ももらったし。
にしても、酔狂なことね。自分の過去だって、忘れたいくらいでしょうに。
そうね。
キミの言うとおりだわ。ヒューマン族の気持ちなんて、あたしには理解できない。」
僕から放れたヴァンパイアがスコールに触れた。
昨日、僕らを襲った神官にやったのと同じだ。
首筋から指を差込み、何事か唱えた。
作業はすぐに終わった。すっと立ち上がると、僕を振り向いた。
「ミサには、この娘が死んだって報告しておくね。」
僕は、ありがとう、とだけ答えた。
まだ何か問いたげな視線を僕に向けてはいたが、おそらく僕がこれ以上何も答えないと思ったのだろう。メールは漆黒のマントを翻し、次の瞬間、同じくらい漆黒の夜闇に消えた。
その場には、僕と未だ目を覚ます気配のないスコールだけが残された。
そばにいるよ。
そばに…
耳が痛くなるほどの静寂の中、彼女の規則的な寝息だけが小さく聞こえていた。