前編
さよならは突然に。俺の脳内には、祖母が好きだったザ・ピーナッツの名曲が鳴り響き、自らの行く末に検討もつかず、途方に暮れていた。ただひとつわかっていたことは、これから編入することになる国立預言者高校では、借りてきた猫のようになり、暫くの間、同級生と打ち解けることが全くもってできないであろうことであった。俺がそうとしか思えないのだから、きっとそれは現実のものとなってしまうのだろう。それは、一ヶ月だろうか、二ヶ月だろうか。いや、一年かかるかもしれない。だが、そんなものは俺のささやかな願望だ。実際のところは、残りの高校生活はぼっちで過ごすであろうことが、明白であると思われた。そして、明白であるとまで心の底から思いつめた時、その予測が外れたことは唯の一度もなかったのである。いや、例外もあるが、それはある条件下においてのみであり、今回のケースはその条件下に該当していないので、奇跡が起こらない限り、ほぼ100%予想は的中してしまうであろう。奇跡なんて起こらなくても、この数日の出来事が夢であれば、問題は解決するが、夢落ちであるということ自体がそれこそ奇跡だ。
辺り一面畑に囲まれ、どこを見渡してもビルなどというものは見えないど田舎。建物という建物は、山や木に視界を塞がれているため発見することはかなわない。そこが、俺が今日まで暮らしてきた町であり、俺はこの町以外で暮らしたことが、これまでの人生の中でただの一度も無かった。まあ、わずか15年の人生だ。その年くらいなら親元で暮らすことが普通で、親の都合で引越しすることでも無ければ、色々な町に住んでいる人なんていうのは稀だろう。平穏無事を願う俺の人生には、高校まで親元でのうのうと過ごし、それなりの大学へ進学して、公務員にでもなって慎ましく暮らすことが、一番であるように思えていた。現代の若者にありがちな夢の無い人生と大人に揶揄されようが、俺はその考えを否定される言われは全くないと思っているし、ただなんとなく自分の将来をそう感得ている奴らとは違う信念を持っている。
「ねえねえ、冥の夢って何?」とある日の学校帰りに幼馴染の紗季に聞かれた際、そんな調子で、
「なるべく良い高校行って、なるべく良い大学へ行って、公務員になる。そして、慎ましく平穏無事に暮らして、誰にも迷惑をかけないようにして死ぬ」
と答えた。
「つまらない人生・・・。冥らしいけど・・・そういう夢持ってる人が最近は多いらしいから頑張ってね」
と半ば呆れた表情で言われた。
「いや、そんな『将来は公務員が一番いいよ~♪』とか親に日々刷り込まれて、なんとなくそういう人生を目指している奴らとは一緒にしないでくれ。尊敬するショーペンハウアー先生の教えを胸に、俺はそういう結論に至ったんだ」
胸を張り、ショーペンハウアー先生に思いを馳せつつ、そびえたつ五月雨山に遠い目を向けながら、言ってやった。
「ションベンバウアーだか、ショクパンハウアーだか知らないけど、そんなわけのわからない外人を崇拝しないでもらいたいわね。男だったら坂本竜馬みたいな大きな夢を持ちなさいよ!」
「坂本竜馬か・・・すごい人だったね。俺は、暗殺は御免だよ。それに俺は竜馬みたいに、日本を動かすような大人物になれないだろうし、なりたいとも思わないよ」
「坂本竜馬が言った、『日本の夜明けぜよ!』って有名じゃない!一時期、テレビでもよく見かけたし、この間歴史の矢部も熱く竜馬について語ってたじゃない」
日本の夜明けぜよと本当に竜馬が言ったかは、定かではないだろうに、それを現実と受け止めている紗季を白い目で見ながらも、彼女の話を聞いてやった。
「坂本竜馬の名言に『世に生を得るは事を為すにあり』という言葉がある。竜馬は、それを実行し大政奉還という大きな事を為し遂げた。お前らも、竜馬のように大きな事を為せ。そして、今の日本を変えてくれ!」
と紗季は妙に上手く、バリトンボイスに特徴のある矢部先生のモノマネをし、いつかの暑苦しいシーンを再現してみせた。
「そんな熱いことを言ってたわ。あなたも事を為すべきよ」
「そういう矢部先生だって、公立中学教師という立派な公務員じゃないか。人に事を為せとか言っておいて、自分は平穏無事な生活を願っているんだよ。矢部先生は俺の考えを否定出来ないはずだよ」
「あなたにこんな事を言ったのが間違いだったわ。こういう夢のある話は、亜希さんとするべきだった。どうして親子なのにこうも違うのかしら」
「母さんと一緒にしないでくれ。俺は現実を生きているんだ。ところで、そういう紗季の夢はなんなんだよ。そう言うからには紗季にはきっと大層立派な夢があるんだよな?」
わざとジト目を向け、紗季に仕返ししてやろうと思った。
「わ、わたしの夢は・・・その・・・」
急に、紗季の顔が赤くなった気がした。もごもごと口ごもり、しゅんとしている。
「なんだよ。恥ずかしくて言えないのか?いつも何にでもスカッと答える思い切りの良いお前らしくもないな。壮大すぎて、恥ずかしくなって言えないのか?まさか世界平和とか言うんじゃないだろうな?それとも俺みたいに慎ましい夢だったことを思い出して閉口しているのか?」
意地悪く、嫌味たっぷりに言ってやった。
「冥には関係ないじゃない!それに私の夢は世間一般の人から見たら慎ましく見えるかもしれないけど、実はすっごく達成困難で、壮大な夢なんだから!」
「まあ、そりゃお前の将来の事は、俺には関係の無いことだけど、俺が答えたんだからお前にも答える義務があるじゃないか。ほらさっさとその達成困難で壮大な夢とやらを教えてもらおうか」
「か・・け・・なく・い」ぼそっと何か呟いた。
「なんだって?聞こえない。水を打ったような静けさをしている空間ですら、一瞬で台風の中に放り込めるようないつもの元気はどうした?ほら、大きい声で、もう一回。はい」
「うーるーさーいー!いいのよ、わたしの夢は!言ったら叶わなくなるの。願掛けしてるんだから。」
「そうか。まあ、願掛けしてるんだから仕方ないな。俺も願掛けしときゃよかった」
ふてくされたような振りをしつつ、またも嫌味を言ってやった。紗季は、黙ってしまった。下を向いて、キリキリと音が聞こえてきそうな程、顎に力を込め、目が心なしか潤んでいるようにも見えた。
言い返せなくて悔しがっている。ざまあみろ、俺の崇高な夢を馬鹿にした罰だと思い、俺はニヤニヤしていたのだが、急に真剣な顔つきで重たい口を開いた。
「冥、私の夢、本当はなんだかわかってるんでしょ?」
「いや、わからないけど」
「嘘。だって冥、相手が何を考えてるか当てたり次に何が起るか当てたりするの得意じゃない。この前だって、木村君が好きな人誰だと思う?とかみんなで話し会ってた時に、みんなが美樹だっていうのに、あんただけ、わたしって言ったわ。みんな、わたしと木村君はあまり絡んだことないし、あるわけないじゃんとか言ってたけど、その5日後にわたし木村君に告白されたわ。冥、別に木村君と仲いいわけでもないし、直接教えてもらってるはずもないでしょ。なんでわかったの?」
「あれは、偶々だよ。なんか毎日クラスをぼーっと眺めてたらなんとなく木村はお前のことが好きなんじゃないかなーと思ったんだよ。現に時々、木村はお前の事見てたし。それに、その数日前から、お前の後をこそこそつけまわってたのが見えた」
「木村君がわたしを見てたって言うけど、他の誰もそんなことに気づいて無いみたいだったわよ。他の人と何にも変わらない態度で、普通に接しているようにしか思えなかったって。なのに、冥だけがそんなこというし。それに、それだけじゃない。例えば、小学校3年生の夏に公園で遊んでいて、わたしがゴリゴリ君を食べたいって言ったら、冥は『だめ今日は当たらないから』って言ってたわ。それでも、わたしどうしても食べたくていつものスーパーで交換してもらったら本当に外れた。知ってるでしょ?わたしゴリゴリ君でハズレを引いたこと無いの。いつもゴリゴリ君の当たり券で交換してもらって食べてたの。いつも『じゃあ行こ』くらいしか言わない冥が、その日だけ外れるって言ったわ。そんな冥がわたしの考えてること分からないわけないじゃない」
「うーん、確かに、言われてみれば俺は相手が何を考えてるかや、次に何が起こりそうとかわかるような気がすることが、あるかもしれない。でも、いつもじゃない。それに、木村の事は、みんなの観察眼が足りないだけじゃないのか?ゴリゴリ君に関しては、その日だけはそんな気がしたとしか言いようがないけどな。でも、基本的にお前が考えてることはわからん。紗季のやることはいつも予想がつかないな。わかってたら、もっとお前が怒らないように行動してるさ」
「確かに、あんたがわたしの考えてることがわかってれば、わたしがイライラすることなんて、滅多に無くなるかもね。とっくに気づいていてもおかしくないはずだもの」
「気づくって何を?」
「気にしないの!」
「ふーん、まあいいけど」
そんな事も懐かしい思い出だ。毎日のように顔をあわせていた紗季にも、転校すれば滅多に会えなくなる。そして、この高校に入学するということは、俺の将来がほぼ決定付けられるということだ。自然、地元で気楽に暮らす公務員だなんて夢は、儚くも消え去るのであった。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・。祇園精舎に行ったこともないが、その諸行無常の鐘の音が俺の胸に去来する。
「人生って儚いな」
「何、悟りを開いたような事をいってるの。高校生のうちからそんな言葉を吐くなんて十年早いわ。もっと、人生の艱難辛苦を味わってから、つぶやきなさい!」
俺を引率、もとい連行している東宮甘露は、自動車のドアに肘をかけ、頬杖をつきながら、呆れたように説教した。しかし、十年は俺より長く生きているだけあって、説得力はある。
「だいたい、儚いという言葉は、これから輝き始めるあなたの人生に全く不似合いだわ。今まで、こんなど田舎でつまらない人生を過ごしてきたおあなたに、素晴らしい活躍を期待できる舞台を用意してあげるのよ。学費は無料、将来の仕事も保証されたようなもの。一体何の不満があるの?」
「俺は、静かに暮らしたいんですよ。それがショーペンハウアー先生の教えです」
「その年でその思想に取り憑かれるとは、才能がある人って恐ろしいものね。ああ、もしかしたら預言者の素質があるかも。ふふ、研究のしがいがあるってもんね」
溜息しかでない発言だ。
「はぁ、そんな実験台がお気楽にストレスを感じないで生きていけるわけ無いじゃないですか」
「当然よ。力のある者は、それを社会のために有効利用する義務があるの。楽に生きていけると思わないことね!能ある鷹は爪を隠すというけど、厄介事に巻き込まれないためにも、その教えを遵守すべきだったわね。力を隠しきれなかったあなたの責任でもあるのよ」
「別に隠してたわけじゃ・・・。そもそもそんな能力があるってこと自体、俺は知りませんでしたしね」
「でも、あなたは利口だから、それが特殊な能力だと認識してはいなくても、何か他人より特別なことをすれば、厄介事に巻き込まれるかもしれないことを知っていたでしょ?あなたほどの能力があれば、校長が予言しなくたって、自ずと噂が立ってもおかしくないにもかかわらず、高校生になるまで発見されないとはねえ。目立たないように生きる選択をしてきたに違いないわ。発見されたことをあの子に感謝しないとね」
「感謝じゃないですよ。いい迷惑だ。あいつには、一生の貸しです」
「なら、助けなきゃ良かったのに。助けなくても誰にも責められないわ。事故になるのだから」
「あの場面で助けないなんて選択肢があるわけないじゃないですか」
「そうね。彼女を見殺しにするわけにもいかないか」
「彼女じゃないです。単なる幼馴染ですよ」
「そお?ラブラブだったように見えたけど」
「いい加減にしてくださいよ」
「あなたが意識を失っている間、ベッドの側でめ~い~ってずっと泣いてたらしいじゃないあの子。病院の公認カップルに認定されてたわよ。医者から看護婦、果ては他の入院患者まで、可愛らしいカップルね~って言ってたわよ。あなた達二人がイチャイチャしていた時は、リア充死ねっていう怨念が辺りを渦巻いていることもあったわ。主にわたしの怨念だけど」
「あんたかよ!」
「あら、気づいていると思ったけどね」
「どうでもいいですけど、誤解だからよしてくれませんか。俺と紗季はそんな関係じゃないです。」
「あら、嫌いなの?紗季ちゃんのこと。そんなわけないわよね。だって、あの子の気持ちわかって今まで一緒にいたのだから」
「あいつの気持ちだけはよくわからないです。予言もほとんど当たったことがないですし」
「変ね。そんなはず無いけど」
忘れもしない2012年5月3日。毎年恒例となった5月病に案の定罹った俺は、休日は毎日部屋に引きこもり、布団の中でスマホをいじったり、本を読んだりしてだらだらと退廃的な日々を過ごしていた。もっとも、これは五月に始まったことではなく、高校入学以来のことである。四月から、地元から通える範囲では最もレベルが高い進学校に進学したことで、小学校から一緒だったクラスメイトと離れ離れになってしまい、新しい友人を作らなければならない環境に放り込まれたが、もちろん自分から声をかけることはできず、たまに話しかけられても要領の言い返事ができなかった。当然、そんなことでは友人などできるわけもなく、俺の間を縫って友人グループが出来上がっていった。唯一の救いは、偶然にも同じクラスになった紗季が話しかけてくれることであったが、掛け値なしの美少女である紗季と親しげに話しているのが男達から疎まれていると気づき、学校にいる間は彼女とあまり関わらないようにしていた。紗季が目的で俺に話しかけてきた男たちも何人かいたが、それがあまりに見え透いていて、彼女と仲良くなったら俺の事なんか見捨てようとしか思っていないようなやつらだったため、適当な返事をしておいた。紗季は、人当たりのいい性格だから、クラスに簡単に馴染み、女子のグループでお弁当を食べたり休み時間に一緒におしゃべりしたりしていた。
そんなクラスに馴染めず、例年より重い鬱病にかかっていた俺の気分を変えようと、紗季がゴールデンウィークに地元の五月雨山に登ろうと言い出した。そして、山に出かけた二人を待ち受けていたのは、想像を絶する未来であった。
山を登っている途中で、彼女は俺に質問した。
「冥、どうして最近学校ではわたしのこと避けてるの?」
「だってなあ。俺は、上手くクラスに馴染めていないし、俺とばかり関わっているとお前がクラスに馴染めなくなるだろ?」
「そんなの考えすぎよ。それにわたしは冥と関わって、たとえクラスの中で浮いた存在になったって構わないわ。でも、わたしはそんなことくらいで、クラスの中で浮いた存在にはならない自信があるけどね」
「お前がそういうなら、そうなのだろうな」
鳴海紗季は、自分の願望を何でも現実にしてしまう女だ。有言実行の人であり、不可能だと思われることも、必ず実現してきた。例えば、小学5年生の時、カブトムシを頂戴と突然言い出した。どうやらテレビでカブトムシの特集をやっていたのを見たらしく、急に飼ってみたくなったそうだ。そうは言っても、俺が趣味で何匹か捕まえてカゴに入れていたのは、クワガタばかり。例年、カブトムシが見つかるのは稀であるし、元々このあたりにはカブトムシよりクワガタが多いのではないかと思われた。
「クワガタだけどいい?」
「いや!カブトムシがいいの!」
「でも、俺カブトムシ飼ってないよ」
「じゃあ、今日捕まえに行こう!」
と捕まえ方も知らないのに、カブトムシ捜索に乗り出した。まだ昼だ。カブトムシやクワガタは夜に出るのだと何度言っても聞かなかった。今まで、紗季とカブトムシを採りに行かなかったのは、夜に俺が出ていったからで、紗季はそれほど興味がなく、夜中に行けば就寝時間が過ぎてしまうからついてこなかったのだ。昼間にカブトムシやクワガタが出る確率は高くない。だが、全く出ないわけじゃないし、軒先で遊んでいた時に発見して、捕まえたことも何度かある。
「カブトムシ、一匹じゃかわいそうだから、2匹くらいは捕まえたいな」
と目を輝かせ、声を弾ませ、楽しげに話す彼女に、暑い中付き合わされた俺はうんざりしていた。夜にだって、収穫なしで帰ってくることがあるのに、昼間に探しに行ってそんな簡単に見つかるわけがないと思っていた。
「いた。でっかいのいる!」
いつも俺が父親と夜な夜な探しに行っていた雑木林へたどり着くと、あっさりと彼女はカブトムシを発見したのだった。
「ほんとにいる・・・しかも二匹・・・」
「わー、角の長いのと短いの!オスとメス。早く捕まえて!」
あまりに簡単だったので唖然として、金縛りにあったようだった。俺はただぼうっと二匹のカブトムシの蠢きを眺めていた。一向に命令に従わない俺に、しびれを切らした紗季が俺からタモを取り上げ、さっと二匹をすくい取り、虫かごの中に入れてしまった。
こうして回想してみると、彼女にはもっと人生の辛酸を舐めろと言いたくなる。ゴリゴリ君のことといい、こいつには思い通りにならないことなんて、無いのではないかと思う。あれだって、外れるのが普通で、俺が外れるよと言ったのはあの一度きりだった。
紗季はウキウキして、カブトムシを持ち帰り、スイカを食べさせて悦に入っていた。
「二匹いれば寂しくないね!わたしたちと一緒だね」
と彼女は呑気な事を言っていた。カブトムシを持ち上げ、足すごい動くとか言って喜んでいる始末だ。この年代の女子は虫を触るのを嫌がるのが普通ではないかと思うのだが、紗季にはそんなことは全く関係無いようだ。その日は一日中眺めていた。しかし、数日後にはそんなことすっかり忘れてしまったらしく、プールに連れ出された帰りに紗季の家に寄ったら、帰りがけに紗季の母親が、
「冥、カブトムシ持って帰らない?紗季が餌もあげずに放っぽっているのよ。なんだかスイカ食べてるの見たら興味無くなっちゃったみたい。カブトムシ欲しかったんでしょ?」
と言った。
俺は、カブトムシも育てて見たかったから、一も二もなく承諾した。紗季の飽きっぽさには、紗季のお母さんも困り果てているようであった。後で調べたら、北海道には元々クワガタしかおらず、カブトムシは本州から輸入されたものであり、数は少ないようであった。紗季が興味を示さなければやっぱり手に入らなかっただろう。俺としては、ラッキーである。
天は彼女に味方する。運動会も、どんな種目でも気合を入れればすぐ一位になる。陸上の大会で全国大会に出場したこともあった。興味がなくても器用だから大抵のことはソツ無くこなしていたが、興味があるときに出す爆発力はすごいものがあった。
思い返せば、紗季が俺と同じ高校に進学したのも奇跡だった。俺は、公務員になるために、できるだけ良い高校に行くと明言していたことを紗季は知っていたはずだったのだが、彼女は苦もなく自分もその高校に行けると思っていたらしく、そんなに勉強をしていなかった。俺が頑張って勉強しているのを横目に、どうしてそんなに勉強してるの?と不思議そうに思っていたのだ。夏休みに俺が机に向かっている中、俺のベッドで漫画を読んでケラケラと笑っているほどの呑気さであった。もちろん紗季は、成績が悪くなく、クラスでも俺の次に成績が良かったのだが、あまりに緊張感が無いなと思った俺が、模試を一緒に受けようと言った。その結果、模試の成績表には合格率30%という数字が浮かび上がり、そこでやっと事の重大さに気づいたらしく、半泣きで俺に食って掛かってきた。
「なんで?クラスでは成績良かったのに!」
「29人しかいない田舎のクラスで成績が2番目だからって、全国からみたらこんなもんなんだよ。やっぱり都会はレベルが高いのさ。志望校変えるか?」
「冥が変えるなら変えるけど」
「俺は、合格率90%だから変えないよ」
「じゃあわたしも変えない」
「そんな事言っても、落ちたらどうする?」
「落ちないから問題ない」
そんな強気なことを言って、必死に勉強をし始めた。その時ばかりは、いくら紗季でもそううまく行くとは思えなかった。何しろ試験まで3ヶ月を切っていたからだ。そう簡単に逆転できるものではない。そう思っていたのだが・・・。合格発表の日、一緒に合格番号の掲示を見に行ったら、あいつの番号は当然のようにそこに書かれていた。自分の合格を喜ぶよりも、驚きが勝り、なんとも言えない気持ちになってしまった。
「受かったー!これで一緒に行けるね!冥!」
紗季は満面の笑みで、自分の合格を喜んでいた。いつもの3割増し輝いているようであった。しかも、どうやらあいつは首席合格だったらしく、入学式では答辞を読んでいた。勉強ではあいつに勝てると思っていたのに、結局は才能の差をありありと見せつけられ、ショックを隠せなかったものである。
そう、本当は夏の時点で、忠告してやっても良かったのである。いや、もっと前に。でも、それを忠告しなかったのは、紗季に勉強では勝ちたかったからである。要は、少し意地悪をして教えてやらなかったのだ。何をやっても本気を出した紗季には勝てなかったが、学校の定期テストで一番を取ることが、俺のアイデンティを保つ唯一の手段だった。紗季にはテストの点数で負けたことがなかったのだ。それを木っ端微塵に打ち砕かれ、結局才能には勝てないのだと悟った時、俺は紗季には何をやっても勝てないのだとはっきりと理解した。あいつが本気を出していないだけだったのだ。もしかしたら定期テストで2番に甘んじていたのは、あいつなりの優しさだったのかもしれない。それも、首席合格で台なしとなってしまうのだが。
「わたしが言うならそうってどういうこと?」
「紗季が本気を出したらたいていのことが思い通りになるからさ。凡人には、分からない感覚だよほんと」
「何よ、わたしにだって思い通りにならないことくらいあるわよ」
「そうか?長年お前と付き合っているが、お前の思い通りにならなかったことなんてゴリゴリ君を一度外したことくらいしか思い浮かばないけどな。他に何かあるか?」
「えっと・・・」
紗季は、口ごもった。やっぱり無いじゃないか。
「・・・冥かな」
「へ?」
「あんたが思い通りにならない。たいていの人はわたしの思い通りになるのに、どうしてもあんただけはわたしの思い通りにならない。わたしがやって欲しいと思ったことは誰でもたいていやってくれるのに、あんただけはどうしてもわたしのして欲しいことをしてくれない。冥と一緒にいると調子が狂うわ。ゴリゴリ君を外したのだってあんたが変なことをいうからよ。あんたがあんなこと言わなければわたしはいつものように当ててたわ」
ジャイアンを彷彿とさせるその傲岸不遜な発言に辟易しながらも、自分の思ったことを何だって実現させてきたこいつにとっては、思い通りにならない俺のような人間が面白くないのは当然かもしれないとも思った。
「じゃあ、一緒にいなければいい。俺と一緒にいて、調子が狂うのであれば、高校だって別々の所に行けばよかったじゃないか。お前は別に進学校に行って、なりたい職業なんて無いのだし、小中のクラスメイトが行くような高校に行けばよかったじゃないか。」
「冥、何もわかってない」
「何が?」
「もういい!」
そう言って、紗季は走り出してしまった。まだ、山の3合目に差し掛かるところだというのに元気なものだ。ここで喧嘩してしまっては、後で再会しても気分が悪いだけだ。途中で追いついても、何と声をかけていいのかわからない。無言で頂上まで二人で歩き、そしてそのまま下山するという気まずい光景がありありと想像できる。まだ3合目の立て札を見てもいないし、ギブアップするには悪くない頃合いだ。このまま頂上まで登って、下山するのは骨が折れる。それに、明日筋肉痛で動けなくなるだろうことが目に見えている。いや、すでに普段使わない筋肉がキシキシと唸りを上げているように思われ、筋肉痛に悩まされることは、決定的であった。これ以上の被害の拡大を防ぐためには、登山を辞めるという選択肢の他はない。
この五月雨山には、幼少の頃から何度か紗季と一緒に登っている。道慣れしているだろうし、それなりに登山の心得もあるはずだから、放っておいても大丈夫だろう。だが、俺が下山したと思わずに、遭難したのだと勘違いされても面倒なことになりそうだから、一応メールだけはしておくか。
「帰る」
これでよし。ああ、これじゃ気分転換になりやしない。俺と紗季は、最近いつもこうだ。いつの間にか喧嘩になってしまう。喧嘩といっても、俺が紗季の気に障るような事を言い、それに紗季が一方的に怒って、どこかへ行ってしまうというのが、お決まりのパターンである。殴りあいの喧嘩なんてことは、小学校の低学年までだったし、そもそも最近は俺が怒ることは滅多にない。本当は喧嘩なんてしたくないのに・・・。昔は、そんなに喧嘩をしていた覚えは無いのに、どうしてこうも最近は仲良くできないのだろうか。
「きっと、俺も悪いのだろうな」
トボトボと下山している中、そんな事をつぶやいてしまった。そう、本当はわかっているのだ。紗季がどうして怒っているのかなんて。春の陽光が木々の間から差し込み、その光が眩しさに耐えられず、右手で光を遮りながら、どうして俺はこんな素晴らしい天気の中、ひとりぼっちで山を下っているのだろうと思った。そう、喧嘩を防ぐ方法なんていくらでもあったのだ。あそこであんなことを言わなければ、いやもっと紗季の機嫌が治るような事を言えれば・・・。そんなことは今更考えても後の祭りである。
「腹減ったなあ」
時刻は、十一時を回っていた。もうすぐ昼である。登山をするには少し遅い。こうなってしまったのも、俺が面倒くさがって、布団の中に潜っていたからである。そして、リュックサックの中にお弁当は無い。
俺は、登山になんて行きたくないばっかりに、家に引きこもり続けようとわざと寝坊をした振りをし、布団にしがみついていた。しかし、朝8時にはそんなことはまるっとお見通しな紗季が家に乗り込んで来て、ベッドの上で行く行かないの大論争を繰り広げた。よく考えたら、朝っぱらから俺たちは喧嘩していたのだ。結局、一時間その大論争は続き、呆れた紗季がもう知らないと言って、一階で俺の妹とテレビゲームを始めた。これで、山登りという苦役から逃れられたと安堵していたのだが、しばらくして母が二階の俺の部屋にやって来て、
「ねえ、本当に行く気無いの?紗季ちゃん、折角あんたのために、山登りに誘ってくれたのに」
と俺を非難するように言った。
「いい迷惑だよ。俺は、毎年じゃなくてずっと5月病なんだ。気分転換なんて必要ないね。どうしてあんな疲れる事をわざわざしにいかなきゃいけないんだ」
「そう、なら紗季ちゃんのお弁当は、わたしと光と紗季ちゃんの三人で食べるからね。あ、お父さんにも一口くらいわけてあげようかな」
「お、お弁当?紗季はそんなこと一言も言ってなかったけど」
「そうよ、あんたのために紗季ちゃんが、朝5時から作ったんだって。でも、二人分しかないから、あんたの分はなしね」
「い、いらない」
「そう。あんた紗季ちゃんの作った煮物大好きだったわよね?心変わりするのなら、今のうちよ。山に行かないならわたしたちが全部食べちゃうからね」
そうやって俺の前に人参をぶら下げ、母さんは俺の部屋から出ていった。
紗季は、料理が上手い。万事ソツ無くこなす彼女ではあるが、料理の腕前は格別であると思う。以前、紗季がうちに煮物を持ってきてくれた時には、あまりの美味しさにご飯を3杯おかわりしてしまい、母親から紗季ちゃんがお嫁さんになってくれたら、冥はきっと今のガリガリ体型から、ブクブク体型に変身するわねと言われた。俺は、紗季の煮物が大好きだ。紗季の母親直伝というその煮物は甘じょっぱく、ご飯を何杯でもおかわりしたくなった。それに惹かれ、俺は紗季に結婚を申し込もうかと血迷った程だ。煮物で結婚を申し込むなどあまりに浅はかな理由であると思いすぐに思いとどまったが・・・。
だが、紗季はたまにしか料理をしない。飽きっぽく気まぐれな性格なので、頼んでも気乗りしなければしてくれないのだ。急に、お菓子作りに凝り始め、毎週のようにケーキをごちそうしてくれたかと思えば、数ヶ月後には、お菓子作りの道具がダンボール箱に詰められ、物置の片隅に置かれ、寂しそうにしていたこともある。もちろん片付けたのは紗季の母親である。しかし、味に関してはそれもまた絶品であり、俺はその頃紗季のケーキが楽しみで、週末が待ち遠しかったように思う。チョコレートケーキの次は、イチゴのショートケーキだった。毎週ケーキの種類は変わり、次はどんなケーキが出てくるのかとワクワクしていたものだ。ケーキと紅茶の優雅な週末も今やいい思い出だ。その優雅な週末は、ある日突然、紗季のもう飽きたという一言と共に、終焉を迎えた。
これを逃すと、紗季の煮物を暫く食べられないかもしれない。30分迷った挙句、俺はおずおずと一階へ降りていき、妹とゲームに興じる紗季の後ろから、
「やっぱりせっかくだから山に登るよ。こんな機会でも無ければもう一生登らないし」
と自分でも今更何言ってるんだろうなあと思いながら、自信無く言う。
「今更何言ってるの?登らないんでしょ?」
と紗季は、怒気を込めて、当然の主張をした。
「いいじゃない、せっかく作ったお弁当がもったいないからいってらっしゃい。登山道まで送るわよ!」
母が思わぬ助け舟を出してくれた。
「でも、亜希さん、冥はあんなにわたしが行こうって言ってもベッドから動かなかったのに。今更、登る気にもなれないです」
「せっかく作ったお弁当が勿体無いわよ紗季ちゃん♪それにね・・・」
母は、紗季に何か耳打ちしていた。きっと、俺が煮物を楽しみにしていたことでもちくっているのだろう。紗季は母の言葉を聞くと、
「へー、あんたそんなにわたしが作った煮物が食べたいの?」
と言い、いいゆすりのネタを手に入れたとばかりに、嬉しそうに笑った。
「いや、そんなことは・・・」
「ふーん、じゃあお弁当は光ちゃんにあげちゃおっかなー。光ちゃん、お弁当食べるでしょ?」
「うん、紗季お姉ちゃんのお弁当食べるー」
「じゃあ、お昼に一緒に食べようねー」
「お、俺にも少し分けてくれないかな」
「冥は、食べたいならわたしに土下座して『紗季様のお弁当が食べたいです』って言いなさい」
居丈高になった紗季は、俺にひどい要求をし始めた。流石に土下座をしてまで、お弁当が食べたいなんて言ってしまえば、俺のプライドがズタズタになってしまう。沈黙する俺を尻目に、紗季はゲームを再開した。
「紗季ちゃん、そんな意地悪しないで、冥と山に登ってあげて。ねっ、お願い」
母さんが手を合わせて真剣に頼むと、紗季は少しばかり逡巡した後、
「亜希さんがそこまで言うなら・・・。ほら、遅くなるからすぐ行くわよ」
と言ってくれた。
「ちょっと待ってくれ、まだ朝食も食べてないし顔も洗ってないし・・・」
「じゃあ、光ちゃんと切りのいいところまでゲームするから、それまでに用意してね」
切りのいいところといっても、どう見ても後5分くらいで終わりそうであった。しかし、ぐだぐだ言ってもしょうがないと思い急いで準備を始める。
「遅い!もう、行くよ!」
車の前で紗季が急かし、母が車のキーを捻り、エンジンが唸りを上げた。
なんとか準備を終わらせたものの、朝食はおにぎり一個とお茶を口に入れるのが精一杯で、山に登る前の栄養補給としては、大幅に不足していた。移動中に、途中でエネルギー切れになって倒れるかもしれないと言ったら、母が板チョコを3枚くれた。
「遭難した時にいいでしょ。持って行きな」
という縁起でもない言葉とともに、俺の所持品は、スポーツドリンク、板チョコ3枚、タオル、カッパとなった。車中でチョコレートを一枚頬張る。
登山道の入り口へ着くと、母は思い出したように、
「そうそう、ヒグマに遭遇するのも怖いわね。冥が勝手に死ぬのは構わないけど、紗季ちゃんを巻き添えにするわけにも行かないわ」
と言って、リュックサックには鈴をつけられた。歩いている最中にリーンリーンという音が初めは耳障りではあったが、そのうち鳴っているのかどうか気にならなくなった。しかし、俺の母親のブラックジョークは、冗談に聞こえないから怖い。いや、マジで言っているのかもこの人。ふと、紗季のリュックを見ると何もついてない。
「あれ?紗季は、鈴持って来てないの?」
「慌てて出てきたから玄関に忘れて来ちゃって・・・」
「でも、冥がつけてるから大丈夫よ。仲良く登るのよ♪それと、紗季ちゃんお弁当ありがとうね。光も喜んでるわ」
とニヤニヤとした底意地の悪い笑みを浮かべて、母は紗季にお礼を言う。最後の一言がなんだか引っかかったが気にしない振りをすることにした。
そういえば、紗季は鈴をつけていなかった。なんだか胸騒ぎがした。携帯を確認してみたが、返信はない。最近は便利なもので、山頂でも電波が届くものであり、以前登った時に電波が届いていると驚いたものだが、やはり登山道のすべてを網羅しているわけでもないらしく、所々で電波が途切れ圏外になってしまうこともあった。しかし、紗季は俺と同じ携帯会社を使っており、電波の伝わり具合は一緒なはずであるから、一時圏外になっても、すぐに電波が受信される状況に戻るはずであるし、メールが届いていないということはおそらく無いと考えられる。きっと、携帯を見ていないか、怒って返事を書いていないかであろう。実際の所、初めから返信は期待しておらず、あったらいいなという気持ちで一応確認してみたのだけである。
電話してみるか?いや、なんて言ったらいいかわからない。いつもは、時間が解決してくれる。紗季は、次の日になればいつも前の日のいざこざはたいてい忘れてくれて、普通に接してくれるのだ。喧嘩して、「帰る」とメールした直後に、電話をするなんて一体どういう了見だ。そんなの全く論理的にありえない。喧嘩している最中に心配して電話をかけるなんて言語道断だろう。それに、俺が悪いのではない。紗季が悪いのだ。でも、あいつは・・・。
次の瞬間に俺は、また山を登り始めていた。電話したところで、その後すぐにヒグマに遭遇するかもしれない。結局、紗季に早く合流しなきゃ駄目だと思ったのである。紗季に会ってなんて言う?そんなことその時に考えればいいのだ。
鳴海紗季は、厄介事に巻き込まれる。
長い黒髪に大きな目。猫顔であり細面。若干の釣り目と切れ上がった眉は気の強い性格をそのままに表現している。身長160センチ弱、体重とスリーサイズは知らないが、ウエストは引き締まり、胸はÇカップでスタイルも良い。カップ数は、入学祝いだといって、母が紗季に服を買ってあげた際に、ちらっとそんな会話をしていたのが聞こえたのだ。決して盗み聞きをしたわけではない。聞こえてしまったのだからしょうがない。
そんな誰が見ても美少女と納得せざるを得ない特徴を兼ね備えた紗季には、薄幸の美少女という名文句にふさわしい災難がしばしば降りかかった。薄幸とまでいうと、すべてを思い通りにしてきた彼女には似つかわしくない言葉のようにも聞こえ、少々の語弊があるかもしれないが、災難に巻き込まれやすい体質を持っている彼女はある面において、薄幸と言えるのではないかと思う。
街に変質者が出たと噂が立てば、彼女はその犯人と遭遇し、最近増水しているから川のそばで遊ぶと危ないですよと学校の先生が言えば、次の日には川に流されている。そんな危うい一面を彼女は持ち合わせているのだ。そんな目に遭いながらも奇跡的に無事でいられるのは、強運を持つ彼女が為せる技なのかもしれないが、そんな強運がいつまで続くかはわからない。例のごとく、今回も熊に襲われる確率が高いように思われた。
いつもは、そういうフラグがあからさまに立つと、誰かが彼女にしっかりと危険性を言い聞かせてやることにしていた。紗季にはそういうことに対する危機感が全くなく、滅多に起こらない災難に自分が巻き込まれることなんてありっこないと思っている節があるためだ。主に、それは俺や俺の母や紗季の両親の役目であり、そういう災難に遭遇しそうな時は、必ず注意しろと言い聞かせることにしていた。また、俺は紗季が危険な行動を取らないように、監視役を命ぜられていた。不思議なことに俺達が言い聞かせ、監視してやるとそういった災難に遭遇する確率は大幅に下がる。最近はその習慣がついたためか、そういう災難に遭遇することも随分減った。ただ、俺達も予測できない不慮の事故に出くわしてしまうこともあり、それは避けられないことで、その後も続いた。
しかし、そう考えると今回は、綺麗にフラグが立ってしまっている。あまりに遭遇の危険性が高いように思う。もし、ヒグマに襲われたら、生き残る術はあるだろうか?紗季に追いつこうと急いで山を駆け上がりながらそんな事を考えていたが、助かる道は万に一つもないように思われた。川に流された時は、ちょうどいい大きさの流木に捕まってやり過ごし、警察に救助された。変質者に遭遇した時は、直後に偶然通りかかった警察官が犯人を取り押さえ、あっさり逮捕された。しかし、腕を捕まれ彼女は連れ去られる直前であり、犯人の車にそのまま乗せられてもおかしくはなかった。後、一歩遅ければ、彼女は連れ去られていただろう。情けないことに、俺もその場にいたのだが、連れて行かれそうな紗季を助けることはできず、恐怖で一歩も動くことはできなかった。
ヒグマに出会って、危機を回避する方法があるとすれば、ちょうどハンターが通りかかることではないか。紗季ならば、そんな奇跡が起きてもおかしくないような気がしたが、ハンターは出動要請も無く辺りをうろついているものではない。それに、ハンターといえど、ヒグマは簡単に仕留められるものではない。やはり遭遇を避けることが一番なのである。
ヒグマは日本最強の熊である。体長はあのホッキョクグマと同じくらいとされ、日本最強どころか、世界最強の熊であるかもしれない。本州にいる胸の三日月マークが特徴的なツキノワグマとは比べ物にならないくらいの凶暴さを備えており、殺人熊としての輝かしい実績を持っている。日本史上最大の獣害とされている三毛別羆事件。大正4年に北海道苫前郡苫前村の山間部にあった集落の三毛別に現れ、数度に渡り民家を襲い、7名が死亡、3名が重傷を負った大事件である。このあまりに衝撃的な事件は小説やドラマの題材にもされ、少し年配の人であれば、知っている人も多いかもしれない。俺は、吉村昭先生の熊嵐という小説を以前少しだけ読んだことがあり、熊に抱いていたイメージが非常に恐ろしいものに変わった。クマは怖いから気をつけてねと口々に皆話す。しかし、北海道では「の・ぼ・り・べ・つと言えばク・マ・牧場~♪クマ牧場~♪」という歌声と音楽に合わせて、可愛いクマの姿が飛び出す呑気なCMが放映されており、クマで商売をしようという精神が作り出す気の抜けた雰囲気に押され、そこまで恐ろしいと意識をしたことはなかったのである。森のくまさんという呑気な童謡や、可愛いクマが登場するマンガやアニメ、くまのぬいぐるみ。こういったものが創り上げたクマのイメージとは、実際の恐ろしさというものを打ち消しているのではないかと思う。熊は怖いとはいうものの具体的にはどう怖いかはあまり教えてもらえない。熊が現れたニュースを聞いても、あまり実感がわかない。そうであるために、残酷さや恐ろしさを十分に理解できていなかったのが以前の俺であった。お嬢さん、御逃げなさいと言ったクマは後からトコトコついてくる。あれは、イヤリングを届けに来たのではなくて、実は動くものを追うという習性に抗えなかったクマが、本能に素直に付き従っただけじゃないのだろうかと今では思う。イヤリングなんて本当はなく、女の子が熊へ捧げた歌は実は命乞いであり、その後の血祭りを暗示していたのではないか。
そんな物騒な事を考えている間に、5合目の看板が目についた。一体どこまで行ったのだろうか。一人きりでそんなに躍起になって頂上を目指すなんて、俺にはとてもできないことだ。でも、紗季なら俺のメールを見て、一層怒りに火がついて、腹立ち紛れにやりかねないとも思う。そんな遠くに行かれると追う方もしんどくて堪らない。筋肉はとうに悲鳴を上げ、明日は筋肉痛で動くこともままならず、数日痛みに悩まされるだろうことが確定的になってしまった。日頃の運動不足が祟り、心肺も限界を迎えており、紗季の背中が早く見えてくれと祈リながら、山を急いで登る。その祈りも虚しく、紗季の背中は一向に見えない。
「駄目だ、少し休憩しよう」
疲れ果てた俺は、休憩するのに調度良さそうな平たい豆腐形の岩の上に倒れこみ、リュックサックの中からスポーツドリンクを取り出し、ゴクゴクと一気に飲み干してしまった。今後の事を考えれば、飲み干してしまわない方が得策ではあったのだが、汗がシャツをびしょびしょに濡らし、喉がカラカラな状態で、飲みたいという欲望に打ち勝つ事はできなかった。俺の体力ではこの勢いのまま頂上にたどり着くことは不可能だ。紗季がどこまで行ったか分からない以上、いつ追いつけるか全くわからない。それに、すでにクマと遭遇しているとも限らない。
なりふりかまっている場合じゃないと思い、携帯電話を取り出し、紗季の電話番号に発信していた。事態は急を要する。
プルルルルルル・・・プルルルルル・・・プルルルルル
出ない。やっぱりまだ怒っているのだろうか?それとも電波が届いてない?いや、おかけになった電話番号は現在電源が入っていないか、電波の届かないところにいるため、かかりませんというメッセージが流れない以上、電波は届いているはずだ。まだ、怒っていてわざと出ないのか?それとも、気づいていないのか?
プルルルルルル・・・プルルルルル・・・プルルルルル
プルルルルルル・・・プルルルルル・・・プルルルルル
とにかく出てくれ。
留守番電話サービスに接続します・・・
くそっ、何度でもかけてやるぞ。
プルルルルルル・・・プルルルルル・・・プルルルルル
プルルルルルル・・・プルルルルル・・・プルルガチャ
「うるさいわね、一体何なのよ!」
「大丈夫か!何か変わったことは無いか?」
「は?一体何よ。順調に頂上を目指してるわよ!頂上を目指すなんてご苦労なことですねって嫌味でも言いに来たわけ?」
「クマは出てないか?」
「クマ?わたしがクマに出会ったら、一緒に森のくまさんのを歌ってあげるつもりよ。」
よくわからない冗談はスルーした。
「お前、鈴つけてないだろ」
「いいわよ。別にクマと出くわして、わたしが死んだって冥には関係ないんだから。」
「そんなわけないだろ!とにかくそこにいろ!」
俺らしくもなく、語気を荒げてしまった。紗季は、普段俺にこんな剣幕で接されたことがないため戸惑い、数秒後に、
「わ、わかったわよ」
と力なく答えた。
「ところで、今何合目あたりなんだ?」
「6合目を過ぎたあたり」
「そんなに登ったのか」
俺は、あれから必死に紗季に追いつこうと、ペースも考えず登り続けたというのに、未だ五合目を過ぎたところであった。後、一合はある。俺のペースでは、20分弱はかかるだろう。そのわずか20分の間に何かが起こらないとも限らない。
「紗季、やっぱり下ってくれ」
「嫌よ、せっかく登ったのよ」
「わがまま言うな、お前の体力から見ればどうってことない無いロスだ」
「なんで冥に命令されなきゃいけないのよ」
「紗季!」
「・・・わかったわよ」
文句を言いつつも、俺の言葉に従うのは、自分の体質をこれまで口酸っぱく言い聞かされてきたからなのだろう。普段、紗季に対して強い態度をとることがない俺が、珍しく怒気を込めて、命令してきたことに驚いたことも、紗季を従わせるのに効果的であったかもしれない。
「じゃあ、なるべく早く降りてくれよ」
電話を切る。さて、休憩も終わりだ。また、登り始めねば。しかし、紗季の顔を見たら、一体何て声をかければいいのだろう。電話だからこそ、あんなことが言えた気がするが、紗季を前にして、掛ける言葉が見つからない。大丈夫だったか?でいいよな。だが、大丈夫に決まってるじゃないと言われて、会話が終わってしまいそうな気がする。その後気まずい雰囲気が漂うだろうが、それでも出たとこ勝負をするしかない。
10分経った、紗季の姿は未だ見えない。本当に6合目過ぎた辺りだったのかが疑わしくなってくる。たしかに自分がどの位置にいるかはGPSで正確に把握しているわけでもないので、非常に曖昧なものだし、何合目かを表示する看板が木々に紛れて見えづらくなっていることもある。実際、以前登った時に、4合目から次の看板までがあまりに遠く、そろそろ五合目の看板が見えたっていいだろうという頃にも、その表示は現れず、1合ってこんなに長いものであったか?疲れて来たから、感覚が麻痺してきて、時間や距離の感覚が麻酔でも打たれて麻痺してしまったのだろうかと思ったことがある。突然、六合目の看板が眼前に現れた時には、なんだ見逃しただけかと安心したものだ。感覚が麻痺するほど疲れているのならば、到底頂上まで登る体力があるように思えず、途中で断念しなければ、体力が持たないと思ったからだ。登ったところで、降りる体力がなく、そのまま山に取り残され、仙人になってしまうわけにもいかないだろう。仙人にでもなって世俗から隔離されたところで、仙術でも使って呑気に暮らしたいものだが、あまりにリアリティにかけている願いであり、そんな絵空事を叶えるために、家族に心配をかけ、救助隊のお世話になるわけにもいかない。
などという事を考えてるうちに笹の茂みからガサガサッという音がした。よかった、紗季に会えたと胸をなで下ろしたが、すぐにその判断の誤りに気づきヒヤリとする。山道には笹は生えていない。多くの人が踏み歩くことで、雑草が時々生えている程度で、土の地面がむき出しになっている。笹が群生しているのは、その山道の周りである。つまり、ヒトが歩くところでではない。となると、そこでガサガサやっているのは獣しかありえない。
「まさか、紗季はもう・・・」
しかし、紗季の心配をしている場合ではなかった。自分の身も危機にさらされているのである。リュックサックをわざと揺らし、殊更に鈴の音を強調することで、俺はヒグマであるかもしれない獣に怯えつつも、紗季との再会を目指し、歩を緩めること無く前進し続ける。足は、震えていた。死の恐怖とはこういうことを言うのだろう。紗季を助けたいと願い、紗季の側に近づくということは、自らの死の危険性を高めるかもしれないということを、俺はどうして考慮しなかったのだろうか。きっと、少しは考慮をしてはいたのだが、自分が死ぬわけが無いと高をくくっていたのだ。誰も、自分自身がそう易易と死ぬとは思わない。紗季と同じだ。起る確率が限りなく低いと思われる事象に対して、特に、それが悪いことである場合、自分の身にその出来事が振りかかるなんて、有り得ないと思っている。自分は特別だ。神の御加護を受けて、あらゆる災厄を跳ね除けられると信じてしまう。自分は特別な存在ではなく、誰しもが、寒い冬の日に金属製のベンチに座って、金属から熱を吸収され、その冷たさに体が震えるように、悪いことが起る確率も、同様に冷徹で平等であるはずなのだ。また、人々は宝くじに当たるという自分にとって都合のいい幸運を信じている。良いことと悪いことの起る確率の現実と、自分が特別であると考えてしまったために考えだしてしまった確率の差異は、どんどん開いていく。年を取ると経験からだんだんと現実と願望の確率の乖離に気づき始め、その差異の修正を始めるかもしれない。それを修正できない人は、人生に絶望していくのだ。それは、本当に気づいていないのかもしれないし、自分が特別ではないことを認めたく無いという最後の意地であるかもしれない。どっちにしろそういう人は不幸な人生を送るより他はないのだ。
かくいう俺も、自分は普通の人であり、将来は公務員を目指すと悟りを開いたように主張しながらも、深層心理においては、自分は特別な人間だと考えていたのだろう。身勝手なことだ。でも、そう考えることの何が悪い。すべからく生物は、自分以外の視点で物を見ることができない。自分から見える物がすべてだ。「我思う、ゆえに我あり」とたいていの人間が社会の授業で習い、そのフレーズを言ったことだけは知っているが、実際は何をやったのだかよくわからない、思索の大家であるデカルト大先生。彼は、真理に至るために、一切を疑った彼は、自分を含めた世界のすべてが虚偽であるとしても、そのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけは意識を疑い得ないということを主張したそうである。それならば、自分以外の外部の者はすべて虚構であることも否定出来ないのではないだろうか?ならば自分以外は虚構の世界で、自分がヒーローや神になって何が悪い。だって、周りは虚構の世界なのだ。虚構の世界ならば、自分で作り変えることだって可能であるかもしれない。自分が特別だと考える人々を馬鹿だ馬鹿だと否定することをどうしてできようか。自分以外は、虚構の世界と認識しているのだぞ。
ヴェールタースオリジナルのおじいさんが言う意味での、特別という言葉は大多数の人間にとって有り得ることだと思う。彼の特別ならば、万人が達成できそうだ。しかし、自分の思い通りになんでも上手く行く特別な人間に大多数の人間はなり得ないのだ。その意味で、みんながみんな特別な人間だと思ってしまったら、特別な人間しか世の中にいなくなってしまい、特別な人間であることが普通になってしまうではないか。すると、特別な人間が凡人化する。特別な人間には定員があるのだ。
「定員オーバーです、あなたはこの列車には乗れません。それにあなたは乗車切符をもっていないでしょう?」
多くの人は車掌に乗車を拒否される。それでも特別な人間になりたくて、切符も持たずに、走りだす列車にしがみつこうと頑張っても、徐々に速度を上げる列車に振り落とされ、線路には屍が累々と積み上げられていくのだ。これまで一体何人の人間が屍となってしまったかは想像がつかないし、星の数ほどいるという使い古された比喩が非常にぴったりなのではないだろうか。
くだらない妄想をすることによって、恐怖は和らいだかに思えた。一方、以前ガサガサという音は俺の耳に付き纏う。ずっとガサガサ聞こえるということは追われているということなのだろうか?それならば、紗季が獲って喰われているということは無さそうであり、彼女はまだ生きていると見てまず間違いなさそうだ。致命傷の一撃を紗季に浴びせて、立ち去るという可能性は排除した。獲物を仕留めて、何もせずに帰るということはないだろう。この時期のクマに決して豊富な食料があるとは思えなかったからだ。
やれやれ紗季はまだなのか、かれこれ十分がまた経過した。俺の算段では、もう会えてもいい頃合いだ。いくらなんでもおかしい。まさか何かあったのか?
道は岩場に差し掛かる。今までは、たまに石段があるくらいで、ほとんど土の上を歩いていたのだが、ここからはゴツゴツした岩が道を構成しており、歩きにくいことこの上ない。親切なことに、ロープが張られており、登山者に配慮されている。俺はすっかりこの岩場を忘れていた。そのゴツゴツは、直方体とも言えない程多い角を保持しているし、ひとつひとつ違うため、なんとも形容しがたいが、近似的に球体と仮定すると、半径1m位のものが多いかな。うん、適当だけど。休火山であるこの山が、100年以上も前に、噴火した際のマグマが固められて出来た溶岩である。こういうのは玄武岩っていうんだっけ?中学で習ったはずだが判然としない。試験を通過するための知識は、実物を前にすると全く役に立たないと思う。実物の区別がつかないのに、俺は溶岩の種類を覚えたと胸を張って言えるのだろうか。
この岩場を計算に入れていなかった。紗季はもう少し上にいたのだろう。これならあまり早いスピードでは降りられない。
ふと、ロープの先を見上げると、紗季の背中があった。30メートルは離れていただろうか。紺紫を基調とし、白い縦線が入っている中学校指定のジャージを着ている紗季の姿は、わずか2ヶ月前の体育の授業では見慣れた光景であり、つい先程一緒にいた時だって、その格好でいたはずなのに、なんだか懐かしく、10年振りの邂逅とでも言えるような感動を与えたように思う。
「紗季!」
思わず叫んでいた。普段は、叫ぶことなんて滅多に無く、声が小さいと怒られる俺がだ。俺から見て背中を向け、ロープに捕まって、岩場を下る紗季は、首だけ捻ってこちらを見る。
「ちょっと、そこまで来てるなら早く上がってきてよ。また、登らないといけないんだからね!」
この期に及んで、未だに頂上を目指すことを諦めない、その決めた事を簡単には捻じ曲げない猪突猛進な姿勢には感服せざるを得ないが、俺にはその体力が残されているようには思えなかったし、まずスポーツドリンクを飲み干し、水分補給もままならない状況では自殺行為のようにしか思えなかった。
「なあ、飲み物も無くなっちゃったし、ここで終わりにしない?」
「何言ってるのよ、ここまで来て下山なんてそんな消極的な姿勢許さないわよ。冥の言うことを聞いてあげたんだから、わたしの言うことも聞いてもらうんだから」
それは、あなたの事を想って進言したことなのですが・・・どうか我が王よ、お怒りを鎮め給えと冗談めかして言っても、きっと無駄だろうなあと思ったので、口をつぐんでおいた。黙って、ロープを手繰る。
「飲み物ならわたし500ミリリットルのスポーツドリンク2本持ってるから大丈夫よ!わたしまだ一本目が少し残ってるし。それ以外にも、水筒にお茶入れてきたわ。」
そんなにたくさんの液体と俺の分も含めたお弁当を背負って、よくもそんな元気に動けるものだと感心する。あいつの体は、鋼の肉体だな。少し男であることが恥ずかしくなってくる。ちなみに、お弁当は、自分の分は自分で持つと俺も言ったのだが、
「あんたに持たせたら、途中でバックレるでしょ」
と俺の策略をまんまと見透かした紗季が、その包みを離さなかったのである。だから、紗季と別れた後にお腹が空いても、俺は早弁することができなかったのだ。人参をぶら下げられた馬は、主人の命令に従うより他は無い。また、そのほうが幸せだ。
10メートル程登った時に、ふと紗季の表情が変わる。何かえらく驚いているようだった。彼女は指をさして、理由を示す。その方向を振り向くと、今までの努力が水泡に帰したとしか思えないような心持ちになり、覚悟はしていたが、人生とはこのようなものだと悟りの心が去来した後に、今までにしたこともない身震いをした。全身はガクガクと震え、どれだけ落ち着け、落ち着けと考えても、冷静になることは難しかった。紗季じゃなく、俺の身に危機が迫るとは、俺もまだまだ捨てたものではないかもしれない。だが、矛先がすぐ近くにいる紗季に向かうとも限らない。クマはゆっくりとこちらの方に近づいてくる。それはノッシノッシといった感じで、テレビで見るぶんには微笑ましい光景としか思えないのだが、肉眼で見るとその巨体に圧倒され、脳天気にソファに寝転がって、自然っていいなあと思っていた在りし日の自分が恨めしくなる。
「死んだふりはダメだ」
とりあえず、思いついた対処法は、これであった。古来より伝わるこの方法がデマであることは、周知の事実である。知らなかった人は、俺のような目に会うかもしれない将来のために絶対に覚えておくべきである。対処法というよりは、禁則事項であり、他に何も思いつかず体が震えて一歩も動けない状況では、死んだふりとあまり変わらない。
深呼吸して、少し冷静になった時、対処法を思い出す。別のものに興味を持たせるという方法である。リュックサックなどをばらまくことで、クマの気を引き、動くものを追う習性に気をつけて、クマの方を向きながら後ずさりをして行く。岩場という後退りをするには、最悪のシチュエーションのなか、他に対処法が無い俺は、藁にもすがる思いで、この方法を試すことにした。試すというのは、失敗しても次があるようなニュアンスを含んだ言葉であるが、今回のケースでは失敗したら次はない。
眼光がきらりと光っているように見えるヒグマの両眼から、目を離さないことを心がけ、隙を見せて舐められないように用心する。怖くても、目を逸らしてはいけないのだ。よし、だんだんと冷静になってきた。ロープから一時的に手を離し、リュックを下ろし、母親からもらったチョコレートを取り出す。クマってチョコレートに興味を持つだろうか?でも、成功したら儲けものだ。母さんには一生足を向けて寝ることができなくなるだろう。後ずさりをしながら、クマから目を離さず、リュックから取り出す。そんな複雑な動作を、足場の悪い岩場で、恐怖に震えている体が、上手くこなすことができるはずはなく、バランスを崩した。
俺は数メートル下へ転げ落ちた。運悪く落ちていた枝が、右足太ももに刺さり、全身の色々な箇所を打ち付けた。ヒグマとの距離は5メートルほどまで接近していた。
「冥!!!」
思わず、紗季は叫んでしまったらしい。ところが、以外にも、その声はヒグマに効果的だったらしく、俺から少し離れた。
「冥に何かしたらわたしが承知しないわよ!何かあったら命は無いと思いなさい!」
クマにそんな事を言う人物なんて、古今東西探しても、彼女くらいだろう。ただ、その声には鬼気迫るものがあり、他人を圧倒するだけの凄みがあった。目は若干潤んでいたが、表情は悪鬼羅刹のようであり、美人が台無しであった。その鬼の形相は、見る人が見れば美しいともとるかもしれない。その凄みは、人だけではなく、クマにも通じるのか、クマはすごい勢いでその場からやってきた方向へと引き返していった。雰囲気というのは、人間同士だけではなく、違う動物にも感じ取れるものなのかと驚くと同時に、とりあえずは助かったと安堵した。
十五年生きてきて初めて見る量の血が、足から流れ出していた。よく考えると、外傷なんて、紙や包丁で手を切ったり、転んでひざを擦りむいたりくらいしか経験がない。こんなに血が出て俺は大丈夫なのかと心配になる。急いで、枝を引きぬいてしまったが、後から考えるとこれは失敗で、出血を拡大しただけであった。血相変えて降りてきた紗季は、とにかくジャージを脱ぐように俺に言った。紗季と同じ中学のジャージを俺も着ていた。この期に及んで恥ずかしいと思ってしまい、躊躇う俺のことをうるさいと一蹴して、彼女は俺のジャージを脱がせる。太ももには、直径2~3cmの穴が開いていた。深さはわからないが、1cmくらいはあるかもしれない。紗季は、俺の来る途中に拾った俺のリュックサックから、タオルを取り出し、患部に巻きつけた。トランクスのまま下山するわけにもいかないので、ジャージを着直し、警察か消防に連絡しようかと言っている紗季に、大げさにしないでくれと言ったが、
「そんなこと言ってる場合じゃない!電話する!」
と言って、すぐに電話を始めた。すぐに、山岳救助隊が来るそうであるが、ヘリコプターではなく、徒歩で登ってくるために、俺達が動けるようであれば、ゆっくり下山して来て欲しいとのことだった。救急車が登山道で待機しているそうだ。少し立つと、左腕も痛いことに気がついた。二の腕が少し腫れている。ひびが入った程度かもしれないが、骨折しているかもしれない。岩場をなんとか紗季の助けを借りつつ、這いつくばって抜け、そこからは紗季の肩を借り、ゆっくりと下山していく。紗季とこんな密着したのはいつ以来だろうと思いつつ、右足の痛みに耐えて、一歩一歩進んでいく。左腕が使えないため右手で、紗季の細くて逞しい右肩をつかみ、紗季は左腕で俺の左肩をつかむ。
「足、大丈夫?左腕も、肩触ってて痛くない?」
いつになく、優しい声で何度もそのような優しい言葉を語りかけてくる紗季に、
「大丈夫、大丈夫」
と馬鹿のひとつ覚えのように、力なく同じ言葉を俺は繰り返す。きつく縛ったタオルによって、出血量は減ってはいるが、完全に止まったわけではなく、徐々に血は染みだしてくる。俺の右足だけではなく、たまに触れてしまう紗季の左足も血に染まり始め、中学校の思い出のジャージは、二度と外で着ることができなくなってしまった。
こんな非常事態であるのに、紗季の引き締まった柔らかい肩の感触と、時々押し付けられる胸のなんとも言えない柔らかい感触に、少しドキドキしてしまったことは、否定できない。紗季の方は、そんな事を気にしている素振りは見えなかった。
痛みで、歩くのが辛くなってきた。紗季に休憩を訴える。
「でも、その出血を早く止めないと・・・。顔、青くなって来てるわよ・・・。」
自分ではわからないが、どうやら血の気が引いてきているらしい。比喩ではなく、そのままの意味でにその言葉を使う日が来るとは、ひどい笑い話である。
「わかった。わたしが背負う」
「え?いや、大丈夫・・・」
「背負うって言ってるの!」
紗季はリュックを下ろし、中身を俺のリュックに移してから、そのリュックをその場に置き捨てた。そして、早く乗ってとばかりに俺の方に背を向けしゃがむ。
「早く!」
俺の身長は165cmくらいであり、体重は43kgほど。ガリガリの体型ではあるが、女の子に背負えるのだろうか。紗季は、それなりにスラリと背が高く、力もあるはずだが、それでも少し遠慮がちになってしまう。
「いいから、あんたの体重くらいわたしの体力ならいけるわよ」
言い始めたら、絶対に譲らないであろうことはわかっているので、好意に甘えさせてもらうことにした。
「変な所触らないでよ」
そう釘を刺されたのだが、こんなチャンス二度と無いかもしれないし、触っておくのも悪くないかもしれないと思った。けれども、きっと元気になった時に恐ろしい仕返しが待っているだろうと思ったので、細心の注意を払って肩に手を回す。
「いくわよ」
「うん」
立ち上がり、進んでいく。足取りは俺が肩を貸してもらった時より早く、普通に下山しているのと変わらないくらいのスピードであった。可能な限り急いでくれていたようだった。存外、人にしがみつくことは難しい。少しして、不可抗力で上胸に手が触れてしまった。
「ちょっと触らないでよ」
と紗季がつぶやき、耳が少し赤くなったように見えた。後ろからなので、顔は見えない。
「ごめん。捕まるのが難しくて」
「次触ったら、後で殺すから」
首尾よく下山できても俺の命は無いかもしれない。痛みで、元気がないはずなのに、ドキドキしていた。勃起してしまったら、絶対バレてしまう状況なので、落ち着け俺と言い聞かせる。
しばらくすると、疲れで、体が重くなってきた。出血も止まらない。
「きゃっ、ちょっとそんな直接触るなんて、死にたいの!」
その時の感触を俺は覚えていない。回している手の力もすっと抜けたらしい。
「冥?大丈夫?冥?」
紗季は、一瞬死んだかと思ったらしい。
「すーすー」
「寝てる?」
この時、無事帰還できても俺を殺そうと、彼女は心に固く決めたそうだ。紗季の胸の感触を覚えていないのは、非常に残念である。
病院で目が覚めた時は、紗季が俺の膝の辺りで突っ伏して眠っていた。どうやら、右隣にあった机の上の時計をちらと確認すると、もう翌日の朝らしい。点滴が施され、左腕はギプスで固定されていた。体を起こして、ぼーっと窓の外のどこの病院でもありがちな観葉樹が植えられた庭の景色を眺めていると、母さんが入ってきた。
「あら、起きたのね」
「うん」
「あんた、出血性ショック寸前だったんだって。輸血もしたのよ。結構、危なかったらしいわよ」
と生命の危機であったのにもかかわらず、まるで心配していなかったかのような笑顔で、母さんは俺が気絶していた間のことを語る。
「紗季ちゃんも心配してたわよ。あんたが寝息を立てた時は、ちょっとイラッとしたらしいけど、時間が立つにつれて、どんどんあんたの顔色が悪くなっていって、本当に危ないんじゃないかと思ったらしいわ。それに、こんな事になった責任感じてたみたい。お医者様は、もう夜には大丈夫ですって、そのうち目を覚ましますから家に帰りなさいって言ったのだけど、冥が目を覚ますまでここにいるってきかなくて。紗季ちゃん頑固だからね。」
「そう」
「後で、謝っておきなさいよ。それにしても、あんたを背負って山を降りるなんて紗季ちゃんすごいわねえ。途中からは、救助隊の人と交代したらしいけど、大分背負っておりたらしいわよ」
「うん、背負われてる時にそう感じてたよ」
「何か食べる?いつ目を覚ますかわからないし、病院食は手配されてないの」
「じゃあ、おにぎりみたいな簡単なものと、お茶で」
「わかった、買ってくるわね。梅でいいでしょ?好きだもんね」
俺が頷くと、母さんは部屋を出ていった。紗季は、目を覚まさない。起こすのもかわいそうだし、放って置こうと思った。しばらく、樹の枝に止まった、雀を観察していたのだが、トイレに行きたくなり、ベッドをそっと出た。
「あれ、冥大丈夫なの!」
少々、寝ぼけた声で、紗季が声をかける。
「あれ、起こしちゃったか。お陰様で。ありがとう」
「もう、心配させないでよね」
強気ないつもの発言とは裏腹に、寝起きのせいもあってか、声に力はなかった。
「ごめんごめん。それに、途中で寝ちゃってごめん」
「まあ、疲れてただろうし、少しは大目に見てあげる」
「そりゃどうも」
「でも、わたしの胸をしっかり揉んだのは許せないわ」
「え?」
紗季の顔に怒りが滲んでいた。そういえば、次触ったら後で殺すとか言ってたような気がする。結局、命は助からないのか?
「その、不可抗力で触れてしまった記憶はあるのですが、しっかり揉んだ記憶はないんだけど・・・」
「あんたが眠った後に触ったのよ!」
「いや、そんなこと言われてたって、意識ないわけだしさ。記憶が無いんだから、無かったことになりませんかね?」
「黙ってようかとも思ったけど、あんたの顔を見てたら言わずにはいれなくなったのよ。それに、起きてた時にも触ってたじゃない。覚悟はいい?」
「命だけは勘弁してくれませんかね。それに、病み上がりですし、暴力は・・・。」
「そんなの関係ないわ」
そうして紗季は、俺の左腕を軽く叩いた。
「痛っ!」
「ふふ、まあ、体罰はこれくらいで許してあげる。でも、元気になったら、色々とお詫びをしてもらうからね。そうね、一日中わたしの下僕として、命令に従ってもらおうかしら。とりあえず、あんたのおごりで、上下カフェのパフェも食べよっと」
上下カフェは、街に一つしか無い喫茶店で、そこのパフェは紗季のお気に入りだ。何かにつけて、おごらされた。
「わかった、いいよ。それくらい」
「やったあ。他にも色々考えとくからね!」
他にも色々しないといけないのか。調子に乗られて、大変な目に合わされそうだと思いつつも、反発はせず、個室の備え付けトイレへと向かう。
用を足してトイレを出ると、紗季は着替えるからトイレに行くと言い、
「絶対覗かないでね」
とそんな元気があるはずもない怪我人に対して、念押しした。紗季は、血のついたジャージのままであった。着替えは、夜に紗季の母親が持ってきてくれたが、その頃にはもう寝てしまっていたらしい。衣擦れやパサッという服の落ちる音が生々しく、こんなところで着替えをするのはちょっと無防備すぎるなあと思っていると、母が帰ってきた。
「あれ、紗季ちゃんは?」
「今、トイレで着替え中」
「そうなんだ。ほら朝食。紗季ちゃんの分もあるからね」
「ありがと」
梅おにぎり二つ、鮭おにぎり一つ、えびマヨネーズおにぎり一つ、有名メーカーの500mlペットボトルのお茶2本であった。えびマヨネーズは好きではないので、梅と鮭をチョイスし、梅から頬張る。
「あっ、亜希さんおはようございます」
紗季が、着替えて出てきた。その服は、母さんが紗季の入学祝いに買ったものだった。
「やっぱりその服似合うわね。紗季ちゃん。あら、冥、見とれてるの?それとも、わたしが来たから、紗季ちゃんの着替えを覗けなくてがっかりしてるの?」
「変なこと言うなよ。それに、鍵をかけたら覗けるはずないだろ」
「もし、鍵がかけられていなかったら覗いてたの?」
完全にからかわれていた。母は人が悪い。
「冥、最低。パフェもう一個追加ね」
「上下パフェ?いいわね、わたしにもおごってね冥」
そんな金無いこと知ってるくせに、母は、適当な事を言っていた。
「そんな金無いことしってるだろう?お小遣いなんとかしてよ。紗季にいくら使わせられるかわからないんだよ」
「お年玉貯めてるんでしょ?それに、冥は倹約家だから、それくらいの蓄えはあるでしょ。倹約家というより、欲しい物を買う勇気が無くて、我慢してるだけかもしれないけどね」
「あのお金は、何か大きいものを買うために貯めてるんだよ。当座のお金じゃない」
「わたしからのお金じゃ、お詫びにならないでしょ。それに、大きなものって言ったって、何買うか決まってないんでしょ?」
図星であった。たしかに、目先の物にちょこちょこお金を使って無くしてしまうよりも、大きな金額をなるべく有用なものに使いたいと俺は考えていた。だから、友人がトレーディングカードゲームを買っていても、これはお金がいくらあっても足りるものではないと考え、買わなかった。長く遊べそうなゲームなどを吟味して、慎重に買った。コストと効用のバランスを真剣に考えていた。しかし、大金を使うべき有用なものとは何かと問われれば、まだ決まってないというより他は無いのである。そうやって、様子を見続けたがために、俺の貯金残高は貯まっていく一方で、お年玉は、ほとんどが通帳の数字に化けていた。
「冥、優柔不断だもんね。心置きなく、使わせてもらうわ」
すでに、自分のお金となったかのように紗季が言う。
「いや、お前のお金じゃないからな。少しは遠慮してくれ」
「ダメよ冥。男の価値は、甲斐性で決まるのだから、大盤振る舞いしなさい。まあ、破産したら、少しくらいなら助けてあげるわ。頑張ってね」
破産するほどの金額を使わされたら本当にえらいことだが、情け容赦ない紗季ならそんな事を聞いてしまった以上、本当にやりかねないと思ったので、貯金通帳に記載されている金額を絶対にバラせないと思った。おそらく、母にお金を補填させることは気が引けるだろうから、しっかり計算して破産寸前までお金を使わせようとするはずだ。
「ところで冥、いくら貯金してるの?」
そらきた。お前の考えていることはまるっとお見通しだ。
「言うわけ無いだろ」
「それはねーたしか」
「いや、ちょっと待って、母さんそれだけは勘弁して」
「ふふ、じゃあそれは黙っておいてあげる」
「えー、いいじゃないですか。亜希さん。教えて下さいよ。」
俺がしゃべるはずもないので、母さんに甘えた紗季であったが、流石にそれだけは言わずにおいてくれた。
「紗季ちゃん、女は男を手玉に取らなきゃいけないのよ。通帳の残高くらい、男に喋らせるようにしなきゃダメよ。男を篭絡して手玉にとるのよ。紗季ちゃんならきっと男が自分から残高を喋るようにさせられるわ」
「亜希さんはどうやって亨さんを手玉にとったんですか?」
亨さんとは、俺の父親のことである。うちの家族は誰がどう見ても母の天下であり、父が完全に母の操り人形と化していた。結婚して16年経ったそうだが、二人は未だラブラブであり、子供の俺が見ても恥ずかしいほどであるのだが、その関係は父が母の命令を絶対服従することで成り立っていた。
「亨さんは、出会った時からわたしにぞっこんだったのよ。だからね、わたしの言う事ならなんでも聞いてくれたわ。わたしのためと思ったら、命令しなくても率先してなんでもしてくれたしね」
「羨ましいです。亜希さんみたいな夫婦に憧れます」
紗季の夫になる人は、不幸であるに違いない。いや、父さんは母さんの命令を聞いているのが実に楽しそうだし、幸福そうだ。うーむ、父さんみたいなドMな性格の人ならいいのかもしれないなあ。俺にはできない。
「亨さんはね、出会った日に、『あなたみたいな綺麗な人は初めて見た。結婚して下さい』って言ってきたのよ。その時は、興味なかったんだけどね。あまりの従順さに惹かれ始めたのかしら。男をとりこにするコツは、美しさと色気よ」
たしかに、母は40代のおばさんであるにもかかわらず周りに若く見られ、アラサーと言われても、違和感はない。昔の写真を見たら驚く程美人であり、どうして母の子の俺がもう少し格好良く生まれなかったのかと思ったものだ。しかし、父親を見ればその原因が簡単にわかり、どうして母親に似なかったのだろうと嘆いたものだ。妹は幸い母親似であり、このまま順調に成長してくれる事を祈るばかりである。
「美しさと色気ですか。わたしで大丈夫ですかね?」
「もちろんよ。紗季ちゃんなら本気を出せばどんな男もイチコロよ。でも、時には大胆に、男を悩殺するようなことも必要よ。露出度高い服を着て、相手にみせつけてやったり、ボディタッチしてやったり、さり気なく体を触らせてやったりね。男を虜にするにはそういうことも大事なことよ。わたしは、日々そういうことに気をつけて、亨さんに接してるの。」
「そ、そ、そんなこと出来ませんよ。恥ずかしいじゃないですか」
紗季は、顔を真っ赤にしていた。たしかに、そうは思っていても実行できる人は少なさそうだ。
「あら、出し惜しみはいけないわ。せっかくいいものを持ってるんだから、それを利用しない手はないわよ。いつもは反抗的な冥も、胸を触ったらおとなしくなったでしょ?いざとなったら慰謝料も請求できるし、女の武器は生かすべきよ」
なんて恐ろしい事を言うのだ。紗季が、本当に裁判所にでも訴えたら一体どうするというのだ。我が母は、息子のことが可愛くないのか。しかし、母の恋愛遍歴に今まで興味もなかったけど、聞く限りでは魔性の女だったのだろう。もし、父さんが浮気でもしようものなら、母さんは妖しげな笑みと共に、父をこの世から葬り去るに違いない。それも自分には罪にならない方法で、恨みを晴らすという欲求を最大限満たすことができる悪魔の所業を考えだし、血も涙もなく、粛々と実行するだろう。
「後はね、餌付けも効果的よ。わたしが考えたお弁当作戦、成功したでしょ」
「あれはそんなんじゃないですよ。冥が元気無いから元気づけてあげようと思っただけで」
あれは、母さんの指示だったのか。普段そんなことに気が回らない紗季が、珍しいことをするもんだなと思ってはいたが、そういうことだったのか。
「そう?まあ、色々な男を奴隷にしておくと、便利よ。冥も頑張ってね。お父さんみたいにしっかり服従するのよ」
「なんで俺が紗季に服従しなきゃいけないんだよ」
「紗季ちゃんが本当の娘になるのが私の夢なの」
「そんな夢を持たないでくれ」
「そうですよ。亜希さんの娘にはなりたいけど、こいつと結婚なんてありえません」
「残念ねえ。でも、紗季ちゃんなら引く手数多でしょうしねえ。冥は、せいぜい奴隷の一員にでもなれるように頑張りなさいよ」
いや、だから、ならないって言っているだろうに。
母さんは、家事と妹の世話があるから、家に帰らなければならず、お風呂に入りたいから一旦帰ると言った紗季を帰りがけに送っていった。暇になった俺は、母さんが持ってきた一ヶ月程前に買った読みかけの小説を読み耽っていた。
昼前に、コンコンとドアを叩く音がした。紗季が帰ってきたのだろうかと思い、
「はぁーい」
と返事をし、扉が開いたと同時に、
「失礼」
というしわがれてはいるが、風格のある声がし、どこかの仙人のようなおじいさんが現れた。現れた人物に見覚えはなかったが、知り合い以外が訪ねてくるとも思えず、こんなインパクトのあるじいさんは一度見たら忘れられないはずだから、覚えてないわけがないと、頭をフル回転させて記憶を掘り起こす努力をしたのだが、何も思い出せなかった。後ろからは、ビシッとスーツを着こなした秘書と思われる女性が一緒に入ってくる。
「こんにちは、嘉神冥君じゃね?」
「はい。失礼ですがどこかでお会いしたことありましたか?」
「初めてだと思うがの」
「はあ」
そこからしばらくの沈黙があった。おじいさんは、俺の目をマジマジと見つめ、何かを推し量っているようであった。凝視されているこちらの方としては、蛇に睨まれた蛙のように非常に居心地の悪いものであり、目を逸らしたいのは山々であったが、不思議と目を逸らすことができなかった。秘書の女性は、その美しい顔を無表情にしたまま佇んでいた。
「ふむ、やはりこの子で間違いないようじゃ。予言の子じゃよ」
「そうですか。では、早速転入手続きを取りましょう」
「そうじゃの。こんな例は初めてじゃから、文科省での手続きが少し面倒かもしれんが、優秀なお前ならすぐじゃろう。頼んだぞ」
「はい、ではすぐに」
すぐに、秘書と思われる人は部屋を出ていった。
「あの、いきなり何言ってるんですか。転入って何のことですか」
「国立予言者高等学校への転入じゃ」
初めて聞く名だ。そんな胡散臭い名前の学校が存在するのか?この人達は詐欺師か?
「初めて聞く学校なんですが、なぜ僕がそこに転入しなければならないのでしょうか?」
「それは、君に予言の才能があるからじゃ」
「予言の才能?」
いよいよ、怪しくなってきた。予言なんかどこかの新興宗教のペテン師がよく使う手じゃないか。この人が教祖として、新興宗教の布教活動にでも励んでいるんじゃないのか?学校は子供のうちから洗脳して、熱心な信者を作るための一つのツールではないのだろうか。それで、なぜか俺はそこに転入させられようとしている。母さんはこんな胡散臭いことにひっかかりそうにないし、父さんが騙されてしまったのだろうか。
「ふぉふぉふぉ、大方胡散臭いとでも思っているのじゃろう。じゃが、国立予言者学園は、起源も明治に遡る、れっきとした学園研究機関での。小中高大の一貫教育を行なっている国で唯一の機関じゃ。最も、その存在は極秘とされているがの」
「極秘じゃ信用出来ないですね。それに、予言の才能とはなんですか?そんなオカルトチックなものがあるとは到底信じがたいですね」
「ほう、君はリアリストじゃのう。まだ若いというのに夢がない。厨二病はもう卒業したのかの。近年は、大人になっても厨二病の人が世の中に溢れているそうじゃが、君は中学二年生を卒業すると共に、うまく抜け出せた口かな?」
「僕は、ショーペンハウアー先生の教えに共感しているので、大きな夢を持たないことにしているんですよ。彼の著書を読んだ時に、厨二病も卒業しました。それ以前から、厨二病でも無かったと思いますが」
「ほう、その年でショーペンハウアーとは殊勝なことじゃの。彼の幸福論は非常に後ろ向きじゃな。幸福な生活を『生きていないよりは断然ましだと言えるような生活』と定義しているからのう。また、人間は幸福になるために生きているという、ありがちな常套句について、『人間生来の迷妄』と言ってのけておるしなあ。全員が幸せになれるとも言っておらん。じゃが、非常に現実的であり、年をとったジジイには身につまされる考え方じゃな。ただ、わしのようなジジイにはいい教えかもしれんが、君のような若者がそのような思想に取り憑かれるのはちと早いのではないかのう。君にはまだ可能性が残されておる」
「夢を追い、その夢が断たれ、絶望してからじゃ遅いとは思いませんか?今のうちから、しっかりと準備して、静かに暮らすのが一番だと思います」
「しっかりしておるのう。まあ、君は未来が見えるから殊更にそう思うのかもしれんな」
「未来が見える?そんなもの見えたことはないですよ」
「そんなはずはないのう。予言者としての才能はわしが保障する。君は、周りの人物が、どういうふうに行動するかなんとなく見える時がないか?見えるというよりわかってしまうといったほうが適切かのう。占い師が水晶玉を前にして見えますって言うのとはまた違うんじゃ。ただこれからそうなる気がするし、そうに違いないと思ってしまう。そして、その予測はズバリあたってしまうんじゃ。どうかね?そんな体験をしたことはないかのう」
「ありませんよ」
嘘だった。そういう体験をしたことが今までにたくさんあった。しかし、そう口にしたら厄介事に巻き込まれるような気がして、咄嗟に何食わぬ顔でそういってしまった。
「嘘じゃの」
「どうして嘘だと言い切れます?あなたが予言者だからですか?」
「そうじゃ。お主はそう思っておらん」
「あなたが、僕が嘘を言っているかを断定する術はありませんよ。予言者であることを僕に証明できないのだから、僕が嘘を言ったかは予言でわかったと言っても、説得力がありませんよ」
「なかなか口が達者じゃのう。でも、それくらいの方が、予言者としては大成しそうで、結構なことじゃ。それじゃ、ひとつ証明してみせよう」
そうして、仙人はズボンの左ポケットから最新式のスマートフォンを取り出し、それを操作しはじめた。実に、仙人のようなその風貌とは不釣り合いな代物であり、それを何の苦も無くスイスイと操っている光景を見せつけられると、やはりこのじいさんは只者ではないとしか思えず、警戒心を強める。
「これを見たまえ」
眼前に差し出されたスマートフォンの画面は、一つの画像であった。
「矢田首相とあなた?」
「そうじゃ、矢田ちゃんとの飲み会で撮ったものじゃ」
お酒を飲み、顔を赤らめた二人が仲良く肩を組んでいる画像であり、じいさんはニコニコ笑い、ピースサインまでしているのだが、首相の方はというと、少しばかり迷惑そうにしており、笑顔がひきつっているように見えた。総理大臣をちゃん付けで呼ぶなんて、一体どんな立場にある人なのだろうかと思う反面、未だに疑いは捨て切れていない。
「この画像が、加工されて作られたものではないという証拠は?」
「ふむ、昔はこれで皆信じたものじゃがなあ。最近は多いのう、信じない人。7割くらいの人は合成を疑うわい」
3割の人が迂闊すぎるのではないかと思う。詐欺が横行する現代において、こんな怪しい話しを持ってきた人物が見せる画像を、素直に信じろという方が無理だ。それに、現代は加工技術が進歩しすぎていて、素人では合成か判別がつかないのだ。
「40年くらい前まではほとんどの人が信じたのだが、やれやれ写真の加工技術が上がりすぎるのも困ったものじゃ。さて、どうしたものかのう」
そういって、スマートフォンを左ポケットにしまい、今度は名刺ケースを右ポケットから取り出した。
「とりあえず、名刺でも渡しておこうかのう」
名刺には、国立予言者学園学長 仙崎冶太郎と書かれており、連絡先として、住所・電話番号・携帯電話番号・メールアドレスが書かれていた。
「これで少しは信用してもらえたかな?その携帯番号にかければ、今見せたスマフォにつながるはずじゃよ。試してみたらどうかのう?」
俺は、自分のスマートフォンを取り出し、その電話番号を入力していく。発信はもちろん非通知で行った。
パンパカパカパカパンパン、パンパカパカパカパンパン
笑点の音楽が鳴り響く。学長は、電話を取り、
「これで信じてくれるかのう?」
と直接声が聞こえる距離にあるにもかかわらず、わざわざスマートフォンに向かって喋りかけていた。
「まだ、信用はできませんね。なかなか手が込んでいますが、これくらいは事前準備のうちかもしれない」
学長に合わせて、俺もスマートフォンから話しかけていた。
「まあ、そうだとは思っていたがのう」
そういうとすぐに学長は、スマートフォンから耳を離し、通話を切る。
「困ったのう。証明する手段が思いつかん。お主は、例えばトランプで予言どおりのカードを引き当てても、マジックじゃないですかと疑うような人間じゃろう?普段なら、入学の手続きの書類と学園案内パンフレット、さっき見せた画像、極めつけは予言で説得している人物の考えている事をすべて言い当てることで、信じこませるのじゃが、お主には最後の手段がとれんからの」
「最後の手段が取れないって、どういう意味ですか」
「お主には、予言が通じないんじゃよ」
「じゃあ、さっきまで俺の気持ちを言い当てているかのように話していたのはすべて勘ですか?」
「そうじゃ。わしの勘も捨てたもんじゃないじゃろう?」
おいおい、それじゃ予言者じゃないということを暴露しているようなものではないか。やはりただの詐欺師なんだろう。
「予言の才能がある者は、小学校から入学するんじゃ。そして、文部科学省から、しっかりとした文書が5歳の誕生日に届くことになっておる。そして、霞が関にある文部科学省庁舎の秘密の一室に保護者と入学者を集め、しっかりとした説明を行うことで、国家機密である予言者学園のことを信頼してもらうことにしておる。その際は、時の首相も顔を出すことになっておるし、ここで全員が信じる。それに不参加だった者に対して、わしやその部下がわざわざ出向いて、説明するのじゃ」
「僕に予言の才能があるのであればどうして5歳までにその手紙が届かなかったんでしょうか」
「予言者は、わしとわしの部下の予言によって、発見しておるのじゃ。そして、予言者は、自分と同等以上ある力の強い予言者の予言ができない。お主の予言の潜在能力はわしと同等。もしくはそれ以上じゃ」
「それじゃ、僕は未だに発見されていなくてもおかしくないんじゃないですか?どうして今更、あなたがたに発見されて、転校しろだなんて言われなきゃならないんですか?」
「お主、死にかけたじゃろう?その時に力が弱まって、わしがお主の存在を予言することができたんじゃ。予言者の力は体調により増減するからのう。まあ、死にかけることでも無い限り、あれほど大幅に力が減退することはない。我々にとっては行幸じゃったがのう」
紗季・・・このじいさんの言っていることが本当なら、お前のせいで厄介事に巻き込まれるはめになりそうだぞ。どうにか押し切らなければ。
「でも、それも証明できませんね。このまま話し続けても堂々巡りになりそうだ。そろそろ昼食の時間です。お引き取り願いましょう」
「仕方ないのう。奥の手を使うかのう」
じいさんは、またスマートフォンを取り出し、どこかに電話をかけはじめた。
「おお、ジュニア。わしじゃ。仕事頑張ってるかのう?・・・結構。矢田ちゃんおるかのう?何、党での会議中じゃと?そんなものちょっと抜け出させろ。こっちは一大事なんじゃ」
矢田?矢田って、首相のことか?忙しい首相にそんな命令するか?手の込んだ芝居じゃないだろうか。それから1分ほど、じいさんは、黙って待っていた。
「おお、矢田ちゃん。昨日話した予言者の件なんじゃが、やっぱり電話に出てくれんかのう?うん、そうなんじゃ。知名度が低いわしじゃどうにも信用に欠けるらしくてのう。優秀な予言者を育てるのも国の繁栄には重要なことじゃ。頼んだぞ。想像以上に疑り深いやつじゃから、ここからはテレビ電話にするぞ」
そうして、スマートフォンを操作し、テレビ電話に切り替えたようだった。
「ほれ、少年。日本の首相と話す大事な機会じゃ。聞きたいことを聞いておくがよい」
そう言って、スマートフォンを俺の方に投げた。あたふたしながらなんとかキャッチしたものの、いきなり総理大臣と話せと言われても、畏れ多くて話せるものではない。ましてや、予言者や国立予言者学園が本当に存在するのかの真偽を確かめるためには、一体どんな質問をすれば適切なのか、さっぱり検討もついていない。
「あの、こんにちは」
笑顔は、引きつっていいないだろうか、今の一言で何か失礼なことは言わなかっただろうか。偽物でなければ人生で出会った中で最も偉い人にあたるため、嘗て無い緊張感に襲われ、たった一言を交わしただけで、途轍もない疲労を感じた。
「こんにちは。テレビなどで見たことがあるとは思うが、首相の矢田武だ。君が、嘉神冥君かな?ふむ、なかなかの好青年じゃないか。すまないが、時間がないから、早速質問を受けたい。何が聞きたい?」
「えっと、急に電話に出ろと言われたもので、何を質問していいのかわからないのですが・・・」
「ハハハ、学長にも困ったものだな。わたしもいつも泣かされているよ。まあ、予言者とは、わたしも一緒に仕事をさせてもらっているが、専門家じゃないし詳しいことはわからない。予言者とは何者かについては、学長に聞いたほうが早いし、その質問に答えても無駄な時間になるだろうな。君がわたしから聞くべきことだけしゃべってやろう。古来より、占い師などのお告げが国を動かしてきたという話を聞いたことがあるだろう?それは今でも続いていて、予言者が、この国だけでなく世界に数多く存在し、その力が国や世界を大きく動かしている。予言者は実在する。国内だけでなく、国家間で予言者の力を使った激しい競争が起きている。国家が予言者を育成するのは、国民のためであり、それを公にしてこなかったのは、世の中に予言者が実在すると公表してしまえば、社会的に大きな影響を与えて、世の中のバランスを崩してしまうからだ。わかるね?」
「なんとなくわかる気がします」
たしかに、予言者が世の中にいるということが公表されれば、自分の未来を知りたい人がこぞって予言者の元へやってくるであろうが、それはきっと予言者にはさばききれない人数であるに違いない。それに、ある人が予言者のアドバイスに応じて行動することで、また別の人の未来がその人にとって悪い方向へ変わってしまうかもしれない。そうすると、その人は怒り出すに違いない。予言者はその調整に明け暮れ、過労死してしまうかもしれない。国のための仕事から一般市民の面倒まですべて見ることは難しいだろう。
「信じてくれるかな?少なくとも、わたしが本物の首相であることは信じてくれるとありがたいね。そして、あわよくば世間ではひどく叩かれている日本の首相の妄言を信用し、国立予言者高校に進学して、ゆくゆくは私の助けになって欲しい」
「あ、はい」
思わず、頷いてしまった。
「そうかそうか。それじゃあ、君の成長を期待してるよ。次に会う時は、日本国民のために貢献できるような仕事をしてくれたまえ。では、失礼する」
首相はうれしそうに笑いながら、電話を切った。
「ふぉふぉふぉ、決まりじゃな」
「いや、今のは、話の流れで・・・決めたわけじゃないですよ」
「ほう、首相に嘘をつくとは、君も畏れを知らんやつじゃなあ。別に構わんが、どうなってもしらんぞ?まず、お主が考えているような未来は歩めんじゃろうな。大方、公務員にでもなってのんびりと暮らそうと思っていたんじゃろうが、もうそれは無理だと思わないかね?」
「うっ。それは、たしかに・・・」
一時でも、国のトップについたような大物政治家が本気を出せば、国家公務員はおろか、地方公務員でさえ、彼の指事によって操作できるように思えた。もしも、恨みを買えば、僕にどれだけその素質があろうとも、必ずや試験に落とすという手筈を整えるだろう。
「頷いてしまう前に、気づいたじゃろ?頷いたら、もう終わりだということに。お主は、未来が予知できるくせに、その使い方が下手じゃのう。不器用なのがよくわかる。本気を出せば、お主の思い通りに色々な事を運ばせることだって可能じゃぞ。ちと、頭をつかうがな。そういうことも学園でしっかり学ぶべきじゃな」
俺は、何も言い返すことができなかった。たしかに、ここで頷いてしまえば、後には引けないだろうということが、首相の言葉を聞いた瞬間に頭をよぎった。しかし、コミュニケーションを取ることを苦手としている俺は、あそこで愛想笑いを浮かべながら、相手の言うことにただ頷くことしかできなかった。突然、日本のトップからのテレビ電話を受けたコミュ障の人間が、萎縮して、そのような状態になってしまい一体何が悪いのであろう。そう強がったにしても、今のやり取りによって、俺は自らの将来設計に大きな再考を迫られてしまったようである。
「君が取るべきベストな選択は、うちの高校に転入することになったようじゃのう。それともまだ、さっきの首相はよくできたCGか何かで、偽物だからやっぱり今までの話はすべて作り物だとでも言うのかね?」
俺は黙っていた。口にできる反論の言葉が思いつかなかった。
「ふぉふぉふぉ、ダメ押ししとこうかのう。どうじゃ見えるか?」
学長の頭上、左横に降臨するは、伝説上にしかない架空の生物、ドラゴンであった。
「ドラゴン?」
「名前は、ドラちゃんじゃ。トリックじゃないぞ。まあ、ある意味トリックじゃがな。お主以外には、見えんしのう」
「ハハハ、予言者であることを俺に信じこませるにはこれを最初に見せたほうが良かったんじゃないのか?」
「最初に見せても、お主は信じないじゃろう?どうせトリックとか言って、その後の話しにも聞く耳を持たんに決まっておる。そうなると、ますます説得に時間がかかってしまい面倒じゃ。物事には順序というものが大事じゃよ」
「僕にしか見えないというのは、どういうことですか?」
「このドラゴンは、使者と言ってのう。予言者が訓練をすることによって獲得できる使い魔じゃ。しかし、この使者は、予言者のイメージで作り出すものであって、実際にはこの世に存在しないのじゃ。言うなれば、妄想を現実にありありと具現化したものじゃな。ファンタジーでは、現実には有り得ないものが存在するが、こいつらはその類とはちょっと違って、こんなにはっきり存在しているように見えるし、触ることもできるのじゃが、にもかかわらずこの世には存在しないのじゃ」
「ちょっとよくわからないのですが、存在しないのに見えるというのはどういうことでしょうか?」
「人が頭の中にイメージしたものを外側に出すことに成功した幻覚が使者じゃ。幻覚が見えたことがある人の話は聞いたことがあるじゃろう?じゃが、幻覚ゆえに、その幻覚を創りだした人にしか見えんはずじゃ。それにもかかわらず、それが見える人がいる。どういうことかわかるかな?」
こんな問題を出すということは、今までの会話でそれを理解するヒントがあるということなのだろう。俺は、しばし沈黙し、正解を探す。そして、気づく。
「まさか、予言者が人の心を読めるから、人の心が創りだした幻覚も読めるということですか?」
「そのとおりじゃ。人の心を読むことで、外部に創りだした幻覚を読み取ることが可能であり、お主はわしのドラちゃんを見ることができたのじゃ」
「俺にしか見えないという意味は?」
「それは、お主がわしと同等の力を持つ予言者だからじゃ。同等以上の力を持つ能力者じゃないと断片的にも心を読むことができん。日本で、わしと同等の力を持つ予言者はお主だけじゃ。だから、わしのドラちゃんはお主にしか見えんな。もっとも、お主のような逸材が、この日本のどこかに隠れているかもしれないということは否定できんがな」
「このドラゴンは、何のために必要なんですか?」
「力を制御するためじゃ。お主は、自分が未来を予想した時に、それが事実に基づいて判断した単なる推測であるのか、予言という能力によるものなのか判断できないじゃろう?お主だけじゃなく、たいていの予言者がそれを区別することを困難としておる。予言者は、常時物事を予知しているというわけじゃないんじゃ。しかし、それが厳然と区別されなければ、予言を行う際にノイズとして混入した推測が、大いなる判断ミスに繋がってしまう。区別する方法として編み出されたのが、使者を頭に思い浮かべ、それを具現化するという方法じゃ。予言をする際に使者を介入することによって、推測と予言を区別することに成功したのじゃ。世界には、他にも様々な方法があるとされているが、現在の主流はこの使者想起法じゃのう」
「それじゃ、ひとつそれを使って予言をしてみてくれませんか?」
「いいじゃろう。何をしたら良いかのう?」
「そうですね。ちょうど点滴が切れそうですから、僕がナースコールで看護婦さんを呼びます。その人にトランプをよく切ってもらい、最初に引くカードを予言してもらいましょう」
「ふむ、かなり難しい予言じゃな。まあ、いいじゃろう」
「トランプはもちろん持っていますよね」
「こういう時のために、一応用意しておる」
「じゃあ、呼びますよ」
ちょっとドキドキしながら人生で初めてのナースコールを押す。
「どうしました?」
「あの、点滴切れたみたいなので替えていただけませんか」
「わかりました」
看護婦さんは、すぐにやってきた。二十代後半で、肩にかからないくらいの茶髪であった。体つきはほっそりしているが、力仕事も必要とされる職業柄、腕などからそれなりに筋肉質の体をしているのが見て取れた。性格は非常にサバサバしているタイプと推定する。
「すぐに点滴交換しますね」
点滴の交換はものの数十秒で終了した。忘れるなというように目配せしてきた学長に促され、俺が話を切り出す。傍らにはドラゴンの姿があった。
「終わりました」
「ありがとうございます。あの、実はひとつお願いがあるのですけど」
「何ですか?」
「実は、おじいさんと賭けをしまして、このトランプを引いて、赤のカードが出れば僕の勝ち。黒のカードが出ればおじいさんが勝ちという勝負をしているんです。ですが、僕かおじいさんのどちらかがカードを引くと、その際にイカサマをするかもしれませんので、中立であるあなたにお願いしたいと思いまして」
「イカサマですか?お二人ともマジシャンか何かなんですか?随分と猜疑心がお強いんですね。いいですよカードを引くくらいなら」
看護婦さんは、僕らの謎の用心深さに苦笑しつつも、了解してくれた。
「じゃあ、このトランプで頼むのう」
「わかりました」
「よくトランプを切ってくださいね」
「はいはい」
トランプは新品で、まだ封も切られていなかった。カジノではイカサマを防止するために、新品のカードを使うと聞くが、そこまでする学長の用心深さには驚いた。彼女もそれに驚いていたようだが、子供の頼みを聞く母親のような返事をしてから、封を開けて、トランプを切り始めた。一回、二回、三回、小気味よく点を切っていく。そういえば、そろそろ仙人に予言をしてもらわなければならないと思い、そちらの方向に視線を向けると、学長は心得たとばかりに微笑み、ドラゴンに静かに語りかけた。
「さあて、何のカードが出るかのう?」
「赤だといいですね。それにしても、こんなに慎重にゲームをするなんて、一体お二人は何を賭けているんです?」
看護婦さんには、ドラゴンが見えないため、自分に話しかけたのかと勘違いし、学長のつぶやきに反応する。ドラゴンは、その間少し考えているような表情を見せ、まだ回答を提示しなかった。
「僕たちは、退院後に僕が転校するかどうか賭けてるんですよ。実は、おじいさんが遠くに引っ越すというので、独りじゃ寂しいから一緒に来ないか?とうるさくて。引越し先は都会だから、こんな田舎より勉強する環境としてもいいぞと言ってるんです。それに、こんな事故にあったのも、ここに居続けると運気が落ちるからだといわれまして。でも、僕は今の学校が気に入っていますし、地元が好きなので、あまり乗り気になれなくて」
「すごく重要な賭けみたいね。そんな大役わたしが引き受けちゃっていいのかしら」
「十分です。是非、お願いします。カードは赤がいいですね」
「あら、でもおじいちゃんの意見も蔑ろにはできないわ」
よくもこんな口から出任せがポンポンと出てくるものだと、自分でも感心しながら、時間稼ぎをしつつ、もう一度ドラゴンに目を向けると、ちょうどドラゴンが口を開いた。
「スペードのエース」
顔に似合わず可愛い声をしていたが、予言の結果は図らずも、俺の転校を告げていた。
「ふん、この賭け、色々な意味でわしの勝ちじゃな」
「おじいちゃん、強気ねえ。いつもこんな勝気なの?」
「ええ、うちのおじいちゃんは、負けず嫌いなんですよ。しかも、稀代の勝負師で、非常に博打に強いんです。でも、僕も負けるわけにはいきませんよ。では、そろそろお願いします」
「なんだか責任重大になってきたわね。どっちが出ても恨まないでね」
「ええ、恨みっこ無しですからご心配なく」
そうして、看護婦さんは、トランプを切ることを辞め、一番上のカードに手をかける。緊張の一瞬である。サバサバした性格という見立て通り、思い切りよく彼女はカードを表にした。
「スペードのエースね」
「おじいちゃんの勝ちですか」
「ふぉふぉふぉ、わしの勝負運が勝ったのう。転校は決定じゃな。そろそろ入学手続きの書類が届く頃じゃのう。サインを頼んだぞ」
「仕方ないですね。わかりましたよ」
多少の落胆を隠せなかったものの、自らの運命がこのようになってしまうことは、最早わかりきったことではあったので、駄々をこねることもせず、あっさりと了承した。転校するという決断をあっさり認めたことに驚いたのは看護婦さんである。
「潔いのねえ。嘉神君、あなたきっといい男になるわ」
「いえ、薄々こうなるような気がしていたので、納得がいったんですよ。結果は、残念だったと思ってます」
「そう、でも彼女を泣かせちゃ駄目よ」
意味深な台詞を残し、彼女はトランプを僕に手渡して、去っていった。
「ほう、高校生で彼女とは青春じゃのう。そろそろ現れてくれるかのう。どれ、来る時間を予言して、彼女が来るまで待ってみようかのう」
「やめてくださいよ。それに、彼女じゃありませんから。」
「なんじゃつまらんのう。だが、彼女に間違えられるということは、彼女候補には違いない。やっぱり予言して見ようかのう。ドラちゃん頼んだ」
「だから、そんなんじゃないですから」
ガチャリとドアが開く。紗季であった。
「冥、その人は?」
時刻はすでに正午を回り、昼過ぎであった。
「紗季、どうして?」
「昼ごはん作って来てあげたんじゃないの。昨日は、せっかく作ったのに、あんたは食べれなかったしね。ところで、そちらのおじいさんはどなたかって聞いてるんだけど。あんたのおじいさんじゃないわよね」
油断をしていた。学長と話している間に、母さんや紗季が入ってくる可能性は、十分あるはずだった。しかし、予言や転校といったわけのわからない話についていくために、必死にそちらの方に頭をフル回転させていたため、そこまで頭が回らなかった。
「ほう、ドラちゃんに聞くまでもなかったのう。しかし、まだ誰も来ないと思っていたが、おかしいのう」
「ドラちゃんって、なんですか?」
また、このじいさんは余計なことを言って、話をややこしくする。紗季は、俺のベッドの方へ近づいてくる。入り口から背を向けて座っていた学長は、首だけで振り返って、紗季を品定めするように見極め、ひざに乗せていたドラゴンを撫でて可愛がっていた。俺にしか見えないのだから、そのままでも問題はない。それよりも紗季に上手い言い訳をして、この場を乗り切ることが大事である。紗季は俺のすぐそばまで歩み寄り学長の右隣に陣取り、学長の膝下を見て、目を丸くした。
「そのいきもの何ですか?」
紗季の言葉に衝撃を受けたのは、俺よりもむしろ学長のようであった。それはそうであろう。彼は、紗季にはドラちゃんが見えるわけがないと高をくくっていたのだ。未だ若干半信半疑である俺とは違い、予言の能力が存在することに確信を持ち、これまでの説明は嘘偽り無いと言い切れるならば、その反応は極自然であるかもしれない。
「えっと、これはじゃのう・・・。お主見えるのか」
今まで、人を喰ったような態度をとってきたご老人であったが、驚きのあまり歯切れが悪かった。柄にも無く狼狽している。
「はい、見えますけど?それにしても可愛いですねえ。こんないきものは初めて見たんですが、一体なんていう動物なんですか?ドラゴンみたいですよねえ」
ドラゴンに興味が移ったため、このじいさんが何者であるかについてはどうでもよくなったらしく、ドラゴンをじっと凝視して、他には何も目に入らないようであった。学長は、質問の返答に窮していた。
「触ってもいいですか?」
「ああ、構わんよ」とドラゴンを手渡す学長。
「可愛いい~♡名前はなんて言うんですか?」
「ドラちゃんじゃ」
「へー、ドラちゃん。どこのいきもの何ですか?」
「うーんと、ここにしかおらんのう、ドラゴンじゃし」
「ドラゴン!?あの伝説上のいきものですか?」
「まあ、そうじゃ。だから秘密じゃよ」
「へー、伝説の生物って本当に存在する場合もあるんですねえ。もしかしたら、ネス湖のネッシーもいるかも」
ドラゴンが実在することに、寸分の疑いも持たない無邪気な紗季に俺は呆れたが、ドラちゃんを撫で回す彼女をただただ見守っていた。ドラゴンは、紗季に撫でられて、目をつむり、非常に気持のよさそうな顔をしている。紗季がドラゴンに興味を持っている隙に、何と言い訳をしてこの場を切り抜けるか、頭を巡らせた。正直に話して、極秘である預言者学園や、予言の能力について説明していいはずがないだろう。最も簡単な乗り切り方は、俺のおじいさんの振りをさせることではあるが、紗季は俺のおじいさんが父方も母方も亡くなっていることを知っているし、その手段を取るわけにもいかなかった。
しかし、俺にしか見えないはずの使者が、紗季にも見えるというのは、一体どういう理由だろう。そのことを学長に問いたい気持ちも山々ではあったが、紗季の前で質問するわけにもいかない。それに、当の学長も思案顔で、そのことについて計り兼ねているようであった。
一方、俺も今度ばかりは上手い話を捏造できそうに無く、考えあぐねており、紗季がこのままじいさんの事なんてどうでもよくなってくれるよう祈るばかりであった。しかし、学長はにわかに吹っ切れたような表情になり、その均衡を破る。
「自己紹介がまだじゃったのう。わしは仙崎冶太郎という者じゃ。お主は、鳴海紗季ちゃんで合っているかのう」
「はい、はじめまして。どうしてわたしの名前を?」
「ふぉふぉふぉ、冥から聞いたんじゃ。僕の彼女ですってのう」
「仙崎さん、からかわないでくださいよ。俺は、紗季とは幼馴染だということしか言ってないですよね」
「そうじゃったかのう。ふぉふぉふぉ」
実に楽しそうに俺たちをからかって笑っていた、面倒なじいさんだ。そういえば、紗季の苗字まで言った覚えはない。事前に俺の身辺について調べて上げていたのだろう。それにしても、昨日発見したばかりなはずなのに、そこまで調べあげているとは、大したものだ。
「それはそうと、紗季ちゃん、お主は未来のことがなんとなくわかったり、人の気持がわかるような気がしたりしたことは無いかのう?」
「そんなのぜんぜんわからないですよ。そういうのは、冥の得意分野です。わたしはからきしです。でも、人に命令するのは得意ですよ」
「お嬢ちゃん、気が強そうじゃしのう」
「命令されるのは嫌いなんです。自分の道は自分で決めたいんですよ」
と言いながら、笑う紗季は、依然としてドラちゃんを愛でることに熱中しており、学長への返事も気もそぞろといった具合であった。
「カリスマかのう」
ぼそっと学長がつぶやく。紗季には聞こえなかったのか、その言葉をスルーする。俺は、詳しく聞きたかったのだが、十中八九極秘事項であることは間違いないと思い、ぐっとこらえた。
「紗季ちゃん、実は今日、冥に会いに来たのは、彼の転校の話をするためなんじゃ」
「転校?冥、転校するの!?」
紗季は、ドラちゃんを落としそうになるくらい愕然として、俺の方を見た。
「いや、まあ、まだ決定じゃないけど、たぶんそうなると思う」
「どうして?今の学校に馴染めないから?」
「それだけじゃないけど、仙崎さんに誘われて少し興味が沸いたっていうかね。一人暮らしでも始めて気分転換するのもいいかなと思って」
「この少年の才能を見込んで、わしが編入をお願いしてるんじゃ。実は、わし、こういうもんでのう」
左ポケットから名刺を取り出し、紗季に渡す。
「私立仙崎学園 理事長 仙崎冶太郎・・・。すごいですね。理事長さんなんですか」
「左様」
そんな表の肩書きを書いた名刺も持っているんだなあと感心した。たしかに、本当の肩書きを言えないのだから、仮の名刺を作っておくのは大事だろう。
「でも、冥のどんな才能を見込んだんですか?そもそもひっそりと地味に暮らしてきた冥のことをどこでしったのでしょう?」
痛いところを突いてくる。世間に轟くような目立った功績を残してきたわけでもない俺に、わざわざとある学園の理事長が才能を見込んで会いに来るなど有り得ない。
「数週間前に、一人でこの辺りを散策しに来たわしが、貧血で倒れたところを、この冥に救われての。今日は、その御礼も兼ねてお見舞いに来たのじゃが、彼と話しているうちに、彼はきっと大物になる予感がして、ぜひうちの学園に来て欲しいと思ったのじゃ」
誰が聞いても嘘臭いと思う話を平然と語る仙崎冶太郎。それに、初めの話とちょっとだけ齟齬が生じている。しかしながら、あまりに堂々としているために、その弁舌には、本当のことを言っているのではないかと錯覚させるような力が込められていたように思う。といっても、紗季を信じこませるには足らないだろう。
「本当なの?冥?」
「ああ、ランニングしてたら、突然、仙崎さんが倒れて、びっくりして、携帯で救急車を呼んだんだ。すぐに秘書の人が駆けつけてくれて、俺は家へ帰ったんだけど、まさかお礼に来てくれた上に、転校の話まで持ちかけてくれるとは思わなかった」
「へえ、そんな話初めて聞いたけど」
疑惑を伴った声音でそう言い、疑いの眼差しを向けてくる。
「わしが口外はせぬようにと口止めしたんじゃ。わしの体調が良くないという噂がどこかで立つと、わしの立場が危うくなりそうじゃからのう」
「そうですか。ところで、学園はどちらに?」
「東京じゃ」
「東京!?」
「名刺にも住所が書いてあったと思うがのう」
「ってことは、冥はそんな遠くへ引っ越すんですか?」
「そうなるのう。我が学園が誇る学生寮に入寮してもらおうと思っとる」
「冥はそれでいいの?」
「俺には、選択の余地が無い、いや、この田舎町を出て暮らすのも5月病を完治させるきっかけになるんじゃないかと」
危うく本当のことをしゃべってしまいそうになった。俺は、決して望んで行くのではない、その選択を強いられているのだ。
「そう・・・冥のためになるならそれもいいかもね。でも、ちゃんと高校デビューしないと、結局今の学校と同じような状況になるかもしれないから気をつけるのよ。わたしは、助けてやれないんだからね」
「ああ、わかってるよ」
紗季はどこか淋しげに見えた。両親が知り合いであるという縁もあって、物心ついた時から、紗季と俺はいつも一緒であった。俺が、このまま転校してしまえば、紗季とは離れ離れになる。長く続いた腐れ縁も、これで終了かと思うと、俺も寂寥感に苛まれないこともない。中学から高校に進学する時は、そのことについてあまり深く考えなかった。もし、紗季が高校に合格せずに、俺だけが今の学校に進学することになれば、もっと早くこの気持ちと出くわすことになったのだろうが、結果的に彼女は持ち前の爆発力で、あっさりと合格してしまった。実のところ、俺は紗季が不合格になるとは思っていなかったのかもしれない。
「すまんが、二人だけで話がある。外してくれんかのう?」
「わかりました。冥、お弁当置いていくから、後で食べてね」
と言って、紗季はドラちゃんを学長に返し、俺に弁当の包みを手渡してから、病室を出ていった。
「彼女は、カリスマじゃな。あんなに力を持ったカリスマを久々に見たわい」
「カリスマ?何ですかそれ?」
「予言者は未来を予言できる。ただし、未来を変える事はできない。与えられた選択肢から最良の選択をするだけじゃ。例えば、お主が道に迷った時に、3つの分かれ道があったとする。何者かに追われているために、引き返すことはできん。予言によると、左の道は、蛇が出てきて噛まれる。真ん中の道を行くと、クマに襲われる。右の道は落とし穴に落ちる。さて、どれを選択する?」
「どれも選びたくありませんね・・・。例えば、蛇に噛まれた後はどうなるんでしょう?」
「そこまでは予知できなかったとする。すべてが見えるとも限らんのじゃ」
「それなら、余計判断に迷いますね」
「そうじゃろうな。ところで、ここで仮に、どの選択をしても結果的に最後は死ぬことが予知できたとしよう。それならば、選択肢を一応与えられてはいるものの、どれを選んでも、結果は同じじゃ。死に方を選ぶという選択でしかない」
「たしかにそうですね。どれも選びたくはないです」
「これは、極端な例ではあるが、予言者を続けているとよくこのようなシチュエーションに陥ることがある。与えられた手札には、活路が見いだせないのじゃ」
「つまり、予言ができても、八方塞がりの未来を変えることはできないと?」
「そうじゃな。絵の才能がある者を、有名な絵描きになれるように導くことならば、予言者にとっておそらく造作も無いことじゃろう。おそらくどこかに有名になるカードがあるはずじゃからな。じゃが、絵の才能が無い者を、予言を使って有名にすることは困難じゃ。そいつには、おそらく有名な絵描きになるという道筋が備わっていないからじゃ」
「予言の力も万能というわけではないんですね」
「そうじゃな。万能では無い故に、与えられたカードを上手く使って、物事を思い通りに運ぶことが、予言者の醍醐味じゃな。相手がエースを持っていれば、手札にジョーカーが必要じゃ。それが、無いなら、無いなりに頑張るしかないのう」
「予言者の話しばかりですが、カリスマの話しは?」
「急かすな、ここからじゃよ。カリスマはそれとは違うんじゃ」
「どういうところが?」
「カリスマは、世の中を思い通りにすることができる。自分の願望を現実にすることが可能じゃ。予言者がこうなると予言したことを、カリスマは覆す。つまり、奴らは未来を変えることができる」
「そんなのずるいじゃないですか。なんでもありですか?」
「流石に魔法使いになりたいとか浮世離れしすぎたことは無理じゃが、力のあるカリスマは世の中で実現し得ることは、たいてい実現するのう。例をあげると、有名人を想像してくれるとよいな。彼等は、多かれ少なかれカリスマ能力を保持しておるよ。まあ、多くはそのことを知らずにおるがな。この能力についてはわかっていない事が多い。だが、夢を叶えるようなやつはカリスマ能力の保持者だと思って良いの。彼女は、そういうタイプじゃろう?」
「そうですね。確かに、紗季は自分の思い通りになんでも進めてきたと思います」
「やはりな。彼女はカリスマに違いない。わしら予言者の天敵は彼等でのう。予言したことが覆されてしまうんじゃ。予言のノイズの一因じゃな。力の強い予言者ならば、力の弱いカリスマ能力者の動きをすべて読み取り、多くの場合正確に予言をすることができるがのう」
「先ほど、誰も来ないはずとおっしゃいましたよね。これは、予言の能力を使った上でそう思っていたということですか?」
「もちろんじゃ」
「ということは、それは全くの予想外だったと。要は、紗季は力の強いカリスマだということですね」
「そういうことになるのう。わしが予言できないカリスマなぞそうそうおらん。紗季ちゃんは、将来大物になるのう。彼女が、何を望むか次第ではあるが」
鳴海紗季は、やはり大物だったのか。紗季と何かを争っても、凡庸な俺には勝てる見込みはなかったのだと完全に悟り、これまで彼女に勝つために行った努力の数々の無意味さに、嘆息する。所詮、才能があるものには勝てないのだ。そういえば、他にも引っかかっていることがあった。
「ドラゴンが紗季にも見えるのはなぜですか?」
「カリスマ能力者には予言の力がないから、本来は心のなかの創造物である使者が見えるはずもないのじゃが、なぜか同等以上の能力を持つカリスマ能力者には使者が見えるのじゃ。これについてはあまりよくわかっておらん。彼我の能力を測るには便利じゃがの」
「なるほど。そうですか」
「ところで、そろそろその弁当でも食わんかのう?」
学長は物欲しそうに、俺の手の中にある弁当の包みを見つめ、そう言った。
「これは、俺の弁当ですよ」
「ケチじゃのう。少しくらい味見させてくれたって良いではないか」
「少しですよ」
弁当を包んでいる可愛い花がらの風呂敷を解き、二段重ねとなっているお弁当のふたをそれぞれ開ける。おいしそうな匂いが、辺り一面に立ち込めた。
「煮物と卵焼きか。それに、白いご飯に梅干しじゃな。スタンダードだが、ウマそうじゃ」
「紗季は、料理が上手なんですよ」
「あれほどのカリスマなら、何でもできそうじゃからのう。どれ一口」
と言って、学長は大根の煮物をひょいとつまみ上げ、口に放り込んだ。
「あっ」
「うまいのう。いい嫁さんになりそうじゃ。お主が羨ましいのう」
「先に食べないでくださいよ。僕の弁当ですよ」
「まあいいではないか、減るもんじゃないし」
「減りますよ!」
「ふぉふぉふぉ」
学長は、笑ってごまかし、何食わぬ顔で、次のおかずに手を出そうとしていた。
学長に3分の1程おかずを奪われながらも、十分に紗季の煮物を堪能した俺は、母が買い置きしてくれていたペットボトルのお茶を冷蔵庫から二本取り出し、一本を学長に渡してからそれを飲み、一息つく。
「ドラちゃん、そろそろ来るかのう?」
「後、30分くらい」
「誰が来るんですか?」
「秘書のクリスティーじゃよ。編入に必要な書類を持ってくるはずじゃ」
「さっき出ていったばかりですよね?」
「彼女は優秀じゃからのう。アメリカの名門プリンストン大学を出た才女じゃよ」
「そんな人がなぜ学長の秘書を?」
「彼女は官僚なんじゃよ。人事異動で、わしの秘書にしてもらったんじゃ。矢田ちゃんに頼んで優秀な人をつけてもらった。もちろん予言で誰が良いかをばっちり人選したがのう」
職権濫用も甚だしい。国家のために働こうと勇んで官僚になったはずなのに、この人の下について仕事をするというのは、さぞかし不満であろう。相当苦労するだろうし、俺だったら願い下げだ。こんなたぬきじじいの相手なぞ御免である。
「お主、今わしに対して失礼な事を思わなかったかのう?」
「いえ・・・そんなことは・・・」
勘の鋭いじいさんだ。それにしても、俺の心は読めないはずなのに、俺の心の中をズバリと当ててくるというのはどういうことだろう。
「顔に出てるからのう。せっかく、お主が人の心を読む力を持っていても、そんな振る舞いをしていては、宝の持ち腐れじゃの」
「対人能力が欠如していることくらい知っていますよ」
「図星じゃったか。まあ、いいがのう。悪口には慣れとる」
とニッと笑いながら言った。
彼は、おそらく寂しい思いをして、今まで生きてきたのかもしれない。他人の心がわかる故に、人の恨み辛み、妬み嫉みなどの彼に対する悪意がすべてわかってしまう。人より強い能力があると知った周囲の人々が、彼に浴びせた感情とは、相当シビアなものであったことは想像に難くない。そうした運命にあった学長の人生とは、孤独との戦いであったかもしれない。
待てよ、これはもしかすると今後の俺にも言えることなのではないだろうか。
「案ずることはない。すぐに慣れる。それに、お主は一人ではない」
と学長は、優しく俺に語りかける。
「ドラちゃんもいるしのう。心配は無用じゃ」
また、顔に出ていたのだろうか、それとも本当は俺の心も読めているのだろうか。しかし、そう言われたことに、悪い気分はしなかった。
それから、しばらく二人の間に会話は無くなり、学長はドラちゃんとじゃれ合って遊んでおり、俺の方は今後のことついてやこれまでのことについてぼんやりと考えていた。ふと、窓の外を見ると、電線に雀が3羽止まり、仲良くチュンチュン鳴いていた。
「そろそろ、三分前じゃ。結論は出たかの?」
唐突に学長は俺に問う。
「・・・」
「あの子と離れるのが惜しいかのう?」
「そんなことは・・・」
「選択の余地がないと言いつつ迷うというのは、お主らしくないかもしれんのう。ドラちゃん」
合図とともに、学長が頭上に飛んでいるドラちゃんに目配せすると、ドラちゃんがすぅっと跡形も無く、その存在を消していく。
「さっき、カリスマは天敵と言ったが、同時に彼等は我々のパートナーでもある。矢田ちゃんのようなカリスマを我々が予言の力で支えることで、日本を良くしていくことができるのじゃ。予言者とカリスマは、お互いに影響しあって、相乗効果を生み出すのじゃよ。あれだけの力じゃ、紗季ちゃんも将来、日本を動かす大きな役割を果たすかもしれん。しかし、あの子の未来を予言できる人はおらん。老いて、力が弱まっていくばかりのわしには無理じゃ。支えられるとしたら、お主だけじゃ」
コンコンと、ドアをノックする音が聞こえた。
「時間じゃ、答えを聞こう」




