入隊試験(2)
道場を目指す道すがら、鉄之介が芳乃に耳打ちをする。
「お願いですから止めてください。行くあてがないのなら、僕が母に手紙を書きます。あなた一人くらいなら……」
「鉄ちゃん。『約束』を覚えている?」
鉄之介の言葉を遮り芳乃は静かに問う。
「約束?」
鉄之介はキョトンとした顔で芳乃を見る。
その顔を見て芳乃は小さく嘆息する。
それは十年も前の話だ。
『嫌っ。絶対に絶対にぜったいに嫌!! 江戸になんか行かない。私はここにいるのっ』
それは母が死に、美濃から江戸へと出発するというその日のこと。
芳乃は、鉄之介と離れるのは嫌だと駄々をこねた。
『お芳ちゃーんっ。危ないよぉ。降りてきてよっ』
泣きべそをかいた鉄之介の姿が小さく見える。
芳乃は屋敷の瓦に届こうかという大木によじ登り、天辺近くの枝に座り込み、幹にしがみ付いていた。
小さな子供であることの特権。
出発直前のその時に、スルスルと幹によじ登り細い枝を足場に、あっという間に、誰の手も届かないそこに登ってしまった。
気づいた時には後の祭り。
青い顔をする大人たちを尻目に、芳乃はてこでもそこから離れない。
昔から、一度言い出したら聞かない頑固なところがあった。
我儘ではないのだが、自分の信念は常に貫く。
それが父の教えであったし、芳乃の性分だった。
『江戸に行かなくていいっていうまで、ここから降りないんだからっ』
芳乃は木登りが得意だ。
しかし、さすがにこんな高さまで登ったのは初めてのこと。
豆粒大の人々を見下ろして、芳乃はブルリと小さく震え、けれど精一杯の虚勢を張り言い放つ。
芳乃は鉄之介と別れたくなかった。
母が病のおりに預けられたのが、父と旧知の間柄であった鉄之介の父の家。
市村家だった。
そこで鉄之介と知り合い仲良くなった。
寂しいとき悲しいとき、いつも傍に居てくれた鉄之介。
芳乃がこの世で一番信頼出来る大好きな人。
一緒にいることが当たり前。
鉄之介と離れるなどありえない。
鉄之介と離れるくらいなら死んだほうがマシだ。
『困ったな。どうしたらいいだろう』
頑固な娘に父親はすっかりお手上げだ。
五歳の子供といえどあなどれない。
その無茶苦茶な破天荒ぶりは、父親だからこそ嫌というほど身にしみている。
無理に説き伏せたところで決して折れはしない。
これは一刻や二刻の長期戦は免れない。
一種の我慢比べ。
困り果てている大人たちを尻目に、鉄之介が行動を起こしていた。
いつの間にか、芳乃のいる大樹へと登っていたのである。
『来ないでよっ。鉄ちゃん木登り下手くそなくせに! 危ないよ。落ちちゃうっ』
芳乃は知っている。
鉄之介は高い所が苦手なのだ。
庭にある小さな桜の木にだって半分しか登れない。
なのに、鉄之介は臆することなく登り続ける。
何度か足を滑らせずり落ちそうになりながらも、何とか芳乃に手が届く距離までやってきた。
『お芳ちゃん……』
荒い息を整えつつ、鉄之介は芳乃の名を呼ぶ。
『何しに来たのよっ。ばかっ』
八つ当たり気味に芳乃は言い放つ。
『お芳ちゃん。おじさんを困らせちゃだめだよ』
『なによぉ。鉄ちゃんは私がいなくなっちゃってもいいの!? 鉄ちゃんのあほぅっ』
そう言うと、シャックリをあげながら泣きじゃくる。
『泣かないで、お芳ちゃん。僕だってお芳ちゃんが江戸に行っちゃうなんて嫌だよ? でも、またきっと会えるから』
『……だって美濃と江戸じゃ遠いもの。今度はいつ会えるか分からないじゃない。それに私は、鉄ちゃんといつも一緒がいいのっ。一日だって鉄ちゃんに会えないのは嫌っ』
駄々っ子のように嫌々と首を振る芳乃に、鉄之介が小指を差し出す。
『?』
『じゃあ、約束する。僕が元服したらお芳ちゃんを迎えに行くから』
『元服したら?』
『うん。元服したらお芳ちゃんをお嫁さんにする。必ず迎えに行くから』
屈託のない柔らかな笑顔。
『本当?』
『うんっ』
『きっと。きっとだよ……』
芳乃は鉄之介の小指に自分の指を絡める。
鉄之介の言葉なら信じられる。
なぜなら、鉄之介は一度たりとも、約束を違えた事がなかったから……。
別れ際、互いの小指を絡めて鉄之介が言ってくれた言葉。
今にして思えば、もう二度と会えないと泣きじゃくる自分を諌めるための、ただの思いつきの言葉だったのかもしれない。
『約束』というには、あまりにも不確かなものだった。
「ううん。何でもないわ。私、もう決めたの。私も鉄ちゃんが見ているものを見たい。だから、ここに居たい。分かっているわ。これは私の我侭。だから、その我侭を通すために、私はやることはしなければ」
心配そうな鉄之介を元気付けるように、芳乃はニッコリと微笑む。
その笑顔に、鉄之介は小さく息を吐き肩を落とす。
こうなってしまっては、何を言っても聞かない。
昔から、人一倍勝気な性格で物事を曲げるということを知らない。
その笑顔を見て、昔から変わってはいないのだと鉄之介は悟る。
(ああ、お芳ちゃんはこういう人だったんだ……。容姿は女子らしく、見違えるほど綺麗になったというのに)
中身は勝気な昔のままだ。
そのことに半分安堵し、半分不安に陥る不憫な鉄之介だった。