惨夜(3)
見間違えじゃない。
幻でもない。
確かにその人はいたのだ。
「待ってくださいっ」
屯所の門を出たところで追いついた。
数歩先にその男は居る。
「……」
男は無言のままに振り向く。
会ったのはただの一度。
けれど覚えている。
鮮明に記憶に焼きついている姿。
夜を纏うかのようなその男。
「どうしてあなたがココにいるのですか? ……斉藤さんっ」
新撰組に斬られたという藤堂。
ならば、その『仲間』であるはずの斉藤がこの場にいるのはどう考えてもおかしい。
けれど、目の前にいるのは確かに斉藤その人だった。
「……」
更に男は無言。
芳乃の姿を一瞥し、確かに認識したはずなのに、何事もなかったかのように歩き出す。
芳乃は反射的にその後を追いかけ、そして前に立ちはだかり、斉藤の行く手を阻むように両腕を広げる。
「邪魔だ」
そこで初めて、息を付くかのように静かに言葉を吐き出す。
「藤堂さんが斬られました」
「知っている」
斉藤の答えは早かった。
驚く様子も悲しむ様子もない。
ただ、月が出ているといわれ、ああそうか。と頷くような、そんな淡々とした言葉運びだった。
「知ってるって……ならどうして……」
「…………俺は新撰組隊士。藤堂たちのいるところには、間者として入り込んでいただけのこと。奴らは裏切り者だ。だから……」
「だから、密告した。殺されるということを知りながら。そういうことですか?」
一寸の感情もない言葉に、芳乃は震える声で尋ねる。
「その通りだ」
答えは簡潔だった。
一番聞きたくない答え。
それをためらう事もなく、臆することなく吐き出す。
『この人も俺の仲間なんだ』
屈託のない藤堂の笑顔を思い出した。
「どうして……。だって仲間だってっ。藤堂さんは死んだのですよ? なぜ、そんな平然としていられるのですか!?」
気が付くと涙が止めなく溢れていた。
後から後から流れ出す涙は、芳乃の頬を伝う。
それは、藤堂が死んだという悲しみか、斉藤が藤堂を裏切ったという怒りか。
それとも新撰組の隊士でありながら、何の手だても出来なかったことへの後悔なのか。
すべての気持ちが入り混じり、心が痛くてはちきれそうだった。
擦り切れているだろう足の痛みや、秋風の寒さも何も感じない。
ただ、心が悲鳴をあげている。
「俺はそういう男だ」
泣きじゃくる芳乃の横をすり抜け様に、斉藤は言い放つ。
斉藤の姿は、闇夜に溶け込むかのように消え去った。
「お芳ちゃん。帰りましょう……」
いつの間にいたのか、そこには鉄之介の姿があった。
いつもと変わらない温かな笑み。
「これは正しいことなの? 鉄ちゃん」
芳乃には分からなかった。
詳しい事情は何も知らない。
けれど、斉藤が裏切り藤堂は殺された。
そういうことだ。
それは多分、新撰組の正義の名の下に。
日本を守りたいと、澄んだ瞳をした青年が殺されたのだ。
それが事実。
「違いますよ。お芳ちゃん。正しいか正しくないのかではありません。信じるか。信じないか……それだけです」
そこには芳乃が知らない少年がいる。
虫を殺すことさえ躊躇っていた小さな優しい鉄之介ではない。
前に進み揺ぎ無く自分の信じるものを見定めている瞳。
今の鉄之介ならば、例え百の屍でも踏み越えていくだろう。
そう。この新撰組という場所で。
芳乃には、そんな鉄之介がどうしようもなく遠くに感じるのだった。