回顧(2)
満天の星が煌いていた。
別にどこに行くつもりはなかった。
夜中にふと目が覚めて気が付いたら外に出ていた。
帰りたいと思った。
思っただけだった。
そのつもりだったのに、思った途端に足は外を向いていた。
帰りたい。帰りたい。帰りたい。
そんな思いに駆られて星空の下、懸命に歩いていた。
草履も下駄も履かず、けれどそんなこと気にもならなかった。
薄手の寝巻き一枚でも不思議と寒さも感じない。
今が真夜中で、もしかしたら野犬が出るかもしれないとか、暗闇に足を取られて怪我をするかもしれないとか、そんなこと考えもしなかった。
ただ、帰りたかった。
『どこに行くの?』
そう声をかけられたことさえ気づきもしなかった。
『危ないよ。帰ろう』
その言葉も、「煩い」と感じた程度だった。
『ねぇっ!』
腕を掴まれ引き止められ、相手を振り返る。
そこにいたのは小さな男の子。
今にも泣き出しそうになりながら、けれど懸命に泣くまいと堪えているようだった。
『離して。私、家に帰るのよ』
その子を睨みながらその手を振り解き、言い放つ。
『どうして帰るの?』
『……』
悲しそうな顔で問いかけられて、答えを返すことが出来なかった。
『父上と母上に会いたいんだね』
『……』
『父上と母上が恋しくなったのでしょう?』
『違う……』
沈黙し続けて、その質問で芳乃は弾かれたように否定する。
『寂しいの?』
『そんなんじゃないもの!』
大きく頭を振る。
『じゃあどうして? 僕のおうちは嫌い?』
そこで初めて気が付いた。
男の子の名前を。
鉄之介。
自分と同い年の男の子。
『ねぇ、嫌い?』
瞳を潤ませてそう聞かれ、芳乃は小さく頭を横に振る。
途端に鉄之介は笑顔になる。
『ああ、よかった。ねぇ、一緒に帰ろ』
『……どうして?』
ぼそりと呟くように言葉を紡ぐ。
『?』
『どうして、追いかけて来たの?』
鉄之介はとても怖がりだ。
夜に一人で用足しにも出られない。
夜、外に出る時には必ず誰かが一緒にいる。
現に一緒に来て欲しいと頼まれたことだってある。
なのに、鉄之介は自分を引き止めにここまでやってきた。
木の葉が風に揺られただけでも泣き出しそうになる怖がりが、明かり一つない暗闇の中を。
問いに、鉄之介はいつもの笑顔であっさりと答える。
『だって、お芳ちゃんは僕の家族だもの。いなくなったら嫌よ』
『……いなくなったら悲しい?』
『うん』
そう答えて、芳乃の手を取る。
その温かさは芳乃の氷のように冷たい手を包み込む。
鉄之介に手を引かれながら、芳乃はポツリポツリと言葉を零す。
『あのね、母上は病気なの。父上は母上のかんびょうをしているの。だからね、いい子で待っていると約束したの』
『うん』
芳乃の言葉に鉄之介は頷く。
『でもね。本当は帰りたかったのよ』
帰りたかった。
ただ、父と母の側にいたい。
母の病気が悪い。
そのことは芳乃にも分かる。
けれどそれで納得するには芳乃は幼すぎた。
押さえ込んだ感情は、突如として溢れ出し止められなくなった。
『父上と母上に会いたいよぉ……』
呟いた言葉は途中で嗚咽に変わる。
『お、お芳ちゃん』
立ち止まった鉄之介が見たのは、涙があふれ出している芳乃の姿だった。
そんな姿を見て、鉄之介はあたふたとする。
芳乃が泣くところなど始めてみた。
いつも気丈で、転んで血を流しても近所の意地悪な男の子にからかわれても、口をキュッと結んで、絶対に涙など見せなかった。
『一人ぼっちは……嫌なんだもの……』
俯いた芳乃の頬を、涙が伝い地面に落ちていく。
涙を流しながらも、必死でそれを食い止めようと努力はしているらしい。
下唇をきつくかみ締めているのが見える。
『あのね。あのね。泣きたいときにはおもいっきり泣いていいんだよ。母上がいっていたもの。泣くことは悪いことではありませんよって』
それはすぐに泣き出し弱虫とからかわれてひどく落ち込んでいた鉄之介に、母親が言ってくれた言葉だった。
『ひっく。ふ、ふぇーんっ!』
鉄之介の言葉に、芳乃は火が付いたように泣き出す。
小さな身体のどこにそれほどの水分が入っているのだろうというほど、芳乃は泣き続けた。
その間、鉄之介はただ芳乃の手を握り締めて黙って待っていてくれた。
もっとも、あまりの激しさに最初の方は驚いて固まっていただけなのだが。
どれくらい泣いただろう。
やがて芳乃は手の甲で涙を拭き取り、泣いたために赤くなった鼻を啜り上げる。
『ごめんなさい……』
あまりの恥ずかしさに顔を上げられない。
いくら泣いてもいいといわれたにしても、ずっと声を張り上げ泣いていたのだ。
呆れられているに決まっている。
『どうして謝るの?』
『だってずっと待たせてしまったし』
おずおずという芳乃に鉄之介は首を振り言葉を紡ぐ。
『あのね、僕が側にいるよ』
『え?』
その唐突な言葉に驚いて芳乃は顔を上げる。
『お芳ちゃんの父上と母上にはなれないけれど、僕が変わりに一緒に居るから。寂しくなったら僕のところにおいでよ』
キョトンとしている芳乃に鉄之介は微笑みかける。
『それなら一人ぼっちじゃないでしょ?』
『うんっ』
その言葉に芳乃も微笑みを返す。
久しぶりの心からの笑顔だった。
自分でもどしようもない気持ちを、鉄之介は簡単に解き放ってしまった。
その時にやっと気が付いた。
泣き虫の少年は、誰よりも優しさと強さを持っているのだと。
それが、鉄之介が『特別』になったきっかけだった。