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捨てられ令嬢は最後に笑う

「お前の代わりはいくらでもいる」と笑った婚約者が、翌日から報告書一枚書けなくなった件

作者: 歩人
掲載日:2026/02/26

 ——書けない。


 一文字も、書けない。


 アルベルト・フォン・ヴィンターハルト伯爵嫡男は、白紙の羊皮紙を前に、ペンを握る手が震えていることに気づいた。


 インク壺の中身は満ちている。羽根ペンの先も研いだばかりだ。執務室の窓からは柔らかな朝の光が差し込み、机上を照らしている。条件は何一つ変わらない。


 変わったのは——たった一つだけ。


 昨日まで隣にいた、地味な栗色の髪の娘がいなくなった。それだけだ。


 たった、それだけのはずだった。


「ヴィンターハルト」


 扉を叩く音と共に、低い声が響いた。


 グスタフ・フォン・アーレンベルク侯爵。政務官僚を束ねる上司であり、王宮において最も怒らせてはいけない人物の一人だ。


「今日の報告書はまだか。期限は正午だぞ」


「も、申し訳ございません。あと少し——」


 アルベルトは咄嗟に、白紙の羊皮紙を腕で隠した。


 グスタフ侯爵の冷たい視線が、一瞬だけ机の上を走る。


「……正午までだ。遅れるな」


 扉が閉まる。


 アルベルトは額の汗を拭い、もう一度ペンを取った。


 ——昨日まで。昨日まで、僕は完璧だったのに。


 いったい何が変わったのか。


 答えは分かっている。分かっているが——認めたくなかった。


 時計の針を、二年前に巻き戻す。




 二年前。


 私——リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルトは、信じられない気持ちで、目の前の青年を見上げていた。


「婚約を、申し込みたい」


 ヴィンターハルト伯爵家の嫡男、アルベルト様。金色の髪と澄んだ青い瞳。社交界で「貴公子」と囁かれるその人が、まさか私のような地味な子爵令嬢に婚約を申し込んでくるなんて。


「……私、で、よろしいのですか?」


 声が震えた。鏡を見なくても分かる。私は華やかさのかけらもない娘だ。


 栗色の髪をいつも後ろで結んでいるだけ。灰色の目は読書のしすぎで疲れていて、眼鏡がなければ何も見えない。右手の人差し指と中指にはインクの染みがこびりついている。


 社交界の令嬢たちが纏うような、きらびやかなドレスも持っていない。


「もちろんだよ」


 アルベルト様は、太陽のような笑顔で頷いた。


「君の書いた詩を読んだんだ。地方誌に載っていたものだけど——素晴らしかった。あんな文章を書ける人は、そういない」


 胸が熱くなった。


 十五歳の時に書いた詩。あれが唯一、私が「自分」として世に出した言葉だった。誰かがあの詩を読んでくれていた。しかもそれを、褒めてくれた。


「ありがとう、ございます……」


 嬉しかった。


 本当に、嬉しかった。


 ——あの時の私は、まだ知らなかった。あの笑顔の裏に、何があったのかを。




 婚約から一ヶ月が過ぎた頃だった。


「リーゼロッテ、少し頼みがあるんだが」


 アルベルト様は執務室に私を呼び出して、一枚の羊皮紙を差し出した。


「今度の政務報告なんだけど……君の文章力を、少しだけ借りたくて」


「政務報告、ですか?」


「ああ。僕は剣術は得意なんだが、どうも文章を書くのが苦手でね。君の文章は分かりやすくて美しい。少しだけ手伝ってくれないか?」


 少しだけ。


 そう言われて、断れる娘ではなかった。


「わ、分かりました。……少しだけなら」


 アルベルト様は安堵したように笑った。その笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。


 あの時すでに、私はアルベルト様に恋をしていたのだと思う。


 詩を褒めてくれた人。「君の文章は美しい」と言ってくれた、たった一人の人。私の取りとりえを、取り柄として認めてくれた人。


 だから——「少しだけ」を断れるはずがなかった。


 ——「少しだけ」は、永遠に終わらなかった。




 毎朝、アルベルト様が口述する。


「今日の巡察で……えーと……特に問題はなかった、みたいな? 治安も、まあ大丈夫だったし。あとは……ああ、なんか市場の値段が上がってたかも」


 私はそれを聞きながら、ペンを走らせる。


『本日実施せし王都南区の定期巡察において、異状は認められず。治安状況は良好に維持されている。なお、中央市場における一部品目の価格上昇が確認された。主因は西方街道の降雨による輸送遅延と推察され、近日中の正常化が見込まれる。詳細は別紙にて報告する』


「……うん。さすがだね、リーゼロッテ。僕が言いたかったのは、まさにこういうことだよ」


 アルベルト様はにっこりと笑って、羊皮紙を受け取る。


 翌日、グスタフ侯爵から評価が届いた。


「素晴らしい報告書だ。簡潔にして要点を押さえ、原因分析まで含まれている。ヴィンターハルト、君はなかなか見所がある」


「ありがとうございます、侯爵閣下」


 アルベルト様は恭しく頭を下げた。その横顔に、一瞬——ほんの一瞬だけ、口角が歪むのを見た気がした。


 気のせいだと思った。




 政務報告だけではなかった。


 外交書簡。上奏文。演説原稿。挨拶状。祝辞。弔辞。季節の挨拶。


 気がつけば、アルベルト様の名前で出る文書の全てを、私が書いていた。


 外交書簡では、相手国の慣習に合わせた敬語の使い分けが必要だった。北方同盟の使節には簡潔な武人の礼で。東方の交易都市には華麗な修辞を添えて。同じ「敬意」を表すにも、相手によって言葉の形が変わる。


 上奏文には、格式に則った定型と、その中で意見を通す微妙な言い回しが求められた。王に直訴するなら控えめに、しかし確実に要点が伝わるように。一語の選び方で結果が変わる、繊細な仕事だった。


 演説原稿は、聴衆の心を動かすための緩急が必要だった。最初の一文で注意を引き、中盤で論理を積み上げ、最後に感情で締める。アルベルト様の声は通りが良かったから、短い文を多用して歯切れよくした。


 どれも、私には書けた。


 書くことだけが、私の取りとりえだったから。


 夜遅くまで机に向かい、翌朝にはアルベルト様の机の上に原稿を置いておく。目覚めた彼がそれを読み、自分のものとして提出する。


 その繰り返し。


 一度だけ、アルベルト様に聞いたことがある。


「あの……アルベルト様は、ご自分で書こうとは思われないのですか?」


「僕が書くより君が書いた方がいいだろう? 適材適所さ」


 そう言って笑った顔には、悪意はなかった。


 悪意がないことが——一番、残酷だった。


 それでも、私は書き続けた。


 アルベルト様の役に立てている。その事実だけが、私の居場所だった。華やかさもなく、社交術もなく、容姿も並以下の私が、この人の隣にいていい理由——それは「書けること」しかなかった。


 もし書くことすら求められなくなったら。


 その恐怖が、毎晩、胸の奥で小さくうずいていた。


 だから完璧であろうとした。一文字の誤りもなく、一行の隙もなく。この文章だけは、誰にも代われないものであるように。


 ——皮肉なことに、完璧であればあるほど、アルベルト様は気づかなくなった。水や空気のように当たり前のものには、人は感謝しない。


 アルベルト様の名声は、日に日に高まっていった。


「文武両道の貴公子」


 社交界でそう称えられるアルベルト様の隣に、いつも私はいた。


 ——ただし、誰の目にも映らない場所に。


「ねえ、あの地味な方がヴィンターハルト様の婚約者ですって?」

「まあ。もっと華やかな方がお似合いなのに」

「お可哀想に。きっと家同士の取り決めで仕方なく……」


 舞踏会ぶとうかいの片隅で、扇の陰に隠れた囁き声が聞こえる。


 聞こえないふりをした。聞こえないふりをして、私は手元のメモ帳に、明日の演説原稿の構成を書き続けた。


 ——私の価値は、文章を書くことにしかないから。


 だからせめて、この文章だけは完璧であろうと。そうすれば、アルベルト様の隣にいる意味がある。


 そう思い込むしかなかった。




 ある夜、社交界の宴から帰った後。


 アルベルト様の隣を歩きながら、馬車の中でふと思った。


 今日もまた、誰にも声をかけられなかった。アルベルト様には何人もの令嬢が微笑みかけ、紳士たちが握手を求めたけれど——その隣にいる私には、誰も目を向けなかった。


 透明人間。


 それが、社交界における私の正体だった。


 帰宅して、机に向かう。明日の上奏文を仕上げなければ。


 ペンを取ると、不思議と心が凪いだ。言葉を紡いでいる間だけは、「地味」とか「華がない」とか、そういう雑音が消える。


 白い紙の上では、私は自由だった。




 エリザベート・フォン・シュトラウス侯爵令嬢が社交界に現れたのは、婚約から一年半が過ぎた頃だった。


 プラチナブロンドの髪。エメラルドグリーンの瞳。すらりとした長身に、最新流行のドレスを完璧に着こなす姿。


 舞踏会の扉が開いた瞬間、会場の空気が変わった。


「……なんて美しい方」


 それは社交界の誰もが抱いた感想だった。そして——アルベルト様も、例外ではなかった。


 私は見ていた。


 彼の青い瞳が、エリザベート様を捉えた瞬間を。


 その瞳に浮かんだ光の色が、私に向けられたことのないものだったことを。


「リーゼロッテ」


「はい」


「……いや、なんでもない」


 その日から、アルベルト様は舞踏会のたびにエリザベート様の姿を目で追うようになった。


 私への態度も、少しずつ変わっていった。「さすがだね」と言ってくれた笑顔が減り、原稿を受け取る手が事務的になっていく。


「ああ、ありがとう。置いておいてくれ」


 振り返りもせず、そう言うだけ。


 ——ああ、終わるんだな。


 そう悟ったのは、いつだっただろう。


 でも、終わるその日まで、私はペンを動かし続けた。それしか、できなかったから。




 王都の大舞踏会。一年で最も華やかな夜。


 シャンデリアの光が、広間を黄金色に染めている。貴族たちが着飾り、音楽が流れ、笑い声が響く。


 その中央で——アルベルト様は、衆人環視の中で宣言した。


「リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。本日をもって、我々の婚約を解消する」


 会場が、静まり返った。


 シャンデリアの蝋燭が一つ、ぱちりと爆ぜた音が、やけに大きく聞こえた。


「……どう、して」


 声が震えた。分かっていた。分かっていたけれど——いざ言葉にされると、胸の奥が、ぎゅうと潰されるように痛んだ。


「君は地味すぎる」


 アルベルト様は言った。まるで天気の話でもするような、軽い口調で。


「僕には——社交界の花形が相応しいんだ」


 その隣に、エリザベート様が歩み出た。プラチナブロンドの髪が揺れ、エメラルドの瞳が優雅に細められる。完璧な微笑。完璧な佇まい。


 私の持たないもの全てを、彼女は持っていた。


「君は便利だったよ、リーゼロッテ」


 アルベルト様は続けた。


「文章を書くのが得意だったから。助かった」


 ——便利だった。


 その一言が、二年間の全てを要約していた。


「でも」


 アルベルト様は笑った。同情も、後悔も、何一つ含まない——空っぽの笑顔で。


「それだけだ。お前の代わりはいくらでもいる」


 ——お前。


 いつの間にか、「君」ですらなくなっていた。


 会場にざわめきが広がった。


 扇で口元を隠す令嬢たち。眉をひそめる紳士たち。「可哀想に」「あんな言い方をしなくても」という囁きが、波紋のように広がっていく。


 私は——泣かなかった。


 泣きたかった。膝から崩れ落ちて、声を上げて泣きたかった。


 でも、泣かなかった。


 だって私には、まだ右手がある。インク染みのついた、この指がある。


 この手で書いてきた言葉が、私の全てだった。二年間、他人の名前で飛ばしてきた——私の翼だった。


「……そうですか」


 驚くほど静かな声が出た。


「ならばもう——あなたの言葉は書きません」


 アルベルト様が一瞬、怪訝な顔をした。その意味が分かっていない顔だった。


 当然だ。あなたは何も分かっていなかった。最初から——最後まで。


「お世話になりました、アルベルト様」


 私は深く一礼して、背を向けた。


 会場を横切る。百もの視線が突き刺さる。同情の目。嘲笑の目。好奇の目。


 足が震えた。膝が笑った。でも——歩いた。一歩、また一歩。背筋を伸ばして。


 大扉を押し開ける。夜風が頬を撫でた。


 振り返らなかった。


 ——私の目には、涙ではなく、決意の光があった。


 もう、誰かの代わりはしない。


 これからは、私の名前で——私の言葉を書く。




 さて。


 ここからは——アルベルト様の、いえ、アルベルトの話だ。


 後から人づてに聞いた話や、社交界で広まった噂を繋ぎ合わせて、私なりに再構成したものだ。多少の脚色はご容赦いただきたい。


 婚約破棄の翌日。冒頭の場面に戻る。


 白紙の羊皮紙を前に、ペンを握る手が震えているあの男の元に、期限は容赦なく迫っていた。


 正午。


 アルベルトは執務室の机にしがみつき、必死にペンを動かした。


「……今日の、えーと、巡察において……問題は、なかった。治安は……治安は……良い? 感じだった?」


 書いては消し、書いては消した。


 インクが羊皮紙を汚し、消した跡が黒い筋になって広がっていく。


 結局、提出されたのはこういう文書だった。


『今日巡察しました。問題ないです。治安は大丈夫です。市場は値段が少し高かったかもしれません。以上です』


 グスタフ侯爵の執務室に呼び出されたのは、その日の午後だった。


「ヴィンターハルト」


 侯爵は、その報告書を机の上に置いた。指一本で、とん、と叩く。


「これは何だ?」


「は……報告書で、ございますが……」


「小学生の作文か?」


 アルベルトは血の気が引いた。


「以前の君はこんなではなかったはずだが。『本日実施せし定期巡察において異状は認められず』——あの格調高い文体はどこへ行った?」


 あの格調高い文体。


 それは——私の文体だった。アルベルトの口から出た言葉を、私が磨き上げた言葉だった。


 もちろん、アルベルトにそう説明できるはずもない。


「体調が……少々」


「ならば養生して出直せ。だが次は許さんぞ」


 グスタフ侯爵の冷たい視線が、アルベルトの背中を貫いた。




 翌日、アルベルトはエリザベートの元を訪ねた。


「エリザベート、少し頼みがあるんだ」


「何かしら、アルベルト」


 エリザベートは優雅に紅茶のカップを傾けながら微笑んだ。


「次の外交書簡なんだが——手伝ってくれないか。文章を整えるのを」


 エリザベートの手が止まった。


 カップがソーサーに置かれる。陶器がぶつかる小さな音が、沈黙の中で響いた。


「……え?」


「いや、大したことじゃないんだ。ちょっと体裁を整えるだけで——」


「私、文章なんて書けないわよ」


 アルベルトは言葉を失った。


「書け……ない?」


「当たり前でしょう? 手紙は侍女に口述筆記させるものだわ。自分で書くなんて、手が汚れるじゃない」


 エリザベートはくすりと笑った。冗談だと思ったのだろう。


 だが、アルベルトは笑えなかった。


「……そう、か」


「ねえ、そんな暗い顔しないで。書類なんて部下にやらせればいいのよ」


 部下にやらせる。


 そんなことができるなら、最初からそうしている。政務報告は本人が書くのが規則だ。外交書簡に至っては、本人の筆跡でなければ無効とされる。


 アルベルトは初めて理解した。


 ——代わりは、いなかった。




 一週間後。


 アルベルトは自力で外交書簡を書き上げた。


 いや——書き上げたと言うべきではない。三日三晩かけて、何とか形にした、と言うべきだ。


『拝啓。元気ですか。こちらは元気です。この前の条約の件ですが、えーと、うちの国としては、まあ大丈夫というか、問題ないと思います。よろしく頼みます。敬具』


 その書簡を受け取った隣国の外交官は、最初、翻訳の誤りだと思ったそうだ。


 次に、侮辱だと思った。


「これは我が国を愚弄しているのか!」


 外交問題に発展しかけた。


 グスタフ侯爵が深夜まで謝罪の書簡——もちろん侯爵自身の手による、格調高い文章で——を書き、何とか事態を収拾した。


 翌朝、アルベルトは侯爵の前に立たされた。


「ヴィンターハルト」


「はい……」


「あの書簡は何だ。『元気ですか、こちらは元気です、よろしく頼みます』——これが外交文書か? 友人への手紙ですらもう少しまともに書くぞ」


 アルベルトは何も言えなかった。


「先方は、我が国が意図的に侮辱したと解釈した。私が夜通し謝罪文を書いて——ようやく事を収めた。君一人の失態で、どれだけの外交的信用が失われたか分かるか?」


 分かるか、と問われても、その「信用」の重みを文章で表現してきたのは私だった。アルベルトには、そもそも「外交的信用」という概念を言語化する力すらなかった。


「君にはもう政務は任せられない」


 短い一言だった。それだけで十分だった。


 アルベルトは中央の花形部署から外され、記録保管庫の管理——閑職中の閑職に回された。


 書庫の奥の、日の差さない小部屋。積み上げられた古い帳簿の番をするだけの仕事。文書を「書く」必要はない。ただ「保管する」だけでいい。


 皮肉な話だ。文章を書けない男には——文章を守る仕事しか、残されなかった。


 社交界にも噂は瞬く間に広がった。


「ヴィンターハルト伯爵家の嫡男、外交で大失態ですって」


「あの文武両道の貴公子が? 信じられないわ」


「以前はあんなに優秀だったのに。いったい何があったのかしら」


 何があったのか。


 答えは簡単だ。一人の地味な娘がいなくなった。それだけのことだ。


 エリザベートの反応は——予想通りだった。


「アルベルト、ごめんなさい。私、勘違いしていたみたい」


 茶会の席で、優雅に微笑みながら。


「無能な殿方は——お断りよ」


 二度目の婚約破棄。


 今度は、アルベルトが捨てられる番だった。




 空っぽの執務室。


 記録保管庫の片隅に押し込められた小さな机。


 アルベルトは一人、呆然と座っていた。


「……リーゼロッテ」


 呟いた名前が、埃っぽい空気に吸い込まれて消えた。


「君が——全部、書いていたのか」


 今更、理解が追いつく。あの完璧な報告書。あの格調高い外交書簡。あの聴衆を魅了した演説原稿。


 全てが——全て、あの地味な娘の手から生まれていた。


「僕は……何もできない」


 だが、その言葉を聞く者はもういなかった。




 さて。


 ここからは、私の話をしよう。


 婚約を破棄された翌週、私は実家の自室に戻っていた。


 子爵家の小さな屋敷。私に与えられた部屋は日当たりが悪く、狭い。だが窓際に机を置けば、書くには十分だった。


 ペンを取る。


 インク壺を開ける。


 新しい羊皮紙を広げる。


 二年間、毎日繰り返してきた動作だ。何一つ変わらない。


 変わったのは——たった一つだけ。


 書く名前が、自分のものになった。


「もう、誰かの言葉は書かない」


 声に出して言った。空っぽの部屋に、自分の声が響いた。


「これからは——私の言葉を」


 最初の一行を書いた。


『その少女には、声がなかった。代わりに、灰色のインクで世界を描いた——』


 タイトルは「灰色の詩人」。


 地味で目立たない少女が、文章の力で世界を変えていく物語。


 私小説ししょうせつのようでいて——私自身の物語とは、少しだけ違う結末を用意した。この物語の少女は、最初から自分の名前で書く勇気を持っている。


 私が持てなかった勇気を、この少女に託した。


 三日で書き上げた。推敲にさらに二日。


 完成した原稿を封筒に入れ——差出人の名前を書く段になって、手が止まった。


 リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。


 その名前を書こうとして——書けなかった。


 まだ、怖かった。自分の名前で世に出ることが。「地味な令嬢」「捨てられた婚約者」——そういう肩書きがついた名前で作品を出したら、文章を正当に評価してもらえないかもしれない。


 差出人の欄を空白にした。


 匿名。


 そうして私は、王都の文化地区にある老舗出版社——ノルトフェルト書房の投稿窓口に、原稿を届けた。




 ノルトフェルト書房の編集室。


 ——この場面は、後にラインハルトさん自身が語ってくれたものだ。


 ラインハルト・ケスラーは、未読原稿の山と格闘していた。


 茶色の髪を無造作に伸ばし、眼鏡の奥の目は疲労で充血している。インク染みだらけの指で——書く人間にんげん特有の、あの染みで——次々と原稿をめくっていく。


 新人の投稿原稿は、正直に言えば玉石混交だ。いや、石の方が圧倒的に多い。


 だが、たまに——本当にたまに、原石が混じっている。それを見つけ出すのが、彼の仕事だった。


 差出人不明の原稿を手に取ったのは、もう日が暮れかけた頃だった。


『灰色の詩人』。


 最初の一行を読んだ。


 二行目を読んだ。


 三行目で——コーヒーカップを置いた。


 一頁目を読み終える頃には、椅子に深く座り直していた。


 最終頁まで、一度も目を離さなかった。


「……これは」


 ラインハルトは呟いた。


「素晴らしい」


 文章が美しいだけではない。構成が巧みなだけでもない。


 この文章には——人の心を動かす力がある。読む者の胸の奥にある、誰にも触れさせなかった場所に、そっと手を伸ばしてくるような。


 差出人欄は空白だった。


「匿名、か……」


 ラインハルトはペンを取り、書房の便箋に書き始めた。


『投稿作「灰色の詩人」を拝読いたしました。ぜひ出版させてください。つきましては、一度お目にかかれませんでしょうか——』


 返信先は、原稿に添えられていた私書箱の番号だけだった。




 手紙を受け取った時、私は自分の目を疑った。


 出版。


 私の——私の名前で書いた、初めての物語を、出版したい?


 震える手で返事を書いた。匿名のまま出版することを条件に、承諾した。


 「灰色の詩人」は、翌月、ノルトフェルト書房から刊行された。


 著者名は「無銘むめい」。


 初版は控えめな部数だった。新人の、しかも匿名の作品だ。ラインハルトさんは「内容に自信はある」と言ってくれたが、売れるかどうかは別の話だと。


 それが——王都を席巻した。


 最初に火がついたのは、文芸愛好家たちの間だった。


「この作者は誰だ? 文章力が尋常ではない」


 口コミが広がり、書店に問い合わせが殺到した。


「まるで詩を読んでいるような文章だ」


「しかし詩ではない。物語としての構成も見事だ」


「続きが読みたい。次回作はいつ出るんだ?」


 書店に行列ができた。文芸誌がこぞって書評を載せた。増刷に次ぐ増刷。


 ラインハルトさんから届く手紙の文面が、回を追うごとに興奮を帯びていく。


『第三刷が決定しました。こんなに早い増刷は、当書房でも十年ぶりです』


 私は自室の窓から街を見下ろしながら、信じられない思いだった。


 これまで書いた言葉は、全てアルベルトの名前で世に出ていた。報告書も、外交書簡も、演説原稿も。誰一人、それが私の文章だとは知らなかった。


 だけど今——今度は「誰が書いたのか」を、みんなが知りたがっている。


 筆致が同じだから、作者は一人のはずだと分析する評論家もいた。文体の癖を調べ上げ、「おそらく貴族階級の教育を受けた女性」と推測する者もいた。


 私はそれを読みながら、少しだけ笑った。


 ——ええ、その通りです。地味で目立たない、子爵家の次女ですよ。


 続編の依頼に応え、次々と作品を発表した。「灰色の詩人」は三巻まで出版され、そのどれもが版を重ねた。王宮の侍女たちの間でも回し読みされているという噂が、ラインハルトさんの手紙に添えられていた。




 ある日、ラインハルトさんが——いつの間にか、私は「さん」で呼ぶようになっていた——手紙ではなく、直接訪ねてきた。


 初めて対面した時、お互いにインク染みだらけの手を見て、同時に苦笑した。


「書く人ですね」


「お互い様です」


 それが、最初の挨拶だった。


 ラインハルトさんは穏やかな人だった。茶色の眼鏡の奥の目は誠実で、文学の話になると子供のように目を輝かせた。


 アルベルト様とは——いえ、比べること自体が間違いだ。


「お願いがあるのです」


 三杯目の紅茶を注ぎ終えた頃、ラインハルトさんは切り出した。


「匿名ではもったいない。あなたの名前で出しませんか?」


 カップを持つ手が、止まった。


「私の、名前で……?」


「ええ。『無銘』のままでは、あなたの言葉があなたのものとして認められない。それは——とても、もったいないことです」


 もったいない。


 私の言葉が、私のものとして——。


「でも……私は、地味な子爵令嬢で……婚約を破棄された、取り柄のない……」


「取り柄がない?」


 ラインハルトさんは、穏やかに、しかしはっきりと首を振った。


「あなたの言葉は、読む人の心を動かす力があります。それは、他の誰にも代われない才能です」


 他の誰にも、代われない。


 ——「代わりはいくらでもいる」と言った人がいた。


 ——「代われない」と言ってくれる人が、ここにいる。


 涙が、頬を伝った。


 止められなかった。止めようとも思わなかった。


「……はい」


 声が震えた。でも、今度の震えは恐怖ではなかった。


「自分の名前で、出します」




 翌日、私は羽根ペンを握った。


 新しい原稿用の紙に、著者名を書いた。


 リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。


 インクが乾くのを待つ。その数秒が、永遠のように長かった。


 ——でも、もう消さない。


 「灰色の詩人 特装版」——著者名: リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。


 それが書店に並んだ日、社交界は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。


「あの『無銘』の正体が、ローゼンフェルト子爵家の令嬢ですって!?」


「ヴィンターハルト伯爵家の嫡男に婚約を破棄された、あの地味な——」


 最初の反応は、好意的なものばかりではなかった。


「婚約破棄の腹いせで書いた小説でしょう? 元婚約者への当てつけだわ」


「地味な令嬢が脚光を浴びたくて、スキャンダルを利用したのよ」


「そもそも本当にあの娘が書いたの? ゴーストライターがいるんじゃなくて?」


 心無い言葉が、私の耳にも届いた。


 ——ゴーストライター。


 その言葉だけは、笑えなかった。なぜなら私は確かに、ゴーストライターだったのだから。アルベルトの——影の書き手。その過去が裏返しの形で、私自身に突きつけられた。


 筆を折ろうかと思った夜があった。


 あの本は復讐で書いたものではない。ただ、自分の言葉を取り戻したかっただけだ。それが伝わらないなら——。


 ラインハルトさんが動いたのは、その頃だった。


 文芸誌に寄稿した記事の一節が、社交界にまで広まった。


『「灰色の詩人」を婚約破棄の復讐劇と矮小化する評は、作品を読んでいないか、読解力が欠如しているかのいずれかである。この物語の本質は——言葉の力を信じる一人の人間の、静かな再生の物語だ』


「ラインハルトさん、私のことで迷惑を——」


「迷惑?」


 ラインハルトさんは眼鏡を拭きながら、不思議そうに首を傾げた。


「僕は事実を書いただけですよ。あなたの作品を侮辱する言説を放置する方が、編集者として恥ずかしい」


 それだけ言って、何事もなかったかのように次の原稿に目を落とした。


 ——ああ、この人は。


 同じ頃、見知らぬ人からの手紙が届いた。


『「灰色の詩人」を読みました。私もずっと、誰かの影で生きてきた人間です。あなたの物語に、救われました』


 たった一通の手紙だった。でも——それだけで十分だった。


 ペンを握り直した。次の作品の一行目を書いた。


 それからも中傷は続いた。だが、読者からの手紙はそれを上回った。二作目、三作目と——作品の力が、色眼鏡を一枚ずつ剥がしていった。


「地味ですって? あの名作を書いた方を地味と呼ぶの?」


 気づけば、評価は塗り替わっていた。


 グスタフ侯爵もまた、「灰色の詩人」の愛読者だった。


 著者名を見た瞬間、侯爵は全てを理解したという。


 ヴィンターハルト伯爵家の嫡男が提出していた、あの格調高い報告書。簡潔にして要点を押さえ、原因分析まで含んだあの文体。


 そして婚約破棄後、突然「小学生の作文」に成り果てたあの落差。


「……そういうことか」


 侯爵は本を閉じ、深い溜息をついたそうだ。


 アルベルトの「文武両道」は——半分が、借り物だった。




 それから二年の月日が流れた。


 私はノルトフェルト書房の専属作家となり、次々と作品を世に送り出した。


 「灰色の詩人」シリーズの完結後は、歴史小説にも手を伸ばした。ラインハルトさんの勧めで、新人作家の原稿を読む仕事も引き受けるようになった。


 かつての私のように、まだ世に出ていない才能を見つけ出すこと。それが今の私にできる、恩返しだと思った。


「リーゼロッテさん、この原稿なんですが——」


「ああ、読みました。三章の山場がとてもいいですね。ただ、二章の伏線がもう少し丁寧だと——」


「さすがですね。僕もそこが気になっていたんです」


 ラインハルトさんと並んで、原稿に赤を入れる午後。インク染みだらけの指が二組、紙の上を行き交う。


 ある日、遅くまで残って原稿の校正をしていた時のことだった。窓の外はとうに暗く、蝋燭の灯りだけが二人の手元を照らしていた。


「リーゼロッテさん」


「はい?」


「……手、冷えてませんか」


 気がつくと、温かい紅茶のカップが、私の右手のすぐ隣に置かれていた。湯気が立ち上り、ほんのり甘い香りがする。


「蜂蜜を入れました。あなた、疲れると甘いものが欲しくなるでしょう」


 いつ覚えたのだろう。私自身、そんな癖があることに気づいていなかった。


「……ありがとうございます」


「それと」


 ラインハルトさんは少し言いよどんでから、まっすぐに私を見た。眼鏡の奥の茶色い目が、蝋燭の光を映して揺れていた。


「あなたの言葉は、僕にとっても——特別なんです。編集者としてだけではなく」


 不器用な告白だった。華やかさはない。詩的な修辞もない。ただ、一語一語に嘘がなく、まっすぐで——。


 ああ、と思った。これが——私の言葉を「代わりのきかないもの」として大切にしてくれる人の、言葉なのだと。


「……私も」


 声が震えた。でも、今度は泣かなかった。


「私も、ラインハルトさんの言葉が、特別です」


 穏やかで、静かで——私らしい恋だった。




 ある秋の日。


 執筆の手を休めて、窓の外を見た。


 街路樹が色づき始めている。王都の大通りを、人々が行き交う。


 その中に——見覚えのある金髪の男が混じっていた。


 かつて太陽のように輝いていたその髪は、色褪せて見えた。背筋は曲がり、足取りは重い。すれ違う人々は、彼に目もくれない。


 アルベルト・フォン・ヴィンターハルト。


 記録保管庫の閑職に追いやられ、社交界からも遠ざかり——今はただ、灰色の日常を送っているという噂は聞いていた。


 彼が書店の前で足を止めた。


 ショーウインドウに飾られた本——「灰色の詩人 第三巻」。著者名が金箔で刻まれている。


 リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。


 アルベルトがその名前を見つめている横顔を、私は窓越しに見下ろしていた。


 彼が本を手に取った。


 表紙を撫でるように触れ、裏表紙の著者紹介を読んでいるようだった。


 しばらくして——本を棚に戻した。


 買わなかった。


 だが、その場を立ち去る前に、もう一度だけ振り返って、表紙に刻まれた名前を見ていた。


 ——僕が「僕の言葉」だと信じていたものは全部、君の言葉だったんだな。


 そう思っているのかもしれない。あるいは、もっと単純に——自分が何を失ったのか、今更ながら理解しただけかもしれない。


 もう、どちらでもよかった。


 私は窓辺から目を戻し、原稿に向き直った。


 書きかけの一文があった。新作の、最初の一行。


 ペンを取る。インク壺に浸す。右手の人差し指と中指の染みが、午後の光を受けて微かに光った。


 あの日——舞踏会の夜、背を向けて歩き出した時、私は思った。


 言葉は、私の翼だった。


 二年間、他人の名前で飛ばしていた翼。誰にも気づかれず、誰の功績にもならなかった翼。


 でも今、その翼は——私のものだ。


 ペンが紙の上を走る。


 インクが言葉になり、言葉が物語になり、物語が誰かの胸に届く。


 それは——誰かの代わりではなく、私自身の証。


 リーゼロッテ・フォン・ローゼンフェルト。


 灰色の目の、インク染みだらけの手の、地味な子爵令嬢。


 けれど——ペンを握れば、空を飛べる。


 自分の名前で。自分の言葉で。


 どこまでも、高く。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 「代わりはいくらでもいる」——物語の中でアルベルトが放ったこの言葉は、才能を「誰でもできること」と見くびる傲慢さを象徴しています。本作では「文章力」という目に見えにくい才能に焦点を当て、それを利用されていた主人公が、自分の名前で世に出るまでの逆転劇を描きました。


 リーゼロッテの強さは、復讐ではなく「自分の道を歩む」ことにあります。彼女はアルベルトを陥れようとはしません。ただ、自分の言葉を取り戻しただけ。それだけで、全てがひっくり返る。才能の本当の持ち主が誰だったのか、時間が証明してくれる——そんな物語を書きたいと思いました。


◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇


婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。


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― 新着の感想 ―
「変わりはいくらでもいる」って言うやつって大抵自己紹介だよな
その① 「グスタフ侯爵」から、「官吏として働いてみないか」との申し出は無かったのでしょうか。 次ぎようなときに、役に立つと思います。 >「グスタフ侯爵が深夜まで謝罪の書簡——もちろん侯爵自身の手による…
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