デーゲーム
「ねぇねぇ、これはペダル……。それともサドル……」
彼女はジャンクの中から掘り出したサドルを手に首を傾げていた。
「それはサドル。ケツに当たるのがサドルで、足で踏むのがペダルだよ。昨日も教えたよな」
俺はジャンクの中から何台もの自転車を引っ張り出して、使える部品で自転車を組み上げていた。
この夏休みに俺に与えられたミッションだ。
と、言っても自分で与えたミッションだけど。
「何度聞いても解らないのよね……。自転車乗れないし……」
彼女は真っ白なワンピース姿で毎日このスクラップの積まれた工場にやって来る。
名前も知らないし、普段顔も見る事が無い。
大方、おじいちゃんの家に夏休みに遊びに来た類だと思う。
俺は親父の兄貴、つまり叔父さんが社長のこのスクラップ工場に毎日来て、ジャンクの山から壊れた自転車を引っ張り出し、使えそうな部品で誰も持っていない様なカッコいい自転車を作る。
そう決めて、毎日工場へと来ていた。
そうやって自転車を作り初めて、数日経ったある日、彼女が突然俺に声を掛けて来た。
最初は興味半分の暇潰しで来ているのだろうと思っていたのだが、その日以来、毎日俺が工場に着く時間には表に立っていた。
「お前、乗れないのか……」
俺はボルトを締める手を止めて彼女の顔を見上げた。
彼女はニコニコしながらコクリと頷く。
「自転車持ってないし、危ないから乗らなくても良いってママが……」
彼女は顎に指を当てて言った。
彼女の指先に油が付いていたのか、彼女の顎が汚れていた。
俺はそれがおかしくてクスッと笑ってまたボルトを締めた。
「そうか。じゃあこれが出来上がったら、俺が乗り方教えてやるよ」
「ホント」
彼女は俺の向かいにしゃがみ込んで嬉しそうに微笑んだ。
彼女のワンピースの裾から下着が見える。
俺はそれから目を逸らす様にして自転車の部品を取った。
「パンツ……見えてるぞ」
俺は多分顔を赤くしていた気がする。
彼女は素早く立ち上がった。
「淳のエッチ」
そう言うと舌を出してしかめっ面をした。
「いつ完成するの……」
彼女は俺にパンツが見えない様に再びしゃがみ込んだ。
「そうだなぁ……。ブレーキのワイヤー探して、チェーンの長さ調整して、色塗ったら完成かな……」
俺は組み上げた自転車を持ち上げ、スタンドを立てた。
「色も塗るの……。私、ピンクが良い」
「あのなあ、俺の自転車なんだよ。絶対嫌だよ、ピンクなんて……」
彼女は頬を膨らませて少し拗ねていた様だった。
「淳、そろそろ帰らないと母ちゃんにどやされるぞ」
工場の事務所、と言ってもプレハブの事務所だけど、そこから叔父さんが顔を出して大声で言う。
夏の太陽はしぶとく、なかなか沈まないから、時間を忘れて自転車を組み立てていた。
「わかったー。もう帰るよ」
俺も大声で叔父さんに返事をした。
叔父さんは、毎日、俺が彼女と自転車を組み立てているのを見てニヤニヤと笑っていた。
「今日は帰るぞ……」
俺は組み上げた自転車を工場の端の方へと移し、散らばった部品と叔父さんに借りた工具を片付けた。
そして叔父さんに声を掛けて工場を出た。
「あ、待って」
工場の入り口に立って彼女が言う。
「な、何だよ」
俺は彼女を振り返った。
夏の風に彼女の髪がなびいて、その姿が夕陽に重なっている。
その彼女の姿を見て俺は心臓がどきどきしていた。
彼女はゆっくりと俺の前に回り、小指を出した。
「指切り」
「指切り……何の……」
彼女の小さな手も、俺と同じ様に油で汚れていた。
彼女も必死に俺を手伝ってくれていたから。
「自転車乗り、教えてくれるって……」
彼女は小指を立てて微笑んでいた。
「ああ、それね……」
「そうよ……約束したし」
彼女は強引に油で汚れた俺の手を取って小指を絡ませる。
「パンツも見られたし、絶対教えてもらうからね」
彼女はそう言うと絡ませた小指を振った。
「指切りげんまん、嘘ついたら……」
彼女の言葉はそこで止まった。
「嘘ついたら……」
俺が訊くと、彼女は小指を絡ませたまま黙って考えていた。
そしてそっと絡ませた小指を解いた。
「何だよ……、げんまんしなくて良いのかよ」
「うん、淳は嘘つかないって知ってるから」
彼女はそう言うと笑い、スキップしながら後ろで手を組んだ。
そして振り返り、俺に大きく手を振って、坂を下って行った。
坂の下に広がる海と、その海に沈む夕陽が彼女を輝かせていた。
翌日、叔父さんに手伝ってもらい、俺の自転車は完成した。
ブレーキのワイヤーは新品の方が良いと叔父さんが買って来てくれた。
チェーンも長さを調整するのは流石に俺では難しく、叔父さんがやってくれた。
出来上がった瞬間、横で見ていた彼女は自分の事のように飛び上がって手を叩いていた。
ペダルを踏み込むと少しカタコンカタコンと独特の音がするが、小学生の俺が組み立てたにしては上出来だと叔父さんも褒めてくれた。
「あとはピンクに塗るだけだね」
彼女が横でそう言う。
おいおい、誰がピンクに塗るんだよ……。
俺んだぞ……。
俺は彼女にそう言い掛けて止めた。
彼女の言う様にピンクでも良いかと思い始めていた。
「ピンクのスプレーあるぞ」
叔父さんは事務所からピンクのスプレー缶を出してきてくれた。
「他の色無いの」
叔父さんはニヤニヤ笑って、俺の肩を叩いた。
「子供にシンナー吸わせる訳にはいかないから、俺が塗っておいてやる……」
叔父さんは俺と彼女に微笑んだ。
「あと、綺麗に仕上げもしておいてやるよ」
叔父さんは事務所の前の階段に座り、タバコに火をつけた。
俺が色も塗りたかったが、叔父さんに逆らうと怖い事も知っている。
仕方なく叔父さんにお願いする事にした。
「あ、あのね……」
彼女が叔父さんの耳元に小声で何か言っている。
叔父さんはそれを聞いて、親指を立てていた。一体何を叔父さんに言ったのか、俺はそれが気になったが、日も暮れそうだったので帰る事にした。
今日も夕陽が海に落ちているのが見えた。
少しずつ日の落ちる場所が移動している。
俺は彼女の伸びた影を見送った。
次の日、彼女は大きなバスケットを抱えて工場の前に立っていた。
「何だ、ピクニックにでも行くのか……」
彼女はニコニコと微笑みながら、バスケットを持ち上げて見せた。
「サンドイッチ作って来たの」
彼女は嬉しそうだった。
俺はそんな彼女の笑顔に見惚れた。
「サンドイッチ……嫌い」
彼女は少し表情を曇らせる。
「どっちかって言うとおにぎりの方が好きかな」
俺は素直にサンドイッチが好きだと言えなかった。
そしてその頃にはもう彼女の顔をまともに見る事も出来なかったんだと思う。
工場の屋根のある所に行くと、俺が組み立てた自転車がひっくり返されて真っ赤に塗られていた。
「赤じゃん……」
俺は彼女を見てニヤリと笑った。
「それは錆止めの塗装だ」
事務所のドアが開いて叔父さんが出て来てそう言った。
「下地に錆止めを塗ると塗装が長持ちする……。よく覚えとけ」
叔父さんはそう言って俺の頭を叩いた。
「このまま二、三日放置しないとダメだ。今日はする事無いぞ……」
叔父さんは俺と彼女の顔を覗き込む様に見て微笑んだ。
「せっかくの夏休みに毎日、こんなジャンク屋通いじゃ絵日記も描けないだろう。二人でどっか行って来い」
叔父さんは事務所に引っ込んだ。
俺は事務所に引っ込んだ叔父さんと彼女を交互に見た。
仕方ない……。
俺は名残惜しかったが、工場を出た。
事務所のドアが開き、叔父さんが顔を出す。
「台風が近付いている。今日は早めに帰れよ」
叔父さんはタバコに火をつけて、また事務所の中に引っ込んだ。
俺は気の無い返事をしてトボトボと歩いた。
「ねえ、何処行く……」
大きなバスケットを抱えて彼女が着いてくる。
「何処って……。行くところなんて無いよ」
俺は彼女の顔も見ないでそう答えた。
「私、海に行きたい」
「やだよ……」
「どうして……。せっかくの夏休みなのに……」
俺は海に行くのが嫌だった。
海にはタカシやケンジたちがいる。
彼女と一緒に行くと冷やかされるに決まっていた。
「ねえ、行こうよ……海」
坂の上から光る海が見える。
「台風が来てるから波もあるし、第一、水着なんて持って来てないだろう」
俺は彼女を振り返った。
彼女はニッコリと微笑むと俺の傍に駆け寄る。
「実は水着、持って来てるんだ」
嬉しそうに笑顔で彼女は言う。
「あ、でも淳は持って来てないか……」
少し残念そうな彼女。
俺は息を吐いて、彼女に微笑んだ。
「この町の子供は、みんな服のまま泳ぐんだよ……」
彼女は俯いた顔を上げた。
そして口元を緩めた。
「仕方ないな……。とっておきの場所に連れてってやるよ」
俺は弾みながら坂道を歩いた。
彼女は俺の後ろを嬉しそうに着いて来た。
みんなが泳ぐ砂浜を避けて、少し離れた岬へと歩いた。
岩場を歩く事に慣れていない彼女はどんどん遅れていく。
その度に俺は立ち止まり彼女を待った。
ゴツゴツした岩場に差し掛かった時、俺は彼女の手を取り歩いていた。
繋いだ手が熱かった。
彼女の抱えていたバスケットを持ち、もう片方の手はしっかりと彼女の手を握っていた。
岬の陰に少し窪んだ場所があり、そこは波も無く静かだった。
澄んだ水が綺麗で、泳ぐ魚の影も見えている。
「わあ、綺麗……」
彼女はしゃがみ込んで海の中を覗き込んだ。
「綺麗だろう……。ここはあんまり人も来ないからな……」
彼女を輝く水面がキラキラと照らしていた。
俺はTシャツを脱ぐと、そのまま海へと飛び込んだ。
水飛沫が彼女に掛かり、文句を言っていたが、俺はそんな彼女を無視してその海へ潜って見せた。
そして海から顔を出す。
「足、着くの……」
彼女は不安そうな表情で俺を覗き込む。
「足……。着かないよ、そんなモン」
俺はもう一度潜る。
そして海の底に沈んでいた青いラムネの瓶を拾って浮上した。
「足、着かないと怖いのかよ」
彼女は俺の言葉にムッとしたのか、腕を組んで俺を睨んだ。
「そ、そんな事無いモン」
そう言うと彼女は服のまま海へと飛び込んだ。
俺のすぐ近くで彼女は飛沫を上げた。
そしてゆっくりと水面から顔を出した。
そしてまとわりつく髪を掻き上げると、
「ね、平気でしょ」
と言って笑った。
「お前……。水着、着ないのかよ……」
俺は無意識に彼女の腕を掴んでいた。
「だって、この町の子は服のまま泳ぐんでしょ……」
彼女は沈まない様に必死に水をかきながらそう言う。
「そりゃ、男の話だよ……」
彼女は目を丸くして俺を見た。
「そうなの……」
「うん……」
俺と彼女は声を出して笑った。
「覗かないでよ」
彼女は岩の陰でそう言う。
「覗くかよ……」
俺は岩場で膝を抱えて座っていた。
すぐ傍の岩の陰で彼女が着替えていた。
それだけで俺はドキドキしていた。
「じゃーん」
彼女は自分で効果音を口にしながら薄いピンク色の水着に着替えて岩の陰から出て来た。
俺は顔を赤らめて、その彼女の姿を見た。
そしてすぐに顔を逸らす。
「泳いでから水着に着替えるなんて聞いた事ないぞ」
彼女はクスクスと笑いながら俺の横に座った。
「私も聞いた事ないわ……」
そう言うとバスケットを引き寄せて俺との間で広げた。
美味しそうなサンドイッチが沢山並んでいた。
「淳の叔父さんも一緒に食べるかと思って、いっぱい作っちゃったよ……」
俺はずっとバスケットの中を覗いていた。
「食っていいのか」
彼女はニッコリと微笑んで頷く。
俺はバスケットの中に並んでいるサンドイッチを真ん中から取った。
不格好なサンドイッチは、彼女が朝から苦労して作った事が分かった。
厚焼き玉子のサンドイッチ。
母さんに頼んでもなかなか作ってもらえない。
俺は、本当はこれが一番好きだった。
「美味しい……」
彼女は俺の顔を覗き込み、不安そうに訊いてくる。
俺はサンドイッチで口の中をいっぱいにしたまま頷いた。
彼女はそれを見て微笑むと、自分も一つサンドイッチを取り口に入れた。
どれもマヨネーズの多いサンドイッチの様な気がしたが、気が付くとバスケットの中は空になっていた。
「もう、腹一杯……。何も食えねぇ……」
腹を摩りながら俺は岩の上に寝転んだ。
すると彼女も同じ様に俺の横に横たわり、二人で流れる雲を見た。
台風が近づいている事もあり、いつもより雲の流れも速かった。
「明日は台風なんだね……」
「うん」
「明日は会えないかな……」
「うん」
彼女はゆっくりと体を起こして、膝を抱えて座った。
俺も同じ様に体を起こして膝を抱えた。
「流石に嵐じゃ、工場まで行けないしな……」
俺は船の浮かぶ沖を見た。
少し波も白く見えている。
「そうね……」
彼女はそう言うと立ち上がり、水着の尻の砂を払うと海に飛び込んだ。
水飛沫が俺の顔にかかった。
彼女は一旦深く潜り、顔を出した。
俺はそんな彼女を見て微笑む。
「なぁ……」
彼女は俺を見て髪をかき上げる。
「なあに」
俺はゆっくりと立ち上がった。
「お前、名前……。何ていうんだよ」
彼女はくすくすと笑い、微笑んだ。
「全然名前訊いてくれないから、興味ないって思ってた」
彼女はそう言うと海面を掬う様にして俺に水をかけた。
俺はその飛沫を避ける様にして顔を覆う。
「何するんだよ……」
俺は彼女の傍に飛び込んだ。
俺が飛び込んだ事に驚いたのか、彼女は慌てて水の中に沈む。
水の中でバタバタと暴れる彼女に気付き俺は彼女の腕を引っ張って、水面から顔を出した。
彼女は俺にしがみ付く様にして呼吸を整えていた。
柔らかな彼女の体が俺に触れる。
俺は赤くなった顔を誤魔化す様に、彼女と一緒に一度水中に沈んだ。
それに又、彼女は慌てる。
「もう、淳の馬鹿」
彼女は舌を出して言うが、声を出して笑っていた。
結局、その後、雨が降り出し、二人は慌てて家に帰った。
翌日は朝起きたら、既に台風が近付いていて大雨だった。
俺は何も手を付けていなかった宿題を広げ、何から始めようかと考えていた。
「淳……。アンタはそうやって眺めているだけで宿題を片付ける事が出来るのかい」
母さんが後ろから声を掛ける。
「自分の息子がそんな能力の持ち主って事、知らなかったよ」
俺は振り返って母さんを見た。
「誰にも言うなよ……」
母さんはニヤリと笑って頷く。
「心配するな……。恥ずかしくて誰にも言えないよ……」
母さんは吐き捨てる様に言って背を向けた。
「昼御飯、出来てるよ……。早く食べな……」
母さんが階段を降りる足音を聞いて、俺は立ち上がった。
テーブルに置かれた素麺を見て、
「また素麺かよ……」
俺は文句を言って座る。
「夏は素麺、冬は鍋……。日本って国ではそう決まってるんだよ」
母さんは俺の素麺の器に真っ赤なサクランボを一つ投げ入れた。
「今日はサクランボ付きだよ」
流石に俺もそんな事じゃ誤魔化されない。
「あーあ。昨日のサンドイッチは美味かったなぁ……」
俺はそう呟くと、素麺を汁につけた。
「サンドイッチね……。あの可愛い子の手作りだったんだろ」
俺は咽て素麺を吐いた。
「汚いねぇ……。何やってんだい」
母さんは俺が飛ばした素麺を拭く。
俺は顔を引き攣らせながら母さんの顔を見た。
その俺に気付き母さんはニヤリと笑った。
「知らないとでも思ったか……」
俺は慌てて視線を外すと素麺を食べた。
そういえば彼女の名前も訊きそびれた。
俺はそれを思い出した。
「良いねぇ……。青春だねぇ……。最近はアオハルって言うらしいねぇ」
母さんの独り言を聞きながら俺は、彼女の事を思い出していた。
彼女は一体、誰なんだろうか……。
台風一過の空を眺めながら、俺は夏休みの宿題に取り掛かった。
口煩い親父に監視されながらそのまま数日、俺は宿題漬けにされた。
数日後、俺は叔父さんの工場へと向かった。
工場の事務所のドアを開けて、叔父さんに声を掛ける。
「お、淳か……」
叔父さんはタバコを咥えながら立ち上がる。
「宿題終わったか……」
叔父さんは歯を見せて笑った。
大量の宿題が終わる筈もなく、俺は苦笑して目を伏せる。
叔父さんは俺の肩を叩き、
「出来てるぞ」
とだけ言った。
俺は頬を緩めて、事務所を出て隣の倉庫を覗いた。
新品の様に……とは行かないが、綺麗に塗装されたピンク色の自転車がそこにはあった。
俺は誇らしい気分になった。
この夏、ボロボロの自転車を何台もかき集めて、自転車を作った。
小さくなった自転車を見て、「自転車くらい買ってやる」と言っていた親父を後目に、「自分で作る」と言い切り、完成させた。
もちろん叔父さんに手伝ってもらった所もあるのだが、何かをやり遂げた。
それが自分の証の様な気がした。
「彼女は毎日来てたぞ……」
叔父さんが後ろから言う。
俺は振り返った。
叔父さんは俺の肩を叩き、ゆっくりと自転車の傍にしゃがみ込んだ。
「彼女が仕上げも手伝ってくれたんだよ……」
叔父さんはチェーンのカバーを指さした。
そこには「J&M」の文字が書かれてあった。
「J&M……。これは……」
叔父さんは顔を上げてニヤリと笑った。
「お前と彼女のイニシャルなんだろ……」
「M……。彼女、Mなのか……」
俺は叔父さんの横にしゃがみ込んだ。
「何だ……。知らないのか……」
叔父さんはそう言って笑った。
「淳」
彼女の俺を呼ぶ声に俺は顔を上げた。
逆光の中に浮かび上がる彼女の影に俺は立ち上がる。
「ほら、自転車乗り。教えるんだろう……。行って来い」
叔父さんは俺の背中を思いっきり叩いた。
「ライトー。行ったぞ」
その声に俺は我に返り、眩しい夏の太陽に重なるボールを探した。
その打ち上げられたボールは俺のグローブに収まった。
スリーアウト。
俺は小走りにベンチへと帰った。
「誰だよ。こんな糞暑い日に試合なんて入れたのは……」
俺は文句を言いながら流れる汗をタオルで拭い、スポーツドリンクを飲んだ。
ベンチに座って幼馴染のタカシとケンジがスマホを覗き込んでいた。
俺はその二人の頭を空になったペットボトルで叩き、その画面を覗き込んだ。
「何見てんだよ……」
俺は二人に訊いた。
「マリカちゃんだよ……。新条マリカ」
タカシは画面を見つめたまま言う。
「新条マリカ……。誰だそれ……」
タカシとケンジはゆっくりと振り返り俺を見た。
「な、何だよ……」
「お前……。本当に女に疎いな……。そろそろ興味持てよ……女に。ホモだと思われるぞ」
ケンジはそう言ってまたスマホの画面に視線を戻した。
どうやらネットで配信されているアイドルの動画の様だった。
「ふん……。大きなお世話だよ……」
俺はタオルを首に掛けて、ベンチに座った。
そして夏の空を見上げた。
あの日もこんな空だった。
完成したばかりの自転車で、俺は彼女に自転車を教えた。
叔父さんの工場の前の道でフラフラと自転車を漕ぐ彼女を支えながら、俺は笑っていた。
彼女の白い帽子は風に飛ばされ、俺は何度もその帽子を拾った。
「離さないでよ……」
彼女はフラフラとハンドルと揺らしながら俺に言う。
「大丈夫だよ。しっかり持ってるから」
俺は自転車から手を離した。
彼女は「キャー」と声をあげながら坂道を下って行く。
「ブレーキ、ブレーキ」
俺はスピードを上げて行く彼女にそう叫んだ。
しかし、彼女はそのまま坂道を下って行った。
白い帽子と風に靡く彼女の髪がアスファルトから立ち上る陽炎の中で夏の景色を彩っていた。
そしてそのまま、彼女も自転車も帰って来なかった。
「淳……。打順だよ」
俺はバッドを渡されて我に返る。
糞……。
夏は嫌いだ……。
あれから十年……。
俺は夏が好きじゃない……。
バッターボックスの土を蹴る。
結局俺は二台目の自転車を作る気にはなれず、親父に自転車を買ってもらった。
「ストライク」
俺の前を白球が通り過ぎる。
「おいおい、淳、ちゃんと見えてるか」
ベンチから声が飛ぶ。
煩い奴らだ……。
早く帰ってシャワー浴びてぇよ……。
俺は二球目の球を大きく空振りした。
「淳、打たないとサンドイッチ食べさせないわよ」
聞きなれないそんな声がベンチの方から聞こえた。
俺はそのベンチを見た。
そこには「J&M」と書かれたピンクの自転車に跨った女がいた。
「あ、新条マリカじゃねぇか……」
タカシとケンジは腰を抜かした様にベンチから落ちていた。
俺は彼女を一度見てバッドを構えた。
次の瞬間、快音と共に白球は夏の澄んだ空に消えて行った。
「マリカって名前だったのか……。あの自転車泥棒……」
俺はゆっくりとホームベースを踏んだ。




