10
微妙な空気の中、それを振り払うようにジェマはニッと笑った。
「分かった。これを商品化はしないし、持ち帰ることもしない。これはあのアイロブラウノにあげようと思うんだけど、それは良い?」
ジェマがしくしくと泣き続けているアイロブラウノを指さしながら伺うように聞く。ジャスパーは不思議そうにしながらも頷いた。
「構わないが、アイツにあげてどうするつもりだ?」
「これは元々アイロブラウノに上げる予定だったし、これがあれば水の精霊さんからの依頼もあの子を殺さずに達成できると思うんだ」
ジェマはそう言ってニコリと笑うと塗料の容器を手にアイロブラウノに近づいた。
「ジェット、アイロブラウノに身体を洗うように伝えてもらえる? 新しい塗料を塗ってあげるからって」
「ピッ!」
ジェットがアイロブラウノに通訳すると、アイロブラウノはようやく泣き止んでぱぁっと笑顔になった。そして何度も頷くと川の方へのしのしと歩いて行った。そしてバッシャーンと大きな水音を立てて皮に飛び込んだ。そしてバシャバシャと水浴びをすると、川から上がってブルブルと水を払い飛ばした。
「ワイルド……」
「だな……」
「ピピィ……」
ジェマがポカンとしていると、ジャスパーは苦笑いを浮かべた。水が苦手なジェットも引き攣った顔をしている、ように見える。ジェットは顔が真っ黒な毛に覆われているから表情が分かりにくい。
「ガウッ」
すっかり綺麗になったアイロブラウノ。泥水で汚れたような茶色い毛並みはアイロブラウノの象徴とも言える。
「身体に塗料を塗っていきますね?」
ジェマが言うとアイロブラウノは頷く。待ちきれない様子で足踏みをするアイロブラウノにジェマは苦笑いを浮かべた。
「この塗料は取れないで欲しいと思いながら塗れば雨に濡れても色が落ちないんです。逆に取れて欲しいと願うと落ちるので、アイロブラウノの姿に戻りたいときはそう願いながら水を浴びて洗い流してください」
「ガゥッ」
そんな説明はいらないとばかりに足踏みをするアイロブラウノに騎士たちが剣を向けた瞬間、アイロブラウノはビビッて縮こまった。その隙にジェットがジェマの言葉を通訳するとアイロブラウノはコクコク頷いた。
「それでは塗っていきますね」
ジェマはアイロブラホワの黒のラインを忠実に再現しながら塗料を乗せていく。
「上手いなぁ」
シヴァリーがその腕に感嘆の声を上げる。ジェマはそれにはにかんだけれど、言葉は発さない。ジェマは真剣な顔で塗料を塗り切ると真っ黒に塗料が付いた腕で汗を拭う。そして【マジックリング】に魔力を込める。
「水よ、我が呼びかけに応え、具現化せよ」
詠唱後にチョロチョロと水が現れる。ジェマが手に付いた塗料を水で洗い流すと、ジャスパーがふよふよとジェマの顔に付いた塗料をタオルで拭った。
「ありがと、ジャスパー」
「なんてことない。これも落ちるからな」
ジャスパーがそう言った瞬間、タオルに付着した塗料がするんと落ちて地面に垂れた。漆黒の水滴は地面の上でぷっくりと形を残している。
ジェマはそれから視線を外すとアイロブラウノを見た。アイロブラウノはいつもより綺麗に、手が届きにくいところまで塗られた塗料に感動してその場をぐるぐると回っていた。
「アイロブラウノさん、この塗料なら雨に濡れることを気にしなくて大丈夫です。ですから、あそこの洞窟には行かないであげてください」
「ガゥ?」
「アイロブラウノさんのことが怖い方もいらっしゃるんです。弱肉強食の世界ですから。分かりますよね?」
アイロブラウノは頷いた。不満げに。種族のせいで行けない場所がある。それは不平等だと思うだろう。けれど本当にそうだろうか。それはただの住み分けに過ぎない。平和な村に銃を構えて突撃することと変わらない。
「アイロブラウノさん、弱い者を守るための場所にわざわざ強者を入れれば、それは虐殺の始まりです。少数派を守る場所に入れないことで不平等を訴えて、その場所を多数派に巻き込むこと。それが平等な世界を生むことはありません。ただのわがままの産物です」
ジェマの真剣な表情に、ジェットの通訳にも熱が入る。アイロブラウノはゾッとした顔で何度も頷くと手を振って離れていった。森へ帰っていくアイロブラウノを見送ると、ジェマとジャスパー、シヴァリーは再び水の精霊の元に向かう。
ジャスパーがことの仔細を報告すると、水の精霊はふわふわとジェマとシヴァリー、ラルド、ジャスパーの周りをふわふわと飛び回った。
「ふふっ、可愛らしい。褒美を差し上げましょう。なんでもどうぞ?」
ジェマがシヴァリーを見ると、シヴァリーは首を横に振った。
「解決したのはジェマだから。好きな願いをかなえてもらいな?」
シヴァリーに背中を押されて、ジャスパーがニコニコと見守る。ジェマは不安と緊張でドキドキしていたが、必死に考えた。そしてポンッと閃いた。
「ジェットと意思疎通ができるようになりたいです!」
今日戦闘時に困ったのは意思疎通。ジェットの声が聞えれば。ジェマはそう願った。