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この日、ジェマは夜の森を抜けて帰るのは危険だというラルドの言葉に甘えて、〈エメラルド商会〉の客間に宿泊することになった。
「それじゃあ、私はこれで。ジェマさん、お財布ありがとうございました」
「こちらこそ、奢っていただいてありがとうございました」
「良いんだよ。僕の方が年上だし。ラルドはまた明日な」
「ああ」
騎士寮の前でシュレッドと別れる。騎士寮の中から数多の視線を感じてつい身を竦めたジェマに、ジェットもつられて不安げにひと鳴きした。
「大丈夫だ。気が付かないふりをしろ」
「分かった」
ジェマは言われた通り普段通りの足取りでその場を離れる。角を曲がって騎士寮から見えなくなると、ジェマとジェットはホッと息を吐いた。
「大丈夫か?」
「うん。なんとか」
「ジェマ」
ジェマがジャスパーと話していると、それまで黙っていたラルドが眉間に皺を寄せて歩きながらジェマを振り返った。ジェマが肩を竦めて窺うように見つめると、ラルドはガシガシと頭を掻いた。
「あー、なんだ。シヴァリーを良く思わない騎士のやつらに目を付けられるかもしれない。俺もなるべく店の方に顔を出すようにはするが、対策は万全にしていてくれ」
ラルドは不安げにジェマの胸に下がっている【マジックペンダント】を見つめた。ジェマはその視線を追って【マジックペンダント】に触れると、自信ありげにニンマリと笑ってみせた。
「大丈夫ですよ。これがあればある程度戦えますし、私は殺気にも敏感です。それにもっと殺気に敏感なジェットや、魔法で戦うことができるジャスパーも傍にいますから」
ジェマはジェットとジャスパーの頭を撫でる。ラルドにはジェットの頭と肩の上の空気を撫でているようにしか見えなかったが、ジェマを守る存在がいることにはホッとした。
「私より、ラルドさんの方が心配です。気を付けてくださいね?」
「ああ、そうだな」
ラルドは俯いて右手で左腕を掴んだ。ゆっくりになった歩調に、ジェマも少しゆっくりと歩く。
「念のため護身術を習ってはいるが、盗賊相手で精いっぱいだ。騎士を相手取って勝てるかどうか」
頼りなく呟いたラルドに、ジェマも不安げな視線を向ける。顔を上げてそれに気が付いたラルドは、慌てて笑顔を取り繕った。けれどその笑顔にも覇気がない。
「大丈夫だ。俺も一応【マジックステッキ】は常備しているからな」
「他に護身用の武具を持っていたりは?」
「ないな。商人にとって武具は諸刃の剣だ。自分の身を守ることはできるが、商談相手に不信感を与えることになる」
ラルドがそう言って苦笑いを浮かべたとき、〈エメラルド商会〉に到着した。2階建ての白い石造りの建物。森の香りがする〈チェリッシュ〉とは違う荘厳さ。ジェマは物心ついてから〈エメラルド商会〉の店舗の前まで来るのは初めてで、そのオーラに圧倒された。
しかし驚くのはまだ早い。ラルドがカーテンが閉まり『Close』の看板が掛かった入口を開けると、まだ中にいた従業員が一斉に振り向いた。
「お疲れ様」
「お疲れ様です、店長」
一礼した従業員たちに手を挙げたラルドは、ドアを抑えてジェマを中にエスコートした。ジェマが異様な雰囲気に飲み込まれてもはやポカンとしていると、サッと手を差し出した。
「ジェマ、こっちだ」
「は、はい」
経験したことがない世界に飛び込んでしまったジェマ。キャパオーバーの頭からは煙が立ち上っている。考えることができない頭で、差し出された手に自らの手を重ねる。その様子にジャスパーが頭を抱えたけれど、当然それにも気が付かない。
手を引かれるまま店の裏へ向かって、客室に案内された。
「ここにあるものは自由に使って良い。他に欲しいものがあればそこのベルを鳴らせ。うちのメイドがすぐに来る。」
「め、めいどさん……」
お伽噺でしか聞いたことがない存在。ポカンと開いてしまったジェマの口をジャスパーが押してどうにか閉じさせた。
「リュカ」
ラルドに呼ばれてそそくさと現れたのはジェマとラルドより2つか3つ年上の少女だった。
「ジェマの世話はこのリュカに任せる」
「えっと、ジェマです。今日はよろしくお願いします」
ジェマに挨拶されたリュカは、一瞬目を見開いた。けれどすぐに感情のない表情を作ると黙って首を垂れた。
「風呂は入るか?」
「入りたいです」
「分かった。すぐに準備を頼む」
リュカは指示に対して一礼で返す。そしてラルドが手を挙げるとサッと客間を出て行った。
「それじゃあ、風呂の準備ができるまでジェマは休んでいてくれ」
「は、はい」
ラルドも部屋を退出して、ジェマは深く大きな息を吐いた。メイドとして働く人の姿を見たのは初めてだ。そしてメイドを従える主人の姿を見たのも。ジャスパーやジェットとの家族のような契約関係しか知らないジェマは、明らかな上下関係を前に圧倒されてしまった。
「びっくりした」
「そうだな」
「ピィ」
ジェットも怯えるようにジェマに縋りつく。ジェマはドッと疲れが出て、ソファに崩れるように倒れ込んだ。