1-9 トランシルヴァニアの血濡れの伯爵夫人
「……エリザベートお姉様のことかしら?」
「そうさ! あの名門ハプスブルク家に縁があるっていうね!」
名前なんか知らないわよ、と内心でぼやきながら、ロザリーは話を合わせる。
「わたくし、あの方が大好きよ。わたくしと同じように、辛い思いをなさっていたもの。去年の晩餐会で、ハンガリーの学者さんからお話を聞きましたの。とても勇気づけられましたわ。三百年近くも前に、わたくしの同志のような方がいらっしゃったなんて」
ロザリーはこっそり舌打ちする。余計なことを! 今度どこかでその学者と出会ったら、二度と口を開くなって忠告してやるわ!
「なるほどね。だからあなたは彼女を真似て、こんなことをしてるってわけか」
「ええ……それであなたは?」
興味半分、疑い半分といった目が、ロザリーを射る。先程の言葉を測りかねているのだろう。ロザリーは笑って小首をかしげる。侯爵夫人と同じように無邪気さを装ってみたのだ。
「実はぼくも……彼女に憧れているんだ」
訝しそうな夫人を尻目に、ロザリーはその場を歩きまわる。気分は日曜のハイドパークの演説者である。
「美しい女性の血! 素晴らしい! ぼくもかねがね、あなたと同じことを考えていたんだ。だけどぼくにはその一歩が踏み出せなかった。あなたは違う! ぼくはあなたのような人を探し求めていたんです。侯爵夫人、今夜から、ぼくがあなたの同志になりましょう!」
にっこりと笑うロザリーに、夫人はぽかんと口を開けた。ハウスキーパーが近づいて、夫人の腕をぽんぽんと叩く。
「騙されてはダメですよ、奥様! この男、さっきあの男たちの仲間だって、自分から認めたじゃないですか!」
「いやだなあ、モリスン嬢。あれはあなた方を試したんですよ。ぼくの目的と同じかどうか、ってね! もし夫人の噂が真実じゃなかったら、警さ……ごほ、困りますからね」
警察に捕まる、と言いかけて、ロザリーは急いで言葉をにごした。
そう、警察である。
暖炉の前で分かれてから、そろそろ一時間が経つ頃だ。今こうしている間にも、ジェームスと警察官たちがこちらに向かっているはずだ。「警察が来るぞ! 諦めろ!」と侯爵夫人を脅すのも一つの手ではある。が、しかし、ここは密室のようなもので、ロザリー以外はみんな捕らえられている。多勢に無勢。武器を持った夫人とハウスキーパーが自暴自棄になれば、皆殺しの可能性だってある。
だからロザリーは時間を稼ぐことにした。
警察官なら銃を持っているから、夫人たちとも互角に渡り合えるはずだ。彼らが来るまでは、なるべく油断させておかなければ――ロザリーはちらっと視線を走らせる。アンソニーが静かにこちらを見ている。冷静さを取り戻したようだ。隣では、サイモンが肯定するようにそっと首を動かす。
(あたしの意図を察して、アンソニーに伝えてくれたんだわ!)
ロザリーはほっと胸を撫でおろして、また夫人に向き直る。
「あなたに会えたのは幸運だ。どうです? 今夜の記念に、ぼくと乾杯でもしませんか?」
侯爵夫人は決めかねるように、唇を何度も指でなぞっている。乾いた少女の血がほろほろと剥がれ、口のまわりに散らばった。まるで吸血鬼みたいだわ。ロザリーは内心でゾッとしながら、夫人の前に立つ。指先で、夫人の唇のまわりをぬぐう。
「あなたには本当に血がよく似合いますね」
社交界仕様の百パーセント似非笑いを浮かべてみる。すると夫人の頬が、傍目にも分かるぐらいにみるみる赤く染まっていく。
(んんん? 暖炉の火が急に強くなったのかしら?)
ロザリーがきょとんと暖炉を振り返っていると「グラスを持ってきて」と声が聞こえる。夫人に視線を戻すと、なにやらうっとりと、とろけそうな表情をしている――なんでそんな目であたしを見るのかしら? ロザリーはなんとなく寒気を感じて、後ろに下がった。ハウスキーパーが両手にグラスを持ってくる。その一つを受け取り、ロザリーは密かにほくそ笑む。このままいっそ、酔い潰れてくれたらいいのに。
「ええと……お酒はどこかな?」
「どうぞ。あなたに譲って差し上げるわ」
夫人に刀を差しだされ、ロザリーは石化した。
(……譲る?)
刀を受け取らないロザリーに、夫人が声を曇らせる。
「どうしたの? 威勢がいいのは言葉だけで、怖気づいてしまったのかしら?」
「そうですよ、奥様。男なんてのはみんな、口先だけなんですから」
雲行きが怪しくなり、ロザリーは反射的に手を伸ばす。それは海賊が好む舶刀のようだった。30インチ程の長さで刃はやや湾曲しており、古いがよく手入れされている。冴え冴えと光る刃の先は赤く濡れている――先程の少女の血だ。
(これで何を切れっていうの?!)
ロザリーはくらりとする。このグラスに注ぐのは……もしかして、もしかしなくても、お酒じゃなくて――ロザリーは目の前の令嬢を眺める。ハリエット。彼女はまだ、ロザリーの正体が分からないようだ。五年前に一、二度会ったきりだから無理もない。大きくて澄んだ両目が、じっとこちらを見上げている。自分の肌を切られ、その血をグラスに注がれることなど、微塵も怖くはないというように。
「彼女は一昨日捕らえたばかりで、わたくしもまだ手を出してはいないの。あなたに譲って差し上げるわ」
「グラス一杯分の血を抜いたら、こんなか弱そうなご令嬢、死んでしまいませんか?」
「ほほほ、殿方は無知ですこと。病気のときは瀉血だってするでしょう?」
「瀉血は効果が薄いって、あた……ぼくの家の主治医が言ってましたよ。それに瀉血でグラス一杯分は抜きすぎですよ」
「わたくしはいつも姑に抜かれてましたわ。それにほら、この子たちだって一人も死んではいないでしょう?」
ぐるりと腕をまわして、夫人は少女たちを指し示す。彼女たちの四肢に巻かれた包帯は、そういうことだったのだ。ロザリーは胸が重たくなる。どうりで、みんな顔色が悪いはずだわ!
「この人は嫌だ」
ぎゅっと刀を握って、ロザリーは一歩後ろに下がる。アンソニーの姉を傷つけられるわけがない。それに――自分はすでに一度、彼女を手酷く痛めつけたのだ。もう二度と傷つけたくはなかった。
ロザリーは心の中で三つ数えた。くるりと踵をかえし、反対の壁に向き直る。わざと迷うように視線を動かし、真ん中で止める。一人の少女と目を合わせる――ベルだ。