1-6 暖炉の隠し扉
ジェームスを見張りに残して、ロザリーは足早に廊下を歩いていく。先導するアンソニーが、階段を上がった先の廊下で止まる。階下と違い、このフロアは客には開放されていないようで、しんと静まっている。
「この部屋だ」
扉に耳を当てた後、アンソニーはポケットから細い金属を取りだした。鍵穴に差しこんで手首をまわすと、カチ、と音がする。ロザリーは目を見開いた。
「鍵を持ってたの?」
「いや。コツさえ掴めば、これぐらい簡単だ」
彼の手に握られているのは、女性用のヘアピンだった。あっけに取られるロザリーに、言い訳するように「昔、従者に教えてもらったんだ」とアンソニーは一人ごちた。扉の中を見て、二人は言葉を失くした。部屋の中には、人の影すらない。
「……なんでだ? 侯爵夫人は会場に戻った後、一度も外に出ていないのに」
「きっと使用人の誰かが連れ去ったのよ」
「ほんとうに……そんなことが起こり得るのか?」
アンソニーはまだ半信半疑のようだった。無理もないわ、とロザリーは思う。侯爵家の未亡人が、領地の村の娘をさらわせて血を求めるなど、レ・ファニュの『カーミラ』のような話ではないか。姉が行方不明になったから腰を上げたものの、事件なのか事故なのか測りかねているのだろう。
「さっき地下で使用人たちと少し話したけれど、この屋敷には秘密の通路や隠し部屋があるらしいわよ。それにハウスキーパーは、そのことを隠すようなそぶりだったわ。サイモンも怪しいと思ったみたい」
「……すまなかった」
アンソニーは蒼ざめて、慌ただしく室内を調べ始めた。ベッドの下をのぞきこみ、窓を開け放つ。ベルが消えたのは二人のせいではない。ロザリーは彼に首を振り、部屋を歩きまわった。
「いいのよ。あたしだって油断してたわ。まさか本当に連れ去られるなんて、思ってもみなかった」
突然ぶるりと震えて、ロザリーは両腕をさする。燕尾服でよかった。肩も腕も覆われているから、ドレスよりも暖かい。ロザリーは窓を振りかえる。急に寒さを感じたのは、この夜風のせいだ。三月とはいえ、まだこの辺りは冬のような寒さである。ロザリーはふいに違和感を覚え、部屋中を見まわした。
(……なにかしら? さっきから、何か気になってるんだけど)
ロザリーは壁の一点で目を止めて、急いで駆けだした。白い大理石造りの暖炉である。
「どうしたんだい?」
「火が点いていないわ!」
服が汚れるのも構わず、ロザリーは暖炉をのぞきこむ。ずいぶん長い間、火は熾されていないようだった。
「ほんとだ……客間だったら必ず点けているはずなのに」
「今夜だけならともかく、ずっと使われていないみたい。冬の間、泊まり客だっていたはずなのに、おかしいわ」
言いながら、暖炉に彫られた鷲の彫刻を見つめる。他と違って、ここだけ色が違って見える。そうだわ、とロザリーは思い出す。ニューヨークで孤児院を慰問したとき、子どもたちのお気に入りのクマの彫像があって、その顔は何度も手で触られて変色していたのだ。
(……この鷲の彫刻も、何度も誰かに触れられたのかしら?)
ロザリーは彫刻に触れた。思いがけず、手に収まりがいい。鷲の鼻はまるでボタンみたいだった。そう思った瞬間、ロザリーはぐっとその鼻を押しこんだ。
ゴゴゴゴゴゴゴ。
暖炉の奥から低い石のうなり声が響く。
ロザリーとアンソニーは目を見合わせた。暖炉の奥の壁が持ち上がり、小さな扉が現れたのだ。
「……隠し扉だわ」
アンソニーは暖炉に上半身を突っこんで、扉を開いた。子どもの背丈ほどの高さで、奥には薄暗い階段が続いている。古めかしい石造りで、洞窟のように湿気を帯びてひやりとしている。暖炉だけが後の時代に作られたのかもしれない。顔についたほこりを払い、アンソニーはロザリーを振りかえった。
「僕はこのまま向かう。きみは会場に戻って、すぐにジェームスに伝えてくれ」
「あたしも行くわ」
「きみまで来たら、ジェームスにこの通路のことを伝えられないだろ? だからって、きみ一人では行かせないよ。サイモンにまた殴られる」
最後のひと言の後、アンソニーはしまった、という顔で髪をかき上げた。きれいな金髪にほこりがついていて、ロザリーは思わず吹きだした。
「いいわ。じゃあ、任せたわよ」
「待って。あの……気をつけてくれ。きみは血濡れの伯爵夫人を知っているかい?」
血濡れの伯爵夫人とは、穏やかならぬ呼び名である。ロザリーが首を振ると、アンソニーは真剣な調子で続ける。
「あの鷲の彫刻を見て思い出したんだ。中世のトランシルヴァニア地方に、ある伯爵夫人がいた。ハプスブルク家とも繋がりのある、名家だったそうだ。彼女は若い女性の血を好み、少女たちをさらってきては拷問して、血を搾り取っていたらしい……ってごめん、女性に聞かせる話じゃなかったね」
顔をしかめて、アンソニーは片手で覆う。先程から落ち着きがなく、記憶の中の彼とはだいぶ様子が違う。ロザリーと婚約していた当時は余裕のある紳士然としていたのだが。
「ベルに一滴でも血を流させたら、あたしが百倍返しにしてやるわ」
「きみは……」
「なによ? 文句があるの?」
「いや……五年前と……ずいぶん感じが違うんだね」
ロザリーはぱちぱちと瞬きする。それを言うならあなただって、あの頃は甘ったるい愛の言葉をワインみたいに垂れ流して、甘い笑みであたしを誘って、ベッドまで連れていったじゃないの。と、内心で思ったが、ロザリーは口には出さない。
「今も昔も、あたしは性格が悪いのよ。ほら、早く行ってちょうだい」
ぱっぱっと手で追いやる仕草をすると、アンソニーは頭をかいて、背中をむけた。暖炉へと腰を曲げながら、顔だけをロザリーに向ける。
「……すまなかった」
「だからいいってば。侯爵夫人が招待客をさらうなんて、誰も思わないもの」
「それもだけど。当時は……僕もやり過ぎた。反省してる」
アンソニーのすみれ色の目には、苦渋の色が混ざっている。ロザリーは言葉を失った。ハリエットの秘密を暴露したことで、当時、ロザリーは彼から復讐された。甘い言葉で将来の約束をささやかれ、関係を持った途端に捨てられたのだ。その結果、ロザリーは英国の社交界を離れて、米国へと逃げたのだった。だけどそれはもう過去の話で、気持ちの整理はついている。
「あら、気が合うわね。あたしも反省してるのよ。ほら、ベルを助けに行ってちょうだい。あなたの大切なお姉様も、一緒にいるかもしれないでしょ?」
その目が丸くなったのは一瞬で、すぐに真面目な顔になる。アンソニーも今の差し迫った状況を思い出したらしい。
「分かった。きみも気をつけて」
気遣うような声を残して、背中が薄暗い階段の先に消えていった。