1-3 侯爵家に潜入
舞踏会の会場は熱気に包まれている。ロザリーは扉から顔をのぞかせて、ベルの背中をぽんと押した。
「お嬢さ……バ、バークリーさんは入らないんですか?」
「ぼくは帽子を脱いだらバレるだろ? 被ったままで踊るわけにもいかないし。ベルはこの屋敷にまつわる噂を招待客から聞いてまわってちょうだい」
数十分前、二人はなんなく屋敷の門をくぐった。
侯爵夫人とは大階段で顔を合わせたものの、客が多くて慌ただしく挨拶をしたきりだ。しかし噂に違わず、確かに深紅のドレスをまとっていた。黒い豊かな髪を結い上げて、艶然と微笑む姿は、とても子持ちの未亡人とは思えない若々しさである。美容のために若い娘の血を浴びて――という噂は、彼女のこの容貌に端を発しているのかもしれない。
ベルはベル・アスターと、ロザリーはチャールズ・バークリーとそれぞれ偽名を使っている。ちなみに、ベルの名字はニューヨークのご近所さんから、ロザリーの氏名は母方の祖父から拝借したものだ。どちらも米国人だから、知人もそういないはず。別に考えるのが面倒だったわけじゃないわよ?
「え、なにか仰いましたか?」
「別に? くれぐれも気をつけるのよ。侯爵夫人とはあまり接触しちゃダメよ。あなたの安全が一番大事なんだから」
「それは私の台詞です! お嬢さまはこれからどうされるんですか?」
「酔ったフリをして、地下の使用人部屋に行ってみるわ。なにか話が聞けるかもしれないし……それからね。ぼくはバークリーだろ、ベル?」
ぱち、とウインクしてみせると、ベルは頬を染めて、逃げるように会場に駆けていった。
(大丈夫かしら……げっ!)
会場を見まわしたロザリーは、慌てて顔を引っこめる。
もう一度、おずおずと覗いてみれば――部屋の奥の観葉植物のそばで、二人の紳士が立ち話をしている。ロザリーと同じく二十代前半、一人は金髪で甘い顔立ち、もう一人は銀に近い金髪で厳しそうな顔つきの、どちらも見目の良い青年たちだ。ロザリーの眉がぴくぴくと引きつった。
(……あああああ、最悪!)
あの二人を彼女はよく知っている。いや、知りすぎるほど知っている。なにしろ、元婚約者と元々婚約者なのだ。どちらからも婚約破棄されたけれど! 絶対に顔を合わせたくない。ロザリーはそそくさと逃げ去った。
◆
侯爵夫人の屋敷は中世の城を改築したものだ。断崖に面する奥まった部分は、重々しい石壁造りの城塞だが、屋敷の正面にはドーリア式の円柱が立ち、アーチに囲まれた窓が並ぶ新古典様式となっていた。増改築のせいか、廊下は入り組んでいて方角が分かりづらい。ようやく、ロザリーは使用人用と思しき扉を見つけ、身をひるがえした。案の定、緑のベーズ――厚いフェルト状のウール生地――が扉に張りつけられている。廊下との防音のためだ。薄暗い階段を下りていく。どこか遠くで波の音が聞こえる。この石壁は海に面しているのだろう。わずかばかりの小窓を見上げると、明るい月が遠くにあった。コツ、コツ、と自分の足音が石段に響く。
(……一体あたしは、こんな所で何をしてるのかしら?)
ふいに胸が冷たくなる。五年前、ロザリーは二度婚約破棄された。それは自分のせいで、自分の罪も自覚している。しかしいざあの二人を前にすると、自分でも驚くほどに気持ちが沈んだ。
(……ま、お互い様よね。あの人たちだって、あたしに会いたくないだろうし。鉢合わせしないように気をつけなくちゃ!)
突き当たりで扉を開ける。
わいわいと、にぎやかな声が飛びこんでくる。
ロザリーは狭くて薄暗い廊下を見まわした。声は右手から聞こえてくる。どうやら使用人の居間のようだ。すうっと息を吸いこんで、ロザリーは陽気な足取りで近づいていく。
「やあ! ここはどこかな?」
「どうしました、旦那様? お迷いになったんですか?」
「ははは、この屋敷は迷路みたいだね。酔いを醒まそうと庭で涼んでいたんだが、戻ろうとしたらこんな所に出てしまった」
「違いないですぜ、この屋敷の半分は数百年前の城塞ですからね。オレたちでも迷っちまうぐらいだ」
最初の声は侯爵家のハウスキーパーで、後の声は雑用係のようだった。他にも十数名が集まっていて、椅子にあぶれて立っている者もいる。小ぎれいな服装の男も何人かいる。屋敷の使用人ではなく、招待客の従者やフットマンたちだろう。
「そんなに昔のお城なら、秘密の通路や隠し部屋があったりしないの?」
「へへっ、さすが旦那様! 実は……ぐぇ!」
雑用係がカエルのような声を上げる。ハウスキーパーに襟首を引っ張られたのだ。頭をかいて「いやいや、ただの冗談でさ」と誤魔化すようにコーヒーを取りに行った。ロザリーは気づかない振りをして、ハウスキーパーに水を向ける。
「それにしても、この屋敷のメイドはみんな可愛いね。美人ばかりだ」
「ありがとうございます」
「そう言えば、ぼくの知り合いの娘も……き、ひゃあ!」
いきなり腕をつかまれて、ロザリーは悲鳴を上げそうになる。かろうじて低い声を保ったまま、小さく叫んだ。目の前に青年がいた。服装を見るに、どこかのお屋敷のフットマンだろう。ふんわりと柔らかな茶色の髪、そばかすの浮いた白い肌に、銀のメガネ。その奥には、榛色の澄んだ目――ロザリーがよく見慣れている――見慣れすぎるほど見慣れている――目があった。
今度こそ、ロザリーは悲鳴を上げた。
「サッ……!!」
「ご無沙汰しています。こんな所であなたに会えるとは。ここは騒がしい。あちらでゆっくりお話ししましょう!」
口調こそ丁寧だが、青年はロザリーの口を手で塞ぎ、有無を言わさずぐいぐいと廊下に引っ張っていく。心なしか、彼の笑顔もぴきぴきと張りついているように見える。ロザリーはもはや抵抗する気力もなく、使用人たちに手を振りながら部屋を出た。