1-1 血まみれ侯爵夫人
楽しい話が書きたくて書いた小説です。気軽にご覧ください。少しでも、みなさまの息抜きの時間になれば嬉しいです。
「……退屈だわ」
ロザリーは低くつぶやいて、窓の外を眺める。三月の上旬とはいえ、イングランド北東部のこの屋敷の領地はまだ肌寒い。薄氷のような空に木蓮の枝が伸びている。あと数日もすれば、つぼみが綻んで庭が一気に華やぐだろう。
視線を戻して、ロザリーは鏡台を見つめた。侍女のベルが髪を梳いてくれている。ゆるくカールした金色の髪が一束取られ、優しく櫛を入れられる。マッサージみたいで気持ちがいい。ロザリーはようやく少し機嫌を直して、頭を後ろに反らした。
「ベル、なにか面白いことはない?」
二週間前に帰国してから、日に五回は聞いている。最初の頃は、船旅で出会った乗客のことやら珍しい食べ物の話やら、話題に事欠かなかったベルも次第に困り顔をするようになっていた――しかし、今日は違う。
「それが聞いてください、お嬢さま」
ベルは目を瞬かせて、今にも口を開きたそうに櫛を片手にロザリーを見下ろしている。なになに、とロザリーが食いつくと、恐ろしそうに身を震わせる。
「いるんですって……血まみれの侯爵夫人が」
「は?」
ゴシック小説じゃあるまいし、とロザリーが呆れると、ベルは子どもに言い聞かせるように人さし指を振ってみせる。
お嬢さま、そのお顔は信じていませんね? ここから数十マイル離れたイングランドとスコットランドの境界の辺りに、侯爵家のお屋敷があるそうです。未亡人の侯爵夫人は、真っ赤なドレスに身を包み、真っ赤なワインを夜な夜な飲んでは、領地の近郊の村から娘をさらわせて、美容のためにその血を浴びているそうですよ!
「うさんくさーい」
「違うんですよう! キッチンメイドのノーラから相談を受けたんです。ノーラの従妹が三ヶ月前、お屋敷に奉公に上がったそうなんです。だけど一度も村に帰ってこなくて、手紙も返事がないって言うんですよ」
ロザリーは軽く首を振る。
「忙しかったり、返事を忘れてるだけじゃないの?」
「その子はすごく真面目なんだそうです。病弱な母親のことを気にかけていて、月に一度のお休みは必ず帰るって約束したんですって。なのに、他の兄弟がお屋敷を訪ねてみても、用事があるだの体調が悪いだの、理由をかこつけて会わせてくれないそうなんです」
ふうん、と口にしながら、ロザリーはめまぐるしく頭をまわす。あの辺りなら、たぶんD侯爵家の領地かしらね。ここから馬車で二、三時間で行けるはずだわ。確か数日前に、侯爵夫人から招待状が届いていたはず。お母さまはもう返事を出したかしら?
「…………ふふふふふ」
低く笑うロザリーに、ベルは怯えたように後ずさる。
「……あのう、お嬢さま? なにか変なことを考えてやしませんよね?」
「うちのメイドが困ってるなら、主人の家族としては助ける義務があるわよね?」
「いえあのダメですお嬢さま! ああ、私、余計なことを言いましたね……」
「来週に侯爵家の舞踏会があったはずよ。行きましょう、ベル!」
「あああああああ……ダメですってばあ」
必死でなだめようとする侍女の声が聞こえないふりをして、ロザリーは目を閉じた。
◆
ニューヨークから一時帰国して、二週間。
N伯爵令嬢ロザリーは退屈だった。
彼女は十六歳でロンドンを離れて、それ以来、米国の祖母の屋敷で暮らしている。大西洋を渡った原因は、彼女の二度の婚約破棄にあるのだが、長くなるのでここでは割愛(詳しくは第二章・前日譚をどうぞ)。とにかくこの五年間、ロザリーはニューヨークでよろしくやっていたのだ。
その日常が崩れたのは、母親の事故のためであった。
先月、ロザリーは一通の電報を受け取った。母親が馬車の事故に遭い、骨折をして重体であるという。ロザリーは蒼ざめて、取るものも取りあえず、侍女とともに船に乗りこんだ。港から馬車を飛ばして屋敷に戻った娘に、母親は優雅にソファに座って、にっこりと笑いかけた。
(……だましたわね)
ロザリーが半目になると、母親は慌てて右足を押さえてうめいた。てっきり、馬車から落ちるか、轢かれたのかと思っていたのだ。なんのことはない。母親は馬車から降りようとして、滑って転んだだけなのだ。とはいえ、社交好きの母親にとって、舞踏会にも晩餐会にも行けないというこの状況は、想像以上に退屈だったらしい。わずか数日で音を上げて、米国の娘に電報を打ったというわけである。
最初の一週間はロザリーもいくぶん同情して、雑誌や新聞のゴシップに付き合ったり、一緒にファッションプレートを眺めたりしたものの、いいかげん疲れてしまった。兄は議会が始まってロンドンにいるし、父親はからだが弱くて別棟で静養している。ロザリーもこの頃はなるべく階下を避けて、二階の自室で過ごしている。そしてそんなロザリーに、ベルが付き合う羽目になっていたのだ。
応接間では、母親が侍女のフリン相手に弁舌を振るっている。
ロザリーは顔をのぞかせて、母親ににっこりと笑った。
「お母さま、侯爵家の舞踏会に行ってもいいかしら?」
「いいけれど……誰かお目付け役の当てはあるの?」
「サイモンが戻ってきているそうなの。当日だけ付き合ってもらうわ」
従兄の名前を出すと、母親の顔に不満が浮かぶ。爵位も領地もないこの従兄を、母親は嫌ってこそいないものの、娘にふさわしい交際相手とも思っていないようだった。ロザリーは並んでソファに腰かけ、優しく母親の手を取る。
「ねえお母さま、この頃あたし、ニューヨークが懐かしいの。だからたまにはお屋敷の外に行ってもいいかしら? そうしたら気分も変わって、また英国にいたくなると思うわ」
にこにこと笑いながらも、脅迫である。
(お母さま、いいかげん気晴らしさせてくれないと、米国に戻っちゃうわよ! 骨折だってほとんど治りかけてるのに、あたしを手元に置く口実にしてるんでしょう?)
母親は図星をつかれたようで、渋々とうなずいた。
「ありがとう」と笑うロザリーに、母親は、ふと思い出したように首をかしげる。
「……あの方、確か一昨年にご主人が亡くなったはずだけれど……まだ二年は経っていないんじゃないかしら。まさか、クレープを着て舞踏会を主催するわけもないでしょうし、わたくしの記憶違いだったかしらねえ」
独り言のような母親のつぶやきに、ロザリーも内心で首をかしげた。夫を亡くした寡婦は、二年間は黒のクレープーー艶のないちりめん生地を身につけるのが常識である。だがベルの話では、血まみれの侯爵夫人は真っ赤なドレス姿であるという。
(お母さまの勘違いか、それとも侯爵夫人が変わり者なのかしら? やっぱり、この目で確かめてみるのが一番ね!)
ロザリーは母親の頬に口づけて、ソファから立ち上がった。
改稿は誤字の訂正や語句の修正などが中心です。物語の内容に関わる大きな改稿は、前書きにてお知らせします。