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脊髄小脳変性症の母と生きる。  作者: 渡邉尚道
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病気の兆し

ある日、僕が一輪車の練習をしていた時、母も自転車が乗れなかったので、一緒に家の前で練習し始めたんですが、どうしても乗れず、むしろこけて、膝は血だらけでした。


この時から母の病気は目を覚まし始めていたのかもしれません。


これ位の時期から、母はこける事が多くなってきました。バランスをとるのが難しいという感じで、子どもをおんぶするのも怖くなり、大好きだった保母さんを辞めることになりました。

大好きだった仕事を辞めないといけなかった事、本当に悔しかったことと思います。


そのころから母は家に居ることが多くなってきました。

母にとっては辛い事だったかもしれませんが、それは僕にとってとても嬉しい事でした。

だって家に帰ったら大好きな母が居るんです。

 

しかし、その位の時から子どもながらにして母は身体が悪いんだと感じ始めました。僕は時々寝る前に布団の中で、手を合わせて、お母さんが僕より先に死にませんように。と強くお願いすることが多々ありました。


ある日、母が家の段差につまづいて激しく転倒した事がありました。すぐに治るだろうと思っていたのですが、歩けなくなる位痛がったので、病院に連れていくと、左大腿骨の骨頭がスパッと折れていました。そこで人工関節をいれなければいけなくなりました。父は母がこんなに転びやすくなったのは、母が新潟出身なので水俣病なのではないか?と疑っていたんですが、この時に母の病気が分かったんです。


それは脊髄小脳変性症SCA3でした。母が45歳の時です。


その病名を突き付けられた母はどんな気持ちだったんだろう?

怖かったかな?不安だったかな?

しかし、その時の僕から見た母はいつもと変わらない母でした。

子どもに心配をかけないように必死に笑顔を繕っていたのかもしれません。本当に強い母です。


そして僕が小学校高学年になって卒業するころには、かなり歩行はおぼつかなくなっていました。


僕が通っていた小学校は卒業式には学校の周りを親と手を繋いで1周するというイベントがあったんですが、僕の苗字は渡邉で出席番号順に出発すると最後になるんですが、ただでさえ脚が遅い母、1周するまで、他の皆さんを待たせてしまい、頭を下げて謝っていました。僕はそれを見てちょっとだけ切なく感じていました。



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