戻ってきた日常とこれからと(1)
「じゃあ、ボクは冥界に帰るね。今まで大変お世話になりました!」
育生とイシスの自宅前でネフティスが大仰にお辞儀をした。
「あー……、もう帰っちまうのか」
育生が少し気遣わしげに言うと、ネフティスがにやにやしながら彼の顔を覗き込む。
「なになに? イクオちん、ボクがいなくなるのがさみしいとか?」
「うーん、最初は何とも騒がしい子が来たなと思ったけど、いざいなくなると思うと確かにそうかもな」
「……それ、けなしてるの? 褒めてるの?」
そんなやりとりを育生と交わした後、ネフティスは姉に向き直った。
「じゃあね、イシス姉様。今度会うときは、こっちの世界で数年後かもしんないけど」
すると、イシスが少し名残惜しそうに言う。
「ネフィ、此度の件ではあなたに助けられましたわ。あなたが冥界に帰ってしまうのは寂しいですけれども、どうか息災で」
イシスはネフティスをそっと抱きしめた。ネフティスも姉の身体を抱きしめ返すと、彼女にそっと耳打ちする。
「見届けられないのは残念だけど、ちゃんとイクオちんとお話し合いをするんだよ、姉様」
一体何のことか? とイシスがキョトンとした。そんな姉を見てネフティスは焦れったそうに言う。
「んもう! セトとの戦いの真っ最中に約束してたじゃんか。姉様とイクオちん、お互いに伝えたいことを伝え合うって」
「あ……」
イシスは思い出したように自身の口元に手をやった。その姿を見てネフティスが笑みを濃くする。そして、姉の肩を軽く叩いた。
「じゃあ、しっかりやるんだよ! 姉様」
「し、しっかりって、一体何を……」
イシスがすべてを言い終える前にネフティスは姉に背を向け、再び育生へ歩み寄った。
「じゃあ、イクオちん元気でね。あ! いっけない、ボク忘れ物してたよ」
「忘れ物? 何を……」
育生が小首を傾げるのと同時に、ネフティスが彼の頬に軽く口づけする。突然の行為に育生は呆然とした。そんな彼にネフティスがにっこり笑いかける。
「セトとの戦いのとき、すっごくカッコよかったよ。思わずボクも惚れちゃいそうになるくらい」
「じょ、冗談言うなよ……」
「んふふ。まあ、これはお餞別とでも思ってよ。じゃあ、今度こそバイバイ!」
そう言うと、ネフティスは転移の魔術を使い、この場から消え去った。その姿を見届けた後、育生とイシスは顔を見合わせる。だが、いつもと違い、二人はどこかぎこちない。
「じゃ……じゃあ、あたくし夕飯の準備でもいたしますわ」
「あ、オレも手伝うよ……」
こんな日常的会話もやはりぎこちない。それから夜まで、ネフティスがいなくなった自宅で育生とイシスはどこか決まり悪い思いで過ごすことになった。
「はあ……」
夜半、自室のベッドに横たわり育生は嘆息する。実はほとほと困り果てていたのだ。今まではネフティスがいてくれたから、何とかこの家で平静を装い過ごすことができた。だが、ネフティスが冥界に帰ってしまい、これから育生とイシスはこの家で二人きりということになる。
「……って、今までどおりだろ、それは」
一人ツッコミをし、育生はベッドから起き上がる。とりあえずセトという脅威が去り、この井筒市には平穏が訪れた。ただ、今までと違うのは、再び笹井夕子が不登校になったこと。担任教師の話によると、何か精神的な問題によるものらしい。彼女にグラントクオーツを与えたセトが消え去った影響なのか何なのか、それはイシスにも計り知れないという。
そしてもう一つは、春野奈ずなが以前の地味な女子生徒に戻ったことだ。分厚い黒縁眼鏡に、くせのある黒髪姿。あれほど魅力的で元気な女の子になったのは一体何だったのか? とクラスの間でしばらく彼女は話題に上っていた。でも、隣席の育生は知っている。奈ずなは彼女なりに努力して、女子生徒とも少しずつ会話するようになったことを。
とりあえず、街と学校には平和が戻った。だが――肝心の育生とイシスの間がぎこちない。そういえば、お互いに伝えたいことを伝え合う約束をまだ果たしていないことを思い出し、育生はイシスの部屋を訪ねようかと思い立つ。そのときだった。
「……イクオ、まだ起きています?」
自室のドアの向こうからイシスの声が聞こえてくる。それに反応し、育生は思わずドキリとした。だが、無視するわけにもいかず、ベッドに腰掛けたまま返事をする。
「お、起きてるけど……」
そう答えると、ドアの向こうがわずかの間沈黙に包まれた。その後、イシスが口を開く。
「あの……中に入ってもよろしくて?」
彼女にしては珍しく気後れした口調。だが、その発言内容は、今の育生にとって想定外だった。まさかこんな夜半にイシスが自室を訪ねてくるなんて。そう思ったが、ついさっき自身も彼女の部屋を訪ねようかと考えたことを思い出す。育生は深呼吸した後、ドアの向こうに返答した。
「……ああ、どうぞ」
すると、自室のドアが静かにゆっくりと開かれる。ドアの前には、薄いネグリジェ姿のイシスが立っていた。それは以前なら見慣れた光景だ。だが、今は――。
――やべえ、なんかドキドキしてきた……!
思えばイシスを女性として意識してから、彼女が夜に自室に来るのは初めてだったかもしれない。育生がそんなことを考えているうちに、イシスが育生のベッドの端に腰掛ける。不意に距離を詰められ、育生の心臓が早鐘を打ち始めた。そんな彼にイシスが声をかけてくる。
「……イクオ」
「は、はいいっ!?」
「それで、あのお話はどうなったのかしら?」




