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人間の矜持(1)

 ――イシスが、セトを倒すよりオレを選んだって? そんな、まさか……。


 イシスの手を握っていた育生の手を彼女がそっと握り返す。育生はハッとし、イシスに視線を向けた。彼女は何か言いたげなまなざしを浮かべている。


「……イシス?」


 育生が声をかけると、イシスは静かに口を開いた。


「あの愚弟に胸間を言い当てられるなど……あたくしの一生の不覚ですわ」

「え?」

「イクオ、あなたはあたくしにとって、今や何よりも……大切な存在ですのよ。ふふっ、そんなことにも気づかないなんて、やはりあなたはお馬鹿……ですわね」


 イシスが小さく微笑む。その笑みを目にし、育生は大きく心が揺らぐが、つい「彼」の存在を思い出してしまう。


 ――何言ってんだ。イシスには立派な旦那が冥界にいるだろう?


 思わず口走りそうになるが、機先を制するようにイシスが言葉を続けた。


「あたくし、あなたに伝えなければならないことが……ありますの。ですが、もう言の葉を紡ぐ力も尽きてしまいそう、ですわ……」


 イシスが悔しげに言った。弱々しい彼女を目にするのはこれ以上耐えられそうにもない。イシスを救う方法は、ただ一つ。ならば、それを実行するしかない。いくら実現できる可能性が限りなく低かろうと。


 育生は握っていたイシスの手をそっと離す。そのことを怪訝に思ったのか、彼女が不思議そうな表情を浮かべた。


「イシス、もう少しだけ我慢してくれ。オレがあいつを……セトを倒す」


 その言葉に真っ先に反応したのは、今まで黙って育生とイシスのやりとりを見つめていたネフティスだ。


「ちょっと、イクオちん! さっきボク言ったでしょ、セトはイシス姉様に次ぐ魔術師だ。それを人間のキミがどうこう……」


 育生はネフティスに向き直ると、毅然と告げる。


「人間だからだよ。セトの野郎はオレをただの人間だと思って、歯牙にもかけてないだろう。だから、逆にそこをついてやる」

「ど、どうやって……?」


 ネフティスがゴクリと唾を飲み込む。だが次の瞬間、彼女はずっこけそうになった。


「いや、まったく思いつかねえ」

「ちょ、ちょっとキミねえ! 真面目に聞いたボクが馬鹿みたいだろ!」

「秘策なんてねえし、勝算もこれっぽっちもねえ。だけど、セトの野郎とやり合ってるうちに勝機を見いだせばいいってだけの話だ」


 育生はまさか自身の口から、こんな強気な発言が出るとは思わなかった。だが、不思議と心の内で闘志の炎が燃え始めるのを感じていた。その動力源は、ほかでもない「彼女」。育生はネフティスから「彼女」に視線を戻す。


「……イシス、オレ行ってくる。必ずセトをぶっ飛ばしてくるから、待っててくれ」


 イシスは驚いたように目を見開いた。


「まったく、いつのまに……このような大口を叩くようになったのでしょう。イクオのくせに」

「ははっ、そんな悪態がつけるなら、まだ大丈夫そうだな」

「……イクオ」


 不意に真顔になるイシス。そして、幾分力が残っている細い手で育生を手招きする。


「何だよ?」

「いいから……あたくしのすぐ傍にいらっしゃい」


 わけがわからないながらも育生はイシスの傍へ行き、膝を折り彼女に顔を近づけた。すると次の瞬間、イシスが思いもよらない行動に出る。


「うわわ……っ!」


 育生が驚くより先にネフティスが黄色い悲鳴を上げた。それもそうだろう。眼前で姉が彼女の養い子とキスシーンを繰り広げていたのだから。


 数秒の間、口づけを交わした後、イシスはそっと育生の唇から自身の唇を離す。こんな場面だというのに、育生は驚きから間抜け面を晒してしまっていた。その顔を見たイシスが不服そうに言う。


「何ですの? その顔は。それほど……嫌でしたの? あたくしからの口づけが……」

「い、いや、嫌っていうか、その……驚いたっていうか」


 それに、なぜこのタイミングで? と続けようとするのを、イシスが察したように告げた。


「……今の口づけで、あたくしの魔力をあなたに注ぎましたの。これで、少しなりとも……あなたの加護となるでしょう」


 その言葉を聞き、育生はわずかに落胆する。だが、どんな理由であろうとイシスから口づけされ嬉しくないわけがない。思わずにやけそうになる自身を育生は必死で律した。


「……イシス。約束してくれる?」

「何をです……?」


 ゆっくりと立ち上がりながら育生が言った言葉に、イシスが小首を傾げる。


「さっき、オレに伝えなきゃいけないことがあるって、それを聞かせてほしい。あと……オレもイシスに伝えたいことがある。それも聞いてほしい」

「随分と……注文が多いですこと。ですが、わかりましたわ。そのためには……」

「ああ。あいつを……」


 育生はある方向に向き直った。その先にいるのは上空に浮いているセトだ。


「おい、キツネ目野郎! いつまでそうやって飛んでるつもりだ。それとも、いざとなったらこの場から即逃げ出すためか?」


 育生の言葉にセトが大仰に肩を竦めてみせる。


「おやおや、子犬がキャンキャンと吠えて。それで、この私を挑発でもしたつもりかい?」

「挑発なんかじゃねえ。オレと正々堂々、勝負しろっつってんだ!」

「……ふむ。姉上の養い子だというからどれほどのものかと思ったが、ただの愚か者だね。神たる私に人間風情の君が勝てるとでも?」

「やってみねえとわかんねえだろ! それとも、その人間風情に負けるのが怖いのか?」


 育生の険のある物言いにようやくセトが反応を示した。


「私が人間風情を怖いだと?」

「ああ、万が一にも神様が人間風情に負けたら、これ以上ない恥だからな。てめえはそれが怖くて、そこからここに降りてくることができねえんだろ? はっ、とんだ腰抜け野郎だな!」


 セトの細い目が大きく開く。そのまなざしは怒りを含んだものに育生には見えた。


「……私は生まれて何千年と経つが、これほどまでに侮辱されたことは一度たりともないよ。冥界の王の血族たる私を怒らせた人間は君が初めてだ、少年」


 そう言った後、セトは今いる上空から育生たちがいる屋上まで下降し始める。その様子を目にし、育生はしめたと思った。半人前の魔術師である育生は浮遊する魔術など扱えない。まずはセトに同じ土俵に下りてきてもらうことが必須条件だったからだ。

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