邪神の罠(2)
「…………っ!?」
育生は目を見張る。なぜなら、眼前にイシスが立ちはだかっていたからだ。一体いつのまに――そんな疑問が頭をもたげるが、今は悠長に考えている場合ではない。イシスは果たして無事なのか。セトの攻撃を防げたのか。そのことが育生の頭の中を占めていた。
目の前に立つイシスがこちらを振り向くことなく声をかけてくる。
「イクオ……、無事……ですの?」
尋ねたいのは育生の方だ。イシスの声は弱々しい。育生は宝剣を放り出して彼女の元に駆け寄る。そして次の瞬間、冷たい汗が一筋背中を伝うのを感じた。
「イ……シス……」
そう発した後、育生は言葉をなくす。なぜなら、イシスの身体にセトの放った何本もの剣が突き刺さっていたからだ。
「姉様っ!」
気づけばネフティスも傍に来ていて、姉の様子を目にし愕然とする。
「何を騒いでます……の? ネフィ……」
「だって、だって、剣が何本も……」
姉が無理に微笑を浮かべるのを見て、ネフティスが狼狽した声音を上げた。
「これしき……どうということはありませんわ。咄嗟に防御の膜を身体に張り……ましたから、ダメージは相殺されて……」
そこまで言った後、イシスは力なくその場に崩れ落ちる。すると、彼女の言ったとおり防御の術が効果を発揮したのか、身体に刺さった剣は消滅していった。だが、イシスは苦悶の表情を浮かべている。
「イシス、イシス……っ!」
どうすればいいかわからない育生は、ただ彼女に声をかけることしかできなかった。イシスは苦しそうにしつつも育生に視線を投げかけてくる。そして、切れ切れに呟いた。
「なんて顔……してますの? 今にも泣き、そうな……」
イシスはこちらに細い右手を伸ばしてくる。育生は彼女の手をなるべく優しく握った。
「泣きたくもなるよ。オレなんかを庇って、こんなことに……」
「お馬鹿。あなたはあたくしの……大切な養い子。その危機を救うのは……当然ですわ」
力なく笑うイシス。その姿を見て、育生は自身が彼女にとって一番の足枷だったのだと思い知る。
「マズイ、マズイよ。このままじゃあ、イシス姉様が……」
二人のやりとりを黙って見ていたネフティスが不意に口を開いた。それに反応し、育生は彼女に顔を向ける。
「どういうことだよ? ネフィ」
「ボクは回復の術を扱えるけど、今の姉様にはまったくの無効なんだ」
育生はネフティスの言わんとすることがわからず、目を瞬かせた。
「セトはイシス姉様に次ぐ高位の魔術師。悔しいけど、ボクはヤツより下位の魔術師だ。ボクより高位の魔術師が与えた傷は癒すことができないんだ」
「……じゃあ、もうどうにもできないのか?」
それだけはどうかありませんようにと祈りつつ、育生は恐る恐るネフティスに尋ねる。
「いや、あるにはある。でも、そっちの方がもっとムリだよ」
「何でだ? 一体……」
問いかける育生に、ネフティスがこれ以上ないほど深刻な顔で告げた。
「セトから受けた傷を癒す最終手段、それはアイツ自身を倒すことだ」
「何……っ?」
「今、イシス姉様の身体にはセトの放った術が残ってる。それを完全に除去するには術を放った魔術師、つまりセトを倒すしかない。さっきも言ったけど、ボクはセトより格下だ。アイツを倒すことは到底できない。イクオちん……もちろん人間のキミにもね」
ネフティスの言葉に育生は何も返すことができない。中途半端な魔術師見習いの自分ごときに、イシスさえ苦戦するセトを倒すことは不可能だとわかりきっていたからだ。
「はははっ! 何とも感動的な光景じゃないか」
不意にこの場に似つかわしくない、愉快そうな笑い声が響いた。育生は反射的に声のした方に視線を向ける。その先には、上空に浮いているセトがいた。
「皮肉だね、姉上。自身が慈しみ、育ててきた子犬の存在が仇になろうとは……」
まるで哀れむような、蔑むような声音で言われ、育生は思わずセトを睨め付けた。だが、そんな視線に彼が怯むことなどない。セトは育生を無視し、イシスに語りかける。
「姉上、あなたは常々語っていたね、この世で一番強いものは想いの力だと。それが今は私の方があなたを上回ったということだ」
「何……?」
セトの言わんとすることの意図が読めず、育生は困惑した。
「今、私が強く想っているのはあなたを倒したいという、その一念だ。その想いの強さがあなたにここまでの深手を負わせた」
育生は思わず異議を唱える。
「想いが強いってんなら、イシスも同じだろ!? セト、てめえを倒したいって想いが……」
セトは大きくかぶりを振った。
「今、姉上が一番強く想っているのは、私を倒したいということではない」
「……じゃあ、一体何だってんだ?」
自身の兄を殺し、人間界に災禍をばらまくセトを、イシスは何を差し置いても倒したいと強く想っているはず。だが、それが違うというのか。育生の内心を読んだかのように、セトはスッとある方向に人差し指を向ける。指が向いた先は、ほかならぬ育生自身だった。
「少年、君だよ」
「……オレが?」
「そう。先程、私が君を攻撃しようとしたとき、姉上は君を身を挺してでも守ろうとした。本来の姉上なら、私を倒す好機を見逃すなどしないはず。なのに、姉上は君を優先した。今、姉上は私を倒すことより、君のことを強く想っているんだよ」
思いもよらないことをセトに指摘され、育生は大きく動揺することになる。確かに常日頃、イシスは育生を大切な養い子だと語っていた。
だが、自身と因縁の敵であるセトとでは、彼女の中で重要度など比較にならないと思っていた。セトは人間界の、そして冥界の脅威である存在。それを人間の育生などと、天秤にかけることすらないだろうとも。だが――。
「少年を亡くしたとき姉上がどんな反応をするか、私も半信半疑だったが、まさかこうもうまくことが運んでくれるとはね。私にも、ようやくツキが回ってきたようだ」
そう言うと、セトはこれ以上ないほど不快な嘲笑を周囲に降らせた。だが、それは育生の耳にはまるで届いていない。




