邪神の罠(1)
『……冥界の王の名代、イシスが命じる』
宙に浮かんだイシスは、手にしていたウアスの杖を前方のセトに向ける。すると、魔術師見習いの育生の目にも見えるほどの魔力が杖に宿るのがわかった。
『我が言の葉は鋭き刃。我が前にたちはだかりし者を切り裂け!』
イシスが呪文を唱え終わると、ウアスの杖の先から烈風が巻き起こる。そして、前方にいるセトに襲いかかった。烈風のスピードは音速にも迫るもので、セトに逃げる暇はない。セトが何かアクションを起こす前に、イシスが放った烈風は彼の身体を切り裂いていく。
「ぐあ……っ!」
セトが苦鳴の声を上げた。彼の身に付けている黒い衣服は切り裂かれ、その下の身体も鮮血を周囲に散らし始める。
「うわっ、さっすがイシス姉様! 言の葉一つで、あれほどの力を出せるなんて……」
ネフティスが感嘆のため息を漏らした。それは育生も同様で、イシスが本気で魔術を使う場面を目にするのは初めてだった。今まで彼女が使ってきた、瞬時に着替える魔術、遠隔で会話をする魔術など、イシスにとっては児戯にも等しいのだろう。それほど、今彼女が放った魔術の威力は凄まじいものだった。
だが、育生はどこか違和感を覚えていた。あれだけの烈風を受けたなら、普通の人間ならその身体は瞬時にバラバラになっていそうなものだが、血を流してはいてもセトは何とか踏みとどまり宙に浮いている。
「……さすがに、これしきの攻撃で倒れることはありませんわね」
イシスが嘆息した。それにセトが未だ強気で応じる。
「何も冥界の王と血を同じくしているのは、あなただけではないのだよ姉上。私にだって防御の魔術ぐらいは扱えるさ」
セトの周囲には淡く光る障壁のようなものが。恐らく魔術で創り出し、イシスの放った烈風のダメージを軽減させたのだろう。
セトが創り出したグラントクオーツ、その創造主は誰なのかイシスにさえついぞ判別できなかった。つまりセトもイシス同様、相当な魔術の使い手ということなのだ。そんな二柱の神が本気でぶつかり合ったら一体どうなるのか、ただの人間である育生には想像すらできない。
「では、これではどうです?」
イシスは再びウアスの杖をセトに向ける。
『我が言の葉は、熱き炎。我が前にたちはだかりし者を灰燼と化せ!』
イシスが呪文を唱え終えるのと同時に、杖の先から青い炎が吹き出した。その炎は螺旋を形づくり、セトの身体を取り巻こうとする。育生は化学の授業で習ったことを思い出す。一番熱い温度の炎の色は青なのだと。ならば、あの炎は相当な高温ということになる。
「風の次は炎、か。ならば、これならどうだ?」
セトはセトで、イシスの放った炎を防ぐべく呪文を唱え始めた。
『冥界の王の血族たるセトが命じる。絶対零度の氷の壁よ、熱き炎を阻め!』
次の瞬間、セトの周囲の大気が凝結し始める。そして、彼を守るかのように壁を形作った。それと同時にイシスの放った炎の螺旋が氷壁に激突する。炎の螺旋はその熱で氷壁を蒸発させるが、セトの身体までは届くことなく消えてしまった。その様子を目にしていたネフティスがわずかに焦慮する素振りを見せる。
「……悔しいけど、セトのヤツもなかなかやるね。イシス姉様の術を防ぐなんて、並大抵の魔術師なら到底不可能だよ」
確かにネフティスの言うとおりだと育生は思った。魔術師見習いの自分でさえ、イシスの扱う本気の魔術は相当の威力に見える。だが、それを防いでしまうセトも凄腕の魔術師ということになるのだろう。このまま二柱の神が攻防を繰り広げるのなら、どちらかの魔力が尽きるまでの消耗戦になるに違いない。だが、その均衡を破ったのはセトだった。
「このままでは埒が明かないね、姉上」
セトはなぜか歪な笑みを浮かべている。そのことを訝しんだのか、イシスが警戒する様子を見せた。
「そのようなことはありませんわ。あたくしの魔力の量は、お前のそれとは比べものになりませんもの。あたくしの魔力が尽きるのを期待しているのなら、それこそ無駄ですわ」
「果たしてそうかな?」
「何ですって?」
当惑で顔を塗り固めるイシスをよそに、セトが彼女から視線を外し屋上を見下ろした。
「……姉上が慈しんで育て上げた、あの子犬。あれが死んだら、姉上は一体どんな反応を見せてくれるのだろうね?」
イシスが何か言う前に、セトは屋上にいる育生へ向かって右手をかざす。
『冥界の王の血族たるセトが命じる。か弱き人の子を無慈悲な刃で切り裂かん!』
その呪文に応え、セトの右手から何本もの鋭い剣が顕現した。その切っ先はどれもが育生に向けられている。
「セトのヤツ、イクオちんを……っ!」
育生の背後にいたネフティスが慌てて防御の呪文を唱えようとするが、その暇も与えずセトの放った何本もの剣が育生目がけて飛んでいく。
育生は反射的に手にしていた宝剣虎王を構え、攻撃に備えようとした。この宝剣でセトの放った剣に対抗できるかなどわからないが、今はこうするしかない。そうしている間にも、セトの放った剣は育生に距離を詰めてきていた。
「待っててイクオちん、もうすぐ防御の術が完成するから……っ!」
ネフティスが狼狽している。それはなぜか、育生は悟った。人間の魔術師見習いごときに神であるセトの攻撃が防げるはずがない。ネフティスはそれを懸念しているのだろう。
迫ってくるセトの剣を目にし、育生は自身が戦慄を覚えているのを感じた。あれはとてもじゃないが、魔術師見習いの自分がどうにかできるレベルのものではない。手にしていた宝剣などへし折り、容易に育生の身体を貫いてしまうに違いなかった。
そんなことを考えているうちにセトの放った剣が眼前に迫る。ネフティスの防御の術はまだ完成していない。まさに万事休す――育生は思わず目を瞑った。数瞬後に自身はセトの放った何本もの剣で身体を貫かれているだろう、そんなことを夢想して。
だが――その瞬間は訪れなかった。もう既にセトの剣が自身の身体に到達していてもおかしくないのに、そうはならないことを怪訝に思い、育生は閉じていた目を開いた。




