決戦開始(1)
十二年前のことを思い出した育生は、ある事実に気づく。何だ、自分は初めてイシスに出会ったときから、幼いながらも一目で彼女に心惹かれていたのだ。そして、普通の人生を送りたいと願いつつも禍物と戦う非日常に身を置いていた矛盾。育生は自身の本当の願いをいつのまにか忘れてしまっていた。
最初は自分を疎む親戚たちから離れ、イシスと暮らすことを願った。だが、イシスの本来の仕事は冥界の王であるオシリスの名代で、人間界の禍物を倒すことと知り、そんな彼女の助けになりたいと思った。だからこそ、「悪いヤツがいるなら、オレがやっつけたい!」とイシスに禍物を倒す術を習うことを懇願したのだ。
理由など簡単。ただ、好きな女性の力になりたかっただけなのだ。そして、今頃こんな単純なことに気づいた自分を育生はおかしく思ってしまう。すると、自然と口端が上がった。その様子を目にしたセトが不可解そうに肩を竦める。
「一体何を考えているんだい? 少年。ずっと黙り込んでいたかと思っていたら、いきなり笑い出したりして……」
「オレが何考えてるのかなんて、てめえには関係ねえだろ。ただ、今さらやっと大事なことに気づいただけだよ」
強い調子で言った後、育生はある方向に目を向ける。その先には魔術を使い宙に浮いているイシスの姿があった。
「イシス、やっと探し求めてた弟が登場してくれたんだ。こいつは、この街で好き放題してくれてたみたいだし、オレたちでとっちめてやろうぜ!」
気勢を上げる育生を目にし、イシスが驚いたように目を見開く。だが、それもほんの少しの間だった。彼女は気丈な表情を浮かべると、短く呪文を唱え自身の前方に「あるもの」を顕現させる。「あるもの」を目にしたセトが不快そうに眉をひそめた。
「それは……ウアスの杖」
「そう、十二年前にお前と対峙したとき以来、顕現させました。お前を倒すためこの杖を使い、存分にあたくしの最大限の魔術を使わせてもらいますわ」
イシスの言葉を聞いた育生は得心する。常日頃から、彼女が「あたくしに『杖』を使わせるようになりませんと」と言っていたのは、あの「ウアス」という杖のことだったのか、と。
「あの杖を使うってことは、イシス姉様、今度こそ本気でセトを葬る気だ……」
育生の傍にいたネフティスが不意に真剣な表情を浮かべた。その彼女に育生は問う。
「あのウアスって杖、そんなにすごいのか? ネフィ」
「うん。あれ自体はただの杖だけど、使う人間の力量次第で莫大な威力を発揮するんだ。冥界で一、二を争う魔術の使い手の姉様が使うとなると、それはもうすごいことになるよ」
そう言った後、ネフティスはおもむろに呪文を唱え始めた。
『冥界の娘、ネフティスが命じる。か弱き者を守るための加護を、この場に広げたまえ!』
唱え終わった後、ネフティスは両手を合わせ、パンと打ち鳴らした。すると次の瞬間、白い光が瞬時にこの屋上を囲うように包み込む。
「結界でも張っとかないと、この街がえらいことになっちゃうもんね」
育生は思わず感心する。ネフティスはイシスほどの魔術の使い手ではないと自嘲していたが、これほど見事に瞬時に結界を張れるとは彼女も大した使い手なのだろう。さすがは、あのイシスの妹といったところか。
そうしているうちにこの場に変化が生じていた。セトがなぜか歪な笑みを浮かべていたからだ。そのことを怪訝に思ったのか、杖を手にしたイシスが弟に尋ねる。
「何を笑っていますの? セト。嫌だわ、乱心でもしたのかしら。ネフティスもこちら側にいますし、お前には万に一つも勝ち目はなくてよ」
「万に一つも……ね。果たして、それはどちらのことかな?」
「何ですって?」
イシスの疑問に応えるようにセトがある方向に視線を向けた。その先にいたのはヘビの禍物を従えた春野奈ずなだった。
「こちらには、もはや私の配下となった少女がいることをお忘れかな? まずは彼女にあなたの相手をしてもらおうか」
その言葉を聞いたイシスは忌々しげに唇を噛む。
「くっ、相変わらず姑息な真似を! 十二年前もそうでしたわね。あたくしの気を削ぐため、山の上空を飛行していた旅客機に攻撃を仕掛けた……」
「姑息とは相変わらず手厳しい。こうでもしないと、私には勝ち目がないからね。それこそ万に一つも」
そう言った後、宙に浮いていたセトが眼下を見下ろし奈ずなに命じた。
「さあ、可愛いお嬢さん、あの女神を消すんだ。あのイシスこそ君の恋敵。彼女さえ消せば、君の想い人は手に入るだろう」
今やセトの傀儡と化してしまったのか、奈ずなの目からは意志の光が消えていた。彼女は虚ろなまなざしをイシスに向ける。そして、すぐ傍にいたヘビの禍物に手を添えた。
「イシス……あたしの敵。あの人を消せば、沖野くんが手に入る……」
そして、宙に浮いているイシスを見上げる。視線を向けられたイシスはセトに尋ねた。
「……セト。一応聞いておきますが、お前はなぜグラントクオーツを創り出し、人の子に与えたりしたのです?」
イシスはセトの返答が胸が悪くなるものだと察しているのか、柳眉を寄せている。
「なぜと言われてもね。神が人間の願いを叶えるのは当然のことじゃないか」
「当然ですって!? お前に人の子の願いを叶える資格などありませんわ。グラントクオーツを手にした人の子は、決して幸せな結末を迎えているわけではないではありませんか」
イシスが言っているのは、恐らく笹井夕子、夜の公園で親友を陥れようとした女性、そして春野奈ずなのことだろう。姉に厳しい口調で断じられ、セトは大仰に肩を竦めた。
「姉上、あなたは思い違いをしている。そちらのお嬢さんにも言ったが、願いというものは願い方さえ間違えなければ、正しく、等しく万人が叶えられるものなのだよ」
「願い方? 一体何が言いたいのです、セト!」
「じゃあ、詳しく説明してあげよう。私が創り出したグラントクオーツは確かに禍物を動力源としている。だからといって、必ずしも悪い方向に力が働くわけではない。その持ち主が正しい願い方をすれば、グラントクオーツは無害にその願いを叶えてくれる」
「……では、あたくしたちが遭遇した事件の人の子は皆、正しくない願い方をしたとでも言いたいのですか?」
「さよう。最初に私がグラントクオーツを与えた、学校でイジメを受けていた少女。彼女は自分をイジめていた人間が死んでしまえばいいと願った。次に親友からその恋人を奪おうとした女性は、最終的に親友を殺そうとした。そして、そのお嬢さんは……」
セトはイシスから視線を外し、屋上にいる奈ずなを見下ろした。
「彼女は最初は姉上の子犬にただ純粋に振り向いてもらいたいと願った。だが、彼に想い人がいると知り、今はその想い人が消えればいいと願っているんだよ。ほら、皆が最後に至った願いはひどく醜く、歪んでいるじゃないか。それは願い方を間違えたからだよ」
セトはおもしろおかしそうにせせら笑う。その様子を目にしたイシスが怒りからか、細い肩を震わせた。
「……セト、思い違いをしているのはお前の方ですわ。お前は人の子の弱みにつけこみ歪んだ願いを引きだそうと、そう仕向けたのではありませんの? 悩みや弱い心を持った人の子が、正しい願いを抱けるとは言えないではありませんか。いえ、むしろ心が弱いからこそ、正しい願いを抱くことができないのですわ。お前は好んでそういう人の子を見つけ出し、グラントクオーツを与えた、そんなところでしょう?」
イシスは手にしていたウアスの杖を前方のセトに向ける。
「お前はグラントクオーツを手にした人の子が堕落していく様を目にし、愉悦に浸っていたのでしょう。そういうところは何百年経っても変わりませんわね。お前のような悪神はこの人間界に存在してはなりません。不肖の弟の不始末は姉であるこのあたくしが直々につけてさしあげますわ!」




