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イシスの変化

 奈ずなとのデートの日から、育生の自宅では妙な雰囲気が流れていた。育生は以前と同様に過ごそうと努めていたが、イシスがわずかな変化を遂げていたのだ。なぜかはわからないが、育生と顔を合わせると少し気まずそうな顔や態度になる。ましてや、以前のように育生の寝室に侵入してくることなど一切なくなっていた。それはネフティスと一緒に寝るようになったせいなのかもしれないが。


「……変だ」


 学校へ向かうべく自室で準備をしていた育生は独りごちる。自分の態度が変わるのならまだしも、なぜイシスに変化が現れたのだろう。それに、木から落下したときの「いつしか心からあなたのことが気になって」という言葉の真意も未だ問いただせていない。


 だが、あの言葉の真意を聞いたところで一体何になるというのだろう。イシスには夫がいるのだ。その大前提がある限り、育生とイシスの関係が変わることなどあり得ない。そう再認識すると、育生は自己嫌悪に陥った。


 まったく女々しいことこの上ない。よりによって、イシスに夫がいたと知ってから、彼女を女性として意識してしまうなんて。そのことを思い、育生はハッとする。


「オレって、もしかして世に言う間男ってヤツ……?」


 そう言った後、猛烈に落ち込んでその場にへたりこむ。だが、落ち込んでいるヒマなどない。早く家を出なければ、学校に間に合わないからだ。育生は何とか気を取り直し、自室を後にした。


「……あ、あら、おはようイクオ」


 いつものとおりダイニングキッチンに向かうと、イシスが育生を出迎える。その声の調子はどこかぎこちない。それでも育生は「おはよう」と返答する。


「あ、おはおう、イフオちん」


 口いっぱいにご飯を頬張りながら、テーブルについていたネフティスが朝の挨拶らしきものをしてくる。せめて咀嚼し終わってから挨拶してくれ、と内心思いながら育生は彼女にも挨拶を返した。


「イシス、何か手伝おうか?」

「……では、ご飯をよそってくださいな。あたくしは残りのおかずを持ってきますから」


 育生とイシスの間に流れる今までにない空気感。それはどこか気まずく、居心地の悪いものだった。育生はその雰囲気に耐えながら、イシスの指示どおり自身のご飯をよそいテーブルに持っていく。すると、その後に続くようにイシスがおかずの乗ったトレイを手に歩み寄ってきた。


「ほらイクオ、受け取ってくださいな」


 イシスはまず焼き魚の乗ったお皿を手渡そうとしてくる。それを受け取るべく育生は手を伸ばした。すると、イシスと指先が触れ合ってしまう。


「あ……っ」


 なぜかイシスは小さな声を上げると、咄嗟に手を引っ込めようとする。その様子を目にし、育生は慌てて言う。


「ちょっ、イシス、皿落ちる!」

「あ、は、はいっ」


 イシスは慌てて短く呪文を唱えると、落下しそうになるお皿を宙へと浮かべた。育生はため息をつきながら宙に浮いたお皿を手に取る。


「……どうしたんだよ、一体。らしくねえぞ」

「そ、そうですかしら?」

「ああ。なんか不自然。つうか、オレのこと……」


 避けてないか? と続けようとするのを育生は直前で口の中で押しとどめた。なぜか尋ねてはいけない、そんな気がしたからだ。イシスはイシスで、どこか落ち着かない様子を窺わせている。そんな微妙な空気の中、育生は朝食をとることになった。


「そ、そういえばさあ、例の不穏な事件、なんか進展はあったの?」


 この場の雰囲気を和ませようとしているのか、箸を止めたネフティスが話題を上げる。


「あ、そうでしたわね。夜回りを強化していたのですが、特に変わったことはありませんでしたわ。禍物も出現しませんし」


 イシスが妹の疑問に答えた。ネフティスが両腕を組み、思案する素振りを見せる。


「急に何も起きなくなったのも、なーんか不気味だねえ。嵐の前の静けさっていうかさ」

「……それもそうですわね。でも、この街に禍物を出現させるほどの魔術の使い手がいるのは確かですわ。まだまだ警戒いたしませんと」


 イシスたち姉妹が会話をしている間に育生はさっさと朝食を食べ終え、食器を片付けた。そして、彼女たちに「じゃあ、行ってくる」と短く言い、ダイニングキッチンを後にする。


 大きく手を振り育生を見送ったネフティスが、真顔でイシスに向き直った。


「ねえ姉様、さっきのは一体どうしたの」

「さっきのは、と申しますと?」

「イクオちんと手が触れたときだよ。サッと手を引っ込めようとしたじゃんか」

「あ、あれは……」


 イシスがわずかに狼狽した様子を見せる。そんな姉の姿を見てネフティスが嘆息した。


「姉様、なんか変だよ。そうだなあ、この間イクオちんのデートを尾行してから、かな」


 妹の発言にイシスが押し黙る。普段は明朗快活な発言、行動をする彼女にしては珍しい態度だ。


「……あたくし、おかしいのですわ」

「おかしい? 何がさ」


 ポツリと話し出したイシスを前に、ネフティスが小首を傾げた。


「この間、高い木から落ちそうになり、イクオに抱きとめられたときからですわ」


 そう言うと、イシスは我が身を両手で抱きしめる。


「あの子に抱きかかえられ、ああ、あの子はこれほど逞しく成長したのか、と喜びを感じたのと同時にあたくしの中で不可解な感情が生まれましたの」

「不可解な感情?」


 ネフティスがますます大きく首を傾げる。


「今までに感じたことのない、どこかむず痒くて狂おしいような、そんな感情があの日からずっと胸の中で渦巻いていますの。あたくし、一体どうしたらいいのか……」


 これ以上ないほど困惑している姉を前にし、ネフティスは彼女の中である感情が芽生えたのかもしれないと思った。だが、それは神が決して抱くことのないもの。そして、必要すらないもの。ネフティスも人間界の書物を読みかじって推測するしかできない、そんな感情だった。

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