戸惑いの朝(1)
「……で、ネフティスさんは、どうしてまだここにいるの?」
次の日の朝、自分よりも早く起きて朝食をパクついているネフティスをダイニングキッチンで発見し、育生は眠い目を擦りつつ彼女に尋ねる。
「だってえ、イシス姉様から聞いたけど、なんか不穏な事件がこの街で起きてるんでしょ? だったら、ボクもお手伝いしたいなあと思ってさ!」
「あれ? たしか伝令役って聞いたけど……」
「ああ、それはそれ、これはこれ。まあ、しばらくよろしく頼むよ、イクオちん!」
ネフティスに気安く背中を叩かれ、育生は思わずむせかえった。一見華奢に見える彼女だが、意外と力があるらしい。
「そんなことを言って……、人間界の食べ物につられているだけではありませんの?」
育生の分の朝食を手にしたイシスが呆れ返ったように妹に目を向けた。
「あ、バレてたあ?」
「もう少し緊張感をお持ちなさいな、ネフィ。どこかでセトが何を企んでいるかわからないのですから」
ペロッと赤い舌を出し、おどけた様子のネフティスをイシスが窘める。そんなやりとりの後、イシスが育生に向き直った。
「あら、イクオ。昨夜はよく眠れなかったんですの?」
「え?」
「何か疲れのとれていないお顔をしていましてよ」
不意に真顔でイシスに問われ、育生は反射的に自身の顔に両手をやる。
「あ、ああ……。ちょっとテスト勉強しててさ」
本当はイシスと夫オシリスについて一晩中堂々巡りに考えていたなどとは死んでも言えず、育生は慌てて言い繕った。そんな彼をイシスがジッと見据える。
「……本当ですの? 何か昨日からあなた、様子がおかしくてよ」
「そ、そんなことねえよ」
「そんなことありますわ」
イシスがつかつかと育生に歩み寄り、彼の顔を細い両手で包んだ。
「あなたは不器用で、嘘をつくことが下手ですわ。育ての親であるこのあたくしに隠し通せるとでも思って?」
イシスに急に距離を詰められ、育生は心臓が早鐘を打つのを感じる。今まで同じベッドで寝ていて平気だったことが嘘のようだ。
改めて見てみると、イシスは身体こそ少女らしさを残していたが、これ以上ないほど魅力的で魅惑的な女性だ。少し浅黒い肌は日本人にないエキゾチックさを感じさせ、長く整えられた黒髪からは淡い香りが漂ってくる。昨日まで意識すらしなかったものを育生は今全身で感じていた。
「イクオ? どうしましたの?」
身体を硬直させている育生を怪訝に思ったのか、イシスが彼の顔を深く覗き込もうとさらに近寄ろうとする。
――こ、これ以上はマズイ……っ!
育生は焦燥した。顔を深く覗き込まれたりしたら、イシスに心の中まで見透かされてしまうような気がして怖かったのだ。
「だ、だから、何でもないって!」
自身の顔を包むイシスの両手を半ば強引に外すと、育生は彼女から身を離した。突然の行動に驚いたのか、イシスが金の瞳を真ん丸くさせている。
「オ、オレ、今日は早く出かけるからっ!」
そう言い、育生は逃げるようにダイニングキッチンを後にしようとした。その背中にイシスが慌てて声をかけてくる。
「ちょっとイクオ、朝食は?」
「悪い、今日はいい!」
自身のために、イシスがわざわざ朝早くから朝食をつくってくれたことはわかりきっている。だが、今は彼女を前にして落ち着いて食事をとることなどできそうにない。育生は内心イシスに謝りつつ、玄関へと向かった。
すると、その後を誰かがついてくる気配を感じる。まさかイシスが? と思い、育生は反射的に背後を振り向いた。育生の視線の先にはネフティスが立っている。朝食を食べ過ぎでもしたのか、彼女はお腹をしきりにさすっていた。
「ふう、ちょっと食べ過ぎちゃったかなあ? でも、まさかイシス姉様がこんなにおいしいゴハンつくれるとはねえ。まさに愛の力ってヤツ?」
ネフティスは何とはなしに言ったのだろうが、育生は「愛」という単語に過剰に反応してしまう。
「……何言ってんの? どうせイシスはオレをただの養い子としか思ってねえよ」
「ふうん」
育生が少し険のある言い方をするのを、ネフティスが意味ありげに聞いていた。
「……まだ何か?」
「いやさ、今のイクオちんの言い方って、まるでイシス姉様に自分を養い子以上に見てほしいみたいに聞こえるなって思ってさ」
そう指摘され、育生は慌てて自身の口を片手で塞ぐ。今さらこんなことをしても何の意味もないのに。そんな育生の様子を見て、ネフティスがおもしろそうに口端を上げた。
「あ、やっぱ、あったりい? ちょっとカマかけてみたんだけどさ☆」
「な……っ」
育生はまだ幼さの残る女神の手の上で踊らされていたことを知り、身体をわなわなと震わせる。そんな育生をよそに、ネフティスは彼の眼前で人差し指を横に振ってみせた。
「怒っちゃダーメ。とりあえずイシス姉様が来る前にここから出よっか」
ネフティスは育生の手を引っ張り、強引に家の外へと連れ出す。自身の胸元にも届かない背の少女のなすがままになり、育生はこれ以上ないほどへこむことになった。




