冥界からの来訪者(2)
「え、イクオちん、知らなかった? イシス姉様、イクオちんに話してなかったの?」
「そういえば、話しておりませんでしたわね。あえて言うことでもないでしょうし」
さも当然とばかりにイシスが平然と言った。その姿を目にし、育生が語気を荒げる。
「何だよ、それ! オレには話す必要なんてなかったってことかよ!?」
狼狽している育生を目にしたイシスが不思議そうに小首を傾げた。
「イクオ、一体どうしましたの? このあたくしが兄であるオシリスの妻であることなど、些末なことではありませんか」
些末なこと――そうにべもなく告げられ、育生はなぜか自身がひどくショックを受けていることに気づく。そんな育生とイシスのやりとりを目にしていたネフティスが、おろおろと彼らの間に視線を走らせた。
「あ、あのさ、イクオちん。この件はさ……」
ネフティスの言葉の続きを聞こうともせず、育生は今いるリビングを後にしようとする。その背中にイシスが声をかけてきた。
「イクオ、あなた一体どうしたんですの?」
「……何でもない。鍛錬で汗かいたから、部屋で着替えてくる」
素っ気なく言うと、育生はリビングのドアを少々乱暴に閉め、姿を消してしまう。その一連の様子を見ていたイシスはわけがわからないとばかりに呟いた。
「どうしたのでしょう? あの子。少し粗雑なところはあっても、根は素直な子でしたのに。困ったわ、遅い反抗期かしら……」
「いやいや、イシス姉様、それは違うっしょ!」
ネフティスに否定の言葉を投げかけられたイシスは、不思議そうに自身の妹に向き直る。
「何が違うというのです? ネフィ」
「何って姉様、いっちゃん大事なこと、イクオちんに話してなかったんでしょ!」
「大事なこと? 何です?」
まるで気づく気配を見せない姉を前に、ネフティスは呆れ返り大仰に肩を竦めてみせた。
「もう! オシリス兄様とのことだよ! 姉様がオシリス兄様の妻であるってこと!」
「はあ……? それが一体何だというのです? 肉親間で婚姻関係を結ぶなど、神々の間では珍しくもないことではないですか」
「うーん、イシス姉様、この人間界で過ごしてきたわりには、こっちの事情はあまりわかってないんだね……」
「あたくしは、イクオを育て上げることだけに十数年忠心してきたのですもの。些事などにいちいちかまけていられませんわ」
「些事……ねえ。姉様にとってはそうでも、イクオちんにとってはどうやらそうじゃないみたいだよ」
「イクオにとっては……?」
ますますわけがわからないといった表情を浮かべるイシス。彼女は今、育生がどういう想いを抱いているかなど少しも気づいていないようだった。
「はあ……」
自室に入りドアを閉めた後、育生は大きく嘆息する。そして、床にへたりこんだ。
「オレ、最低だわ……」
出会ってから初めて、育ての親であるイシスに素っ気ない態度をとってしまった。彼女は冥界を出て、この人間界で育生を育てるために今までずっと心血を注いでくれたというのに。
イシスと出会って十数年、共に過ごした育生は彼女のことを誰よりも近しい、家族のような存在だと思っていた。そして、彼女も同じように感じてくれているのだと勝手に思っていた。だからこそ、余計にショックだったのかもしれない。
イシス――彼女が冥界の王である神オシリスの妹であり、妻でもあったという事実を話してくれていなかったことが。
イシスについて調べようと思えば、機会はいくらでもあった。今の世の中は情報が氾濫している。エジプト神話について調べることなど、造作もないことなのだろう。だが、それは意味がないと思っていた。人間が知る神話など伝聞や想像上のものばかりで、本当のところは誰にもわからないのだから。
だが、育生はたった今、知ってしまった。イシス自身の口から、彼女が夫を持つ身であるということを。そして、彼女が兄であるオシリスの妻であることなど、些末だと言ったこともなおさら育生を当惑させ、動揺させた。育生はなぜ自身がこれほどまでに心を乱しているのか、嫌でも気づくことになる。
誰よりも近しい存在であったイシス。彼女が夫を持つ身であったということを知り、育生は彼女を一人の女性として意識してしまうことになった。鍛錬をしていた公園で「恋」という単語を聞き、反射的にイシスに目を向けてしまったのも、無意識に彼女を女性として見ていたからなのかもしれない。
「……そんなの今頃気づいて、一体何になるんだよ」
育生は背後のドアに頭をもたれかかせ、ポツリと呟いた。イシスと十数年も共にいたというのに、今頃気づいた胸の内にある密かな想い。それは決して叶うことのないものだろうから。
イシスには冥界の王たるオシリスという夫がいる。その上、彼は立派な神の一柱なのだ。そんなオシリスにただの人間である自分が敵うわけもない。そもそもイシスはオシリスの妻、彼のものであるのだ。そんな相手に想いを懸けるなど、これ以上ないほど不毛な行為だろう。
そんなことはわかりきっていたが、一度気づいてしまった想いは簡単に消せそうにない。育生は一体これからどうイシスに相対すればいいのか、思い悩むことになった。




