ある土曜日に(2)
「あ、沖野くんだ!」
育生は反射的に声のした方に視線を向ける。すると、その先には春野奈ずなが立っていた。だが、その外見はいつもと違っている。普段の制服姿ではなく、可憐な花柄のワンピースを身に付けているせいだろうか。加えて、丸い眼鏡をかけていない。
眼鏡を外した彼女は、意外と大きな丸い瞳をしている。そして、少し癖のある黒髪はリボンで結ってあった。こうして改めて見ると、奈ずなは魅力的な側面を持つ女の子だったのだ。今まで目にしたことのない彼女の姿に育生は一瞬ドキリとしてしまう。そんな育生の内心など知らない奈ずなはこちらへ歩み寄ってくる。
「こんなところで何してるの?」
「え、えっと……」
まさか魔術の鍛錬をしている、などとは答えられず、育生は言葉を濁してしまった。幸い今は休憩中で、宝剣虎王はすぐ傍の茂みに隠してあるのが救いだった。あのような目立つものを見られたら、先程の男の子たちのように奈ずなを驚かせてしまうかもしれない。
育生が未だ返答に迷っていると、奈ずなは彼の隣に腰掛けているイシスに気づく。
「うわあ、きれいな人……! も、もしかして、沖野くんの彼女?」
「ち、違う! え、えっと、この人は……」
育生は大慌てで否定するが、言葉の先が思い浮かばない。まさか真実を言うわけにもいかず育生は煩悶するが、その機先を制するようにすぐ隣にいたイシスが堂々と言い放った。
「あたくしたちはただの神とその養い子ですわ」
それはいつかも聞いたセリフだ。育生は思わず頭が痛くなる。
「……イシス、よくもオレの苦悩を一瞬で粉々に打ち砕いてくれたな」
「あら、本当のことじゃありませんの」
しれっとした風情のイシス。確かに彼女の言うとおりの関係なのだが、一体誰がこんな荒唐無稽な話を信じるというのか。そうしているうちに育生は視線を感じる。その主は奈ずなだった。彼女は育生とイシスのやりとりを不思議そうに見つめている。
「あ、いや、彼女は……イシスは遠い親戚だよ。ちょっと事情があって今一緒に暮らしてるだけなんだ。いてっ!」
両手を盛大に横に振って否定した育生の横腹をイシスが思いきりつねる。彼女に視線を移すと、これ以上ないほど機嫌が悪そうな顔を浮かべていた。そして、小さく呟く。
「なぜ、嘘などつきますの?」
「あのなあ、今の世界はいろいろと複雑なんだよ。ここは無難に流した方が上策なの」
育生も自然とひそひそ声で話してしまう。
「じゃ、じゃあ、沖野くんに今、彼女はいなかったりする?」
不意に奈ずながおずおずと尋ねてくる。思いもよらない問いに育生は思わず小首を傾げてしまった。だが、奈ずなは真剣な表情だ。育生も自然と真剣に返すことにする。
「あ、うん。そういう人はいないかな……」
そう答えると、奈ずなの顔がみるみるうちに明るく輝いた。
「そうなんだ!」
これ以上ないほど嬉しそうに言われ、育生の頭上に疑問符が浮かぶ。それでも、さっきから気になっていたことを奈ずなに尋ねることにした。
「ところでさ、春野はどうしてここにいるんだ?」
「うーんと、今日はお天気もいいし何かいいことないかなと思って歩いてたら、ここに来て沖野くんと会えたの。さっそくいいことあったよ!」
育生は違和感を覚える。育生が知る春野奈ずなは、ここまで明るく積極的ではなかった。今までの人見知りで、引っ込み思案な面はなりを潜めてしまったようにさえ見える。
そんなことを考えていると、どこからか視線を感じた。育生が反射的にそちらの方を向くと、隣にいたイシスが鋭いまなざしをこちらに向けている。育生はようやく自分がここで何をしていたのか、思い出した。
「やべ……っ。今、鍛錬中だったんだ」
その言葉を聞きつけた奈ずなが不思議そうに小首を傾げる。
「たんれん?」
「あ、いや、ちょっと身体を動かしててさ……」
育生が慌てて言い繕うと、奈ずなはポンと軽く手を打った。
「そうなんだ。じゃあ、邪魔しちゃ悪いよね。また、学校でね!」
奈ずなは元気よく手を振り、あっさりこの場を後にする。育生はその後ろ姿を見てホッと息をついた。そうした後、慌ててイシスに向き直る。
「ごめんごめん、じゃ、鍛錬の続きを……」
「おかしいですわね」
「へ?」
真剣な声音のイシスを前に、育生は間抜けな声を上げてしまった。
「おかしいって、何が?」
「奈ずな、さんとおっしゃったかしら。彼女、以前一度お見かけしたときと随分雰囲気が違うように見えましたけれども」
「あ、ああ。そうだ、今日は制服姿じゃなかったからじゃないか?」
育生が思いついたことを言うと、イシスが厳しく窘める。
「お馬鹿。外見的な意味合いじゃありませんわよ。何と申しますか、内面から変わったというか……」
「まあ、確かに今日はいつもと違ってすっげえ元気に見えたけど」
「……イクオ。あなた、本当に鈍いんですのね」
イシスに呆れたようなまなざしを向けられ、育生はまさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔になってしまった。
「鈍いって何がだよ?」
「あのお嬢さん、あなたに好意を抱いていますわよ」
「え……っ?」
「今日の彼女の姿など、あなたに好意の矢印が何本も向けられているようにあたくしには見えましてよ。あなた、何も感じませんでしたの?」
思いもよらないことを言われ、育生は狼狽する。
「こんな言い方は何だけど、オレは春野を同級生、隣の席の子って思ってたよ」
その言葉を聞いたイシスは頭でも痛むかのように眉間を押さえた。
「そのような鈍さでは、これから本物の紳士に成長できるかどうか先が思いやられますわね。今のままでは、恋のチャンスをみすみす逃してしまうかもしれませんわよ?」
「こ、恋って言われても、オレは……」
言葉を濁した育生は思わず眼前のイシスに目を向ける。そのことを怪訝に思ったのか、イシスが眉をひそめた。
「どうかしましたの?」
「あ、いや、何でも……」
「まあ、いいですわ。今のあなたの体たらくでは、いくら鍛錬をしても暖簾に腕押しですわね。さっさとおうちに帰るといたしましょう」
イシスは下生えの上に置いたトートバッグを手に取り、こちらに背を向ける。育生は慌てて彼女の後を追いかけようとした。だが、その途中、あることで思い悩むことになる。
――「恋」って単語を聞いて、何でさっきオレは反射的にイシスの方を見たんだろ……?
そして、自身の恋の遍歴を思い出す。たしか初恋が五歳の頃で、その相手は幼稚園の若い女性の先生だった。それから後はいろいろあったせいもあり、恋と呼べる思い出はない。ふと、自分は枯れた青春を送っているのではないかと不安になってしまう。そんなことを頭の中で反芻しつつ、育生は家路を急ぐことになった。




