伸びる魔の手(1)
「はあ……」
春野奈ずなはため息を吐きつつ、夕暮れの街中を歩いていた。彼女が沈んでいる理由、それは今日の激安スーパーの目玉品を買い損ねたから。こんな些細なことが奈ずなにとっては死活問題だった。何せ家庭生活を主に管理しているのは、ほかならぬ彼女自身だったからだ。
「久々にすき焼き、できると思ったんだけどなあ……」
奈ずなはポツリと呟き、再びため息。とぼとぼと家路を歩く途中、あることを思いつく。
「そういえば、今日沖野くんもあのスーパーに行ったのかなあ?」
そんなことを考える。この間の月に一度の特売日、クラスメートで隣席の沖野育生と激安スーパーで出くわした。だが、霜降りの牛肉が目玉品である今日は彼と顔を合わせることはなかった。奈ずなはそのことを少し残念に思う。
実は少し期待をしていたのだ、今日、激安スーパーで沖野育生と出くわすことを。なぜなら、奈ずなは彼に少なからず好意を抱いていたからだ。
幼い頃から引っ込み思案で、人見知りの奈ずな。高校に上がってからは何とか努力して少ないながらも友人ができた。だが、二年生に進級してから友人たちとは違うクラスになってしまったのだ。
当然、人見知りの奈ずなは新しいクラスになじめなかった。クラス替えから一月も経てば、誰しも友人の一人二人ぐらいはできるというのに。今のクラスには、当初奈ずなと同じようにクラスになじめていない笹井夕子がいた。あぶれた者同士、もしかしたら仲良くなれるかもしれない、そんな打算をしてしまった奈ずなは、彼女に歩み寄ろうとした。
だが、それは叶わなかった。なぜなら、笹井は同じクラスの女子から酷いイジメを受けていたからだ。同じ女子だからわかるが、彼女らは男子の、教師の目の届かない場所で巧妙かつ狡猾に笹井を虐げていた。そんな彼女を奈ずなはただ遠くから眺めることしかできなかった。
理由は簡単だ。笹井に近寄れば、今度は自分もイジメの標的になるかもしれない。本来、小心者の奈ずなには、正義感をもってイジメを糾弾することなどできなかった。卑怯だとはわかっていたが、奈ずなはほかの女子生徒と同様、笹井へのイジメを黙認していたのだ。
そして、笹井は進級してから一カ月ほどで不登校になった。その原因はもちろんイジメによるものだ。すると、笹井をイジメていた女子生徒の矛先は、自然とクラスになじめていない奈ずなに向かうことになってしまう。
笹井ほどではないにしても、奈ずなにとって同級生から攻撃されることは辛かった。そんな自分に自然と周囲は距離を置き始める。このままでは、いずれ笹井と同じようになってしまうかもしれない。そんな恐怖が奈ずなには常につきまとっていた。
だが、そんな自分に沖野育生だけは毎日声をかけてくれた。そして、女子から攻撃を受けていることに気づいた彼は、一緒に先生に掛け合うとまで言ってくれたのだ。
人間不信気味になっていた奈ずなには、沖野育生がまるで神のように見えた。こんな地味な、そして人見知りな自分にただ一人歩み寄ってくれる彼。そんな彼に奈ずなはいつしか淡い恋心のような想いを抱くことになった。だが――。
「……沖野くん、優しいからあたしに構ってくれるだけだよね」
街中で奈ずなはポツリと呟く。そう、沖野育生は自分だけにではなく、誰にでも平等に親切に対応していた。何も彼が優しいのは奈ずなにだけではない。そんなことはわかりきっている。
奈ずなはすぐ傍にある店のショーウインドウに自身が映っていることに気づいた。こうして改めて見てみると、何と華のない容姿なのだろう。野暮ったい眼鏡に、くせのある黒髪。こんな姿では男子の、ましてや沖野育生の興味を引くことなど不可能に思える。奈ずなは自嘲気味に小さく笑った。
「……あたしがもっと可愛かったら、沖野くん、あたしだけを見てくれるのかなあ」
そして、そんな言葉が口をついて出てしまう。
「殿方の気をお引きになりたいのですか? お嬢さん」
不意に背後から声をかけられ、奈ずなは思わず「ひゃっ!」と短い悲鳴を上げた。それから恐る恐る背後を振り返ってみる。視線の先には、黒い帽子を目深に被った背の高い男が立っていた。
「おや、すみません。驚かせてしまいましたか? いきなり声をかけたりして」
「あ、い、いえ……」
店のショーウインドウの前で挙動不審な行動をとっていた自身にも非があったと思い、奈ずなは恐縮してしまった。だが、男はそんな奈ずなをジッと見つめてくる。そのことを怪訝に感じ、奈ずなはおずおずと男に問いかけた。
「あ、あの……、あたしに何か?」
「いえ、どうやらあなたは強い願いをお持ちのようだと思いましてね」
奈ずなはドキリとする。なぜなら、男に指摘されたことは事実だったからだ。それは決して容易に叶うことのない願いだろうが。黙り込んでしまった奈ずなを目にし、男が不思議そうに小首を傾げる。
「おや、違いましたか?」
普段の奈ずななら、見知らぬ人間に声をかけられたら逃げ出してしまうところだ。だが、眼前の男にはそうさせない、どこか不思議な雰囲気がある。そのせいか、奈ずなは自然と彼に問いかけていた。
「……どうして、わかるんですか? あたしに強い願いがあるって」
その質問に男が口元を綻ばせる。
「いえ、私、こう見えても数多の人の人生を見てきましたのでね。そのせいか、その人の考えていることが何となくわかってしまうのですよ」
「そ、それはすごいですね……」
男の言葉に奈ずなは素直に感心してしまった。だが、すぐに元の浮かない表情に戻る。
「でも、無理なんです。あたしの願いなんて絶対叶わないもの」
苦笑する奈ずなを目にした男は、「ふむ」と顎に手をやり少しの間思案する素振りを見せた。
「……あなたになら、これを差し上げてもいいかもしれませんね」
「え?」
眼鏡の奥の瞳をパチクリとさせる奈ずなを前に、男は自身の懐から何かを取り出す。それは濁っているが、どこか人を惹きつける魅力のある白い石のペンダントだった。そして、それに奈ずなは見覚えがあった。




