不穏な兆候(4)
それから、その日の授業はホームルームのみ行われ、学校の生徒たちは全員早退させられることになった。これは育生にとってありがたいことだった。なぜなら、一刻も早く帰宅して今の事態をイシスに相談したかったからだ。
育生は下校するまで笹井の様子を注視していた。だが、彼女は登校してきたときこそ攻撃的な態度をとっていたが、今は落ち着いたのか、教室の隅で大人しく座っているだけだった。もちろん、そんな彼女に突っかかってくる生徒など一人もいない。
イシスが言っていたとおり、自身に攻撃してくる人間がいなければ、笹井は何かするつもりはないのだろう。イシスの忠告がなければ、育生は笹井から無理矢理グラントクオーツを取り上げようとしたかもしれない。その結果を考えると、自然と怖気が走ってしまう。
とにかく今は自宅に戻り、イシスにこれからのことを相談しよう。そう思い、育生は家路を急ぐことにする。
自宅の最寄り駅に到着してから、育生は全力疾走し自宅へと向かう。こんなときなのについ思ってしまう。もし本当の魔術師になったとしたら、こんな距離など物ともしないのだろうにと。息を切らせて自宅の前まで着くと、珍しくイシスが玄関前で育生を出迎える。
「おかえりなさい、イクオ」
「た、た……だいま」
声も途切れ途切れに育生はイシスの出迎えに応じた。その姿を目にしたイシスが嘆息とも感心ともつかぬため息を漏らす。
「まあ、額に玉の汗を浮かべて……。よほど急いで帰ってきましたのね」
「そ、そりゃあ、そうだろ。この非常時に……」
イシスはおもむろに育生の傍まで歩み寄ると、手を伸ばし育生の頭を優しく撫でた。
「よしよし。よくわかっているではありませんか、偉いですわよ」
子供の時分にされた行為を受け、育生は気恥ずかしい思いになる。そんな育生の内心など知らぬようにイシスは彼から身を離すと、玄関の方へと歩いていく。その途中、彼女は顔だけこちらに向けた。
「とにかく、おうちに入りなさい。冷たいお茶でも淹れますから、一息つきなさいな」
それから二人は自宅へ入り、今この街で起きている異常な事件について話し合う。
「オレ、帰るまでにグラントクオーツって石の噂、同級生から詳しく聞いてきたんだよ」
リビングのソファセットに向かいあわせに座る育生とイシス。まずは育生が学校の同級生たちから収集してきた、グラントクオーツの噂について情報を共有する。イシスは昨晩、回収してきたグラントクオーツを懐から取り出し、机の上に置いた。
「グラントクオーツ……この石ですわね」
「やっぱそれ、笹井が持ってたのと同じだよ。で、その石は今この街で噂になってるらしいんだ。それを手に入れさえすれば、何でも願いを叶えてくれるって。でも、誰でも手に入れられるわけじゃなくて、強い願いを持つ、選ばれた人間しか手に入れられないらしい」
「強い願いを持つ、選ばれた人間、ですか……」
イシスは形のよい顎に手をやり、少しの間思案する素振りを見せる。
「この石の創造主が、いつどこに出没するかわからないのが厄介ですわね。強い願いを持つ人の子などこの世には溢れているのに、それを選別しているようで不愉快ですわ」
イシスは不快そうに柳眉を寄せた。その様子を目にした後、育生も育生なりに何かヒントはないか考えようとする。
「……何か基準があるのかな」
ふと育生が呟いた言葉に反応し、イシスが瞳を瞬かせた。
「あ、いや、その石の創造主ってヤツが石を与える相手に何か基準でもあるのかな、って」
「基準……ですか」
イシスが至極真面目な顔になったのを見て、育生は慌てて両手を横に振る。
「さっき、イシスが願いを叶える人間を選別してるみたいだって言ってたから。単にそれだけなんだけどさ」
「そう……ですわね。創造主にしたら、何かの意図を持ってこの石を与える人の子を選んでいる可能性もありますわ。イクオにしては珍しく冴えていますわね」
「……それって、なんか馬鹿にしてない?」
「いえいえ、素直に感心しているのですわ。あたくし一人の考えでは思いもつかないこともありますもの」
イシスはテーブルに置いたグラントクオーツを手に取る。
「ですが、今すぐにこの創造主の選定基準がわかるはずもありません。それに、この創造主はなかなかの魔術の使い手のようですし」
その言葉を聞いた育生は少し驚いた声音で言った。
「え、相手はイシスよりもやり手の魔術師だってこと?」
それは思いついたままに言った言葉だが、イシスの痛いところを突いてしまったらしい。現に彼女は不機嫌さを露わにしている。
「……イクオ。今、この人の世に現存する、偉大なる魔術師は誰だとお思い?」
イシスの口調には明らかに険が籠もっていた。そして、彼女が何かを自身に促そうとしていることを感じ取り、育生は慌てて言う。
「そ、それはオレの目の前にいらっしゃる、女神イシス様です……」
「わかっているのなら、よろしい」
育生のあからさまに取り繕うような言葉を聞き、満足したように首肯するイシス。
「確かにこの人の世に現存する偉大なる魔術師は、このあたくし。ですが、もしかしたら……」
イシスがふと呟いた言葉を育生が怪訝に思う。
「イシス?」
育生が思わず彼女に問いかけると、イシスはハッとしたようにこちらに顔を向けた。すると、彼女はいつものように鷹揚な表情を浮かべる。
「いえ、何でもありませんわ」
「……本当に?」
育生が念を押すように問うと、イシスは気丈な笑みを見せた。
「本当ですわ。なぜ、そのようなことを聞きますの?」
「あ、いや……」
イシスの様子がどこかおかしいように見えたのは、自身の思い違いだったのかと育生は思う。だが、長い間共に過ごしてきた彼女の変化に気づかないほど、鈍くもなかった。育生が追及するのを阻止するようにイシスが話題を転換する。
「それよりも、これからは毎晩夜回りをすることにいたしましょう。こちらが後手に回ってしまうのは仕方がない以上、以前よりも警戒するに越したことはありませんわ」
「あ、ああ……」
「そうと決まりましたら、いつもより精のつく夕飯のメニューを考えないとですわね」
イシスはテーブルの上に置かれた茶器を片付け、ダイニングキッチンへと姿を消した。その後ろ姿を見送りつつ育生は思う。どこか余裕がないように見えるイシス。その彼女の憂いの原因は、育生が知る限りただ一人、いや一柱しかいなかった。
「……セト、か」
セト――エジプト神話における冥界の王オシリスの、そしてイシスの弟である神。彼が十二年前この人間界に現れなかったら、今こうして育生はイシスと出会うこともなかったのだろう。そして、自身の家族や大勢の人々が亡くなることも――。




