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聖地エルサレム問題

作者: 陽向未来

 今回、日本人が苦手な宗教にスポットを当てたのは、私が信徒という訳ではなくグローバル化していく世界で、(コロナ前では)私の住んでいる名古屋でもイスラム教徒を多く見る様になっていました。

 大企業でしたら、取引先や従業員の中にも各信徒がいると思われます。

 よって、社会的見識を深め・広げていただきたいというのが目的です。

 ※ 特定の宗教を応援、または非難するものではありません。


 特にイスラム教については、日本人は知識不足や誤解が多いと感じています。

 一般的な日本人のイメージは、

「戦争ばかりする」、「怖い、誘拐される、殺される」、「世界を混乱させている」などだと思います。


 因みに私は、フランスのイスラム教徒(スンニ派)の方とイランのシーア派の方と、この記事をTwitterで連載した際に知り合いになり、この内容について肯定してもらいました。

 今現在(2022年4月)でも連絡が取れます。

 そのとき、コーランも購入しています。

挿絵(By みてみん)



【三宗教はアブラハムの兄弟宗教】


挿絵(By みてみん)


① ユダヤ教

 聖典 :旧約聖書

 信仰神:ヤハウェ(ヤーヴェ、エホバ)→エロヒム(エローヒム)

 偶像崇拝禁止


 当時、ユダヤ教は大きく4つの宗派に分かれていました。


 ・ サドカイ派

  祭祀階級を中心にした派閥。

  「モーセ五書」を信奉する。

  聖地エルサレムの神殿で祭祀をとりおこなうとともに、ローマからユダヤ社会の統治を任されていた。


 ・ パリサイ派(ファリサイ派)

  「モーセ五書」に加え、律法学者たちの口伝律法も尊きものと認めていた。

  一般市民に支持されていた派閥であり、ユダヤ教の排他的指導層をもつ。

  イエスの論敵で、イエスはパリサイ派を厳しく批判した。


  ・ エッセネ派

  一番厳格に律法を遵守し、閉鎖的な社会空間を形成していた派閥。ストイック。

  世俗社会から離れ、パレスチナの荒野で自給自足&禁欲的な生活を送っていた。

  神秘思想を継承。

  イエスはエッセネ派から生誕した。

  死海文書を残したのもこの派。

  ※ 有名なアニメ「エヴァンゲリオン」に出てくる天使の名は、この死海文書から採用されている。


 ・ 熱心党

  ローマへの不服従を唱え、独立を勝ち取るために戦い続けた武闘派閥。

  対ローマ武力闘争を繰り広げた。


 ユダヤ教徒は、教義上(ユダヤ人は神に選ばれた民であり、ユダヤ人だけが救われる)イエス・キリストをメシアと認めなかった。

 また、イエスに従った使徒もユダヤ人であったにもかかわらず、キリストはユダヤ人によって十字架にかけられたという俗説が古代から中世にかけて流布し、それまで「神に選ばれた選民」だったユダヤ人は一転して、「イエスを殺した賎民」と差別されるようになった。



② キリスト教  

 聖典 :新約聖書

 信仰神:天なる父

 偶像崇拝あり


 福音書として最初に書かれたのは『マルコによる福音書』で、イエスの死後40年ほど経ってからです。

 そして、いくつかの福音書や手紙を集積し『新約聖書』としてまとめられたのは、イエスが亡くなってから1世紀から2世紀くらい経ってからです。

 イエスはユダヤ教徒出身であったが30歳で悟りを開き、新しい思想(ユダヤ教という民俗宗教から一歩踏み出した普遍的な考え)を周りに布教し始める。

 様々な奇跡や治癒が少しずつ知られるようになり、「ローマ支配を追い払う力強いメシア(救世主)なのでは?」と救世主到来の預言を信じるユダヤ民族の期待を受ける。

 しかし、厳格な戒律を守るユダヤ教の幹部の人たちは異端視しイエスを訴え、ローマ軍により「大衆を扇動した罪」で捕縛。

 死刑が宣告される。

 捕縛後、まったく奇跡を起こさないため、「メシアじゃなかった!」と民族の失望を買い、あざけられることになった。

33歳でゴルゴダの丘にて十字架に架けられ、嘲笑ちょうしょうと怒声と侮辱の中、罪人と共に処刑される。

 ※ この時、脇腹から心臓を貫いた槍の名前が、槍を刺したローマ兵の名をとって、ロンギヌスの槍と呼ばれている。


 よって宣教期間は、たったの3年しかなかった。

 磔刑たっけいの3日後に復活した奇跡は有名。

 イエスは「ナザレのイエス」と、村名で呼ばれていた。



《キリスト教の歴史》

1054年

 教会が政治権力と結びついたことにより、東方教会(ギリシャ正教)と西方教会ローマカトリックの二つに分裂。

 ローマ帝国内の各地に伝えられていった頃は、主にパウロが活動した地域(東方)の教会が中心でした。

 その後、ローマ帝国が東西に分裂し、それぞれ独自の文化を形成しつつ発展を遂げていきます。

 それに伴い、教会もローマを中心とするラテン語の西方教会と、コンスタンティノポリス(現トルコ・イスタンブール)を中心とするギリシャ語の東方教会とに分かれます。

 東西の教会の基盤となった民族、風土の違いから、時間の経過とともに礼拝形式などが大きく異なっていきます。

 たとえば教会の建築様式は、西方ではゴシックと呼ばれる、上へと伸びていく形の教会が多く、東方ではグルジア、アルメニアなどでは円錐状のとがったドーム状、ロシアではタマネギ頭のドームを発達させるといった違いです。


1517年

 西方教会ローマカトリックが聖書から離れ世俗化する中、マルチン・ルターの宗教改革によりプロテスタントが形成される。


・ カトリック

 聖書を解釈するのは教皇と聖職者の仕事。

「善行主義」

 神父(生涯独身)

 聖母マリアも信仰対象

 離婚は原則禁止


 ※ 英国ヘンリー8世(英国王室)の離婚問題がローマ法王との間でこじれたことに端を発し政治的な思惑も絡み、英国のカトリックはローマから離れ英国国教会が生まれた。


・ プロテスタント

「信仰主義」「聖書主義」「万人祭司」

 牧師(妻帯可能)

 聖母マリアはイエスの普通の母

 離婚可能


・ 東方教会

 ギリシャ正教は、ギリシャからスラブを経てロシアへと伝わっていき、ギリシャ正教、セルビア正教、ロシア正教と広がっていきました。

 この東西のキリスト教の分断は、政治的な思惑や民族の争いなども絡み根が深いものとなっていきましたが、第2ヴァチカン公会議(1962~65年)の時に和解が成立した。



③ イスラム教   

 聖典 :コーラン

 信仰神:アッラー(アラー)

 偶像崇拝禁止


《イスラム教の歴史》

570年頃

 クライシュ族からムハンマド(マホメット)が、メッカ(イスラム教最大の聖地、現サウジアラビア)に生誕する。


610年

 ムハンマドは、ヒーラー山の洞窟でアッラーの啓示を受ける。

 妻のハディージャが最初のイスラム教徒となる。

 (二人目は、娘婿で息子同然だったアリー)


622年

 厳格な一神教を唱え、偶像崇拝を否定したためメッカの人から迫害されマディーナ(メジナ)への退避(ヒジュラ=聖遷せいせん

 この年がイスラム暦元年。

 イスラム共同体形成の開始。


630年

 ムハンマド、メッカを占領 → アラビア半島の統一


632年

 預言者ムハンマドの死去。

 アブー・バクルが第1代正統カリフとなる。

 → 正統カリフ時代(632-661)のはじまり。


 ※ カリフとは、

  “ムハンマドの代理”としての政治的、宗教的指導者のこと


650年

 第3代正統カリフ・ウスマーンによる『コーラン』の正典化。


661年

 第4代正統カリフ・アリー(ムハンマドとハディージャの娘ファーティマの夫)が暗殺される。

 アリーの息子が第5代正統カリフに就くが、ムアウィーヤ(661~680)がウマイヤ朝(首都ダマスカス)を創設。

→ カリフを宣言したことにより、シーア派とスンニ派に分裂。


 <シーア派>

  血統を重視し、アリーの系統を正統だと考える。

 <スンニ派>

  血統に関わらず実力主義で後を継いでいく考えで、途中からスーフィズム(イスラム神秘主義)を取り入れ強化された。


 現在は、スンニ派が大多数(80~90%)であり、シーア派が多いのはイランなどである。

 この2派が宗派対立しているのが現状。



【イスラム教について】

 ムハンマドは、「私が最後の預言者だ。神は私の後はもはや預言者を送られない」と宣言している。

 イスラム教は、『旧約聖書』も『新約聖書』も否定していない。

 ムハンマド自身は、旧約聖書の時代から存在する預言者の一人であるが 「最後で最大の預言者」という位置づけ。

 ムハンマドが霊示を受けていたのは、ジブリールという名の天使であるが、シブリール=ガブリエル(ユダヤ教・キリスト教の七大天使のナンバーツー)であり、ムハンマド(イスラム教)もその認識。

 ムハンマドの時代は、「寛容」と「平和」を重んじる宗教であった。

 現在の一般のイスラム教信者も、 「寛容」と「平和」を重んじている。

 一神教として有名だが、アッラーとは“神”との意味であり、コーランの中には「我は」だけでなく「我々は」と複数系の表記が混在している。



【キリスト教から見たイスラム教】

 イエスは天なる神を「わが父」と呼び、イエスの弟子たちはイエスを「神の独り子」としている。

「天なる父の独り子、選ばれた唯一の息子」というイエスと、「途中でガブリエルが中継に入り、神の言葉を受け取る」というムハンマドと比べると、キリスト教から見れば、「イエスの方がムハンマドより上である」との認識。

 よって、「キリスト教の方がイスラム教より上だ」と思っているため “イスラム教がキリスト教の後継宗教” だと絶対に認めない。


 ちなみに、仏教の釈尊しゃくそん(仏陀:ゴーダマ・シッダールタ)は、説法の際、天上界から梵天や菩薩が説法を聞きに降りてきたと仏典に記載されています。

 「天上天下唯我独尊」のお言葉は有名。



【イスラム教から見たキリスト教やユダヤ教】

 イスラム教は、イエスを重大な予言者としては認めているが、メシア(救世主)としては認めていない。

 “政治的指導者として、民族を守るために戦い、勝たなければならない”というのがメシアの条件にあるが、イエスは政治的指導者になることを拒否し「心の世界」のみの教えを説き、捕らわれ処刑(敗れた)されたため認定されなかった。

 そういう意味では、「生きている間に、宗教を起こし、政治的にも指導者として国をまとめたムハンマドは、ユダヤ教でいうメシアに該当する」がユダヤ教は認めていない。

 本来メシア(救世主)であったイエスを売り飛ばし、ローマ軍に処刑させた。

 そして、キリスト教を信じず二千年経っても改宗しないユダヤ人を、何故キリスト教国は庇護ひごするのか理解できない。


 ヒトラーのユダヤ人大量(六百万人)虐殺を気の毒に思い、イスラム教諸国内に、ユダヤ人の祖国である人工国家イスラエルを米英が後押しして建国したため、それが火種となり中東戦争が繰り返し何度も起きている。

 イスラム教の人から見れば、

「我々が住んでいる所から住民を追い出し、国を建てたのだから、当然戦争が起こる」

 と言う主張。



【三宗教の神】

 ユダヤエロヒム、キリスト教(天なる父)、イスラムアッラーの神は、実は同一神エロヒム(エローヒム)です。


『旧約聖書』で、イザヤが出現するまで主神と思われていたヤハウェ(ヤーヴェ、エホバ)は、パレスチナ周辺の民族神です。

 イザヤ出現後、エロヒムという神の名は2,600回以上も使われています。



【【イスラエル問題】】

『旧約聖書』に書かれている様に、モーセがヤハウェから「乳と蜜の流れるカナンの地を約束する」と言って、エジプトの奴隷になっていたイスラエル(ユダヤ)人たちに “しゅつエジプト” を行わせ、約束の地へ導いた。

 しかし、カナンの地(今でいうガザ地区付近)は空き地でなく、先住民族(フェニキア人、ペリシテ人)が住んでいた。

 モーセはカナンの地に入る前に亡くなったため、二代目のヨシュアが人々を連れて入り国を建てた。


 モーセにシナイ山で「十戒」を授けたのはエロヒムです。

 カナンの地に到着したときモーセが生きていればエロヒムの声が聞けたかも知れませんが、後を継いだヨシュアにはモーセほどの悟りには到達しておらず、神のくださった約束の地だからと戦争し奪い取りました。

 先住民族から見れば略奪してできた国なのです。

 これが、中東の紛争(悲劇)の淵源になっています。



【ユダヤの歴史と聖地エルサレム。嘆きの壁とは?】

B.C.2000

 セム系であるヘブライ人は、メソポタミアのウルからカナンへ移住し、遊牧生活をしていた。


B.C.1700


 大飢饉のため、カナン地方から古代エジプトに移住。

 エジプトはヒクソス人により支配されていたが、ヒクソス政権を破り、再びエジプト人がエジプトを統一。

 ファラオ()はヘブライ人を奴隷として酷使、迫害する。


B.C.1300

 エジプトで迫害されていたヘブライ人を、モーセが率いてエジプトから脱出する。

 神に与えられた約束の地、カナンへ向かう途中、十戒を授る。

 (しゅつエジプト)


B.C.1200

 ヘブライ人がカナンへ辿り着いた時、カナンの地はフェニキア人、ペリシテ人が定住していたが、ヘブライ人はカナンの地を奪い取った。

 ※ この頃からイスラエル人を自称するようになり、ヘブライ語も成立したと考えられている。

B.C.1100

 ダビデ王の時代、エルサレムを王都に定め、イスラエル王国のいしずえを築いた。

 ソロモン王の時代、ユダヤ教のエルサレム神殿を建立する。

(第一神殿)


B.C.1000

 ソロモン王の死後、支族間の抗争により統一体制は崩れ、北と南に分裂する。

 イスラエル王国(北王国) 首都サマリヤ 10支族が独立

 ユダ王国(南王国)    首都エルサレム


B.C.800

 アッシリア帝国によって首都サマリヤは陥落し、ヘブライ人は奴隷または追放され、メソポタミアからの異民族が移住し、北王国は滅亡する。


B.C.587

 新バビロニアが再びエルサレムを包囲し、翌年ユダ王国は陥落。

 エルサレム神殿(第一神殿)は破壊された。

 ユダ王国は属州として併合され、多くの捕虜は首都バビロンへ連行された。


B.C.538

 新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアにより、バビロン捕囚となっていたヘブライ人は解放され、一部のヘブライ人は再びエルサレムに帰還する。


B.C.515

 エルサレム神殿を再建する。

(第二神殿)


A.C.70

 ローマ軍がエルサレムを陥落させ、エルサレム市街のみならずエルサレム神殿(第二神殿)も破壊される。

 破壊された第二神殿の外壁の西側の部分を、ユダヤ人は、

「嘆きの壁(西の壁)」と呼んでいる。

 この部分を含め、外壁はその基礎部分がほぼすべて残されている。



【キリスト教とイスラム教の聖地エルサレム】

・ キリスト教

 ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世は325年頃に、キリストの磔刑たっけいの場所、ゴルゴタに教会を建てることを命じた(『マタイによる福音書』など)。

 この聖墳墓教会せいふんぼきょうかい(イエス・キリストのお墓がある教会)は、エルサレムの旧城壁内に建てられた。


・ イスラム教

 ムハンマドが天国に旅立った場所とされる「聖なる岩」を取り囲むように建設され、692年に完成した。

 岩のドームは、エルサレム神殿跡の内に建てられた。


挿絵(By みてみん)


***


<ここからは逸話や神秘的な話となります>


【イスラム教の知られざる逸話】

 アブー・バクルが第1代正統カリフに就きましたが、実はムハンマドの娘婿のアリーが継ぐつもりでした。

 アリーは息子同然だったほど、ムハンマドと仲が良かっただけでなく預言者の資質があったのです。

 ですがムハンマドが、「私が最後の預言者だ」と言ってしまったため、大っぴらに出来なくなってしまいました。

 また大変若かったため、やっかみを受け、ムハンマドの葬儀の準備で大忙しだった隙をついて、アブーバクルがカリフ宣言をしてしまったのです。

 結局、年功序列にカリフは継承されていき、やっと4代目でカリフに就くことが出来ました。


 ※ アブー・バクルが第1代正統カリフに就いていれば、現在のスンニ派とシーア派の宗派抗争は起こりませんでした。


 ムハンマドはとても謙虚な方であったので、神の啓示を受けた後、当初キリスト教徒に相談し、ガブリールを中継し神の声を聴いた事にしたそうです。



【キリスト教の知られざる逸話】

・ イエスの(幼少期~青年期)修行時代

 イエスが30歳から布教を始めた事は前説の通りですが、13歳~29歳までの間、どこに居て、何をしていたか、その記録が全くなく「空白の17年間」 と呼ばれています。

 ※ 仏教の仏陀は、釈迦族の王子であった事もあり記録が残っています。


 実は、神秘思想のエッセネ派ではメシアの誕生を事前に察知しており、イエスの誕生後に英才教育を施していきます。

 仏教を学びに行った逸話もあり、インド仏教僧院に「聖イッサ伝」という書物が残っていますが、まさにイエスの事です。

 その他、ギリシャやエジプト等にも宗教修行に行っています。


・イエスの最期

 福音書に十字架上のイエスの最後の7つの言葉が記されており、4つめの言葉が、

「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」 (マタイの福音書)

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」 (マルコの福音書)

  で意味は、

「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか」

 と認識されています。

 実は誤っており、真実は「エリヤ、エリヤ、ラファエルよ。迎えに来なさい」です。

 ※ これは証明する資料、手段はありませんのでキリスト教徒も否定すると思います。



【キリスト教の2人のマリア】

 キリスト教には、“聖母マリア”と“マグダラのマリア”と2人のマリアが登場します。

 マグダラのマリアは、敬虔な信徒で資金的に教団を支えただけでなく、献身的にイエスの身の回りのお世話をしており、”事実上の妻” という立場の方でした。

 しかし、職業が高級娼婦であったため、そんなけがれた存在が事実上の妻であったという事を隠すため、母マリアを聖母化(神聖化)し、マグダラのマリアの存在を消す努力をしました。


 例えば、イエスは処女生誕だったという事にした様にです。

 ※ 旧約の預言には、処女生誕と記述されていました。

   母マリアが、ご立派なお方だったのは事実です。


「イエス自身は職業による差別をせず、愛の教えの通りに人を平等に扱っていた」

 という様に悟りの高さを前面に押し出せばよかったのですが、弟子や教会はそれを許しませんでした。


 ちなみにイエスが復活し最初に姿を現したのは、マグダラのマリアの前でした。

「岩の中に入るとイエス様がいなかった。声をかける者がいたが、イエス様と分からなかった。白く光り輝いていたので。話してみて、イエス様なのかなと分かった」

 とあります。

 ※ マグダラのマリアの言葉は証明する資料、手段はありませんのでキリスト教徒も否定すると思います。


***


<ここからは絵画「受胎告知」の話となります>

※ 画像はネットで検索すれば安易に探せますので、そちらをご覧ください。


 様々な画家が、聖母マリアの「受胎告知」の絵画を描いています。


『ルカ福音書』によれば、天使ガブリエルが、マリアのところに来て、

「おめでとう、恵まれた人よ。主があなたとともにおられます。」

 と告げます。

 マリアが戸惑うと、天使は「聖霊が神の子を授けたこと」、「男の子が生まれるので名をイエスと名付けること」などを告げます。

 マリアは、「わたしは主の召使い、お言葉のとおりに」と答えます。


 なお、『マタイ福音書』にも受胎告知の場面が書かれていますが、こちらは内容が異なり、マリアの夫ヨセフの夢に天使が現れ、マリアの受胎を告げることになっています。



【「受胎告知」の宗教画ルール】

「受胎告知」には、マリアの純潔と貞操を表す “白い百合の花” が描かれ、聖胎を表現するために百合の花には、男性を連想させる“おしべは描かない”とのルールがあります。

 そして、“閉ざされた庭” が描かれる事が多く、庭は聖母の子宮を暗示し、周囲の塀には聖母の子宮が、“男性には閉ざされている” という意味があります。

 マリアは、純潔と信仰を表す青色のローブに、天の愛情を表す赤い衣服をまとっています。

 絵画例

 ・ ボッティチェッリ『チェステッロの受胎告知』

 ・ シモーネ・マルティーニ『受胎告知』

 ・ フィリッポ・リッピ『受胎告知』



【レオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」】

 しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画では、しっかりと “おしべが描かれており”、また ”その背後だけ塀がない“ ことから隠されたメッセージが読み取れます。


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