ポーンの恋
波の音を聴きながらシャッターを切る。
さざ波の立つ海、青い空に浮かぶ白い月、紫陽花、昼寝する野良猫。
俺は何でもない風景を夢中で撮る。
ファインダーを覗くと見慣れて色褪せた風景が鮮やかに見えるから不思議だ。
チェスした事ある?
ファインダーを覗いていた俺にハルカは柔らかな声で話しかける。
波の音とハルカの声が重なり耳を心地好くくすぐる。
ファインダーから目を上げてハルカを見るとミルクティーみたいな色をした髪が初夏の日差しを浴びてキラキラと輝いていた。
ネコみたいな目もスッと通った鼻も形の良い唇もファインダーを通してないのに何でこんなに鮮やかで眩しいんだろう、と俺は眩しさに目を細めながらぼんやりと考える。
返事をしない俺には構わずハルカは話を続ける。
チェスの駒のポーンって一番弱くて横にも斜めにも後ろにも行けなくて、前にしか進む事しかできなくて。あ、でも敵を取る時だけは斜めに動かせるんだけどね。
そう言って何かを思い出したのかフッと笑う。
でもポーンが相手側の一番奥のマスに着いたらキング以外の好きな駒に変われるんだって。ね、すごくない?
ハルカはキラキラした目を一層輝かせながら俺を見る。
「チェスが好きなの?」
俺がそう言うとハルカはキョトンとした顔をする。
違う、そうじゃないだろ。
と自分に突っ込みを入れる。
俺は何でもっと気の効いた事が言えないんだ。
いつもそうだ。
俺は他人とコミュニケーションが上手く取れない。
他人の言葉を理解するのに時間がかかるし理解出来ない事も多い。
理解出来たとしても見当違いの事を言ったり、上手く言葉を返す事が出来ない。
周りを苛つかせ、呆れさせる俺はいつからかほとんど喋らなくなった。
そんな俺にハルカは面白がるわけでもなく、でも同情するわけでもなくただ側で淡々と他愛ない話をする。
ハルカの声と程よい距離が心地良かった。
なのにー。
んー?全然。この前学校で聞いて面白かったからマコトに会ったら言おうと思ってただけ。
自己嫌悪に浸る俺には気付かずハルカはそう言ってにっこり笑う。
爽やかな風が海から吹いてきてハルカは誘われたように海を見た。
風に吹かれてミルクティー色の髪が揺れる。
遠くを眺めるハルカの横顔を見ながらこのまま時間が止まればいいのに、と思った。
俺のちっぽけな自己嫌悪なんてどうでもよくなる。
その柔らかなそうな髪に触れたい。
そう思っているとハルカが髪を耳に掛けた。
小さな耳朶にキラリと赤いピアスが見える。
胸がチクッと痛んで伸ばしてしまいそうになった手をギュッと握りしめる。
ハルカがピアスをしているのに気付いたのは半年位前だった。
昼間でも寒い日だったけど写真を撮る俺の側でハルカはいつも通り他愛ない話をしていた。
学校帰りに食べた新作のクレープが美味しかったとか、野良猫と遊んでたら引っ掻かれたけど可愛いから許したとか。
俺もいつも通りロクに返事もしないでファインダーを覗き込んでいた。
写真に夢中になっていると海からビュッと強い風が吹いた。
冷たい海風に身を竦める。
すぐ隣に立つハルカを見ると髪が風に吹かれて普段髪で隠れている耳に赤いピアスが光っているのが見えた。
冬のどんよりとした暗い雲を背景にその赤いピアスはあまりにも鮮やかだった。
小さな赤い石から目を離せずにいるとハルカは俺の視線に気付いて耳朶を引っぱる。
あ、これ?
キレイでしょ?
もらったんだ。
そう言って笑うハルカの顔がほんのりと赤くなっていたのは寒さのせいだけじゃなかったと思う。
それから冬休み前に告白されて付き合うようになった事、クリスマスにピアスをもらった事、正月に二人で初詣に行った事を楽しそうに話した。
そんな楽しそうなハルカの顔を見ていたら胸が痛くて重くて苦しくなった。
そして気付いた。
俺はハルカが好きなんだー。
他人の事がわからないみたいに自分の気持ちもわからなければよかったのに。
そう思っても気付いてしまった気持ちは無かった事には出来なかった。
このままでいい。
余計な事を言ってこの関係を壊す位ならずっとこの距離を保っていたい。
なのに不意に近付いて触れたくなる。
その度に鮮やかな赤いピアスが瞼の裏で鮮やかに光り俺は手を強く握りしめる。
俺はポーンだ。
弱くて不器用で一歩ずつ前に進む事しか出来ない。
横にも斜めにも行けず後戻りする事も許されない。
ハルカはクイーンだ。
強くて自由でどこへでも進む事が出来る。
俺は弱くても一歩ずつでも前に進んでたらいつか変わる事が出来るんだろうか。
そしていつか盤上を自由に飛び回るクイーンを捕まえる事が出来るんだろうか。