吸血鬼の妹と小悪魔な先輩が修羅場すぎる件
眼前に広がった目を塞ぎたくなる現実に息を止めた。
20分近くシャワーの音が止まないことを不審に思い、様子を見に行った矢先の出来事だった。
妹は脱衣場でリストカットをしていた。
カッターナイフを衣服に忍ばせ、水の滴る身体をそのままにして手首を切ったのだろう。
手首から肘にかけて白い肌は鮮血に染まり、手首の傷は遠目からでも深刻だと分かるほど、異常な量の血が流れていた。
そして――その傷が一瞬で完治するのを、僕は目撃した。
『兄さん……私、人間じゃないんだよ。化け物、なんだよ』
その一切の光のない漆黒の双眸から、滂沱の涙が歯止めなく流れるのを見て、僕はこの世のすべてを呪った。
~~~
差し込む光に舞った塵や埃が煌めき、淀んだ空気が肌先にまとわりつく。
そんな薄暗い体育館倉庫のマットの上で、僕は実の妹である結愛に迫られていた。
「兄さん……ごめん。もう、我慢できない」
頬は高揚して赤らみ、乱れた制服で鎖骨が露出している。
そして息も荒く、熱を伴う風邪のような症状が見られる。
こうなった結愛は意識が朦朧としていて止められない。
その恍惚とした表情に諦めて首元を差し出すと、結愛は尖った八重歯で首元に噛み付いた。
「…………ッ」
すーっと身体から血が抜け、首元を中心に悪寒が広がっていく感覚がある。
手足の指先が悴み、心地よい痺れが全身に広がって――ぐったりとした倦怠感が包み込む。
「大丈夫、僕はどこにもいかないから。ゆっくりでいいよ」
馬乗りになったその小さな身体を、抱きしめるようにしてそっと頭を撫でる。
簡単に崩れてしまいそうなほど細くしなやかな身体だ。
僕の声に耳を傾けず、少女は夢中で血を吸い続ける。
暫くして吸血が終わると、結愛は傷口を再度舐めた。
吸血鬼の唾液には僅かな治癒効果も含まれているため、吸血後に大量出血するような事はない。せいぜい貧血のような症状が二三時間続くだけだ。
そして我に返ったのか、急に視線を逸らした。
そして消えそうなか細い声で謝った。
「兄さん、ごめんなさい……また私……」
「いいよ別に。でもな結愛。あんまり我慢しなくていいんだよ。お前はすぐに一人背負い込もうとするくせがあるんだから」
本来、吸血衝動は定期的に血を吸っていれば起こらない。
熱で意識が朦朧とするのは、禁断症状の現われだ。
きっと喉の乾きにどうかなってしまいそうだっただろう。
「あと、出来ればこんなところじゃなくて家がいいんだけど。誰かに見られでもしたら面倒だし」
「そう? 私は兄さんとイケないことをしてるみたいでちょっと興奮するけどな」
と、もじもじと身体を畝らせて言う結愛。
「……お前はたまに怖いこと言うよな」
変な性癖とかに目覚めたりしないか心配だ。
「そろそろ戻るか。いつまでもこんな……って、どうした?」
「ううん。まだちょっと熱があるだけ」
立ち上がろうとすると、結愛は馬乗り姿勢のまま胸元に身体を埋めてきた。
何かに怯えるように服がぎゅっと掴まれている。
「……そっか。まだ昼休みが終わるまでは時間があるしな。でも体育終わりだから汗臭いと思うよ」
「大丈夫。だからだもん」
その後、二人で午後の授業をサボった。
結愛はしれっと早退する旨を伝えていたらしく、問い詰めたところ舌をペロッと出して謝ったのが可愛かったので許した。
それに今更下がるような評価は持ち合わせていない。
どうせ僕は誰からも期待されていない落ちこぼれの不良――学校一の嫌われものだ。
~~~
ある年を境に、この世界には『第二世代』と呼ばれる異能を持つ者と、『第三世代』と呼ばれる特異な体質を持つ者が生まれるようになった。
彼らは、時に自らの能力に奢り非行に走り、差別や拉致など犯罪に巻き込まれたりなど、世界中で大問題に発展した。
ついには能力者を軍事利用しようと世界各国の諜報員や科学者やらが暗躍し、あわや第三次世界大戦が――なんて、どこまでが本当かは分からないが、世界はファンタジーに大きく揺らいだ。
日本政府が東京に『特別都市』を設置し、能力者やその可能性のある者を集めてから社会はずいぶんと落ち着いたが、まだ能力者については不明な部分が多く、差別的な考えを持つ者もいる。
――僕と結愛は5年前にこの街に引っ越してきた。
結愛には第三世代の可能性があり、国からの援助を受けて特別都市に一戸建てを設け、二人で暮らすようになったのだ。
しかし可能性があるというだけで、中にはなんの変化も現れないものや、変化に気づかないものまでいるらしい。
現代の技術ではまだ、様子見と能力者が普通に暮らせるように援助することくらいしかできないようだ。
一度帰宅すると、すぐにバイトへ向かった。
国からの援助があるとは言え、独立のために働くことは必要だ。
「また聞いたよー。成瀬君が下級生をカツアゲしたとか、午後の授業をサボって女子生徒を体育館倉庫に連れ込んだとか」
休憩時間、バイトの先輩がそんなことを教えてくれた。
彼女は同じ学校の3年である――朝比奈麗奈。
僕なんかと気軽に話してくれる数少ない人物だ。
「ま、あたしは君のことよく知ってるから信じてないけどね」
「でも連れ込んだのは本当ですよ?」
「ええっ!? 嘘っ! 君、そんなことしたの!?」
得意げに話す先輩の出鼻を挫く。
しかし直ぐに落ち着きを取り戻すと、
「……それ、妹ちゃんとかじゃないよね?」
と、ジト目を向けられて視線を逸らす。
本当に朝比奈先輩は僕のことをよく分かっていらっしゃる。
「はあ……。君がそういう子だってことは分かってたけどさ」
心の中で、ボソッと「シスコン」と言ったのが聞こえる。
「それに君はさ、誤解を解こうとかしないの? あの暴力事件の噂、嘘でしょ?」
「まあでも、僕が下級生の女子に恐喝まがいの行為をしたのは間違いないですからね」
それにあの行動が間違っていたとしても、後悔はしていないし、頭を下げる気などさらさらない。
先輩はまたため息を零すと、「まあ、分かってたけど」と言いたげに頬杖をついた。
「先輩、元気ないですね」
「……成瀬君がそれ言うんだ」
視線が痛い……まずい。地雷を踏んだかもしれない。
先輩は伏し目で一瞥した後、物憂げそうに机に突っ伏した。
「そーなの。最近、好きな男の子に告って振られたんだー」
「へ、へぇー」
「しかもその理由が妹ちゃんでさー。軽くトラウマだよ~」
「先輩を振るなんてロクな男じゃないですよ、絶対」
「って、いつまで他人のフリしてるのかな~?」
白々しく返答すると、まあまあ強めに頬を引っ張られる。
「おめんなひゃい」
「もう……告白する前と変わらず接してくれるのは嬉しいんだけどさ、ここまで平然といられるとちょっとムカつくんですけどー。……緊張してるアタシがバカみたいじゃん」
と、先輩がほんのり頬を赤らめて言う。
僕は先日、朝比奈先輩から告白を受けた。
同じバイト先なだけで嫌われてると思ってたので、正直罰ゲームか何かかと本気で思ったものだ。
そして男らしくもなく一日保留にした僕は、次の日、結愛の面倒を見たいからと丁重にお断りした。
先輩は結愛の置かれた状況を知ってくれているので、不満げではあったが一応は納得してもらえた。
はっきり言って、なんで僕なんかに告白したのかまるで分からない。
僕は学校一の嫌われ者で、先輩は学校一のマドンナ。釣り合うはずがない。
それに面倒見が良くて、意外と乙女な一面もあって、誰よりも優しくて、男女ともに憧れる理想の女の子。
「(……僕だって緊張してるに決まってますよ)」
多分、僕は自分で思ってる以上に朝比奈麗奈という女の子を好きなんだと思う。
幼い頃に両親を事故でなくし、それからは兄として結愛を守ろうとしてきた。
誰にも頼らず、弱音を吐かず、散々他人から蔑まれて、孤独に生きてきた。
それなのに、初めてだった……守ってもらいたいと思ったのは。
「僕なんかじゃ釣り合いがとれないですよ」
「……ふーん。君はそういうこと言うんだ。だんだんアタシが振られた理由が分かってきたなー」
多分、僕が結愛のことを言い訳に使って逃げたことを見破られてる。
本当は自分に自信が持てず、勇気がないだけだ。
「皆アタシに君とは関わるなって言うんだよね。何かされるかもしれないからって。寧ろ何もされなくて困ってるっての」
そこまで堂々と言われると恐縮する。
本当は恥ずかしいくせに強がっているのが分かるからこそ、先輩の魅力に取り憑かれる。
最近、先輩が僕に対して積極的にアプローチしてくれている。
僕は鈍感でもなければ寧ろ他人の好意や敵意には敏感な方だ。流石にそれくらいはわかる。
でもだからこそ、分からない。
「……なんでそこまで僕に」
「告白してきた女の子にそんなこと聞くんだー」
「僕だって情けないって思いますよ……」
先輩は茶目っ気に微笑むと、目線を明後日の方向にやった。
頭の中で何かを思い浮かべているのだろう。目を細めると、
「……なんか。いいなって思ってたんだよね」
と、曖昧な理由を述べた。
だけど、その横顔を見れば分かるのだ。
その表情は、恋する乙女のそれだと。
「……良かった。君も狼狽えてくれて」
そして僕の表情を眺めて微笑んだ。
多分僕は、とても赤い頬をしているのだろう。
「ねえ。週末デートしよ」
そして、流れるような突然のお誘い。
語尾にハートマークがつきそうな声と、真っ直ぐにこちらを覗き込む視線に思わず目線を逸らす。
そんな反応を眺めて楽しむように、先輩は悪戯っ子のように妖艶に微笑んだ。
「いや、でも……」
「そーだよね。こっぴどく振った女の子とはデートできないよね」
と、涙目でこちらをチラ見してくる。
「うぐ……それはずるいですよ」
「振られた女の子の特権、だよ」
先輩は可愛らしくウインクする。
本当にこの先輩にはかなわない。
完全に向こうのペースに乗せられている。
いつも朝比奈先輩は、自信の持てない僕を強引に引っ張ってくれる。
こんなに素敵な女の子が、僕を好きだと言ってくれているのに――何を、躊躇っているのだろうか。
~~~
そして週末が訪れる。
柄にもなく昨日は眠れなかった。
早めにセットしたアラームがまだ鳴っていない。
先輩の前ではクールぶっていたが、朝からこんなに胸が弾んでいるようじゃ笑われてしまう。
早めに待ち合わせ場所について「大丈夫、今来たとこ」と返すところまで思い描き、身体を起こそうとする。
「ん?」
すると、布団の中で結愛にしがみつかれていることに気づいた。
たまに結愛が布団に潜り込んでくることがあるが、それは決まって学校で嫌なことがあった日か、雷や台風の夜に限る。
昨日は土曜だし、別に天気が荒れているようなこともなかった。
「……じゃあ、行ってきます」
そう声をかけ、起こさないようにそっと手を離す。
「兄さん! 兄さん、兄さん! 嫌だ、どこにもいかないで!」
……結愛は眠ったまま泣いていた。
そして離すまいと強く握り返してきた。
「――――ッ」
かつて同じようなことがあったと思い出す。
起きると結愛が布団に潜り込んでいて、離れようとすると震えながら抱きついてきたのだ。
医者からは分離不安症だと診断された。
大抵はその対象は母親に向くことが多いが、両親を早くになくしている結愛にとって、僕は母親と父親の代わりでもあった。
そして結愛は、父さんと母さんのように僕がどこかへ行ってしまうのではないかと恐れている。
……元から結愛は、ストレスを溜め込みやすく、精神は簡単に病んでしまうほど脆かった。
小学生の頃、初めて吸血鬼としての体質が確認された。
せいぜい夜目が効く、八重歯が鋭い、夏に体調を崩しやすい程度の症状しかなかったため、結愛も僕も気づいてはいなかった。
ある日、結愛はある男子に告白され、その告白を断った。
その男子はリーダー格の女子から人気があったため、女子から無視や陰湿な嫌がらせを受けるようになった。
結愛が悩んでいたことには気づいていた。
口を聞いてくれなくなったり、部屋に引きこもったり。
でも、それは思春期の女子だから当たり前だと思っていたし、男子である僕が相談に乗ることはできないと思っていた。
だから知らなかったのだ。
結愛が日々の嫌がらせに精神をすり減らし、心を病み、隠れて自傷行為に走っていたこと。
その過程で自らの身体が特異なことに気づいたこと。
その事実を受け入れきれなくて、何度も何度も血を流したこと。
誰にも相談なんかできず、どれだけ不安だっただろうか。
もう一度手首を切ったら治癒しないんじゃないか――そんな願いは容易く裏切られ、吸血鬼としての治癒力はより強固なものになっていった。
『兄さん……私、人間じゃないんだよ。化け物、なんだよ』
あの時、僕は訳も分からなくなって結愛を抱きしめた。
抱きしめなければならないと思ったのだ。
胸が張り裂けそうなほど痛くて、涙が止まらなかった。
『なんで兄さんが泣くの?』
『泣いてないよ。怒ってるんだ。自分を大切にしない結愛も、お前を追い詰めた世界も、お前の悲しみに気づいてやれなかった自分自身も。みんなみんな許せないんだ。――頼むから、自分の心の声に耳を傾けてくれ』
僕は無力に打ちひしがれ泣きじゃくることしかできなかった。
あの日まで、僕は結愛の精神状態がそこまで不安定になっていることに気づけなかったのだ。
あんな思い、二度としたくない。
「……すいません、先輩。やっぱり僕は、結愛を放っておけません」
スマホに手を伸ばした僕は、行けなくなったと連絡を入れた。
『絶対、明日忘れないでよ!!』という先輩の最後のメッセージの後に送信するのは、心が抉られるようだった。
送信するとすぐに既読がつき、暫く間を置いて返信が来た。
『ううん。大丈夫、また日を改めて誘うね!』
たったそれだけの文字数にかかる返信時間ではなかった。
いっそのこと、無視してくれた方が楽だったかもしれない。
既に日は登り、人々が活発に活動し始める時間帯。
「……兄さん?」
「おはよ。気分は悪くない?」
「うん。大丈夫だよ」
結愛は僕の胸に顔を埋め、大きく呼吸した。
あの体育館倉庫のときに気づくべきだった。
結愛は不安に駆られると、僕の匂いに触れようとする。
この家の匂い、自分自身の匂い、僕の匂い――そういった嗅ぎなれた匂いに、安らぎを求めようとするのだ。
そして猫のマーキング行為のように顔を擦り付けてくる。
こうなった結愛は、どこに行くにも僕に張り付いてくる。
そしてひとたび僕の姿が見えなくなると不安で泣き喚く。
そんな状態が、一日から三日続くのだ。
「大丈夫。僕が傍にいるよ」
守らなきゃ。僕は結愛の兄さんなんだから。
~~~
僕たちは昼過ぎまで一緒に寝た後、朝食兼昼食を食べ、テレビゲームで遊んだ。
「それ兄さん、ずるい!」
「ふふふ! 兄の威厳みせてやる――って、ちょ!」
「油断したね兄さん! って、ええっ!?」
「詰めが甘いな、我が妹よ」
「うう……」
散々やりこんだので二人ともこのゲームに関してはプロ並みだ。
思えば、こうして二人で思い切り遊んだのは久しぶりだ。
先輩には悪いが、今日は兄妹水入らずの時間を過ごせて良かった。
結愛も大分ほぐれてきて、これなら明日は普通に学校に行けるかもしれない。
それでも、僕が冷蔵庫に水を取りに行った時は不安な表情をして服の裾を掴んでいた。
予想以上に白熱して、気がつけば日が暮れている。
「そろそろ夕飯にするか」
「私も手伝うよ」
当然、一緒に台所に立つ。
基本的に料理は僕が担当していたが、一年ほど前から結愛が料理を習いたいと言い出し、今ではすっかり腕前を抜かされた。
結愛がエプロンを着て台所に立つ姿は、今でも涙ぐましいものだ。
夕食を食べ終わると、テレビを見ながら談笑し、気がつくと時計は9時前を指していた。
さて……問題はここからなのだ。
ぶっちゃけ結愛と一日中一緒にいることは何の苦でもない……けど、流石に風呂まで一緒に入ることには抵抗がある。
前回はお互いに中学生だったし、ほとんど抵抗はなかったが、もう二人とももう高校生だ。普通はありえない。
「あの……結愛さん? お風呂はどうします?」
「一緒に入っちゃだめなの?」
「…………そうだね、一緒に入ろうか」
その上目遣いと猫なで声は反則だ。
二人で脱衣場に移動すると、結愛は平気な顔で服を脱ぎ始める。
身長も伸び、胸も年相応に膨らみ、高校生となり成熟した身体。
そうだ。いつまでも結愛も子供じゃない。
「その……そんなに見られると恥ずかしいよ」
結愛は下着姿を恥じらい手で胸元を隠した。
ほんのりと赤に染めった頬を見て、僕は考えを改める。
やはり妹とはいえ、一人の思春期の女の子だ。
「やっぱり結愛、お互いタオルは巻こう」
「私は気にしないよ?」
「僕が気にするんです……」
「兄さんは恥ずかしいがり屋さんだね」
寧ろ結愛はもうちょい恥ずかしがってもいいと思うが。
タオルを腰に巻き付け、先に浴室に入る。
この狭さでは同時に身体を洗うことはできないので、結愛が来る前に終わらせようと、スピード重視で髪を洗っていく。
そんな中、背後で扉が開く音がして、冷たい風に晒された。
「あっ、背中流すよ、兄さん」
「……頼むよ」
それくらいはスキンシップの範囲だろう。
にしても背中を流すなんて言われたことがなかったので少し驚きだ。
「こうやって一緒にお風呂に入るのも久しぶりだね」
「そういや小学生のときはほぼ毎日一緒に入ってたな」
振り向かずに返答すると、結愛は僕の後ろで跪き、ボディタオルで力強く背中を洗い始めた。
「兄さん、背中大きいね。それに硬くてゴツゴツしてる。もう大人の男性の身体みたい……」
結愛がどこか寂しげに言う。
すると直ぐにその手は止まった。
「……ねえ。私はどうかな?」
そう言って、背中に抱きつく結愛。
その感触からタオルを巻いていないことが分かる。
「結愛?」
心音が肌を通じて伝わってくる。
戸惑いで身体が硬直して動けない。
この状態を兄妹のスキンシップと捉えるほど、僕の脳内はお花畑ではない。
結愛が向けてくれる愛情は、兄妹のそれから逸脱していることには気づいていた。
「いつも思うんだ。兄さんが兄さんで良かったって。けどね、たまに思うんだ……なんで私は妹なんだろって。――別の形で出会ったら、きっと私は兄さんの好みの女の子になって、兄さんに好きって伝えるのにな」
結愛が一言一言に愛を込めて囁いているのが分かる。
痛いほどに。僕は兄だから。その思いを正面から受け止める義務がある。
「あの日、兄さん言ってくれたよね。人は痛みには慣れないって。それはとても悲しいことだって。……嬉しかったんだ。本当は死ぬほど痛くて泣き出したかったから」
あの日というのは、僕が結愛の心の傷に初めて触れた日のことだろう。
あの時、後遺症もなく完治した手首の傷を心配すると、結愛は笑顔で『痛みには慣れたから平気だよ』と言った。
その表面だけを継ぎ接ぎに取り繕った笑顔に、さらに心が抉られたことを覚えている。
『そんな悲しいこと言うなよ。――人は、痛みにはなれないんだ。せいぜい我慢強くなるか、自分の心に騙せるようになるだけで、いくら死ぬほど辛くて悲しい経験を重ねようとも、人は同じように痛みを感じるものなんだ』
痛くないなんてあるはずがない。
結愛は僕を心配させまいと嘘をついた――自分の心に。
それがとても悲しかったんだ。
――痛みに慣れるなんて、そんな悲しいことあるだろうか。
そりゃ何度も何度も殴られれば、いずれは我慢できるようになるし、傷の癒えも早くなるし、人前で「大丈夫だよ」と笑えるようにもなるだろう。
でも、同じように痛みは感じる。
今、結愛が辛いこと、悲しいこと、嫌なこと、それらを打ち明けてくれるのは素直に嬉しいしありがたい。
「ねえ、兄さん。私が兄さんのこと、一人の男の子として愛しちゃったって言ったら……兄さんはどうする?」
結愛は核心を突いた質問をする。
半ば告白であるそれは、僕が結愛を恋愛対象としてみれるかどうか……ということだ。
何も迷うことは無い。
「……僕は結愛のことが好きだよ。でもそれは、兄妹として。結愛が僕のことを好きだって言ってくれてめちゃくちゃ嬉しいけど……ごめん」
この気持ちはどこまで行っても変わらない。
結愛は過去のいじめが原因で、恋愛に対して積極的になれていないんだと思う。
異性と付き合うことで、同性との関係が揺らぐことがあると結愛は知っているからだ。
「嫌だ……嫌だ嫌だ!」
「結愛?」
「置いてかないで! 一人にしないで! ずっと一緒にいてよ! 許さない……私から離れるなんて許さないから!」
結愛は抱きしめる力を強める。
やっぱり……それが本心か。
孤独への恐怖。将来の漠然とした不安。人間関係の縺れ。
「……一人にしないで」
結愛が求めたのは、ずっと変わらない関係。
それは友達や恋人なんて脆く浮ついたものではない。
そして家族よりももっと強固な絆。
なら、僕がかけてあげるべき言葉はなんだろうか。
「……結愛。僕はさ、本当は死んでるんだよ。あの事故の日、僕も本当はついていくはずだった。でも、結愛が一人でお留守番は嫌だかって泣き出して、仕方なく僕は残ったんだよ。それに結愛が居なきゃ、僕は今日まで立派に生きて来れなかったと思う。――だから僕の半分は結愛でできてるんだ」
両親を亡くし、生きるのが嫌になって死にたいと思った。
あのとき一緒に行って死ねば良かったと何度も思った。
だけど結愛がいたから、守らなきゃって思えたんだ。
「僕は兄として結愛と一緒に生きてこれてよかったよ。そしてこれからも、兄として結愛を見守っていきたい。……大丈夫、大丈夫だから。いつかきっとお前を幸せにしてくれる人が現れる。――それまでは僕が絶対、お前を一人になんかさせないから」
嘘偽りのない等身大の思いを語り、僕は結愛の手を握った。
この姿勢からだと表情が窺えず、何を感じたのか分からない。
「兄さんよりも素敵な人なんて現れないよ」
「そんなことはないぞ。世界はお前の思ってる何十倍も広いから」
結愛にはもっと世界を知って欲しい。
兄を本気で愛してしまうような、そんな小さな鳥籠ではなく。
「……絶対に絶対だよ」
「うん。絶対にだ」
少し沈黙があってから、結愛は消え去りそうな声で「……分かった」と言って僕から離れた。
まだ割り切れない複雑な感情ではあるだろうが、結愛はそれでも微笑んだ。あからさまな愛想笑いで。
「……髪、洗ってほしいな」
「うん、いいよ」
女子の中には髪を触られることに酷く抵抗がある者もいる。
髪を洗ってもらうことは、信頼関係の上に成り立つ一種の愛情表現なのかもしれない。
それが終わると、二人で湯船に浸かった。
二人とも成長して浴槽はかなり狭く感じる。
同じ方向を向き、結愛が僕の胸板にもたれ掛かるスタイルで、何とか二人で湯に浸かることができた。
入浴剤で透明感を失った白い湯は、一緒に入る可能性を考慮した上の囁かな気遣い。
「なあ、結愛。今日一日僕から離れなかったのって、ただの我儘なんだろ?」
「……あちゃー。バレてたか」
「何年お前の兄さんやってると思うんだ?」
「そっか。それもそうだね」
かつて結愛が分離不安症になったときと今回では、僕がどこかへ行こうとしたときの恐れ方が違っていた。
結愛は今日一日、僕をこの家に留めるために演じたのだ。
昨日は友達と遊びに行くとは言ったが、僕に友達なんていないことは結愛も知っている。
「でもね、我儘じゃなくて嫉妬だよ。麗奈先輩に兄さんを取られちゃう気がして」
「取られちゃう……って、朝比奈先輩は……ん? なんで相手が朝比奈先輩だって知ってるんだ?」
友達としか言っていないし、結愛が朝比奈先輩と連絡を取り合うような仲とは思えない。
バイト先に来て、何度か言葉を交わした程度の関係性だろうに。
「分かるよ。兄さんが女の子と楽しそうにお喋りしてるの、初めて見たから。それにバイトから帰ってきてから明らかに上機嫌だったし……」
「女の勘なめてました……」
「それにあのビッ……麗奈先輩が兄さんと話してる時、明らかに恋する乙女の顔してたもん」
今、ビッチって言いそうになかったか?
ともかく、結愛の観察眼には脱帽させられる。
「本当は『兄さんを誑かす性欲の魔女、盛りのついた泥棒猫めが、私が駆除してやる』とか思ってたけど」
「結愛さん結愛さん!? すごく怖いんだけど!」
「……でも、兄さんの顔見てたらそんな気も失せたよ。兄さん……私には見せたことない顔してた」
鼻を伸ばしていたことが気に食わないのか、結愛は頬を膨らませる。
「それにあの人なんか嫌いになれないし」
「朝比奈先輩はいい人だよ。ギャルに見られがちだけど、意外と乙女で繊細だし、世話好きだからお前も気に入られる……いや、何でもない」
結愛が睨んできたので口を閉じる。
「本当はね、兄さんが誰かと付き合ったりするのはすごく嫌……絶対に嫌、なんだけど……兄さんが傷つくのはもっと嫌。兄さんには幸せになってほしいし、私の我儘で縛り付けたくない」
結愛の精神はまだ子供だ。
叱ってくれる父も、癒してくれる母もいなくて、僕は甘やかすことしかできなかった。
我儘ばかり……だけど今、結愛は変わろうとしているのかもしれない。
もう大人にならないといけない頃合いなのだと、心の奥底では分かっているからだろう。
「兄さんが本気で麗奈先輩を好きなら、私はその恋を応援するよ」
そう言って結愛は顔の半分を湯に浸けた。
そうでもしなければ溢れてしまう我儘に、口を噤むようにも見えた。
その姿が健気で可愛くて、思わず黙って頭を撫でた。
「うぅ、撫でないでよぉ」
僕は多分、自分だけが幸せになることを無意識のうちに拒絶している。
結愛を傷つけた僕に幸せになる資格はないと。
学校中が僕を憎もうが、それは罰だと受け入れていた。
全く、とんだ勘違い野郎だ。
身勝手な自虐で自己満足に浸って、結愛の気持ちなんて考えたことがなかった。
幸せになってほしい――か。なんでそんな簡単な気持ちを汲んでやれなかったのだろうか。
その夜、結愛は枕を抱きしめ僕の部屋へやってきた。
「一緒に寝てもいい?」
何度も布団に潜り込んでいるのに随分と緊張している様子だ。
「今日は一日ごめんね。我儘ばかりで迷惑かけて」
「いいよ、ちょっとくらい。二人だけの家族なんだから。我儘ばかりでも、迷惑ばかりでも、心配かけてばかりでも気にしなくていいんだ」
我儘も迷惑も心配も、それすら愛おしい。
家族とはそういうものなのではないだろうか。
それに結愛だって頑張っているんだ。
あの一件以降、結愛にも友達ができ始めて学校に通えるようになったが、それでも上手く馴染めず我慢の連続だろう。
でも結愛は変わろうとして積極的に人と関わろうとしている。
それで十分ではないだろうか。
「結愛。やっぱり家では無理に大人になろうとしなくていいんだよ。僕にだけは甘えてもいい。僕も辛い時は結愛に甘えるから」
僕たちはそういう関係でいいのではないだろうか。
我慢が積み重なればいつか必ず擦り切れる。
その苦しみを隠して愛想笑いされるのが一番辛い。
「……実はね、前から知ってるんだよ。兄さんと私が血の繋がった兄妹じゃないってこと」
「――! な、何言って……」
唐突のカミングアウトに飛び起きる。
「隠さなくていいよ。私は吸血鬼なんだから、兄さんと私の血が繋がってないことくらい何となく分かってたよ」
「…………そっか」
まさか気づかれていたとは……。
僕も母さんと父さんが亡くなる数日前、母さんが結愛は養子だと教えてくれるまで知らなかった。
血の繋がりなんて、正直目にも見えなければ感じれないし、本当はどうだっていいのかもしれない。
僕と結愛は家族だ。血の繋がりなんて知らない。
それを知って驚きはしたが、何らショックは受けなかった。
結愛はそれを知って、一体何を思ったのだろうか。
そんなことに想像を馳せらせる。
すると結愛は少しだけ体を起こして顔を近づけ、
「だからね、兄さん――」
頬にそっとキスをしてきた。
そして突然の事で面食らう僕の表情を見て、結愛は無邪気に微笑んだ。
「これは兄妹としてのキスだから。でも、次は唇……かもね」
大胆なことをした自覚からか顔は赤く染まり、逃げるように布団に潜っていった結愛は、じたばたと布団の中で悶えていた。
脳が思考するのを諦めている。
ナンダコノカワイイセイブツハ。
…………本当に、お前ってやつは。
いつも気づかされる――僕がどれだけ幸せなのかって。
~~~
休日明けの月曜、僕は朝比奈先輩を直接デートに誘った。
誘われる前に不意打ちで誘ってやろうと、イタズラ好きな少年心で行ったが、想像以上に慌てふためいていた。
薄々感じてはいたが、先輩は案外異性に慣れていない。
恋愛相談したい先輩ランキング一位の先輩だが、どうやら恋愛経験自体は少ないらしい。
いつも経験豊富なお姉さんとして攻めているが、逆に後手に回るととことん防御力の低い乙女になる。
その姿を見ると無性に嗜虐心を煽られる。
もっと褒めて照れて欲しい。もっと攻めて恥ずかしがって欲しい。――なんて、そんなことを思ったのは初めてだ。
『兄さん……私には見せたことない顔してた』
その通りなんだろうな。
本当にこの先輩はずるい。
気づいた時には先輩の魅力に囚われている。
そしてあっという間に週末が訪れた。
待ち合わせ場所に30分も前につくと、その10分後に朝比奈先輩が到着し、お互い早いと笑いあった。
定番のやり取りを一通り終えると、先輩は「さてと」と一呼吸置いて視線を右斜め下に落とした。
「なんで結愛ちゃんもいるのかな?」
「私がいちゃいけないんですか?」
「これはどういうことかな?」
「……結愛がどうしても来たいといいまして」
「デートに妹つれてくる男の子なんている?」
ごもっともすぎて言葉もない。
先輩は笑顔だが目が笑ってない。
これは確実に怒ってるなー、でもそんな先輩も素敵だなー。
「……はあ。まあ、君がそういう男の子だって分かったけど。それにアタシは、そういうとこも含めて君が好きなんだよ」
もはや何の駆け引きもなくサラッと好意を伝えてくる。
一度告白し、お互い両思いだと分かってるからこその関係性。
でも、思えば僕の方から好きだと伝えたことは無い。
「それじゃ、行こっか!」
先輩は楽しそうに腕に抱きついてくる。
女の子にリードされるのは男としてどうかと思うが、僕からはどうしても踏み出せないし、先輩はそれを分かって積極的にリードしてくれている。
にしても、狙ってるんじゃないかってくらい胸が当たってる。
それにこの角度だと自然と目が谷間に吸い寄せられる。
「……なるほど。そうやって兄さんを誑かしたんですね。」
と、結愛が死んだ魚のような目で先輩を睨む。
いや、見られてるのは僕もか。
「あれ? ごめん、結愛ちゃんがいるの忘れてたよ。ちっちゃくて見えなかったし」
下から上へと結愛を舐めまわすように見ると、先輩は視線を胸元に止めて悪戯っ子のようにニヤリと笑う。
「兄さん! 私、やっぱりこの人嫌い!」
結愛が涙目で助けを求めてくる。
明らかにわざとだ。完全にからかって楽しんでる。
「あはは~。嫌われちゃったな」
先輩がやっちゃったという感じでペロッと舌を出す。
先輩は基本的に後輩やぬいぐるみや小動物のような小さくて可愛いものが好きなんだろう。
結愛のこともきっと妹のように可愛いと思ってるはずだ。
でも、たまに小悪魔みたいになるんだよなー。
それはそうと、あの天女と言われる朝比奈先輩が、後輩の女の子に意地悪な態度をとるとは珍しい。
二人には仲良くしてほしいんだけどな。
「まあまあ。せっかくですし、今日は三人で楽しみましょう」
「誰のせいで争ってると思ってるのかな?」
「はは……結愛をつれてきたのは申し訳ないと思ってますよ」
その言葉が聞こえたのか膨れっ面になる結愛。
まさかここまで攻撃的になるとは想定外だ。
「やっぱり兄さんは渡しませんから……」
反対の腕に抱きついた結愛が「べー」と舌を出して先輩に対して拒絶を示す。
「何なら『姉さん』って呼んでくれてもいいんだよ。いずれはそうなるかもだし」
「絶対に嫌です! 何なら性欲大魔人って呼びましょうか?」
「なっ……誰のことかな、それ?」
朝比奈先輩の笑顔が引き攣る。
勢いに任せて言っているだろうが、結構大胆なこと言ってるって気づいてるだろうか?
それに結愛……お前がそんな言葉遣いになって兄さん悲しいぞ。
「それに今日は成瀬君とデートしてるんだから引っ込んでてくれないかな?」
「兄さんは今日は私とデートしてるんです! 勝手に勘違いしないでください!」
二人が僕を挟んでいがみ合っている。
周りの視線が痛い。見ようによっちゃ二股だ。
「妹なら兄の恋路を応援するのが普通なんじゃない?」
「お構いなく。兄さんと私は兄妹以上の固い絆で結ばれてますから! この前なんて一緒にお風呂に入って、その夜はキスもしましたから!」
「え……」
「ちょっと待って!結愛! 確かにしたけど! 語弊があるんじゃない!?」
朝比奈先輩がマジの目してるから!
汚物を見るような目してるから!
「頬にですから! 兄妹として! 結愛からです!」
必死に弁解すると、先輩はクスッと笑った。
「ま、いっか。……それにだって、唇はまだだもんね」
上目遣いで求めるように見つめてきた先輩は、照れた様子で視線を逸らす。
まずい、これは過去最高にグッときた。
視線の動きが完璧すぎる。狙ってやってるなら先輩は恋愛において百戦錬磨だろう。
「でも、そうだなー。二人とも成瀬なんだよね。じゃあ、下の名前で呼んじゃおっかな」
「いえ、私のことは『結愛ちゃん』って呼んでるので『成瀬君』でいいと思いますよ!」
「じゃあ、君もアタシのこと『麗奈』って呼んでくれてもいいよ」
「無視しないでください!」
二人が僕を取り合っている。
そう思うと変にニヤケてしまう。
「わーい。両手に花で幸せだなー」
なんて話を逸らすように冗談めいて言うと、二人の握る力が明らかに強くなった。
花は花でも薔薇だったか。
「……まあ、君がそういうことに積極的になってくれないのは知ってたけど」
「大丈夫です。言うべきことは僕から言いますから――麗奈さん」
「え……う、うん」
やはりこういうときは乙女なんだな。
言うべきこと……それが何を指すのかは曖昧だ。
でも、それだけは僕から言わないといけない気がする。
「それじゃ、行こっか」
「行くよ、兄さん」
二人が僕の腕を引いて走り出す。
その時、走馬灯のように様々な記憶が脳裏を過った。
結愛がリストカットしていた時の記憶。いじめっ子たちに恐喝まがいのことをした時の記憶。先輩から告白されて結愛を言い訳に逃げた時の記憶。
僕に取り憑いていた負の感情が、二人の笑顔にすーっと抜けていくのを感じた。
想像の二倍の量になってしまった……。
当初はほのぼのを書くつもりだったんですけどね。悪い癖が出てちょっと重い展開にしてしまいました。
好きなことを詰め込んだ自己満小説ですが、誰かの心に刺さってくれると嬉しいです。