決断
午前五時五十一分
右舷外周区画、民間駐機場
走行型ドローンが去っても、レオはすぐには動かなかった。怯える琴音の肩をそっと抱き寄せ、静かに声をかける。
「琴音……もう大丈夫だよ」
琴音はたまらずレオにしがみついた。声を押し殺しながら、小さな体をレオの胸に預け、震えながら泣いていた。
ぽたぽたと落ちる涙が、ジャンプスーツの胸元をじわりと濡らしていくのがわかる。
レオは、ぎゅっと琴音を抱きしめ返した。
姉を守りきれたという安堵と、これから待ち受ける未知の現実への不安が、胸の奥で入り混じっていた。
……でも、いつまでもこうしてはいられない。
周囲では、今も断続的に銃声と爆発音が鳴り響いている。耳をふさぎたくなるような音。それが、この場所の「現実」だった。
息を大きく吸い込んで――、
「これからどうしよう」
思いついたことを素直に口にした。
答えはなかった。
何をすればいいかも、どこに行けばいいのかも分からない。
ただ、レオの脳裏にあるのは、たったひとつ。
――死にたくない。
琴音も、守らなきゃいけない。
けれど、どうすればそれができるのか、レオには分からなかった。
沈黙の中、不意に「ガタン」と金属が跳ねる音が響いた。
琴音の体がビクッと跳ね、喉の奥から悲鳴がこぼれそうになる。
それをレオは慌てて手でふさいだ。
「……なんだ?」
音はカートのフロント側からだった。遠くで爆音がとどろき、シートが微かに震える。
恐怖が喉を締めつける――レオはそれに飲まれまいと、震える声を押し出した。
「誰かそこにいるのか!」
「その声……レオくん?」
返ってきたのは、聞き覚えのある女性の声。柔らかく、温もりを帯びた、あの声。
琴音がぱっと顔を上げた。その瞳に、光が宿る。
「せ、せんせい……? 本当に、先生なの……?」
震える声で問いかけると、すぐに安堵に満ちた声が返ってきた。
「よかった……琴音ちゃんも、無事だったのね」
駐機カートの運転席側から、身を乗り出す影。
現れたのは、シンディだった。
ジャンプスーツは血で汚れ、髪は乱れていた。だが、その目に宿っていたのは、教師ではなく、一人の人間としての覚悟だった。
「先生……」
レオの胸に、信じられない驚きと、それ以上の喜びが一気に押し寄せた。まるで絶望の闇に、一条の光が差し込んだかのようだった。
「ちょっと待ってね」
シンディは運転席に残っていたヒューマノイドの損壊した胴体に手をかけ、力を込めてずるずると引きずり出す。
金属の重たい音と共に、それは地面に転がった。レオは思わず目をそらした。
息を切らしながら、シンディは素早く運転席に収まる。
「まだ動くかもしれない――」
焦るように操作パネルをチェックし、ハンドルのアクセルレバーに手をかける。
おそるおそる、そっと引いてみた――。
がくん!
カートが急発進し、三人とも後ろにのけぞった。慌ててシンディが手を放すと、カートは惰性でゆっくり停止する。
「ごめんね、先生、こういうの初めてで……」
シンディは苦笑しながら、額の汗をぬぐった。
「大丈夫だよ。それより早くどこかに逃げないと……!」
レオは周囲を見回しながら声を潜めた。隣に頼れる大人がいる――その事実が、心のどこかにわずかな安心をもたらしていた。
「でも、どこへ行けばいいの? お父さんのところ?」
琴音が、不安と希望を混ぜたような声で訊ねた。
シンディは体をひねり、右手に持っていたものをレオたちに向けて見せる。
それは、さっきまで防衛部のマリアンヌが持っていたタブレット端末だった。画面にはヒビが入り、縁には茶色く乾いた血の跡が残っている。
レオは嫌な記憶が蘇り、喉の奥が苦くなった。
「いいえ。予定どおり、あなたたちをこの船まで連れていきます」
シンディの声には、教室では決して聞いたことのない、鋼のような決意がこもっていた。
シンディはレオに端末を手渡すと、慎重にカートを走らせ始めた。車輪が死体や瓦礫を乗り越えるたび、車体は不規則に揺れ、ギシギシと不気味な音を立てる。
レオは震える手でタブレットを操作した。
画面には、彼と琴音が目指すべき宇宙船の座標や経路が、細かく表示されていた。その中でひときわ目を引いたのは、「防衛部専用駐機場」のアイコンだった。
琴音はそっと身を起こし、カートのシートから顔を出す。おそるおそる後方を振り返ったその幼い瞳に映った光景は、きっと一生忘れられないだろう。
そこには、黒煙を上げながら地に崩れ落ちたカーゴシップの残骸があった。
かつて人々の希望を乗せるはずだった宇宙船は、今や無惨に歪んだ金属の塊と化している。周囲には、倒れたまま動かない人々の姿が点々と散らばっていた。
黒い集団の姿は見当たらない。けれど、いたのだ。この惨状がその証だ。
駐機場の奥では、いくつものカーゴシップから黒煙が立ち昇り、天井へ向かってゆっくり渦を巻いていた。煙の向こう、かすかに揺れる赤い炎が、破壊の余韻を物語っている。
ここからは見えないけど――
きっと、ほかのカーゴシップも。
ほかの船に乗ろうとしていた人たちも……。
琴音はそれ以上、考えたくなかった。小さく震える唇を噛みしめて、そっとシートに身を沈めた。
通常、駐機場から宇宙へ出るには、吹き抜け構造になっている上層まで垂直に上昇し、スペースゲートウェイと呼ばれる無重力の空間を経由する必要がある。
そこは、巨大なシリンダー構造の通路――宇宙とこの船をつなぐ“玄関口”だ。
けれど、彼らが目指すのは、まったく別のルートだった。
シンディが端末から得た情報によれば、一般には存在すら知られていない「裏の駐機場」があるという。
彼女は速度を緩め、そろそろとカートをリフトの上に乗せる。
そして、マリアンヌが残した端末から取り出した「シークレットコード」を、備え付けのタッチパネルに打ち込んだ。
リフトが静かに動き出す。ギィィ……と機械音を響かせながら、カートはゆっくりと下層へと降りていった。