第1章
彼は、自分のことを“リツ”と名乗った。
「律する、で、リツ」
律するとは、随分と程遠い所にいそうな少年だが、彼は誇らしげな顔でそう説明している。
コンビニの裏、大型トラックなどが停まる駐車場の片隅にしゃがみ込み、さっき買ったビールを2本袋から取り出した。
小さく乾杯をし、恐る恐るといった風に一口飲み込んだ律は、「ニガッ」ビールの苦味に顔を歪めている。
「オネーサン、よくこんなの飲めるね」
「ビール苦手なの?」
「うん、苦手」
じゃあ飲むなよ、せっかく1本あげたのに…そう思ってムッとしたが、相手は明らかに年下だから我慢してやることにする。
「オネーサン、名前は?」
「…別にオネーサンでいいよ」
「えー、じゃあ、当てていい?」
無邪気にそう言った律は、ハナコ?ハルコ?サクラコ?と、ふざけた様子でぶつぶつと呟いている。
「そんなことより、あなたまさか未成年じゃないよね?」
童顔に金髪、スウェットというその風貌は、ヤンキーを気取った高校生だったとしてもおかしくはない。
ビールが苦手だとも言っていたし、その可能性は充分にあるのではないだろうか…。
今更焦り出した私に、律は気分を害したとでも言いたげな表情で、視線を合わせてくる。
「失礼だな。僕は今年で28歳だ」
「…まじで!」
未成年でなかったことにはホッとしたが、まさか自分と2歳しか変わらないとは。
精々20代前半だと思っていたから、ビックリし過ぎて思わず素の声が出てしまった。
「葛城律、28歳、AB型の蠍座です。はい、オネーサンは?」
缶ビールをマイク変わりにして、口元に当てられる。
それを手で押し戻し、無視をして拒絶をするも、律はしつこく缶ビールを押し付けてくる。
答えないといつまでも聞かれるのだろうなと思ったので、渋々、本当に仕方なく口を開いた。
「…篠田美織」
「美織!へー、オネーサンにピッタリな名前」
「…そう」
「うん、オネーサン、綺麗だし」
ナハテイヲアラワス?だっけ?と惚けた事を言うので、「名は体を表す、ね」と直してやった。
なんなんだ、こいつは。
いきなり見ず知らずの女を誘ってきたことといい、常識や教養と言ったものが少し欠落しているのかもしれない。
まあ、そんないきなりの誘いに乗ってしまった自分も人のことはあまり言えないのかも知れないが。
それから律は止まることなく、ポロポロと自分のことを語った。
最近この辺りに引っ越してきたこと、仕事はパソコン関係で、自宅でできること、好きな食べ物はコロッケで、嫌いな食べ物は人参であること、趣味は意外と読書で、スポーツはあまり得意ではないこと…。
気が付けば、時刻はとっくに0時を過ぎていた。
私の誕生日は、最後の最後に変な男に捕まって、いつの間にか終わっていたというなんとも虚しい幕の閉じ方をしていたらしい。
それが、なんとなく気に入らなかったのだ。
ビールもすっかり2本を空けてしまっていて、酔っ払っていたというのもある。
「…私、誕生日だったんだけど」
つい、不満げな声が出てしまった。
「え?美織さん誕生日だったの?今日?」
「今日っていうか、もう昨日だけど」
「えー!そうだったんだ?いくつになったの?」
「それ聞くの?失礼じゃない?」
「いいじゃん、教えてよ」
「…30だよ」
「へー、ふーん、あ、ちょっと待ってて!」
微妙に引っ掛かる返しをしてきた律は、思い付いたように立ち上がり、あっという間にコンビニの中に入って行った。
そしてすぐにレジ袋を持って帰ってきて、その中身を得意気に私に差し出してくる。
「お誕生日おめでとう」
それは、プラスチックの容器に入った苺のショートケーキで、こんな短い距離をわざわざ走ってきたからなのか、フタに生クリームがベットリとついて、若干形が崩れている。
本当に、なんなんだろう。呆れるを通り越して、逆に面白くなってきたくらいだ。
「ありがと。でもこんな時間にケーキなんて食べたら太るから」
「大丈夫だって今日くらい。それに、美織さんはもうちょっと太ってもいいくらいだよ」
そんな甘い誘惑の言葉を掛けられたら、ちょっとくらい大丈夫かなという気になってしまうではないか。
透明のフタを開ける。
クリームが少し剥げて、形が歪になった、苺が一粒だけ乗ったシンプルなショートケーキ。
手渡されたプラスチックのフォークで、三角の所を少しだけ切り分ける。
パクリと頬張ると、生クリームとスポンジの柔らかい甘さが口の中いっぱいに広がっていく。
今年の誕生日は、ケーキなんて食べないって決めていたのに。
律のせいで、色んなことが台無しだ。
心の中で悪態を吐きながらも、手は止まることなくケーキを口元に運んでいく。
甘いものは好きだった。
それが例えコンビニのケーキだったとしても、荒んでいた心が甘味に溶かされ、温かい色をした何かが流れ込んで来るようだった。
だから、なのかもしれない。
こんな風に、いきなり声を掛けられて、よくわからない内に一緒にビールを飲み、脈絡のない話を延々と聞かされ、明日も仕事なのに、こんな時間まで引っ張られて。
もういい加減にしてほしいと思っていたはずなのに、ケーキの優しい甘さにほだされてしまった私は、
「美織さん、また会いたい」
そう言われた言葉に、思わず頷いてしまったのだ。
律は物凄く嬉しい、というような顔で笑って、私に携帯電話の番号を教えてきた。
聞かれるがままに私も自分の番号を教え、「じゃあ、ありがとう!またね!」と言い残して去って行く律の背中を、暫くの間、呆然と眺めていた。
彼の背中が見えなくなった頃、急に夜の闇が深くなったように感じられた。
さっきまで忘れていた寒さも蘇り、羽織ってきたコートの前を抱き締めるようにして閉じる。
まるで、夢を見ていたようだ。
さっきまで話していたはずなのに、その姿が見えなくなった瞬間、その輪郭は曖昧になり、現実味が霧になって消えていく。
けれど、口の中に残ったケーキの甘味は、偽物なんかじゃなく確かに私の心を優しく溶かしたのだ。
………帰ろう。
心の中で呟いて、私もアパートへと続く道をゆっくりと歩き出した。
深夜の街は、重く深く沈み込むような静寂に包まれて、まるでこの世界から自分以外の人間が消えてしまったかのようだった。
家の明かりは全て消え、道の途中にポツポツとある電灯だけが今ここに広がる世界を照らしている。
そういえば、今日は会議があるから、少し早く行って資料を会議室に置いておかないといけない。
それと、頼まれていたデータをまとめて、部長に渡さないと。
後輩に仕上げた仕事のチェックも頼まれているし、同僚にはまたランチに誘われているから、きっとお決まりの延々と続く愚痴に付き合わされるに違いない。
夜が明ければ、うんざりするようないつもの日常がまた始まる。
けれど、30歳という節目の年を迎えたお陰で、少し強くなったのかもしれない。
身体はクタクタで、睡眠不足が確定しているにも関わらず、何故か今までにない程、やる気が沸いていた。