3 中編 2
建物内に銃声が響いた。だけど目の前の光景に唖然とした。
深山が引き金を引く瞬間に、高林が啓子を突き飛ばし、銃を持っている深山の腕を天井に向けたのだ。
唖然としているのは深山も同じで、腕を押えられながら高林を凝視していた。
高林は無表情で深山の足を払い床に倒し、身体をうつ伏せにして腕を背中に回した。
その動きは、精錬されていて慣れた手つきだった。
深山は傷みで顔をしかめた。手に持っていた銃が床に落ちる。
そして高林はズボンのポケットから手錠を取り出して深山の両手にそれを嵌めた。
「なにをするんですか高林先生!」
深山は焦っていた。しかし高林は冷静に言い放った。
「銃刀法違反、拉致監禁、暴行傷害容疑で逮捕します」
「なに!?」
同じポケットから黒い手帳を取り出して深山の目の前で広げた。それを見て深山の目は凍りついた。
「警察です、竹宮と言います。おたくが知っている高林は私の双子の弟です。彼は署の方で取調べしています。あなたも来てもらいますよ」
竹宮と名乗った刑事は深山を立たせた。
高林は話し方がゆっくりだが、竹宮の話し方は冷静沈着だった。顔は似ているが性格は正反対のようだ。
放心している深山を片手で支えてポケットから携帯電話を取り出してどこかにかけている。二言話して電話を切った。するとすぐに五人くらいの警察官が建物内に入ってきた。
竹宮は部下らしき二人に深山を引き渡した。助けが来たことにホッとしたのか、りょうはゆっくり目を閉じた。
「そうだ。手錠の鍵はどこですか?」
のろりと振り返った深山がニヤリと笑った。
「そんなものないよ。クク…」
それだけ言って歩き出そうとした深山の前に啓子が立ちふさがった。そして力いっぱい深山の頬を叩いた。渇いた音が建物に響く。しかし深山は気にもせず笑って警官に引っ張られながら啓子の横を通り過ぎた。
刑事二人に両脇を抱えられながら倉庫を出た深山は、ちょうどそこに到着した葵たちと出くわした。
「葵くん…どうしてここへ?」
「彼女を助けに来ました」
葵が答えると深山は驚愕に目を見開いた。
「どうして?」
ゆっくり、深山に言い聞かせるように葵は言った。
「大切な妹を、助けに来たんです」
「いもうと…?」
「りょうは俺の妹です。あの子の母親は俺の母親です」
「そんな…ばかな…」
これ以上開けないくらい深山は目を見開いた。そしてりょうを、まだ鎖でぶらさがっているりょうを振り返った。
肩まで伸びた髪が顔にかかって、その横顔は間違いなく、さおりに似ていた。
「っ――――――――!!!!!!!」
一気に現実を認識して、深山は半狂乱で叫んだ。その目からはとめどなく涙が流れた。
葵は見ていられなくて目を逸らした。深山の挙動に驚いた警官の一瞬の隙をついて、深山はりょうの元まで戻る。
「あ、こら!」
警官も慌てて追いかける。美月、和馬、葵も追いかけた。深山はりょうではなく竹宮に突撃した。
「かぎ、手錠、ポケットの中、早く、はやく!」
単語で竹宮を急かす。驚いた竹宮より早く、葵が深山のズボンのポケットから手錠の鍵を取り、りょうの手首の手錠をはずす。
ふらりと倒れてきたりょうの身体を和馬がしっかりと抱きとめた。和馬が自分の着ていた上着を脱ぎりょうの肩にかけて、前のボタンをしっかり留めた。
「救急車を早く!」
美月が竹宮に声をかけ、竹宮が携帯で救急にかける。温もりに目を開けたりょうは、和馬の肩越しに深山を見た。
深山は両腕を警官に捕まれながら、情けなく口は半開きで、目は恐怖で揺れていた。その顔を見ていると、りょうは思った。もしかしてこの人は十五歳のまま大人になってしまったのではないのかと。そして、りょうの意識は途絶えた。
☆ ☆ ☆
目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。そして覗き込む複数の人の顔が目の前にあった。
「あ…」
なにか言おうとしたが言葉が出てこなかった。伯父は目に涙を溜め、母は泣いて口元を手で押えていた。河嶋はホッと安堵していて奈知は笑顔だった。美月は相変わらず無表情で、そして…
「みかさ!っいった…」
みかさの顔を見て起き上がろうとして全身に痛みが走った。身体はまたベッドに横たわる。
「はぁ。よかった。みかさが無事で」
安堵して言うと、みかさは笑って、美月は複雑な顔で、奈知は憮然として、河嶋は悲しそうな顔をしていた。
みんなの表情の意味がわからなくて首を傾げた。
「え?なんで?」
「りょう、自分の心配しようよ。打撲が十五個、内出血が十個、足の手術で八時間。あと少し遅かったら片足なくなっていたとこなんだよ?」
河嶋がため息を吐いた。だって心配だったんだから仕方ないじゃないかと思っていると、母が涙を拭く手を止めて居住まいを正した。
「私、あなたに話があるの」
母はこちらを見て真剣な顔をした。今朝言っていた話だろう、こくりと頷いた。
「私たちはいないほうがいいかしら?」
みかさが母に聞いた。母は首を振って言った。
「いいえ、いてください。お願いします」
改めて病室を見回すと個室だった。
頭に近い方の窓側に母と伯父、通路側に河嶋、奈知、みかさ、美月と座っている。母は深呼吸していきなり頭を下げた。
「今までごめんなさい」
まさか謝られるとは思っていなかったので眼を丸くする。
「え?どうして謝るの?」
わけが分からず母を見つめる。顔を上げた母は、頭を優しく撫でてくれた。
「今まで、あなたを愛してあげられなくてごめんなさい」
なにが言いたいのか理解して目を見開く。まさか、という思いが渦巻く。だけどありえないという思いも混ざって混乱する。
知らずに布団を握り締めていた。その手に温もりを感じて視線を向けると、河嶋が手を握っていた。河嶋は頷くと母を見た。同じように頷いて母を見つめる。
母は膝の上で拳を握り締めていた。だけど目は逸らさず、まっすぐ目を合わせた。
「あなたが初めてうちに来たとき、二歳くらいだったかしら。私は夫が愛人との間に作った子供だと思ってあなたを受け入れられなかった。そのせいで辛く当たってしまったことを、今では本当に反省している。夫は何度となく『あの子は愛人の子じゃない。愛人なんていない』と言っていたけれど、当時の私は信じられなかった。時々、嬉しそうに出かける彼が怪しくて、興信所に頼んで彼を調べてもらったら、女性と会っていたと報告を受けたから尚更だった。だけどその女性は、あなたのお母様だったのね」
泣き笑いのような顔で、母は河嶋を見つめた。河嶋は頷いて話し出した。
「俺は憶えてないけど、雪彦さんが昔言っていた。何度も会いに来てくれたって」
そしてこちらを見て微笑んだ。
「あの時母さんのお腹の中には、お前が宿っていたんだ。守さんは初孫だって、喜んでいたそうだよ」
「だけど、あなたを産んで二年後に彼女はこの世を去ってしまった。不憫に思った夫はあなたを連れて帰ってきた。雪彦はあの時、就職したてで幼いあなたを抱えて生活なんて、無理だったでしょうから。それなのに私は、あなたに辛く当たることしかできなかった。ごめんなさい。そして今から十三年前、あの事故があった。私は熱を出して寝ていたあなたを放って病院へかけつけた。ベッドの上で眠る二人の顔を見たとき、私は理解できなかった。その後のことは幸樹さんのほうが詳しいでしょ」
母は伯父を見た。視線を受けて伯父は頷いた。
「どうして、伯父さんが?」
「オレも、乗っていたんだ事故を起こした車に。そして」
言葉を区切って河嶋を見た。河嶋は包んでくれていた手に、少し力を入れて握った。
「河嶋も、乗っていたの?」
河嶋は泣きそうな顔をしていた。そして口を開く。
「俺が、ドライブに行きたいって、頼んだ。俺のせいだ…」
「葵クンのせいじゃない。あれは細工をした深山が悪いんだ」
「だけど…」
俯いて肩を震わせる河嶋に握られていた手を解いて、握り返す。そして笑顔を向けた。子供のころと同じように。
「あおちゃん、悪くないよ。話してくれてありがとう」
河嶋の目から涙が溢れた。そして手を握り締めて謝った。
「ごめん。ごめんな…。ごめん…」
伯父はもらい泣きしたのか目元を拭っていた。河嶋が落ち着いたのを見てまた話し出す。
「啓子さんは放心していて何も手につかないようだったので、葬儀のこともこっちで手配したんだ。オレは幸い軽症だったからすぐに動けた。啓子さんの着替えを取りに家内と家に行ったとき、お前がずっと泣いていたのはびっくりした。すまなかったな」
伯父は軽く身を乗り出して頭を撫でてくれた。昔と変わらない甘い匂いが鼻腔を擽る。目を瞑ってされるがままになっていたが、椅子に座りなおして伯父は話し出す。
「急いでお前を連れて斎場に戻った。何も食べてなかったんだろう。おにぎりを買ってあげたらすごい勢いで食べていたな」
そのときを思い出したのか伯父は喉の奥で笑った。恥ずかしくなって布団を口元まで引っ張った。
「控え室で啓子さんを見つけたりょうは落ち着いて、部屋の隅っこに座っていた。確か葵クンの近くだったかな」
「うん。俺を見つけて近くまで寄ってきた」
河嶋は当時を思い出したのか暗い顔で俯いた。
「そうしたら突然、今まで放心していた啓子さんがりょうを指差して言ったんだ。雪彦はそこに生きているって…」
母は俯いて膝の上の拳を握り締めた。指の先が白くなるくらい強く。
「そう。暗かった目の前がパァッと明るくなったみたいだった。本当に雪彦が子供の姿で戻ってきたと思った」
話を聞いていて、思い出した。今まで見向きもされなかったのに、いきなり指を指されビックリした。ビックリして、手を伸ばした先にいた男の子に手を振り払われて、傷ついたのだ。
「あの時はごめん。怖かったんだ。俺のせいで二人が亡くなって、どうしていいのかわからなくて。守るって約束したのに」
目を瞑りゆっくりと首を振った。
「あのときのあなたは五歳くらいだった。いくらか冷静を取り戻したとき雪彦じゃないって気づいていた。でも心の拠り所が欲しかった。だからあなたには辛い思いをさせてしまった…」
「母さん…」
母の目から涙が流れていく。
「ごめんなさい…。りょう…、ごめんなさい…。」
初めて本当の名前を呼んでもらった衝撃と、夢で聞いた声が重なって更なる衝撃となった。大きく目を見開き、母を凝視した。
「も、もしかして…ずっと夢の中で声をかけていたのは、母さん、なの?」
「あなたが寝ているのを確認して、枕元で謝っていたの。だけど面と向かっては言えなかった。ごめんなさい……」
「ずっと…わかっていたの?わたしのこと…」
「ええ……。ごめんなさいっ!」
母は頭を下げる。
「それじゃあ、どうして息子しかいないって、言ったの?」
母が息を呑んだ。家に押しかけてきた、いおりさんとの会話のことを言っていると、すぐにわかったのだろう。母はきつく目を瞑ったが、やがてゆっくりまぶたを上げて顔を上げた。
「怖かったの。まだあなたを手放したくなくて。ごめんなさい。だけど次の日あなたは姿を消した。それで気づいたの。このままではいけないって。本当のことを話さないといけないって」
「わたしを、愛してくれるの?雪彦兄さんとしてじゃなく、りょうとして…」
「ええ、もちろんよ」
目から涙が溢れるのが分かった。もし身体が動いたら抱きついていただろう。母は椅子から立ち上がり身体を抱きしめてくれた。河嶋と繋いでいた手を解いて、両手で母の背中を抱きしめた。
「お、お母さん…っ」
「りょう…。ごめんね。ごめんなさいね。愛しているわ」
一番欲しい人から一番欲しかった言葉をもらって、しばらく涙は止まらなかった。そんな時、コンコンと控えめにドアをノックする音が聞こえた。ドアに一番近いところに座っていた美月が立ち上がりドアを開けた。
そこに立っていたのは竹宮刑事だった。病室に入る前に一礼してから入ってくる。
「失礼します」
竹宮刑事の顔をみて伯父が驚いた。
「高林先生!?どうしてここへ…」
「いえ、私は竹宮といいます。高林は私の双子の弟です」
スーツの内ポケットから警察手帳を出して伯父に見せる。手帳を凝視していた伯父はため息を吐いた。そして疑問を投げかける。
「どうして双子なのに苗字が違うのですか?」
「私たちは施設で育ちました。養子に出された相手が違うのです」
「そうでしたか。あ、申し遅れました。高校の校長をしております、三田村と申します」
伯父は椅子から立ち上がり竹宮刑事にお辞儀をした。一つ頷いて竹宮刑事は言った。
「あなたが、校長先生ですか。転落事件の高校の、そうですか」
最後の方は独り言のようだった。美月が椅子を勧めたが、竹宮刑事は断った。
「それで、どうしてこちらへ?」
母が抱きしめていた身体を離して、竹宮刑事に聞いた。彼はポケットから手帳を出してページをめくる。
「実は深山亨慈があなたの様子を見てきて欲しいといいまして」
視線が集まる。身体を起こそうと力を入れるが痛みで起き上がれなかったので、視線だけで竹宮刑事を見た。母が気をきかせてベッドの横についていたリクライニングボタンを押して起き上がらせてくれた。
「ありがとう」
礼を言い、やっと身体を起こしてみんなの顔がしっかり見回せるようになって軽く息を吐き出した。ずっと寝ているのも疲れるのだと初めて知った。
「それで、深山先生は他に何か言っていましたか?」
「申し訳なかったと言っていました。彼がどうしてあなたを拉致監禁暴行したのかご存知ですか?」
「どういうことですか?」
奈知が怪訝な声を出した。眉間にはシワが寄っている。竹宮刑事は気にせず答えた。
「何を聞いても答えてくれないので、なにかご存知かと思いまして。調べたところあの倉庫は元々彼の父親の名義で借りられていました。高林からは監禁場所が聞き出せなかったので手間取りました」
「そういえば、どうして高林先生が共犯だと気づいたのですか?」
河嶋が聞いた。竹宮刑事は、手帳のページをめくりながら話す。
「深山岳澄が転落した捜査の現場に、私もいたんです。高林は私の顔を見るなり慌てて逃げ出したので、何かあるなと思い、何日か張り付いて調べていました。そんなとき銃撃事件がありました」
竹宮刑事はみかさを見た。みかさは未だ包帯を巻いてある二の腕に触れる。それを視線で追うと目が合った。みかさは声に出さず口だけで大丈夫だと笑顔を見せた。
「あの事件を起こしたのは高林です。深山に命じられてやったそうです。本当は威嚇射撃だったそうですが、運悪く当たってしまった。自分の生徒を撃ってしまった恐慌から、高林は自首してきました。すべての首謀者は深山亨慈だと」
「でも彼女が撃たれた日の翌日、HRに高林先生は来ていましたが…」
首をかしげて聞くと、竹宮刑事は頷いた。
「それは私です」
全員が唖然とした。一番驚いているのは伯父だった。
「そういえば、あの日の朝会議に高林先生はいなかった…」
「ええ。会議には間に合いませんでした。高林から話を聞き香山さん、あなたが狙われていると知ってあなたが家を出て彼らと合流するまで尾行していましたから」
彼らのところで美月と奈知を見る。全く気づかなかったと二人は目を丸くした。
「昼休みに姿を見失ったときは慌てました。そんなとき深山を張っていた仲間からあなたが拉致されたと連絡があり、追ったのですが撒かれてしまい途方に暮れているところに、八島さんという方から情報提供があり向かった次第です」
「それじゃあどうしてもっと早く駆けつけて、りょうを助けてくれなかったのですか!」
河嶋が椅子から立ち上がり竹宮刑事に詰め寄る。竹宮刑事は涼しい顔で答えた。
「言質をとる必要がありましたので、しばらく待っていました」
「なんで!」
竹宮刑事の襟首を掴みかかる勢いで河嶋が詰め寄るが、竹宮刑事は特に気にした風もなく淡々としていた。
「公務執行妨害で逮捕しますよ。深山を泳がせたのは言い逃れができない証拠が欲しかったからです。言い逃れされてしまってはこちらも手を出せませんので。そんなときそちらのご婦人が現れたので利用させてもらいました」
ご婦人といわれて母は膝の上の手を握り締めた。拳銃を突きつけられたときの恐怖を思い出したのだろう。握り締めている手にそっと手を重ねると握り返してくれた。
「しかし、未だに深山は黙秘しています。なにかご存じないですか?」
竹宮刑事はこちらを見て言った。河嶋は唇をかみ締めて椅子に座る。それを見て首を横に振った。
「いいえ、なにも」
「そうですか。何か思い出したことがあればどんな些細なことでも構わないので連絡ください」
内ポケットから名刺を取り出して一番近くにいた美月に渡す。病室を出て行こうとする竹宮刑事に声をかけた。
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
「なんでしょう?」
「高林先生はどうして深山先生と?」
竹宮刑事は肩越しに振り返って言った。
「なんでも中庭で喫煙していたのを見られて脅されたとか」
「そんなことで?」
河嶋が信じられないと声を出す。しかし伯父は頷いていた。
「中庭は禁煙スペースだ。教頭先生が丹精込めて作っている庭だからな。採用の人事権はオレが持っているが、その後の人事権は教頭が持っているし」
そういえばそんなことを言っていたなと思い出して、天井を見上げる。
「それだけなら失礼します」
竹宮刑事は来たときと同じように一礼をして病室から出て行った。ドアが閉まるとみんなため息を吐いた。
「何なんだ、あの人は…」
河嶋が額に手を当てて呟いた。またドアが軽くノックされ、皆一斉に扉を見た。だけど入ってきたのは看護師だった。
「検温の時間です」
「じゃあ私たちは帰るね」
みかさが言って立ち上がる。さりげなく美月が背中に手を添えていた。
「うん。ありがとう。また来てね」
「みかさも自分の身体一番に考えてくれ。本当は全治一ヶ月なんだから」
そういえばあれから三日くらいしか経っていなかったのを思い出し青くなった。
「そうなの!?動いちゃ駄目じゃないか!」
慌てて言うと、みかさは笑顔を向けた。
「大丈夫よぅ。大げさなんだから」
「ちゃんと治さないと…」
眉間にシワを寄せて言うと、みかさはしぶしぶ了承した。
「わかったわ。でもまだ私この病院に入院してるから、また遊びに来るわね」
ウインクしてみかさは病室を出て行った。美月はため息を吐いてそのあとに続いていく。その後姿を呆然と眺めていると、看護師が体温計を脇に差し込んで点滴の残量を確認して手首の包帯を換えていく。
「私は、一度家に帰って着替えを持ってくるわね」
「それじゃあオレも学校へ戻るか」
母と伯父も病室から出て行く。手首の傷を見ていた河嶋は眉間にシワを寄せて俯いた。体温計が検温終了の音を鳴らす。それを確認して看護師は病室を出て行った。
奈知と河嶋と 三人だけになった部屋はやけに広く感じた。
「本当に、心当たりないのか?」
奈知が腕を組んで聞いてきた。河嶋が俯きながら隣を睨む。気にせず奈知はこちらを見つめる。その目に確信めいたものを感じて視線をはずした。
「今はそんな話どうでもいいじゃないか」
河嶋は奈知に挑戦的な目を向ける。奈知はそれを一瞥しただけで、すぐに視線をこちらに戻す。その視線が言い逃れは許さないと言っているようで、観念してため息を吐いた。
「…深山先生が言っていた。さおりさんは病死じゃなくて毒殺されたって。犯人は、雪彦兄さんだって」
「そんなばかな!」
河嶋が勢いよく椅子から立ち上がった。それを見上げる。
「雪彦さんはそんなことしないし、母さんは病死だ!毒殺なんて、ありえない!」
「落ち着いて、だから言いたくなかったんだ…」
語尾が小さくなる。布団を握り締める手に、河嶋は少し冷静を取り戻したようだった。
「ごめん…」
椅子に座ってうな垂れる。奈知は思案した。
「河嶋がそういうなら病死なのだろう。だが、深山に毒殺だと吹き込んだ奴がいるということだ。それに深山は、りょうがさおりさんの娘だとは知らなかった」
「どういうこと?」
目を瞑っていた奈知はゆっくりと瞼をあげて真っ直ぐ窓の外を見た。
「事件はまだ終わっていない。深山のほかに犯人がいる」
「そんな…」
「おそらく警察で深山が何も話さないのは、その犯人を庇っているのかもしれないな」
「一体誰が…」
河嶋も首を傾げる。
「まあ、調査してみるさ。それじゃあオレはこれで。また、ね」
椅子から立ち上がって奈知は笑いかけてきた。奈知への想いを自覚したところにその笑顔。心臓が跳ねるのを感じた。
「う、うん。また」
ぎこちなく答えて俯く。病室のドアが閉まる音を確認してため息を吐いた。
「りょう…」
河嶋が弱く手を握る。首をかしげて見つめた。
「なに?」
「もっと早く駆けつけられなくて、ごめんな」
思い詰めたような顔をして、河嶋は包帯が巻いてある手首を優しく撫でる。意図を理解して河嶋の手を握って微笑んだ。
「だけど助けに来てくれた。それだけで嬉しいよ」
「りょう。今度こそ約束する。なにがあっても絶対に守るから」
「うん。でも無茶はしないって約束して?」
河嶋は苦笑して優しく抱きしめてくれた。
「あぁ。約束する」
抱きしめあって二人で微笑む。
「それじゃあ俺は学校に行くな。テスト範囲知らないと勉強もできないからな」
身体を離して河嶋は言った。そういえば来週は期末テストだったと思い出す。
「そうだ…テスト、どうしよう」
不安で眉間にシワが寄る。河嶋がシワの寄った眉間に指を当てた。
「大丈夫。授業のノートもテスト範囲も教えてやるから」
「ありがとう」
微笑んだときデコピンをされた。痛む額を押えてむくれると、河嶋は笑って病室を出て行った。デコピンされた額を撫でながら、微笑んで枕に頭を預けた。
窓から見える空は晴れていた。睡魔に誘われるまま、その目を閉じた。
気づいたときには空は藍色に染まっていた。どれくらい眠っていたのか、痛む身体に力を入れて、身体を起こそうとしたとき、手に温もりを感じて留まる。そちらを見ると母が手を握り締めて眠っていた。
「お、母さん…」
かすれた声で呼びかけると母はゆっくりと瞼を上げた。
「ん…あぁ、眠ってしまったわね。気分はどう?」
眠そうに目をこすりながら母は笑顔を浮かべた。その笑顔は今までと変わりなく愛しいものに向ける笑顔だった。それが嬉しくて、自然と笑顔になる。
「大丈夫。まだちょっと起き上がるのは困難だけど」
「そう。着替え持ってきたんだけど、今さらだけど男物しかないのよね、今度お義姉さんに頼んで一緒に買ってくるわ」
お義姉さんとは三田村伯父さんの奥さんで、伯母にあたる。私立高校の理事長の彼女はファッションにも精通している。だけど苦笑してその申し出を断った。
「いいよ。わざわざ買わなくても。今までの方が落ち着くし」
母は困った顔をして、頬に優しく触れた。
「だけど…」
「性別抜きにしても、今の格好気に入ってるんだ」
そういって笑うと、母は諦めたらしく頷いた。
「わかったわ。あなたがそういうなら」
椅子から立ち上がって窓のカーテンを閉める。ふと母は思い出したように振り返った。
「そうだ。ここの入院費は幸樹さんが出してくれるそうよ」
「えっ」
驚いて固まると、母も困った顔をして椅子に座る。
「私も遠慮したのだけど、自分の学校の教師がしたことだからせめてものお詫びにって」
「そんなこと気にしなくても…」
「そうよね。だけどけじめだからって言っていたわ。幸樹さんがお見舞いに来たときにでもお礼言っておいてね」
「うん。わかった」
伯父がいつ見舞いに来るかわからなかったが頷いておいた。その後、母が持ってきたパジャマに着替え、他愛のない話をしたり担当医がきていろいろ説明してくれたり、時間はあっという間に面会終了時間になってしまった。母は「また来るから」と言って帰っていった。
一人きりになった病室は広くて静かだった。微かにエアコンの音がするだけだ。
ただボーっと天井を眺めていた。そんな時ゆっくりとドアが開く音がして身体を強張らせる。
『深山のほかに犯人がいる』
昼間の奈知の声が耳にこだまする。知らずに布団を握り締めていた。
病院特有のカーテンが揺れ、現れたのは奈知だった。ホッとして全身から力が抜けるのを感じた。
「なんだ…奈知か…」
「ん?誰だと思ったの?」
あっけらかんとしている奈知をじろりと睨む。
「そろりと入ってくるから焦っただろ」
「あぁ。ごめんごめん、寝てるかなと思って」
奈知は頭に近い方に椅子を持ってきて座る。なんだか距離が近い気がして心臓がドキドキする。まっすぐ顔を見れなくて視線を逸らした。
「身体、どう?」
「目を覚ましたときよりいくらかマシだよ」
そう答えると奈知はホッとしたようだった。ちらりと奈知の顔を見る。
「面会終了時間なんだけど」
「知ってる」
奈知はニコニコ笑っていた。その笑顔に顔が赤くなるのがわかって布団にもぐる。
「それ聞きに来ただけ?」
心臓の音を聞かれたくなくてぶっきらぼうに言う。だけど奈知は気にした様子もなく頭を撫でてきた。もう触れてもらえないと思っていたのに暖かい手のひらに涙がこみ上げる。
「どうして泣いてるの?」
「な、なんでも…ない…」
ごまかすようにそっぽを向いたが、横目で見ると奈知の笑った顔が視界に入る。
「どうしてそんなに笑顔なの?」
疑問に思って聞いてみたら奈知は笑って答えた。
「んー?りょうちゃんと話すのが楽しいからかな?」
「楽しい?」
「うん。色んな反応してくれるから楽しくて」
ニコニコ笑う奈知に複雑な気持ちを抱えた。口元まで布団で隠し、恨めしそうに睨んでいると、思い出したように奈知が声を上げた。
「あぁそうだ。忘れてた」
内ポケットを探って小さな黒い機器を取り出した。見覚えあるそれに驚いた。
「それ…」
「ああ。図書室に落ちてた」
小型の緊急警報機をベッドの横の床頭台に置く。
「深山先生に攫われたときに落ちたんだ…」
「どこに入れていたの?」
「ズボンのポケット」
「ふーん」
聞いたのに興味のない返事をされて首をかしげた。奈知は微笑んで聞いてきた。
「どうして美月もみかさも名前で呼ぶのに、オレは未だに苗字なのかな?」
悪戯をたくらむ子供のような顔で覗きこまれて、目を逸らす。
「まぁ気長に待つよ」
奈知は椅子に座って手を握ってくる。暖かくてホッとする温もりに瞼が重たくなってくる。もっと話していたいのに。睡魔が襲ってくる。
「深山、先生…もう一度、教師に…」
「あぁ。そうだね。…おやすみ」
奈知の声を聞いて、意識は遠のいていった。
☆ ☆ ☆
規則正しい寝息を確認してから、握っていた手を布団に入れた。枕元の常夜灯を点け部屋の電気を消す。ドアを閉める手前でもう一度りょうの眠るベッドを見つめ、微笑みながらゆっくりとドアを閉めた。
「寝たのか?」
病室の外では美月と葵が壁を背にして立っていた。
「ああ」
「俺は認めないからな。お前みたいな鬼畜似非紳士なんか!」
「ははぁ。変な言葉作るなよ」
「静かにしろよお前ら。起きるぞ」
廊下で和馬と葵が言い争うのを横目に、美月がりょうの眠る病室を指差して呆れた声を出す。二人は口を噤んだが、腕を小突きあったり足を踏みあったりしていた。美月はため息を吐いて歩き出す。
「行くぞ」
いつまでも動かない二人に業を煮やして美月が低い声で言う。他の病室の明かりで美月の目が光ったように見えた二人は慌ててついていった。
駐車場につくと校医の八島が車のそばで待っていた。
「どうして八島先生が?」
疑問に思った葵が怪訝な声で聞いた。いつもは白衣にスカート、ナースサンダル姿だが、パンツスーツにパンプス姿だった。
「ああ、そういえば言ってなかった。オレのおふくろ」
「お母様と呼びなさい」
近づいた和馬の頭を拳骨で殴る。殴られた頭を押さえて和馬が涙目で八島に噛み付く。
「いってぇなぁ!くそババア!」
「誰がババアだ」
「クソはいいのかよ!?」
二人のやり取りを混乱して見つめていると、美月がため息を吐いた。
「はいはい。八島さん運転よろしくお願いします。和馬も行くぞ。河嶋、イメージを壊すようで悪いが、八島さんは仕事中とそうでないときのギャップが激しいんだ。あと、この二人の言い合いはいつものことだから気にするな」
「気にするなといわれても…」
学校の八島校医は美人でお淑やかで男子生徒の間で秘かに人気だった。しかし目の前の人物は美人だがお淑やかとはかけ離れていた。
「ああそうだ。河嶋は後部座席乗れないんだったな。助手席乗るか?」
美月の気遣いに苦笑を返す。しかしその申し出は有難かった。
「ああ。ありがとう」
美月と河嶋のやり取りを聞いていた八島が、和馬の頭をつかみながら聞いてきた。
「後部座席に乗れないとは、どういうことだ?」
「話すと長くなる。短く言うとトラウマだ」
頭をつかまれながら和馬は言った。八島に見つめられた葵は頭を下げる。
「別に責めてはいない。トラウマは誰にでもあるものだ」
八島は笑って運転席のドアを開けた。やっと頭を解放された和馬は乱れた髪を直しながら後部座席に乗り込む。葵も助手席に乗りシートベルトをした。
「ったく、野蛮な女だ」
「お前、ここに置いていくぞ。その場合給料はないからな」
八島の低い声が和馬の肝を冷やす。半ば自棄に叫んだ。
「わかったよ。お母様!」
「よろしい」
ルームミラー越しに微笑んで、八島がエンジンをかけた。まだブツブツ言っている和馬に美月はため息を吐いた。いったいこの二人は出会ってから何回このやりとりを繰り返せば気がすむのか。だけどこれもまた二人の愛情表現なのかと思い直し一人秘かに微笑んだ。
「いったいどこに向かうのですか?」
なにも聞かされていない葵がハンドルを握る八島に問いかけた。八島はちらりと葵を見て、後ろの二人に声をかける。
「おい。なにも話していないのか?」
「あぁー。そういえばー」
和馬が間延びした返事をするが、ミラー越しに睨まれて口を閉じる。美月がため息を吐いて説明する。
「今から行くのは竹宮刑事がいる警察署だ。竹宮刑事は連絡してある」
「そこに行って何するんだ?」
「あぁ。深山に会いに行く」
葵はびっくりして後ろを振り向いた。
「は!?なにしに?」
「まず話を聞こうかと思ってねー」
和馬が大きく伸びをする。信じられないと葵は開いた口が塞がらなかった。だけどもっと驚いたのは、そのあと言われたことだった。
「わりぃ寝るわー」
「は!?」
驚いたのは葵だけで、美月も八島もため息を吐いただけだった。
「はいはい。おやすみ」
すぐに規則正しい寝息が聞こえてきて、葵は身体の力を抜いた。
「なんなんだよ、一体」
「悪いな。こいつ頭使うとすぐこうなるんだ」
美月が苦笑して葵に誤った。別に謝って欲しかったわけじゃないから慌てる。
「いや、別に大丈夫だけど」
すると八島が運転しながら喉の奥で笑う。
「クク…珍しいな。高校の卒業試験以来、頭なんて使わなかったのに」
「そうなんですか?」
驚いて八島を見る。前を見つめる八島の目は笑っているが、それはとても愛おしそうに笑っていた。
「よっぽど守りたいんだな。あの子のこと」
「はは。バレバレか」
美月も笑っていた。暖かい空気が車内を包む。
八島の運転する車は警察署の駐車場に停まる。エンジンを切った途端に、和馬は目を開けた。
「ふぁーあ…。着いた?」
「おう。今な」
大あくびをして和馬は車から降りる。美月と葵も降りたが八島は降りなかった。
「私はここで寝ている。終わったら起こせ」
そう言って八島は座席を倒して目を閉じた。まるで眠り姫みたいだなと葵は思った。
「へいへい。じゃあ行くか」
面倒くさそうに返事をして和馬は入り口に向かって歩いていく。美月も和馬も堂々と入っていく。葵は慌てて後を追った。
階段を上って二階へ行く。階段を上ったすぐに刑事課はあった。
「竹宮さーん。きたよー」
まるで友達を遊びに誘いに来たかのように軽く呼ぶので、葵のほうが冷や冷やした。だけど刑事課には二、三人しか人は居らず、竹宮はすぐに見つかった。
高林と似たような顔をしてソファに寝転んでいた。おそらく仮眠を取っていたのだろう、むくりと起き上がると、目をこすり今しがた名前を呼んだ人物を見た。
「あぁ。あなた方でしたか。お待ちしていました」
「遅くなってすみません」
美月は折り目正しくお辞儀するのに和馬はへらへら笑っていた。葵はこの男にあの子を託して本当に大丈夫なのか心配になってきた。
(いや、俺は認めない。ぜったいに認めない!)
心の中で硬く誓う。竹宮が机から何かの資料を持って三人のもとまで来る。
「こちらです」
部屋を出て左側を手で指し示す。先頭を竹宮が歩く。次いで和馬と美月、葵と続く。廊下の奥にエレベータがあり、地下に降りる。
エレベータを降りると警官がいてカウンターに置いてある名簿を指差して名前を書くよう指示をされた。代表で竹宮が名前を書いた。
「どうぞ」
警官が鍵を開ける。格子に囲まれたその部屋は寒かった。葵は軽く腕を擦る。
「おい。起きろ」
竹宮に声をかけられて布団に寝転んでいた人は、ゆっくりと身体を起こした。そして顔を上げて驚きに目を見開いた。
「葵くん…」
「深山先生…」
深山は竹宮を睨んだ。しかし竹宮はそんな目など気にしなかった。
「あなたがなにも話さないので来てもらいました、文句は受け付けません」
竹宮は美月に一礼して一歩後ろに下がった。葵は床に座り深山と視線を合わせた。
「深山先生、りょうは、彼女は無事ですよ」
「あぁ。その刑事に聞いたよ。本当に申し訳ないことをしてしまった」
「先生、彼女が母さんの子だって知らなかったんですか?」
葵が聞くと、深山は俯いて唇を噛んだ。そして呻くような声を出した。
「知らなかった…」
「本当に?」
「あぁ」
沈黙が落ちた。美月も和馬も何も言わない。自分に話させるつもりで連れてきたのかと葵は気づいた。
膝の上に置いた拳を握り締める。深山はそれを、葵が怒ったのかと勘違いして慌てた。
「本当だよ。もし知っていたらあんなことしなかった。だけど香山雪彦を殺したことは後悔してない、けど…」
言ってしまってから青くなって深山はゆっくりと顔を上げて竹宮を見た。彼は無表情だったが、注意深く見ると口元が弧を描いていた。あわあわしている深山を見て葵が怪訝な顔をした。
「どうしたんですか?」
「いや、別に…」
もう絶対何もしゃべらないと深山は口を噤んだ。それに気づかず葵は深山に話しかけた。
「どうして雪彦さんを殺したんですか?俺も、あの車に乗っていたのに…守さんだって、おじさんだって乗っていたのに…。おじさんは深山さんの勤める学校の校長先生ですよ?罪悪感とかなかったんですか?」
深山は口を噤んで俯いた。葵はふと、さっき美月が遅れてすまないと謝っていたのを思い出した。もしかしたらもう少し早く来る予定だったのではないのかと思った。ではなぜ遅れたのか、それは和馬がなかなかりょうの病室から出てこなかったからではないのかと気づいて、奥歯をかみ締める。深山は葵が悲しんでいるのかと勘違いしてまた慌てた。
「葵くんが悲しまなくていいんだ。だってあの男はさおりさんを、君のお母さんを殺したんだから、殺されて当然さ。それにちゃんと後ろから付いていって救急車を呼んだのは僕だし、それに校長に出会ったのはそれから何年も後だったから気づかなかったんだ」
深山はハッとして竹宮を見た。竹宮は資料を読むフリをして口元を隠していたが、微かに肩が震えていた。深山はギリっと奥歯をかみ締める。だけど俯いていた葵は気づかなかった。
「彼女から聞いたのですが、母さんが亡くなったのは毒殺だって。殺したのは雪彦さんだってあなたが言っていたって。本当なんですか?」
葵は真っ直ぐ深山を見た。深山も葵を見つめた。だけどもう何も話したくなくて深山は背中を向けた。葵は冷たい鉄格子をつかんで深山に詰め寄った。
「本当なんですか?深山さん!教えてください!雪彦さんはそんなことしません。あの人は、本当に母さんを愛していた。俺のことも、実の息子のように接してくれた。俺は、それがすごく嬉しかった」
葵の涙声に深山は振り向いてしまった。葵の目から涙が床に落ちていく。嗚咽をかみ殺して格子に縋りつく姿を、深山は見過ごせなかった。
「葵くん。どうしてそこまであの男を庇うの?」
深山の静かな声が響く。葵は手の甲で涙を拭き、真っ直ぐ深山を見つめた。
「俺にとっては雪彦さんが父親なんです。りょうが産まれてからだって、雪彦さんは血の繋がらない俺にも、変わらずに同じ愛情を向けてくれた。そんな優しい人が、母さんを殺したなんて、信じられないんです。教えてください。本当なんですか?」
深山はため息を吐いて竹宮を見つめる。竹宮はもう笑っておらず、真剣な目をして深山を見つめていた。深山はもう一度ため息を吐き、竹宮に話しかけた。
「刑事さん。お話しますよ。だけど、この子を取調室に入れてください。じゃないと話せません」
「取調室ではなく、隣室ではだめですか?」
竹宮は真っ直ぐ立って深山を見つめた。しばらくにらみ合っていたが、竹宮がため息を吐いた。
「善処しましょう」
「お願いします」
深山は正座して竹宮にお辞儀をした。そして葵の手に触れて優しく微笑んだ。
「今日はもう遅いから帰るんだ。受験生がこんなところで風邪を引いたら大変だ。来てくれてありがとう。また明日ね」
その微笑みは間違いなく生徒思いの先生のそれだった。葵は深山の手を握り返して頷いた。
手を離して立ち上がり、葵は手の甲で涙を拭って前を向いた。その顔はもう迷いなどなかった。美月も和馬も葵のその顔を見て、頷きあう。そして竹宮を振り返った。
「それじゃあオレ達帰ります。後はよろしくお願いしますね」
来たときとは打って変わって和馬は竹宮にお辞儀した。竹宮は手を軽く上げただけで返事をした。
エレベータの上昇ボタンを押して乗り込む。一階で降りて、八島が待つ車へ戻った。
車の窓を指で軽く叩くと、眠っていた八島が身体を起こしてロックをはずした。三人は来たときと同じようにドアを開けて車に乗った。
「首尾はどうだ?」
「まあまあ、かな?」
八島の言葉に和馬が答えた。その言葉に葵はまた怒りがこみ上げてきた。斜め後ろに座っている和馬を睨む。
「お前っ全部俺にやらせただろ!」
和馬はそんな葵に平然として答えた。
「当たり前だろ。オレ達じゃ深山は何もしゃべらないとわかっていたからな。だからお前を連れてきたんだ」
悪びれず言う和馬に怒るのも馬鹿らしくなってきた。葵はため息を吐いて前を向いた。
「それで?聞きたい話は聞けたのか?」
「んー。そうだな。聞けたかな」
和馬は欠伸を噛み殺して言ってから、窓枠に肘をついて流れる景色をボーっと見ていた。
「なぁ、みかさが撃たれたとき、車は停まっていたんだよな」
美月は和馬をちらりと見て答えた。撃たれたと聞いて葵は驚いて後ろを振り向く。
「あぁ。そう言っていた。それがどうした?」
「それなら、はずす方が簡単だよな」
「何が言いたい?」
珍しく美月が怒りの篭った低い声を出した。葵は胃が冷たくなる感覚を初めて感じた。
「本当は、狙って撃ったんじゃないのかって思ってさ」
美月が勢いよく和馬の襟首をつかんで振り向かせる。
「どういうことだっ」
「美月、やめなさい」
運転席から八島の冷静な声が飛ぶ。美月はぐっと奥歯をかみ締めて和馬を放した。和馬はじっと美月を見ていた。
「怒るなよ。オレだって考えたくないよ」
ぼそりと言った言葉に美月がため息を吐いた。そして和馬の手を握った。
「悪かった」
和馬は首を振ってシートに沈み込む。八島が車を走らせながら聞いた。
「それで?どういうこと?」
ゆっくりと目を瞑りながら和馬が話す。
「りょうちゃんが一人になる時間を作ろうとしたとしたら?」
「…は?」
葵が素っ頓狂な声を出した。和馬は気にせず話を続ける。
「犯人は、何らかの方法でりょうちゃんにオレ達がガードについたことを知った。このままでは深山にりょうちゃんを攫わせられない。だから引き離そうとした、としたら?」
「深山に、攫わせようとして?」
「いつも図書室でりょうちゃんがお昼ご飯を食べるのを、知っていた可能性がある」
「りょうは、いつも図書室で昼ごはん食べていたのか?」
葵が焦った声を出した。和馬が瞑っていた目を開いた。葵と目を合わせる。
「お前、何か知っているな?」
疑問形だが確信が篭った和馬の声に葵は口を噤んだ。美月が思い出したように言った。
「そういえば、図書室で調査をするなら慎重に、とか言っていたな」
「高校の転落事件ともかかわりがあるということか」
和馬の言葉に葵が目に見えて狼狽した。眠そうだった和馬の目が開かれていく。そして笑った。
「そういうことか…」
和馬が低くつぶやいた。わけがわからない美月と八島は首をひねった。だけど葵は、膝に置いた拳を握った。




