1 秘密
探偵物を目指したのですが、なかなか難しいですね……
目覚めると、そこは、森だった。
確か自分の部屋で、布団に入って寝ていたはずなのに。
木の香りと風を感じて目を開けてみると、まったく予想もしていない場所に佇んでいた。
上を見上げると、木々の間から木漏れ日が差し込んでいた。風はさわやかに頬をなでて過ぎていく。葉は、青々と茂っていて、とても気持ちがいい。そして自分を見下ろすとパジャマ姿だった。周りを見渡すと遠くに、ひと際大きな樹が一本立っている。あとは、どこまでも森が続いていた。
ひと際大きな樹に近づいてみた。樹齢何年だろうか。幹が太くかなり大きい木だ。葉は生い茂っていて、日陰ができていた。そこに腰を下ろし、樹を背もたれにしてしばらく空を見上げていた。緑と光のコントラストが綺麗だ。どれくらいそうしていたのか、次第に睡魔に襲われゆっくりとまぶたを閉じる。意識を手放す時、誰かの声を聞いた気がした……。
遠くで、声がする。
誰かを呼ぶ声。
悲しいような、寂しいような声で…
体をゆすられて目が覚めた。
「起きなさい。遅刻するわよ!」
「……んー。おはよう」
「おはよう。さっさと起きて、朝ごはん食べて頂戴」
「はーい…」
いつもの日常、いつもの風景。そして、布団の感触。木の匂いはしない。紛れもない自分の部屋だ。勢いをつけて体を起こす。
「早く降りてらっしゃいよ」
そう言ってリビングに降りていくのは、母の香山啓子だ。白髪混じりの髪を後ろで束ねている。目じり口元にシワは少なく、六十二歳にしては若い容姿だと思う。家族は他に父と兄がいたが、共に交通事故で他界した。彼らが他界してからこの町に引っ越してきて、もう十数年になる。一戸建てに今は、母と二人きりで住んでいる。
ふと、誰かを呼ぶ声が聞こえ、夢のことを思い出した。
「……夢、か?」
さっきまでの木の感触は夢だったのだろうか。それにしては、やけにリアルに感じた。
さらりと頬を撫でる風を感じてあたりを見回すと、窓がほんの少し開いていた。そのせいだったのだろうか。あんな夢を見たのは。あれこれ考えていると階下で母の呼ぶ声が聞こえた。枕元に置いてあるデジタル時計をみると、考えていたことなど忘れ、大急ぎで支度をした。
朝食のサンドイッチを無理やり牛乳で流し込み、いってきます、と家を飛び出した。扉が閉まる手前で、いってらっしゃい、と母の声が聞こえた。
「今日もいい天気だなー」
空を見上げると、そこには青空が広がっていた。快晴ではなかったが。今日は暖かい日になりそうだ。
そして、春が来る。
高校三年の冬。卒業という春。
「あ、遅刻する!」
ぼんやりと空を見上げていて、時間がないことを忘れていた。家から学校までは歩いて十五分。走れば七分弱でつく。始業のチャイムまであと十分。今から走ればギリギリ間に合うだろうか。
「よーい、どん!」
自分で掛け声をかけ、走り出す。肩まで届く髪が冬の風に煽られ、ふわりと翻った。
「はい、アウト。残念だったね」
校門前で、門扉に手を付き、にこりと微笑まれた。五年前に新任で赴任した、生活指導の深山先生だ。背が高く、女子生徒に人気があり、誰にも優しく、担当クラスの生徒は皆、彼を慕っていた。
だけど時折、こちらを冷たい目で見ていることがある。
「最近は夜更かしでもしているのかい?」
生徒手帳に、遅刻の判を押され、受け取りながらそのページを見てみると、それが今月に入って五つ目だということに気づいた。
「いえ、今日はちょっと夢見が悪くて……」
「そうか。まあ今後は気をつけてね。ハンコが十個になるとトイレ掃除という罰が待っているからね」
爽やかな笑顔で嫌なことを言う。ひと月に十個以上ハンコが溜まると、一番汚いトイレ掃除の罰がこの学校にはあるのだ。誰も掃除をしていないのか、掃除をしてもすぐに汚くなるのかはわからないが、なぜかいつも汚い。学校の七不思議の一つだ。
下駄箱で靴を履き替え、教室へと向かう。校舎は四階建てで、四階は一年生、三階は二年生、二階は三年生となっている。一階には、会議室と保健室、職員室を挟んで校長室と進路指導室がある。特別教室は渡り廊下で繋がっている向かいの校舎にある。
高校三年という時期、就職する者もいれば進学する者もいる。内定が決まっている者、推薦を受けている者は、あとは卒業を待つばかりだが、そうでない者は必死に参考書とにらめっこをしている。おかげでどのクラスもピリピリしている。
「あ、おーい」
背後から声がしたが、気にせずそのまま教室へ向かう。丁度、階段を上りきって角を曲がったところで肩を?まれる。億劫そうに後ろを振り向と、そこには満面の笑みを浮かべた男子生徒が立っていた。
「無視するなよー」
「悪いけど、「おい」という名前じゃないから」
「そんなのわかってるけど、声で気づくだろ。ふつー」
「気づかなかったよ。悪いな」
「ひどいや。小学校から一緒なのに」
さめざめと嘘泣きをし出した奴を放って。自分の席へ座った。
窓際の列の一番後ろ。日中日当たりが良く昼寝に最適な場所だ。夏だと暑くて近づきたくもないが。
彼は、河嶋葵。小学校から今まで一緒だった。だからといって幼馴染でもないと思っている。ただ偶然に、一緒になっただけだ。河嶋は「それは世間一般に幼馴染と言うんだよ」と豪語しているが、あいつの言葉は必ずしも「世間一般」ではない。なぜならいつも少数派の意見に乗っかっているからだ。
それに、同じクラスになったのは今まで一度もない。小学校では同じくらいの目線だったのに、中学三年から急激に身長が伸びたらしく、今ではこちらが見上げないといけない。それが少し悔しくもある。
「おはよう」
ぼんやりと考え事をしていたら、近くで声がした。そちらを振り向くと、クラスメイトが三人、目の前に並んでいた。
京本美月、京本みかさ、奈知和馬。彼らは常に三人で行動していることが多い。しかし彼らは、友人も多い。周りから挨拶の波紋が広がっている。必然、こちらにも挨拶は回ってくるが、軽く返すだけになる。
「……おはよう」
「もうすぐ春だね。暖かくなってきた」
笑顔で話しかけてくるのは京本みかさ。背は女性にしては高く、モデル並みだ。容姿は、綺麗という部類に入るだろう。少し茶色がかった長い髪を後ろで束ねている。立ち居振る舞いがお嬢様を連想させた。唇が綺麗な弧を描いていた。
彼女の左隣で同じく笑顔を向けてくるのは奈知和馬。こちらも背が高いが、男性としては平均の部類に入るのではないだろうか。容姿は周りの女性からすれば格好いいのだという。切れ長の目は笑っていると柔らかい印象だ。少し長い黒髪は綺麗に整えられており爽やかさを連想させる。
右隣で、腕を組んで不機嫌そうに窓の外を見ているのは京本美月。みかさとは姉弟なのだが、こちらは金髪だ。染めているのか地毛なのかはわからないが、この学校の校則は割と自由だが、髪の色は厳しかったはずだ。それなのに先生と、もめたところを見たことがないので、おそらく地毛なのだろう。背は奈知と同じくらいで、容姿は、おそらく綺麗なのだろう、男性へのほめ言葉として適切ではないがそれ以外の形容の仕方がわからない。 眼球の色素が薄いのか、日に当たると金色に見える。
「……あぁ。そうだね」
鞄から教科書を出しながら、曖昧に答えた。この三人が転校してきたのは三年になってからだ。そして、三学期になるまでは、特に交流もなかったが、最近になってやたら接触してこようとする。一体なにが気に入ったのか、検討もつかない。
高校三年間、いや、小学校から今まで、友達はつくらなかった。唯一まとわりついてきたのは河嶋だけだ。特に必要とも思わなかった。おかげで中学校までのクラスの皆には好かれることはなく、逆にイジメの対象にされることは多かった。
そのたびに、自分には感情というものがないのだろうか、と思うようになった。何をされても感じることはなく、泣くことも、笑うことも家族の前以外ではできなくなっていた。その代わりに河嶋は、よく泣き、よく笑った。いくら突き放してもついてきて、離れていかなかった。
高校も、どこに行くのか先生にも口止めをしてあったのに、入試会場で一緒になった。そのときも、また一緒だね、と笑っていた。
ちらり、と横目で河嶋を見た。京本みかさと奈知と談話していたが、視線に気づいたのか、笑顔を向けてきた。そのときチャイムが鳴り、生徒たちは自分の席に戻っていく。みかさ達も、じゃあね、と手を振り戻っていった。河嶋もそれに振りかえし、席に座る。隣の席なのだ。そしてこちらに笑顔を向けてきた。
「なに?」
「いや、こっち見ていたから、話に入りたかったのかな、と」
「別に」
「そう?なら残念」
残念といいながら、顔はいつでも笑っている。ふと、疑問に思った。彼は、知っているのだろうか、知っていて、自分に近づいてくるのだろうか。誰にも知られてはいけない秘密を。
もし、知らなかったら、それを知ったとき、どうするのだろう。気にしないと言って変わらずに接してくるのだろうか。それとも騙されたと言って怒って離れていくのだろうか。
「あのさ…」
「ん?」
「……」
言いかけたとき、担任が教室に姿を現した。担任が教壇に立ち、HRが始まる。
「出席とるぞ―。相川―」
「はーい」
名前を呼ばれた生徒が、間延びした返事を返していく。
「河嶋―」
「はい」
「香山―お前、遅刻したそうだな」
「……はい」
「今度から気をつけろよ。この時期の欠席、遅刻は大変だからなー。んじゃ次―」
続けて生徒の名前を呼んでいく。すべての出席をとりおえて、諸事情を説明して、HRは終わった。
横顔に、河嶋の視線が突き刺さる。その目が、なにを言いかけたのかと、問いかける。冷静になった頭で、自分が何を言おうとしていたのか気づき、焦って違う話をする。
「お前が、就職するとは思わなかったよ」
「え。なんで知ってるの?」
「この前の就職説明会に、出てただろ」
先週の火曜日に内定の決まっていない就職希望者限定の説明会が体育館であった。そこに河嶋もいたのだ。いつも友人に囲まれて穏やかな顔をしているのに、その日だけは独り思い詰めたような表情をしていたので、記憶に残っていた。
「あ、あぁ…。香山もいたんだ。気づかなかったよ…」
「まぁ、一応な」
「そうか…」
それ以来会話が続くことは無く、授業が始まっていった。
いつもの河嶋じゃない姿を見て、まずい話題だったかなと思い、他人を気にしている自分に驚いた。今まで他人に興味を示したことも、他人とかかわるつもりも無かったのに…
先生が黒板にチョークを走らせながら説明をしている。その音を聞きながら、横目で河嶋を見る。真剣な顔をしてノートに文字を刻んでいく。ふと、昔のことを思い出した。遠い昔、まだ、父と兄が生きていた頃、今から十四年前。
当時、兄の雪彦が塾の講師をしていたときこっそり見に行ったことがある。そこで今、隣で真剣な顔をして授業を受けている河嶋と同じように、兄に教えてもらいながら真剣に机に向かって勉強をしていた学生たちがいた。
窓を見ると自分の姿が映っていた。制服を着た、極当たり前の、男子高校生。だけど、ただ一つ、違うことがある…。それこそが、誰にも言えない秘密なのだ。
「……おーい。香山ぁー。俺の授業はそんなに暇かぁー」
「えっ…」
顔を上げると、目の前にさっきまで黒板の近くにいたはずの先生と、クラス全員の視線が集まっていた。
時計を見ると後、五分で授業が終わる。河嶋もニヤケ顔でこちらを見ていた。今までこんなことはなかったのに。
「すみません」
「まぁ受験もあって疲れているんだろうけど、皆も気をつけろよ。この時期の不始末は内申に響くぞ」
そう言って先生は肩をすくめ、教壇まで戻っていった。そして、チャイムが鳴った。
「珍しいな、香山が授業中にぼーっとしているなんて」
先生が教室から出て行き、クラスメイトたちは次の授業の準備や、友達と談笑する。次の授業の準備をしていると、河嶋が話しかけてきた。
「別に、ぼーっとしていたわけじゃ…」
「いや、あれは間違いなく心ここに在らずって感じだったな」
自信満々にうなずく河嶋を睨みつつ、ふと、引っかかった。
「珍しいってなんでそんなことお前に言われなきゃいけないんだよ」
「そんなの、ずっと見ていたからに決まってんだろ」
「ずっとって、お前とクラスが一緒になったのなんて高校三年になってからだろ。たったの一回、同じクラスになっただけで、言われる筋合いはないぞ」
「確かに、今までクラスは一緒になったことはないけど、同じ学校だったろ」
「それだけだろ。そりゃ、廊下ですれ違うことはあったけど、ずっとなんて言えないじゃないか」
河嶋はニコリと微笑んだ。笑っているのに笑っていないような目。背中に冷たい汗が流れていった。
「言えるよ」
「…っ」
何かを言おうとしたが、言葉が出てこない。
「どうしたの?顔色悪いよ?」
後ろから声を掛けられて、ビクリっと振り返ると、京本みかさが心配そうな顔をして立っていた。額に手を当てられ体が竦む。他人に触られるのは慣れていない。
「少し熱いかしら」
「大丈夫か?」
河嶋も心配そうに覗き込む。目を合わせても先ほどの悪寒は感じられなかった。心臓が早鐘を打っている。全力疾走した後のようだ。
「どうしてもしんどいなら、先生に言った方がいいよ。次、担任の先生だし」
額から手をどけながら京本みかさが言った。
「…大丈夫」
なにを動揺しているのだと、自分に言い聞かせて冷静を取り戻す。
「ちょっと、顔洗ってくる」
「もうすぐ授業始まるから、気をつけてね」
ニコリと笑うその表情は、先ほどの河嶋のそれとはまったく異なっていた。男と女ではその柔らかさが違うのだろうか。それとも、別の何かがそのなかに込められていたのだろうか。
(今日は、疑問だらけだな…)
こっそりため息をつき、教室を出て行く。考えることなんて授業の問題を解くとき以外してことなかったのに。
顔を洗って戻ってくると、黒板には大きな字で「自習!」と書いてあった。どうりでチャイムが鳴っていたのに担任がいないわけだ。
怪訝に思いながら席に戻ると河嶋が椅子を寄せてきた。
「なに?」
「担任、さっき教頭に連れてかれたんだ」
「へぇ。だから自習なんだ」
「なんで連れてかれたんだろう?」
「そんなの知るかよ」
「ついでに、香山のこと探してたぞ」
「へぇ。なんだろうな」
「なんだろうな」
椅子を戻し、河嶋はまったく関係の無いクロスワードをやり始めた。それを横目で見ながら、なんの呼び出しだろうと模索する。
朝の遅刻の件かとも思ったが、そんなことで呼び出しはないだろうと思う。それなら…
「香山はいるか?」
前方のドアを開けて、担任が顔を出した。
「はい」
ざわついていた教室が一気に静かになり、自分の返事がやけに大きく聞こえた。クラスメイトから奇異の眼差しを受けながら、教室を出て行った。ドアを閉めるとき後ろを振り向いたら河嶋と目が合った、ような気がした。
「高林先生。俺、なにかしました?もしかして朝の遅刻の件ですか?」
廊下を歩きながら、隣を歩いている担任に声を掛けた。身長は170センチあると思う、大柄の教諭だ。何故かいつもジャージ姿で、サンダルをペタペタいわせながら歩く。丸眼鏡をかけていて、温厚な性格だが、授業を真面目に受けない生徒に対しては小一時間、空き教室で説教をしたことがある。
「いや。俺もよくわからん。ただ、教頭にお前を校長室まで連れて来いといわれただけだ。校長が呼んでいるらしい。なにか心当たりでもあるか?」
「…ないですねぇ」
声音は平静を保てたはずだ。内心は焦りでいっぱいだった。唯一、内情を知っている人物が、この時期に何の用だ。
(…この時期だからか)
気づかれないように苦笑する。
「この学校って、隠しカメラでもついているんですかね」
「あん?ついているわけがないだろう」
怪訝な顔をして担任は答えた。ですよね、と苦笑した。
「もしついていたら、とっくの昔に俺はクビになっているよ。あはははは」
「どうゆうことですか?」
今度はこっちが怪訝な顔になった。
階段を一段ずつ下りながら視線を向ける。すると、担任はニヤリと笑って、
「うちの学校、喫煙場所は決まってるんだが、中庭は禁煙スペースなんだ」
「えぇ。毎朝、教頭先生が手入れしていますね」
中庭とは、各教室がある本棟と、特別教室がある副棟の間にある。色とりどりの花と小さな庭木のいわゆるプチ庭である。開校当時からあるというその庭は、気にしなければ通り過ぎてしまうような場所だ。入学した当初は荒れていたが、教頭が変わってからは毎日手入れをされていて、季節の花やらがのびのびと育っている。
「そこで、喫煙しているんですか?」
階段を下り切って、廊下を進みながら担任は小声で、内緒だぞ。と言った。この担任に対する評価を考え直すべきか。そんなことを考えていたら、目的地についてしまった。
校長室は、職員室に向かって右隣にある。ドアの前にぴたりと停まった。
「それじゃぁ、俺はここまでな」
「先生も一緒じゃないのですか?」
「なんだ。一緒にいたいのか?」
「違いますよ」
「そうか、じゃぁな」
ぺたぺたと足音が去っていく。おちょくられたようで、少し悔しい気もしたが、気を取り直して校長室のドアをノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
ガラッとドアを開け、中に入った。
そこには、初老の男性が、応接セットの二人掛けの椅子を一人で使ってコーヒーを飲んでいた。その状況にも呆れたが、もっと呆れたのはその体制だ。開いたドアを慌てて閉める。
「なんて格好をしているんですか」
「まぁ、いいじゃないか。どうせお前しかいないのだし」
「そういう問題じゃないでしょう。もしわたしじゃなかったらどうするつもりだったんですか?」
「大丈夫さ。他の奴らが来たら、ギックリ腰だって言うから」
「先生方を奴らとか言わないでください。そして体制を整えてください」
「まったく。うるさいな、お前は」
そう言って、寝転んでいた体制からゆっくりと体を起こした。この学校の校長、三田村幸樹だ。
白髪交じりの髪はまだ健全で、綺麗に整えられている。彫りの深い顔はシワがあまり目立たなくて還暦を過ぎているとは思えない。秘かに女性教諭からはダンディーだと人気だ。そして、自分にとっては父方の伯父だ。
二十八歳のときに私立学園の娘と結婚して婿養子になったらしいので苗字が違う。
「それで、どんな用件ですか。校長先生」
ソファに座る校長を見下ろす形で問いかけた。
「まぁ、座れや」
二人掛けの椅子の座っている隣を勧められたが、丁重に断り、対面の一人掛けの椅子に座る。校長はつまらなそうな顔をしていたが、軽く流して話を進める。
「それで、用件を」
「あぁ。それはな、もうそろそろ卒業だと思ってな」
「…釘を指しに呼び出したというわけですか」
「…いんや。違うぞ」
「は?」
身構えていたのにあっけらかんと言われて、調子が狂った。校長は背もたれに体重をあずけ、足を組みなおして言った。
「もう、お前に会えないと思うと寂しくてな。ゆっくりと話がしたかったんだ」
「なんですか、それ。そんな理由で呼び出したのですか」
「そんな理由とはなんだ。十分重要だぞ。オレはお前の伯父さんだからな。身内に冷たいじゃないか。二人きりのときは伯父さんって呼べと言ったのに」
校長、もとい伯父はすねたように顔を顰める。まるで子供だ。
「冷たくないですよ。これが普通です」
「だけど啓子さんに対しては表情豊かじゃないか」
「そりゃ、母親ですから」
母の話題を出され、知らずに手が震える。その様子を見て、伯父が続ける。
「母親ねぇ…お前を認識していないのにか?」
優雅にコーヒーを飲みながら、伯父は爆弾を落としていく。
「いや、認識しているが、違う人間として認識しているんだったな」
どくんどくんと心臓の音が耳元で鳴っている。背中に寒気を感じて自分の腕を抱きこむ。 かたかたと指先が震える。校長室は適度に暖房が入っていて暖かいはずなのに震えがとめられない。
「…そんなことはわかっています。わたしは、母にとったら、亡くなった息子の身代わり。娘の存在など、忘れ去っている。だけど、わたしには、大切な母親なんです」
顔をあげられなくて俯く。カップをソーサーに戻した音と、時計の秒針の音だけが響く。長い沈黙のあと、伯父がため息をはいた。そして一言、悪かったと言った。
「おまえにそんな顔をさせたかったわけじゃない」
そう言った伯父の顔のほうが辛そうだった。
「もう、話すことがないなら教室に戻りますよ」
ソファから立ち上がり部屋を出て行こうとしたとき、名前を呼ばれた。びくりと足を止める。肩が強張っているのが自分でもわかった。早鐘を打つ心臓を抑え、ゆっくりと振り返る。先ほどの伯父の顔ではなく校長の顔をしていた。
「なに青い顔しているんだ?」
「いえ。別に」
のどが渇く。ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「最近、遅刻が続いているそうだな。弛んでいるのか?」
「夢見が…悪くて」
「油断するなよ。留年なんかしたら、終わりだぞ」
冷たい汗が背中を流れていった。拳を握り締め、俯く。
「わかっていますよ。そんなこと…それが約束ですから」
約束という言葉を強調して言ってみたが、伯父は気にせず続けた。
「それに、いい加減に慣れろ。卒業したら本当の名前で呼ばれるのだからな」
「それも…わかっています」
「…わかっているならいい」
「やっぱり、釘を指すために呼んだのですね…」
「まぁそれもあるが、お前とゆっくり話がしたかったのも本当だ。もうすぐお前たち三年は自由登校になる。この時期に遅刻が多いと目をつけられる可能性も無いわけじゃない」
「…担任にも言われました」
「ほぉ、確か高林だったな」
「すみません」
「まぁいい。とにかく、気を引き締めて行動するように。ただ、疲れたり何かあったりしたときは、相談しに来いよ」
ゆるゆると顔を上げる。彼は校長の顔ではなく、優しい伯父の顔をしていた。
「オレはいつだってお前の味方だから。それを伝えたくて、呼んだんだ」
ソファから立ち上がり、こいこいと手招きをされる。ぎこちない足取りで近寄ると抱きしめられた。温もりが、強張った身体を溶かしていくようだ。ふわり、と甘い香りが鼻孔をくすぐる。ふと、昔嗅いだことがあるような気がした。
「オレにとってお前は、孫みたいなものだからな」
「まご、ですか」
耳元で、笑った気配がした。
「さぁ、もうすぐ授業が終わる。教室に戻れ」
最後に少しきつくぎゅっと抱きしめられ身体を離し、頭をなでられた。子ども扱いされて不服に思ったが、子供だったと思いなおす。
ぺこりとお辞儀をして、校長室を出て行く。廊下に出ると、ちょうどチャイムが鳴った。
階段を上っていると、女子下級生が楽しそうに話しながら下りてきた。その後姿を見つめていると、上から声が降ってきた。
「どっちが好み?」
「はぁ?」
「見つめていたからさ、どっちか好みなのかなと思って」
「ふん。元気だなと思って見ていただけだ」
「へぇ。じゃぁ香山の好みの女性ってどんなタイプ?」
「お前に関係ないだろう」
「ただの好奇心だよ」
階段の手すりに凭れながら話しかける河嶋の前を通り抜け、教室に戻る。
「先生の話、なんだったんだ?」
「お前には関係ないだろう」
窓際まで歩いていく途中でも、他の生徒の目が、好奇心で彩られているのを感じた。それを河嶋が肯定するように言った。
「ただの好奇心さ」
「どうせ他の奴らも気になっているんだろ?」
「あぁ。香山って、今まで目立たなかったからな」
目立たないようにしていたんだよ、という言葉を飲み込んで、河嶋を一瞥した。
「気になるということは、その人に興味を持ったってことでも、あるんじゃない?」
「京本…」
「あ、私のことは「みかさ」って呼んで欲しいな。弟も同じ苗字だから」
口元に人差し指を当て、軽く首を傾げて微笑んだ。どうすれば、自分が可愛く見えるのかを知っている人間じゃないと、できない仕草だと思う。河嶋は、そ知らぬ顔で話題を変えた。
「あ、そうだ。あの時、何を言いかけたんだ?」
「あの時?」
「あぁ。HRのチャイムが鳴る前」
「だから、就職の話を…」
河嶋は確信を持った顔で、首を振った。
「違うね。あれはその場しのぎの話だろ」
「なんで、お前が、そんな…」
何故か、冷や汗が背中を伝っていく。地面が揺れているような感覚。水の中のように周りの音が歪んでいく。大きな音がしたと思ったら、目の前が真っ暗になり、そのまま意識を手放した。一瞬、誰かに呼ばれた気がした。
夢を、見た。
何故それが夢だとわかったのか。現実では出会わない人物が、前に立っていた。
小さい頃の、三歳くらいの自分。
まだ兄も、父も生きていた。苦しかったけど、楽しかった。
思い出して、苦い顔をする。
「どうしたの?」
自分と似た顔をした少女が無邪気な顔で、不思議そうに首を傾げる。
「まさか、夢で自分に話しかけられるとは思わなかった」
「ゆめ?」
「そうだ。夢だ」
「わたしのゆめはね、すきなひとのおよめさんになること」
「好きな人?そんな人いたか?」
「いるよ。あのね、わたしとおなじとしの子。おにいちゃんの、しりあいのいえの子」
嬉々として話しているのを聞きながら、記憶を探る。しかし、思考は白い靄がかかったように進まない。
諦めて周りを見回すと、懐かしい室内にいた。今の家に引っ越す前に住んでいた一軒家の、六畳くらいの自室。
壁際に子供用ベッドとクローゼット、窓際に勉強机と入り口側に本棚が並んでいる。服や調度品は全て、兄が揃えてくれた、と思う。昔は天井が高く感じたのに、今はとても低いように感じる。
部屋を観察することに集中していて、声が、途切れていたことに気づかなかった。
「あれ?どこいった?」
いないと認識すると同時に部屋も消えて、暗闇が支配する。目を瞑っているのか開けているのかさえわからない。自分の姿さえ見えない闇。指先が、心が、冷たくなっていく。
「…っ!」
のどが引きつって声が出ない。手探りで、一歩歩き出すが、それ以上進めない。頭から足の先まで血が下がっていくような感覚。立っているのか座っているのかわからない。広いのか、狭いのか。手を伸ばしても何も触れない。何も聞こえない。…恐怖。
怖いっ、怖いっ、こわい…
たすけてぇっ!…ここから出して!…おかぁさぁぁんっっ…!
はっ、と目を覚まして、視界に飛び込んできたのは白い天井、クリーム色のカーテン。そして、心配だと顔に書いてあるような京本みかさの顔だった。
全力疾走した後みたいに鼓動が早く、汗もかいていた。息を吸い込むと、焼け付くように痛くて咳き込んだ。疑問が頭を回っていた。
「なんで…俺…。ここは…」
「保健室だよ。突然倒れたからびっくりしちゃった。大丈夫?」
答えたのは、ほっと息を吐いた京本みかさだった。目線を動かすと河嶋もいた。足元の椅子に座っていた。
「朝から顔色が悪かったんですって?無理しちゃだめよ。これから大変な時期なのに」
カーテンをめくって校医の八島あすかが、呆れた顔をして入ってきた。小声で謝罪を言うと声が掠れた。
「ただの風邪だけど、ちょっと熱が高いから、今日はもう帰ったほうがいいわね。あなたが平気でも周りの生徒は気になるでしょうから」
「そうですね…」
寒気と冷や汗は風邪のせいだったのかと合点がいった。
「ご自宅の人に迎えに来てもらう?」
自宅の単語に、ぴくりと震える。
「いえ、大丈夫です。もうしばらくここで休ませてもらってもいいですか?」
「私は、構わないけど、担任の先生に報告はしないと。そうだ、あなた達伝えてもらえるかしら」
後半は、京本みかさと河嶋に向けての言葉だった。
「いいですよ。もちろん」
京本みかさは笑顔で返したのに、河嶋はずっと俯いたままだ。何かを堪えるように。
ベッドに横になっているこの状況では、顔は見えない。
顔を見ようと上半身を起こそうとするが、腕に力が入らず再び枕に頭をあずける形となってしまった。それを見ていた八島校医が、心底呆れた声で言った。
「無理しないようにってさっき言ったでしょ。あなたはここでしばらく寝てなさい。二人は教室に戻って。先生に伝えるのを忘れないでね」
「はい。それじゃ香山さん、お大事に」
結局、河嶋は一言も発せず、こちらを見ないようにフラリと立ち上がり、保健室を出て行った。足音が遠ざかってから、八島が、意地悪い顔をしてこちらを振り向いた。
「あなたが倒れた時ね、彼、とても焦っていたそうよ」
「…え?」
「お姫様抱きなんて、羨ましいわね。私も何年か若かったら……」
本当に残念そうに呟いて、おやすみ、と一言残して、保健室を出て行った。八島校医には伯父が説明したそうでこちらの事情は知っている。なんて説明したのか検討もつかないが。
先ほどの八島校医の言葉を頭で反芻した。
焦っていた……誰が?
「あいつ、なんでそんなに焦ったんだ?」
不思議に思いながら目を閉じると意識が遠のいていった。
気がつくと、窓から見える空は、藍色に染まっていた。いつの間にか眠っていたようだ。
「へぇ。考え事していても、眠れるんだな……」
あいにく腕時計がなく、保健室の掛け時計はカーテンを隔てた向こう側なので、あれから何時間眠っていたのか確認できない。
ゆっくりと上半身を起こす。軽く目眩がしたが、寝過ぎからくるものだろう。
突然、カーテンが動き八島校医が顔を覗かせた。
「気分はどう?」
「すみません。寝過ぎたみたいです」
「そんなことは気にしないの。気分はどう?吐き気とかない?」
「はい。大丈夫です。今、何時ですか?」
「良かった。今は六時過ぎよ。もう暗いし家まで送ろうか?」
「いえ、近いので大丈夫です」
「近いって言っても五分の距離じゃないでしょ?送っていくからちょっと待っていてね」
有無を言わさない笑顔で押し切られ、頷くしかなかった。着替えのため保健室を出て行く後姿を、うな垂れる思いで見つめた。
待っている間は、手持ち無沙汰なので、ベッドに腰かけた。ふと、枕元を見る。鞄はいつの間にか枕元に置いてあった。おそらく、京本みかさが持ってきたのだろう。鞄の横に、未開封のペットボトルが置いてあった。いつも彼女が飲んでいるメーカーのビタミン飲料だ。
「ビタミン摂れってことかよ…そんなに顔色悪かったか?」
窓に映る自分を眺める。そこに映っていたのは、毎日見ている自分の顔。肩まで届くくらいの髪。男子生徒の制服を身にまとった自分。どこから見ても男の子のはずだ。だけど体は、否応なしに成長する。もう誤魔化すのは難しくなってきた。
しばらくして、ドアが開く音がした。
「遅くなってごめんなさい。車の鍵が見つからなくって」
八島校医は照れ笑いをしながら保健室に入ってきた。服装が白衣から茶色のロングコートに変わっていた。
「それじゃぁいきましょうか」
「はい。よろしくお願いします」
枕元に置いてあったペットボトルを鞄に入れ、八島のあとについて保健室を出た。
「とりあえず、駐車場まで行きましょう」
保健室の戸締りをして、鍵を職員室まで持っていったあと、下駄箱で靴に履き替えて駐車場に向かった。
くるくると、指先で器用に鍵を回しながら、前を八島が歩いていく。保健室から教員用の駐車場まで、中庭を抜けて一直線だ。電気が点いているのは、職員室と校長室だけだった。部活動は申請がない限り夕方五時で終わる。
「先生方は遅くまで仕事しているんですね」
「そうねー。まぁ、時期だからね」
「受験ですか」
「そうね。あと、就職かな。残っているのは、三年生を受け持っている先生達が大半よ」
「そうですか」
「あ、そうだ。自宅には電話しておいたから」
「え!」
「心配されていたわよ。無理は禁物ね」
「は…い…」
「勝手に連絡しちゃだめだったかしら」
「いえ、ありがとうございます」
「そう?よかった」
本当は、黙っていて欲しかったが、そういうわけにもいかないのだろう。
「顔色が悪いわよ。本当に大丈夫?」
「えっ」
下から顔を覗かれてびっくりした。
「まだ、熱があるのかしら?」
「いえ、考え事をしていて」
「もしかして、私が自宅に電話をしてしまったからかしら?」
本当に申し訳なさそうな顔で言われ、言い訳に困った。唐突に、さっき見た夢を思い出した。
「先生は、夢って覚えていますか?」
「夢?小学校の頃の?」
「いえ、夜に見る夢のほうです」
「うーん。憶えていたり憶えてなかったりするわね。それが?」
「さっき、見た夢のことを考えていたんです」
「怖い夢だったの?」
「そう、ですね。不思議な夢でした。子供の頃の自分が目の前に居ました」
「なるほど。夢はいろいろ俗説があるけどね。体調然り、予知然り。あまり気にしないほうがいいと思うわよ。それより、睡眠をしっかり取ることをお勧めするわ」
「はい」
睡眠が取れてないようには思わないが、ここ最近見る夢のせいだろうか。大きな樹の夢。いつも悲しそうな声が聞こえる。あの夢はいつから見るようになったのだろう。
「どうしたの?まだしんどい?」
気がついたら駐車場についていた。
「いえ、大丈夫です。考え事していただけなので」
「香山さんはよく考え事するのね」
八島校医が心底感心したように言うので、居た堪れなくなって話題を変えた。
「あの。この車は八島先生のですか?」
目の前に停まっていた車は、白い軽自動車だった。
「そうよ。可愛いでしょ」
八島校医はニコリと微笑んで、電子ロックキーで車のロックをはずした。確かに丸いフォルムをしているが、可愛いのかはよくわからなかった。
八島校医は運転席に乗り込みエンジンをかけた。後部座席のドアを開け乗り込もうとしたが、遠くから名前を呼ばれた気がして、手を止めた。
「誰か呼んでいるわね。どこからかしら」
運転席の窓を開けて、八島校医が顔を出した。すると、こちらに走ってくる人物が見えた。担任の高林だ。肩で息をしながら車のそばまでくると、こちらを見てから八島校医に話しかけた。
「八島先生、香山はこちらで送りますから。大丈夫です」
「いいですよ。ついでだしこのまま私が送りますよ」
「いえいえ、本当に大丈夫ですから。それではお疲れ様でした」
そう言って腕をつかまれ、連れて行かれそうになるが、少し踏ん張って担任の手を振りほどいた。
「香山、こっちにこい」
「わかりましたから、少し待ってください」
開けたままにしていた後部座席のドアを閉め、運転席の八島校医に話しかけた。
「八島先生、今日はありがとうございました」
「大丈夫なのね?」
「はい。お手数をおかけしてすみませんでした」
「いいのよ。あなたはちゃんと休んで、体調管理しっかりね」
「はい。ありがとうございます」
八島校医はニコリと微笑んで、車を発進させた。見えなくなるまで見送り、担任に向き直った。
「おまたせしました。行きましょうか」
「お、おう。って別に俺がお前を送るわけじゃないから」
「わかっています」
そして二人並んで、校舎へ戻っていく。日が落ちると途端に風が冷たくなり、冷え込んでくる。
「それで、校長室へ行けばいいのですか?」
「おう。話が早くて助かるな」
「それでは失礼します」
保健室から来た道を戻るより、ここから東側の出入り口から行ったほうが、校長室は近い。担任もわかっているのか、じゃぁと言って、中庭の方角へ歩いていった。
廊下の電気がついているので、あたりは薄暗くまったくの暗闇ではないのがせめてもの救いだった。
東側の出入り口から校舎に入り、校長室まで小走りで向かい、ドアをあけ中に入った。
「伯父さん、職権乱用じゃないですか?」
校長、もとい伯父は応接セットの一人がけに座っていた。
「学校では校長先生と言いなさい」
昼間とは違う物言いをされて、はじめてそこにもう一人いたことに気づいた。来客の顔をみると、驚きと焦りが沸いてきた。
「母さん…なんで」
応接セットのソファで伯父の向かいに座っていたのは紛れもなく、母だった。
「学校から電話をもらって、飛んできたのよ。倒れたって。朝はそんな素振りも見せなかったじゃない。お母さん気づかなくて、ごめんなさいね、雪彦」
母はソファから立ち上がりドア付近で動けなくなったこちらに来て、体を暖めるかのように抱きしめた。一瞬、身体が強張るが、腕の中の温もりに弛緩する。
「ごめんなさい。心配掛けたくなかったんだ」
自分の頬が自然と緩んでいるのがわかる。心配してもらうのが嬉しいのだ。それと同時に悲しくもある。
かつて、母にここまで心配してもらったことがないのを思い出す。記憶があるのは三歳か、四歳ごろのこと。母はこちらを見るとき、いつも異物を見るような目だった。それ以外は、まるでいないかのように振舞われた。
愛された記憶がない。気にしてもらおうといろいろした。お手伝い、いたずら、そのどれも、激しく怒られただけだった。風邪を引いて熱があろうと、介抱などしてくれなくて、いつも兄が見てくれていた。
あるときは、押入れに閉じ込められたこともある。仕事から帰ってきた兄に助け出されるまで、泣いて、詫びた。だけど出してもらえなかった。それ以来、暗闇が怖い。
優しくしてくれたのは、伯父夫婦と父と兄だけだった。時々、父と母が言い争う声を聞いた。そのとき母は、はっきり言ったのだ。「あんな子産まれてこなければよかった」のだと。おそらく、それからだろうか、自分の感情がよくわからなくなったのは。
「まぁ座りましょう。立ち話もなんですから」
伯父の声で思考が中断される。伯父の顔を見ると、少し疲れたような表情をしていた。校長という職業は気苦労も多いのだろう。心配そうに見つめると、目が合った。
伯父は苦笑しただけだった。
「そうね。座りましょう雪彦。幸樹さんが美味しいお茶を淹れてくれたのよ」
母はニコニコ笑って、手を引いて二人がけソファまで連れてきてくれた。お礼を言ってソファに座ると、テーブルの上にカップが三つ置いてあった。二つは半分くらい減っていたが、一つには並々と紅茶が入っていた。まだ少し湯気が立っているところをみるとちょっと前に入れられたもののようだ。
「いただきます」
カップを手にとって一口飲むと、紅茶の味にかすかに生姜の風味がした。喉に引っかかることなく、紅茶はスルリと食道を通り、胃を暖めてくれた。思わず、ホッと一息ついてしまった。その表情を見逃さず、伯父は美味しいだろうと自慢顔だ。その顔を直視できずに俯きもう一口飲んでカップをソーサーに戻した。
「ところで、雪彦君。体調はもういいのかい?」
他人行儀な言い方だが、母の前ではいつもそうだ。
「はい。この時間まで保健室のベッドで寝かせてもらいましたから。もうすっかりよくなりました。ご心配おかけしました」
「それならよかった。これから大事な時期だからね。気をつけて」
「はい」
この伯父と約束をした。この学校に入学する前に。三年間誰にも女だと気づかれないことが条件で、卒業できたら母からの完全な自由が約束されている。生活費はもちろん、新しい家、就職先、なにもかも。本当の自分を生きていける環境を整えてくれると伯父は約束してくれた。
だから、誰にも知られるわけにはいかないのだ。男ではなく女だと。香山雪彦という名前ではなく、香山りょうとして生きていくには。
「それにしても、幸樹さんには本当にお世話になってしまって申し訳ないわ」
「とんでもないです。こちらとしては、生徒数が一人でも増えて喜ばしいかぎりですよ」
「まぁ。そういっていただけると嬉しいですわ」
母と伯父の和やかな会話を聞きながら紅茶を一口飲む。伯父をちらりと盗み見ると額の汗をハンカチで拭っていた。そんなに暑いかなと周囲を見渡していると、母がそれでは、と立ち上がった。
「それではこのあたりで失礼させていただきますね。あまり長居をするとお仕事のお邪魔でしょうし」
「そうですか。それじゃぁ送りますよ」
「いえいえ、それには及びませんよ。タクシーを呼んでいただければ」
「わかりました。それでは少々お待ちください」
そういうと、伯父はワーキングデスクまで行き、備え付けの電話でどこかに電話をし始めた。電話は一分もかからず、受話器を置いて、応接セットに戻ってきた。
「今、手配してもらいましたから、後五分ほどで到着すると思います」
「ありがとうございます」
そして五分後、ワーキングデスクの上の電話が鳴りタクシーが着いたことを知らせた。
伯父にお礼を言って、タクシーに乗り家に帰った。その日は夕食を食べ、早めに風呂に入り寝かされた。
だけど眠れなくて、布団の中で何度も寝返りを打つ。枕元のデジタル時計は午後九時を表示していた。母はまだ眠る気配は無く、階下で微かに話し声が聞こえていた。テレビのニュース番組でも見ているのだろうか。
まだ父と兄が生きていた頃、母は専業主婦だった。しかし二人が亡くなってからは近所のスーパーにパートに出ている。朝から夕方までのシフトだが、もしかしたら、今日は早退させてしまったかもしれない。そう思うと申し訳なくなる。ここまで養ってもらっているのに。今はもう、何もできなかった子供の頃とは違うのだ。自分の体調管理ができてないせいで、迷惑はかけたくなかった。この優しさを失いたくはなかった。
ふと気づくと、階下の物音が聞こえなくなっていた。しばらくして、階段を上る音が聞こえ、この部屋の前を通り過ぎ、母の部屋のドアを閉める音が聞こえた。
この部屋は階段を上ってすぐにあり、母の部屋はこの部屋の斜め前にある。母が部屋に入ったのを確認して、また寝返りを打ち、天井を見上げる。一瞬、家の電話がなったような気がしたが、気のせいだと思い直し目を瞑る。シーリングライトのオレンジ色の光が部屋の中を照らしていた。
☆ ☆ ☆
学校の屋上に、人影が一つあった。しばらくしてドアが開く音がするともうひとつ人影が屋上に現れた。二つの人影は近づいて、言い合っているような話し合っているような動きだった。
明かりが一瞬点いて一つの人影の顔がぼうっと映し出された。初老の男性のようだった。彼は煙草に火を点けた。さっきの明かりはライターの明かりだったようだ。
二つの人影は離れて、煙草を吸っている男性が携帯電話を操作した。次の瞬間、男性は屋上から真っ逆さまに落ちた。屋上に残った人影は、荒い息を繰り返し足元に転がっていた男性の携帯電話の電源を急いで切った。そして痕跡が残らないように注意しながら急いで屋上を後にした。男性が吸っていた煙草が落ちているのにも気づかずに…。
☆ ☆ ☆
次の日、余裕をもって起きられたので朝食を食べ、ゆっくり歩いて学校へ行くと、校門前にパトカーと報道陣がたくさん集まっていた。
何事かと遠くで眺めていると、校長と教頭、各先生が生徒を庇いながら押し寄せる報道陣を校内に立ち入らないように声を荒げていた。
野次馬に隠れて、気づかれないように校門へ入ろうとしたら、あと数歩のところで一人の報道関係者に見つかった。
「いたぞ!生徒だ!」
その一言を皮切りに、校門前にいたカメラマンやアナウンサーがいっせいにこちらにやってきた。大勢の人の波にびっくりして一歩も動けずにいると、誰かに後ろから腕を引っ張られ、その背中に庇われた。
ゆっくり見上げると、それは他でもない、校長先生もとい、伯父だった。
「生徒へのインタビューはやめてください!のちほど会見を開きますので、それまでお待ちください!」
「それはいつですか!」
「まだ決まっておりません!決まり次第お知らせいたしますので、局名、雑誌名、担当者の名前、連絡先をこちらの用紙にお書きになってお引取りください!」
「今すぐ知りたいんです!教えてください!」
「こちらも現状を把握しておりませんのでお答えできません!お引取りください!」
しばらく押し問答が続いたが、これ以上、情報は引き出せそうにないと判断して、教頭先生が配った用紙を受け取った人たちが、自社の車で帰っていった。
騒然としていた校門前は、いつもの静けさを取り戻していた。いつの間にか伯父のスーツの裾を掴んでいた手が震えているのに気づき、慌てて引っ込めようとしたが、中々思うように動いてくれない。すると、暖かい手のひらに包まれた。ゆっくりと強張った指を開かれて、震えが収まった。そして、ぎゅっと抱きしめられた。
「怖い思いさせたな。すまなかった」
「いえ、大丈夫です。守ってくれてありがとうございました」
「生徒を守るのは校長として当たり前だからな」
抱きしめていた手を放して、伯父はにこりと笑った。
「さぁ、授業がはじまる。教室へ急ぎなさい」
教頭先生に促され、早足で校舎へと向かった。
「校長、あまり公衆の面前で生徒を抱きしめないでください。悪評が立ちます」
「あぁ。すまない。今度から気をつけるよ」
そんな会話がなされていたことなど知らずに。
教室へ入ると、話題で持ちきりだった。要約すると、校舎から飛び降りて死亡した男性がいたらしい。しかもその人が、深山先生のお父さんだったそうだ。
「深山先生だいじょうぶかなぁ」
「先生、今日はまだ学校に来てないよ」
「直接、警察に行ったんじゃないの?」
「自殺したのかな?殺されたのかな?」
「最初に見つけたの用務員のおじさんだったらしい」
「俺、インタビューされちゃった。テレビ映るかな?」
などと教室では、女子は先生に同情的で、男子は好奇心丸出しだった。少数はそのどちらでもなく、騒動にはまるで興味なく参考書を開いて勉強していた。
自分の席につくと、隣にはもう河嶋が座っていた。
「みぃちゃった」
ニヤリと笑いながら話しかけてくる河嶋に胡乱な視線を返す。
「なにを?」
「校長先生に抱きしめられていたね」
「あれは、報道陣から守ってもらっただけだ」
「校門前で、しかも男同士で抱き合うのはどうかと思うけどね」
傍から見たらそう見えるのかと、驚愕した。反論する言葉が見つからなくて、沈黙を返した。そのとき京本みかさと奈知が話しかけてきた。
「仕方ないと思うわよ。あんなにたくさんの人に押し寄せられたら誰だってビックリするし、助けてもらったら、安堵して抱きついちゃうんじゃないかしら」
「そうそう。オレだったら泣いちゃうもん」
おどけて言ったのは奈知だ。さめざめと泣きまねをする。この男は本当にお調子者だと思う。ムードメイカーといえば聞こえはいいが、こちらからするとお調子者以外の何者でもない。
しかし、四人に見られていたら、おそらく他の人間にも見られていると思ったほうがいいだろう。他の人に話しかけられることはないだろうが、もしもの為になにかうまい言い訳を考えなければならない。
そして、チャイムが鳴ってHRが始まり、学生の長い一日が始まった。まずHRで言われたことは、記者のインタビューには答えないこと。今回の騒動をむやみやたらに口外しないこと。昼休み後に全校集会があるので、体育館に集合すること。そして、深山先生はしばらく出勤しないので本日の数学の時間は自習になるということだった。
一瞬ざわついたが、すぐに静かになり、HRが終わると各自、授業の準備をする。だけど、休み時間の合間で誰かが情報を集めてきて話していたり、憶測が飛び交ったりと自分たちの学校で事件が起きたという興奮はしばらく冷めなかった。それに多感な時期の高校生に緘口令など、意味を成さなかった。
昼休みも終わり、全校生徒が体育館に集まると、壇上に教頭が上がった。マイクのハウリング音が響き、教頭が話し始めた。
「えー。みなさんこんにちは。まずは、朝の校門前にいた警察のパトカーとマスコミに驚いたと思います。先生方の対応が遅れて、怖い思いをした生徒もいることでしょう。申し訳ありませんでした」
教頭は一歩後ろに下がって頭を下げた。そしてマイクの前に戻ってまた話し出す。
「本来なら、ここに立っているのは校長先生なのですが、校長は諸事情により、代わりに私が代弁いたします」
「諸事情ってなんだよ」「マスコミ対応じゃねぇの?」などとひそひそ言い合う生徒がちらほらいたが、気にせず教頭は話を続ける。
「亡くなった深山先生のお父様は、この学校の関係者ではありませんが、一分間の黙祷をささげたいと思います。それでは、黙祷」
教頭の掛け声で、体育館の壁側に立っていた先生方が目を瞑り軽く頭を下げる。それに習うように生徒たちも同じように一分間下を向いていた。
一分後顔を上げると教頭がまた話しだす。
「えー。朝のHRでも担任の先生から話があったと思いますが、登下校中、しばらくマスコミがうろついていると思います。ですが、インタビューなど答えないでください。校門前には朝と夕方に警察官の方と先生方がしばらく立ちます。それから、深山先生についてですが、本日から一ヶ月間お休みをします。その間の数学の授業は他の先生の持ち回りとなります。それではこれで全校集会を終わります」
教頭が壇上から降りると各担任によって生徒たちが一年から順に体育館から出て行く。ざわざわと話す生徒たちの声は、好奇心でいっぱいだった。
教室に戻ってきて、何事もなく午後の授業が始まった。だけど先生の話を聞いているのかいないのか、みんな上の空だった。
一日の授業が終わり、下校時刻になった。家へ帰る生徒、部活へ行く生徒、いろいろだ。誰もいない教室で帰り支度をしていると、同じクラスの男子生徒三人に声をかけられた。
「香山って校長と親しいんだろ?今回のことなんか聞いてないの?」
ニヤニヤと笑いながらリーダーと思われる男子が話しかけてきた。この学校で、校長と縁戚関係にあるという事実を知っているのは、教頭だけだ。おそらく彼らにも今朝校門前で伯父に抱きしめられていたのを見られてしまったのだろう。
「さぁ?」
だけど相手にするのが面倒で素っ気なく答える。すると言い方が気に入らなかったのかリーダーの男子から笑顔が消えた。しかし、そんなことに気づかず、彼らの横を通り抜けようとしたとき、鞄を引っ張られ後ろに転ぶ。転んだ拍子に手が椅子に当たり、静かな教室に派手な音がこだました。
「いっ…て」
「調子にのってんじゃねーよ。根暗野郎」
吐き捨てるように憎悪が篭った声で罵られる。だけどこちらはそんなことに関わっている暇などないのだ。
「しらねぇよ、なんなんだよ」
「お前、最近京本さんと仲いいからって調子のってんじゃねーの?」
「…はぁ?」
予想の斜め上のことを言われて一瞬なにを言われたのかわからなかった。てっきり校長と仲がいいから贔屓をされているのだろうと妬んでいるのかと思った。そういえば、とじっくり顔を見回せば、いつも京本みかさに話しかけている連中だった。
本当になんなのだと思った。こっちは別に仲良くなりたいわけじゃなく、あっちが勝手に構ってくるのだ。それを妬まれても、完全にとばっちりだ。言い返そうと口を開いたところで拳が飛んできて、頬を殴られた。口の中で血の味が広がる。
「ぐっ…」
次に腹を蹴られ、前のめりになったところに髪をつかまれ、無理やり上を向かされた。
「お前なんかあの人の足元にも及ばないんだよ。あの人は優しいから孤立してるお前を気に掛けてやってるだけなんだよ」
痛みに弱い体はもう悲鳴をあげそうだが、ここで気を失うわけにはいかず必死に耐える。
「そうだとしても、お前らがこんなことする理由にはならないだろう。それとも、京本みかさが、俺を痛めつけろって命令でもしたのか?」
「それは…」
「もしそうなら、最低な女だな」
「あの人を悪く言うな!」
つかまれていた髪は離されたが、また頬を殴られた。その反動で床に倒れる。もうこのまま気を失いたかったが、不穏な一言を聞いて肝を冷やす。
「口ごたえ出来ないように恥ずかしい写真でも撮るか」
別の男子生徒が言った。両手両足を押えられ、床に押さえつけられて焦った。
「おい、やめろ!」
「ふん。思い知らせてやる」
ズボンのベルトのバックルに手を伸ばされ、押えられて動かない手足を動かす。しかし、いくら高校生といえども男と女の力の差は出てくる。びくともしない手足をそれでも必死の思いで動かしていると、教室の後方のドアが開き、間延びした声が聞こえた。
「おーい。もう下校時間過ぎてるぞー。そこでなにしているんだ?」
「ぁ、奈知さん」
左腕を押えていた男子生徒が怯えた声で言った。そこにいたのは奈知和馬だった。
彼はゆっくりとこちらに歩いてくる。その顔は笑ってはいるが、目だけが氷のように冷たい。その目に射すくめられた男子生徒たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「大丈夫?」
そういって手を差し出す彼の顔は、もういつものように笑っていた。礼を言ってその手をとって立ち上がると、一筋、頬を流れていくものがあった。流れを辿っていくと、それは目から流れていた。
「怖かったね。もう大丈夫だよ」
抱きしめられると、堰がきれたかのように次から次へと涙が流れていく。教室を染める夕日の中、奈知にしがみついて、泣いた。
次第に頭が冷静になってくると、恥ずかしさが全身を覆う。子供のように泣きじゃくってしまった。
(こんなに泣いたのって何年ぶりだろう…)
恥ずかしくて顔をあげられなくなっていると、奈知にポンポンと頭を撫でられた。
「泣き止んだ?じゃぁ帰ろうか」
紳士といえば聞こえはいいが、手馴れている感じがする。脱がされかかったズボンのベルトを直していると、奈知は倒れた椅子を元に戻していた。
「しっかし、みかさのファンもひどいことするな。あとでちゃんと報告しないと」
どこから見ていたのか奈知はそんなことを言った。さっき大泣きしてしまった手前、気恥ずかしくてその話題に乗っかった。
「本当に、完全にとばっちだろう。勘弁してくれよ」
「わるいねぇ。きつく言っとくよ」
「それと…さっきの」
言いかけたとき口の中に血の味が広がり、さっき殴られて切ったことを思い出した。舌で探ると軽く痛み
が走った。
「いてっ」
「あぁ、大変だ。帰る前に保健室に行こう」
奈知は急いで鞄をつかみ、手を引いて教室を出て行く。繋がれた手が自分の手より大きく、温かくて、なぜか胸がドキドキした。
保健室へ向かう方向とは反対の廊下で河嶋がこちらを見ていたことにも気づかなかった。
保健室に着くと、何故か京本姉弟が校医の八島とのんびりお茶を飲んでいた。その光景に入り口で唖然としていたら、京本みかさが気づいて何食わぬ顔で笑顔を向けてきた。
「どうしたの?香山さん。帰ったのかと思っていたわ」
「…帰ろうとしたけど、ちょっとね」
すると、奈知が手を繋いだまま保健室の中に入るので、引っ張られる形になった。その様子に今度は京本姉弟が唖然とする。その視線に耐えかねて、数歩歩いたところで足を止める。
「あ、あの!」
「ん。何?」
「手…繋いだままなんだけど」
「あぁ。嫌だった?」
「そういうわけじゃないけど…」
「じゃぁいいよね」
「え、あの…」
そして、ずかずかと八島校医の前に歩いていく。なぜかこちらが恥ずかしくなって俯いていると、奈知が八島校医に話しかけた。
「手当てしてほしいんだけど。この子」
そういって八島校医の前に引っ張り出された。唖然としていた八島校医だったが、こちらの顔を見て、一瞬で仕事の顔に変わる。
「分かった。みかさ、美月、ちょっと手伝って」
八島校医が言うと、二人とも間延びした返事をして椅子から立ち上がる。奈知は空いた椅子に座り、隣にもう一つ椅子を持ってくると指差して言った。
「座って。手当てしてもらうから」
「え、いや、こんなの舐めてたら治るからいいよ」
そう言うと八島校医が渋い顔をして言った。
「だめよ。自然治癒は確かに大事だけど、多少消毒するのも大事よ?」
「それに、殴られたのは頬だけじゃないだろ?」
奈知がまるで見ていたかのように言った。
「どうして…」
「服が汚れている」
指を指されてよく見ると、確かにお腹の辺りが汚れていた。さっき蹴られたときのだろう。
「大丈夫だよ。こんなの」
本当は結構痛かったが、ここで脱ぐわけにはいかない。伯父との約束もあるが、女であることを隠すために、さらしを巻いて胸を隠している。服を脱ぐとそれがバレてしまう。
「大丈夫じゃないよ。ちゃんと手当てしないと。全部脱がなくていいから、お腹だけ出して。どうしても嫌なら、オレと美月はカーテンの向こう側にいるから、みかさと八島先生に手当てしてもらって」
有無を言わさない真剣な目で言われて、しぶしぶ案を了承した。
京本美月と奈知はカーテンの向こう側に移動して、京本みかさと八島校医に、頬とお腹を手当てしてもらった。
「ところで、この怪我どうしたの?」
手当てが終わって、下校時刻が過ぎていたこともあり、八島校医が家まで送ってくれることになった。
五人で駐車場に向かっているとき、京本みかさが話しかけてきた。答えようと口を開いたところで、奈知が答えた。
「みかさのファンっていう男子生徒が襲ってきたんだよ」
どこから見ていたのか気になったが、ひょっとして奈知も彼らの顔を見て気づいたのだろうか。首を傾げていると同じように、京本みかさも首を傾げた。
「ファン?」
「知らないの?みかさ、ファンクラブあるんだよ」
先頭を歩いていた八島校医が振り向き言った。そんなものがあることを知らなかったのか、京本みかさは驚いた顔をして足を止めた。
「うっそぉー」
「本当さ。みかさってだれかれ構わず愛敬を振りまくからみんな好きになっちゃうんだろうね」
驚いた顔をした京本みかさはこちらを見て、いきなり頭を下げた。
「ごめんなさい!私のせいで!」
「あぁ。まぁ。今度から気をつけてもらえればいいよ」
「うん。ありがとう」
意気消沈した京本みかさの肩を美月がやさしく抱きしめる。その光景はまるで恋人同士みたいに見えて、思わず目を逸らした。逸らした先に奈知の顔があり、その視線は京本姉弟から外れることはなく、苦しそうにも見えた。
ひょっとして彼はみかさが好きなのだろうかと思ったら、なぜかこちらの胸が苦しくなった。
それからは特に会話も無く、八島校医の運転する車で自宅まで送ってもらった。
「それじゃぁ。またね」
「送っていただいてありがとうございました」
ぺこりと頭を下げてから、車を見送り家の中に入ろうとしたとき、後ろから声をかけられた。
「香山、りょうちゃん?」
ぎくり、として後ろを振り向くと見知らぬ女性が立っていた。年は五十前後くらい、目じりと口元に深くシワが刻まれており、髪は短髪で所々に白髪が見える。
「どちらさまですか?」
震えそうになる声を抑えて聞くと、女性は一瞬悲しそうな顔をしたが、すぐに笑顔を見せて、一歩近づいてきた。
「お久しぶりって言っても、覚えてないわよね。あなたに会ったのはあなたが一、二歳の頃だから。随分探したわ。あたしはあなたのお母さんの妹で、いおりって言うの」
「母に用ですか?今なら家にいるので呼んできましょうか」
「家に?いいえ、あなたのお母さんつまりあたしの姉は十五年前に亡くなったはずよ?」
「…え?」
頭が真っ白になって、彼女が話している言葉が素通りしていく。呆然としていると、玄関のドアが開く音がして、玄関のライトに明かりが灯る。
「雪彦、帰ってきたのなら家に入り…」
そこまで言って母が息を呑む音が聞こえた。そして急いで腕を引かれ、家の中に押し込まれた。
「ちょっ!」
いおりと名乗った女性は慌てて追いかけてきたが、一歩間に合わず、目前でドアが閉まった。そして諦めたのか、靴音が遠ざかっていくのを玄関のドア越しに聞こえた。
「母さん?」
「あの女に、何か言われた?」
こちらを見ずに母は問いかけてきた。その声は低く、幼い頃を思い出して、心がギシリと嫌な音を立てる。
「ううん。何も」
昔に戻りたくなくて、嘘を吐く。
「そう。それならいいの」
母はニコリと笑って、リビングへ歩いていく。その背中を見ながら、彼女の言った言葉を思い出していた。
『あなたのお母さんは十五年前に亡くなった』
それがなにを意味するのか、どういうことなのか、このときはまだ知りたくなかった。
次の日、朝早くにインターホンが鳴るので、不思議に思いながら応対すると、相手は警察だった。外にはすでに近所の野次馬が集まっていて、遠巻きにこちらを見ていた。
「お母さんはいらっしゃるかな?」
「…はい。少しお待ちください」
とりあえず玄関まで入ってもらって、急いで母を呼びにいく。丁度、洗濯物を干し終えて二階から降りてくるところだった。
「母さん、警察の人が…」
「え?…そう。わかったわ」
一瞬考える素振りを見せたかと思うと持っていた洗濯籠を階段において、玄関に向かう。その後姿は、動揺も焦りもなく堂々としていた。
「お待たせしました」
「香山啓子さんですね。二日前この近くの高校で転落死した男性について少しお聞きしたいことがありますので、一緒に来ていただけますか?」
「そんな!なんで母さんが!」
「落ち着きなさい。大丈夫だから。すぐに帰ってくるわ」
そして母は警察と一緒にパトカーに乗り込んだ。野次馬の数はさっきよりも増えており、ヒソヒソとした話し声が聞こえていた。だけど、そんな声を掻き消すほどサイレンを鳴らしてパトカーは母を乗せ発進した。
パトカーが見えなくなると、野次馬は減っていったが、真っ白になった頭では何も考えられなくて、ただ、呆然と立ち尽くしていた。
どれくらい時間が経ったかわからないが、目の前にタクシーが停まり、伯父が慌てて降りてきた。伯父の顔を見た瞬間、何かが切れたように涙が溢れ、まるで子供のようにすがりついた。
「お、おかぁさんが、お母さんがー!」
「うん。わかっている。大丈夫だ。とりあえず、家に入ろう。体が冷えているじゃないか」
伯父の温もりを感じて、自分が冷えていることに気づいた。だけど、涙は止まらず涙腺が壊れてしまったかのように、次から次へと目からあふれ出す。伯父はゆっくりと背中を押して、家の中へ入るように促した。
家の中に入ってもしばらく玄関で泣いていたが、伯父が優しく背中を撫でてくれたので、次第に落ち着いてきた。
「落ち着いたか?」
「……はい。取り乱してすみませんでした」
「無理もない。目の前で啓子さんが警察に連れて行かれたんだ。取り乱すさ」
「どうして、目の前ってわかったんですか?」
伯父が来たのは母がパトカーに乗っていってからかなりの時間が経った後だったはずだ。しかもタクシーで駆けつけたのにまるで見ていたかのような言い方だ。
「あぁ。啓子さんから電話をもらったんだよ。君の事を頼むと」
「そうだったんですか。ありがとうございます」
今日は土曜日だから学校は休み。母は伯父の自宅の電話番号を覚えていたのだろうか。義理の兄弟なのだから知っていても不思議じゃないのか。そんなことを考えていると、涙は自然と引っ込んだ。しかし、いつまでも玄関先にいるわけにもいかない。
「どうぞ、あがってください。たいしたおもてなしもできませんが」
「君はそんなこと気にしなくていいんだ。あとで当面の世話係がくる予定だ」
「世話係?」
「二、三日で啓子さんが帰ってくるといいのだが、その間の君の身の回りを世話する人だ」
「それこそ気にしないでください。料理くらいできますし、掃除や洗濯だって」
「一人でこの家にいるのは広いだろう。住み込みになるが、頼るといい」
確かに一人だと家の中は広く感じるが、しかし知らない人が同じ空間に入ってくるのは耐えられない。そう言おうとしたところで、インターホンが鳴った。
「ちょうどいいタイミングだな」
そういって伯父が玄関のドアを開けると、そこにいたのは京本姉弟と、奈知和馬だった。
「え?どうして…」
「こいつらが、お前の世話人だ」
「は?どういう…」
「まぁ、話は家に上がってからにしよう。さぁどうぞ」
そういって伯父は三人を伴ってリビングへ向かった。何がなんだかわからなくて呆然としていると、奈知が横を通るとき頭をポンポンと撫でてきた。その顔は相変わらず笑っているが、いつもより目が優しく感じた。
リビングのテーブルに伯父と奈知、京本姉弟が座り、各々の前にお茶を淹れた湯飲みを置いてから予備の椅子を持ってきて伯父の横に座った。
「それでは、話を始めるぞ」
伯父の一言で、皆が気を引き締めた。最初に説明がされたのは、なぜこの三人が世話係なのかということだった。京本みかさが話し出す。
「実は私たち、探偵事務所の探偵見習いなのです。所長は八島です。潜入のため今はそちらの高校で校医をしています。今まで隠していてすみませんでした。ちなみに依頼人はあなたの伯父である三田村幸樹さんです」
おそらく、今、自分の顔を鏡で見たらなんて間抜けな顔なのだと思うくらいポカンとしていたことだろう。そもそも探偵に見習いとかあるのだろうか。だから昨日、保健室に行ったときに仲良くお茶を飲んでいたのかと合点がいった。さらに驚く説明がされる。
「私たちは、去年の春から三田村さんより依頼を受け、ある人の動向を探っています。その人については伏せさせていただきますが、三学期に入ったあたりから依頼内容が変更され、あなたのボディガードになりました。本来の業務ではありませんが今回は特例ということで受けさせていただきました」
「ボディガード?」
そんな言葉、テレビや雑誌でしか見たことなかったが、まさか自分に向けて使われるとは夢にも思わなかった。その説明で、どうして彼らが三学期に入ってからやたら構ってくるのか理由がわかった。さらに淡々と京本みかさは話を続ける。他の二人も真剣な顔をしていた。伯父だけはテーブルの上で組んだ指の先を見つめていた。
「あなたは狙われる恐れがあります。ですが、私たちが必ず守りますので安心してください。それで申し訳ないのですが、お母様が戻られるまでの間、身の回りの世話役としてこちらで一緒に住まわせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ちょ、待って。なんで狙われるの?誰から?母さんが警察に連れて行かれたのと関係があるの?ある人って誰?守るって…」
聞きたいことが頭をぐるぐる回って整理がつかない。冷静になろうとすればするほど焦って空回りする。
「お前は、雪彦くんと守が事故でなくなったことを覚えているか?」
低い声で伯父が聞いてきた。兄の雪彦と父の守が事故で亡くなったのは十三年前。当時五歳のだった。その日みんなでドライブに行こうとしたが熱を出してしまい、父に看病を頼まれた母と二人で留守番をした。
そして彼らは車でドライブに出かけ、帰らぬ人となってしまった。
「おぼろげにしか、憶えていません。それが?」
どうしてそんなことを聞くのかわからなくて伯父を見つめる。伯父はテーブルの上で組んだ指を見つめていた。
「あの事故は、本当は仕組まれた事故だった」
「仕組まれた?」
「彼らは事故死に見せかけて殺されたってことだ」
伯父の言葉に驚愕して目を瞠る。
「そんな…バカな。誰が…」
「そのことを探偵事務所に依頼したのだ。そうしたら、今度はお前を狙っているらしいという情報が入った」
「だって、兄さんたちが亡くなったのは…十三年も前のことなのに、どうして今さら…」
「オレもそう思った。だけど、奴は数年行方をくらませていた。ほとぼりが冷めたと思って戻ってきたのだろう。奴はオレのことを憶えてはいなかったが」
「だから、どうしてわたしが狙われるのですかっ!」
勢いよく立ち上がって伯父に詰め寄った。だけど椅子が倒れた音で我に返り、ハッとして口を押えた。そしてゆっくりと三人を見回す。しかし、誰一人として驚いた顔をしていない。どうしてだろうと顔に出ていたのか、奈知がゆっくりと言った。
「オレたちは、キミの事を聞いているよ。キミの本当の性別も、名前も」
「そんな…それじゃぁ…」
愕然として目を見開く。あのとき襲われそうになったとき助けてくれたのは、女だと知っていたから。保健室に連れて行ってくれたのは、女だと、知っていたから。
なぜか涙が流れた。なぜ泣くのか自分でもわからない。奈知が椅子から立ち上がり、あのときと同じように抱きしめてくれた。何も言わず、ただ優しく。
そんなに時間はかからず涙は止まった。伯父が何故か複雑そうな顔をしていた。
「話を戻すよ。どうして香山さんが狙われるのか、実はまだわかってないの。いつ、どうやって狙ってくるのか検討もつかなくて。ただ、あなたのお母様が警察に連れて行かれたことと関係はないということはわかっているのだけど」
先ほどの丁寧な言い回しが話し言葉になっている。こっちが素なのだろうか。さっきのは営業用か。
「その、調査している人については教えてもらえないのですか?」
「調査については教えられない」
京本美月が口を開いた。
「そう…ですか…」
「だけどキミは守るよ。必ずね」
奈知が力強く言う。その顔は自信に満ちていて、思わず見つめてしまった。
ゴホンと伯父が咳払いをして慌てて視線をはずした。
「ところで、三人でこの家に泊まるのかね?」
伯父の言葉で改めて三人を見た。この家はもともと伯父夫婦が住んでいた家で、二階に部屋は二つしかない。一階はリビングとお風呂場、応接室はあるが、ソファしかないので眠るのには適さないだろう。
「空き部屋なんてないのだけど」
「泊まるのは私だけです。あとの二人は今日は帰ります。調査の続きもありますから。明日、またお邪魔します。寝る場所はソファでいいよ。毛布一枚貸してもらえれば」
京本みかさはこちらを見てにこりと笑う。そんなわけにはいかないだろう。渋い顔をしていたら伯父も渋い顔をしていた。
「女の子だけで大丈夫なのか?」
「みかさは護身術を体得しているので安心してください。それに定刻に連絡を入れるようにしていますので大丈夫です」
「そうか。オレも泊まろうか?」
心配だと書いてあるような顔で伯父がこちらを見るので苦笑してしまった。ゆっくりと伯父に抱きつく。
「心配しないでください。この人たちが守ってくれるって言っているし、依頼したのは伯父さんでしょ?それに本当に襲われるかどうかわからないし、大丈夫ですよ」
それでもあまり納得していない様子だったが、渋々抱きしめ返してくれた。その様子をみていた京本みかさがクスクスと笑った。
「なに?」
恥ずかしいところを見られて照れ隠しに睨む。
「いえ、校長先生、学校では格好いいのに香山さんが絡むと途端に心配性のお父さんみたいになるから、ギャップが面白くて」
「そ、そんなことはないだろう」
伯父は抱きしめていた手を慌てて離した。
「では、そろそろ失礼させていただきます」
京本美月が椅子から立ち上がった。京本みかさと奈知に目配せし、二人も立ち上がる。
「もう帰るのかね?」
「荷物を取りに戻るだけです。またあとできますよ。それまで三田村さんは香山さんについていてあげてください。今日は学校の用事もないのでしょう?」
「いや、あるにはあるんだが。教頭先生に任せっきりなのも申し訳ないしな」
「それならオレが残りますよ」
「和馬?」
「どうしたの?いきなり」
「三田村さんは学校に戻らないとダメなんだろ?だったらオレが残る」
京本姉弟は唖然として奈知を見ていた。伯父は複雑な顔で奈知を見ていた。
「和馬、お前……」
京本美月が何かを言いかけてやめる。奈知はいつもの笑顔を浮かべていた。
「え、ちょっと待って。伯父さん学校に戻るでしょ、京本、さんたちも一度帰るでしょ、奈知、だけ残る…って。え?いや、それはちょっと、嫌かも」
思っていたことを口に出して言ってしまってからハッとして見回すと、伯父はうんうんと頷いていて、京本姉はにこにこしていて、京本弟は無表情で、奈知は、苦笑していた。
なぜか居た堪れなくなってパニックになった。焦った頭は空回りする。
「あ、朝ごはん…はもう食べたか、じゃぁ、お昼!お昼ごはん食べたあとでも戻るの遅くないでしょ?」
「一つ条件があるんだけど」
京本みかさが、にこりと笑っていった。
「条件?」
「私のことはみかさ、弟のことは美月、和馬君のことは和馬ってこれから呼ぶこと」
「はぁ?」
どうしてそんな条件が出てくるのかわからない。そう思っていると、京本みかさが答えをくれた。
「だって、いくら言っても呼んでくれないから」
そういえば、会うたびに言われていたような気がする。だけどあまり関わりたくなかったし、冗談だと思っていたので真剣に聞いていなかった。
「それ本気だったんだ」
「当たり前でしょ!」
どうやら本気だったのは京本みかさだけだったらしく美月も奈知も苦笑いをしていた。そんなとき伯父の携帯電話が着信音を響かせた。
「もしもし、あぁ。わかった。すぐ戻る」
どうやら相手は教頭先生だったらしく、通話を終えた伯父は校長の顔になっていた。
「すまないが、急用ができた。先に失礼させてもらう」
「わかりました。私たち車で来ていますので学校まで送ります」
「いや、大丈夫だ。ありがとう。それでは」
そういって伯父はリビングから出ていった。慌てて後を追いかけて玄関まで見送る。靴を履き終えた伯父は振り返って頭を撫でてくれた。
「お母さんは何もしていない。必ず戻ってくる。それまで頑張るんだ。いいね」
「はい。ありがとうございます」
ぺこりとお辞儀をすると、伯父は笑って玄関のドアを開け、もう振り返らずに出て行った。目の前で、ドアがパタリと閉まったのを見つめた。しばらくその場で佇んでいると、後ろから声をかけられ驚いた。
「どうしたの?」
振り向くと奈知が笑顔で立っていた。
「い、いやなんでもない」
「そう。お昼ごはんなんだけど、何かあるかな?なければ買いに行くってみかさが言っているんだけど」
「あぁ。それなら昨日の夕食の残りと、あと何かあったはず」
二人でリビングへ戻る。その少しの距離でも不確定な動悸がする。少し優しくしてもらったのと、自分を偽る必要がないからだろう。それだけだと自分に言い聞かせる。
結局、冷蔵庫には人数分の食料は無く今日の夕食のこともあり、家から歩いて数分のところにあるスーパーに買い物に行くことになった。
家を出て角を曲がると道路と歩道がガードレールで分かれている道に出る。並行している道をまっすぐ行くと、スーパーの入り口があった。
「何を食べようかなー」
京本みかさはうきうきとしている。その隣を京本美月がコートのポケットに手を入れて歩いている。少し離れた後ろを奈知が歩く。その後ろをついていく。二月の風はまだ冷たくマフラーを忘れた首元が寒い。まだ正午前で天気が良かったから大丈夫かと思ったが、失敗したと後悔をする。
ふと前を見ると、みかさが美月と楽しく話しながら歩いている。二人の間に時々奈知が割って入っている。その光景をなんともなしに見ていると、後ろの方で自転車の鈴が聞こえた。
「自転車がくるよ!」
しゃべりながら歩いている三人に声をかけて端に寄ると寄った方向が悪かったのか、自転車が猛スピードで迫ってくる。ぶつかると思ったら体が動かなくて、固まっていると誰かの体に庇われた。自転車の方もハンドルを切ってこちらを避けて走り去っていった。
「大丈夫っ?!」
みかさの声が聞こえて、駆けつける音が聞こえた。びっくりして心臓がドキドキして手が震えている。だけど、自分の心臓の音以外にもう一つ、早鐘を打っている音が胸に伝わる。そうっと顔を上げると、奈知が眉間にシワをつくり目を瞑っていた。
「あ、あの、ありがとう…」
声をかけると、ゆっくり目が開いて、こちらを見た。その目は真剣で、ついドキッとしてしまった。奈知は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「無事でよかった……」
微かな声でそう言うと、にこりと笑った。そして駆けつけたみかさと美月にも笑顔を向ける。いつもの笑顔だけど何故か弱弱しく見えた。三人で何かを話していたが聞こえなくて、ただじっと奈知の顔を見ていた。視線に気づいた奈知がこちらを向いて手を差し出した。
「びっくりしたね。さあ行こうか」
自然とその手に自分の手を重ねて、握る。握った手は離されることなく買い物が終わって家に帰るまで、ずっと繋いだままだった。行くときは寒かった首元も、帰る頃には寒さを感じなくなっていた。
昼食も食べ終わり、美月と奈知は一度、探偵事務所に戻る。本当は奈知が残りみかさが一緒に行くはずだったが、頼んで変わってもらった。
「それじゃぁ、何かあったらすぐに連絡してくれ」
「携帯にはいつでも出られるようにしておくから」
「気をつけて。またあとでね」
奈知と美月を送り出して、みかさと後片付けをする。キッチンは二人で立つには狭いので、テーブルを拭くのをみかさに頼み食器を洗う。
ふと、思い出したかのような口ぶりでみかさが問いかけてきた。
「香山さんは、和馬君のことどう思う?」
「は?」
思わず洗っていた食器を落としそうになって慌てる。
「なに?急に」
平静を装うが心臓はドキドキしている。
「うん。一応聞いておこうかと思っただけ」
「どうしてそんなこと…」
「噂で聞いたことないかな。和馬君が男の子しか好きにならないって」
二学期の半ばくらいでそんな話を聞いたような気がする。だけどそのときは関係ない話だと思っていたし、冗談だと思って聞き流していた。それが今になって舞い戻ってくるとは思わなかった。
テーブルを拭き終わったみかさがキッチンに来てこちらを見て話す。洗い物の手を止めて、見つめ返す。時計の秒針の音が大きく聞こえた。
「あの噂は本当のことなの。和馬君、女の子に接するときは優しいけど、ちょっと距離をとっているっていうか、まるで恋愛対象として見ていないからボディタッチとか極力避けているんだけど、香山さんには必要以上に積極的な気がして…」
「それは、わたしが男性的ってこと?」
「そうね。今まで男性として育ってきたんだから、その可能性もあるけど。とにかく、気をつけてね」
「何に?」
「和馬君を好きにならないように」
「え…」
「もしかしたら、ガード対象だから積極的なのかもしれないから。今回の依頼が片付いて、急に彼の態度が冷たくなったら傷つくのはあなただから。私は、あなたにこれ以上傷ついてほしくないの」
胸が、心臓が、ズキズキ痛む。この思いは何なのか、この痛みは何なのか、まだ知りたくない。ありえないと押さえつける。他人に興味をもったことがないのに、少し優しくされただけで、そんなのはありえない。きっと何かの間違いだ。
「はは。そんなことありえない。絶対に」
「そう。それならいいの。洗い物手伝おうか?」
みかさはホッとしたような笑顔で聞いてきたが断った。
「いや、もうあとは流すだけだから大丈夫。ソファに座っていて」
「わかった。事務所に電話してくるね」
携帯電話を片手にリビングを出て行くみかさの背中を見つめる。廊下で話す彼女の声を聞きながら蛇口をひねりお湯を出して食器の泡を落としていく。だけど、機械的に動いているだけで、頭の中はさっきの会話がくるくると回っている。
今まで身内以外で興味をもった人間はいない。他人から向けられる視線は奇異なものか侮蔑か無関心かどれかだった。だから、好きという感情もわからない。家族は好きだが、それとは違うのだろうか。
自分に言い聞かせる。勘違いをしてはいけない。向こうは仕事で親切にしてくれているのだ。噂が本当だとしたら、あのときの視線が意味するのは奈知が好きなのは京本美月ということだ。食器を洗い終え、手を拭いてソファに座ろうとしたとき、みかさが電話を終えて戻ってきた。
「あ、私のことは気にしないで。部屋に戻ってもらってもいいよ」
「それじゃぁ言葉に甘えてそうさせてもらうよ」
みかさはニコリと笑うと鞄からノートパソコンを取り出して、テーブルに置いた。
「ここ借りるね」
「どうぞ」
椅子に座ってパソコンを開いたと思うと文章を打ち込んでいく。極力音を立てないように湯飲みにお茶を淹れて、パソコンより少し離れたとことに急須と一緒に置いた。それに気づいたみかさが画面から目を離し、ニコリと笑ってありがとうと言ったので、お辞儀をして部屋に向かった。
部屋に入ると、窓際に置かれた机に日の光が入って、そこだけ暖かかった。椅子に座り、机の一番上の引き出しを開ける。そこにはまだ幼い頃に一度だけ撮った家族写真が入っている。写真を引き出しから出して眺める。
まだ父と兄が生きていた頃の写真。事故で亡くなったとばかり思っていたのに、誰かに殺さたのかもしれないと伯父は言った。それが本当ならいったい誰がそんなことをしたのか、どうして十数年も経った今、命を狙ってくるのか、わからないことばかりだ。
写真を胸に抱きしめ、暖かくなっている部分に頬を当てると睡魔が襲ってきた。大きなあくびをして目を閉じると、意識が遠のいていった。
階下で話し声が聞こえてきたのがきっかけで目が覚めた。薄暗い部屋に一瞬ギクリとしたが、暗闇ではなかったのでなんとか心拍数があがる心臓を押える。変な格好で寝ていたせいか、大きく伸びをすると背中と首がパキパキと音を鳴らした。
何時だろうと時計を見ようと立ち上がると、足元に毛布が落ちているのが見えた。毛布を拾い上げ、ベッドの上に乗せる。みかさがかけてくれたのだろうか、あとでお礼を言おうと思いデジタル時計を見ると夕方六時過ぎだった。そんなに寝てしまったのかと慌てて階段を駆け下りる。その音を聞きつけてかみかさが、リビングから顔を出した。
「おはよう。よく眠っていたね」
「ごめんなさい。毛布ありがとう」
するとなぜかみかさは驚いた顔をしたが、また笑顔になりどういたしましてと言った。
一緒にリビングに入ると、奈知と美月がソファに並んで座っていた。こちらに気づくと、美月は無表情で奈知は笑顔だった。テーブルの上には書類が散らばっていたが、視線をテーブルに向けるとみかさが自然と片付けた。
「さぁ、香山さん起きたから夕食にしましょうか」
すると奈知が何かに気づいたようにこちらを指差して聞いた。
「りょうちゃん手に持っているの何?」
いきなり、ちゃん付けで呼ばれて固まった。まさかそっちの名前で呼ばれるとは予想していなかったこともあって衝撃は大きかった。
「ちょっと和馬君。その呼び方はどうかと思うけど?」
みかさが非難をするが、奈知は気にした様子もなくソファから立ち上がりテーブル付近で固まっているこちらに歩いてくる。
「だけど他に呼び方ないだろう?本当の名前も知っているんだし、苗字で呼び続けるのもどうかと思うよ?」
みかさと奈知の間で火花が散ったような気がした。衝撃から何とか立ち直って、奈知のほうに向かって言った。
「あの、呼ばれ慣れてないから苗字のほうでお願いできないかな」
奈知は残念そうに笑いながら肩をすくめた。
「そう。わかった。それで、何持ってるの?」
手に持っていたのは、寝てしまう前に引き出しから出した昔の写真だった。慌てて降りてきたから持っていることすら忘れていたようだ。
「これ、昔撮った写真なんだ。まだ父や兄が生きていたころに前に住んでいた家の前で撮ったんだと思う」
そっとテーブルに写真を置くと、美月もソファから立ち上がってこちらへきた。三人で覗き込むようにして写真を見る。
「この小さい女の子が香山さんね。面影あるわね。今も昔も可愛いかったのね」
にこりと微笑まれて恥ずかしくて俯く。すると写っている一人ずつを指差しながら美月が聞いてきた。
「この後ろにいる二人の男性が父親と兄さんか。その横の女性が母親だろ。それじゃあ香山の横に写っているこの男の子は誰だ?」
「え?」
そんな子いたかなと思いながら写真を見ると、確かに幼い自分の横に同じような年頃の男の子が写っていた。しかもふたりは手を繋いでいる。かなり親しいのだろう。だけど記憶を辿ってもそんな子のことは思い出せない。
首をひねって考えていると三人が真剣な顔で男の子の笑顔を見つめていた。
「まあ昔のことなんて思い出そうとしても無理なときは無理よ。先にご飯を食べちゃいましょう」
写真とにらめっこしていてもしょうがないと、みかさがキッチンへ向かった。
「あ、手伝うよ」
「ありがとう。でもあと焼くだけだからお茶碗とかセッティングしてもらえる?」
「わかった」
自分の家なのに主導権を握られている。まさに世話係みたいだ。食器棚から人数分のお客用のお茶碗とお椀を出す。奈知と美月も写真を汚れないようにソファの前のローテーブルに置いて、テーブルに用意してあったランチョンマットを引いていく。
「お皿取ってくれる?」
「うん」
焼きあがったハンバーグを付け合せと一緒にお皿の上において、出来上がったものをテーブルに運ぶ。全員分揃ったところでみんな椅子に座った。
「いただきます」
「いただきまーす」
無言で食べ続けていると視線を感じて顔を上げる。
「おいしい?」
「うん。美味しい」
「よかった」
みかさはニコリと微笑んだ。見られていたのが恥ずかしくてつい俯いてしまった。
「みかさのハンバーグは美味しいよねー」
奈知がパクパクと食べながら言う。その横で美月も頷いていた。四人がけのテーブルで奈知と美月が隣同士で美月の前にみかさが座っている。
「いつも三人で食べているの?」
「まあだいたいね。うちの母親は帰ってくるの遅いし。美月たちの両親はいないから一緒に生活しているんだ。料理は当番制だけどね」
「両親が、いない?」
横を見ると目が合ってみかさは苦笑した。美月は気にせずご飯を食べていた。
「私たち三人は孤児院で育ったの。高校に入る前に和馬君が八島さんに出会って養子にしてもらったの。ついでに私たちも世話してもらえるように頼んでくれて今まで生活できてるってわけ」
「八島って探偵事務所の?」
「そうよ。今は香山さんの通っている高校で校医として潜入しているけどね」
「そうだったんだ。それじゃあ八島さんに出会ってまだ三年くらいしか経ってないのか」
「いや、実際はもっと経ってる」
「どういうこと?」
「俺たち二十歳超えてるから」
なんでもないことのように美月が言った。一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「…は?」
「だから、俺たちもう二十歳越しているんだ」
二回目はゆっくりと子供に言い聞かせるように言われた。
「どうして、高校生なんてやっているの?」
「潜入捜査だよ。俺たち童顔らしいからまだまだ高校生でも通用するらしくてね」
「養ってもらう代わりに仕事を手伝っているんだ。見習いだっていっただろ」
「結構人使い荒いのよねー。今回のこともそうだけど。まあ生活できているのは八島さんのおかげだから感謝はしているけど」
その後もいろいろと話をしてこの日の夕食は終了した。
食器の片付けも終わったところで、これからのことを話し合うらしく、ソファの方へ移動した。食後のコーヒーを入れてローテーブルまで運ぶ。
「ありがとう」
みんなの前に並べ、床に正座した。
「どうしてそこに座るの?」
奈知が心底不思議そうな顔でこちらを見るので、つい目を逸らしてしまった。
「いや、なんとなく」
「話しにくいからこっちおいでよ」
そういって、奈知が座っている横をポンポンと叩いて示す。ようは隣に来いということだ。みかさと美月はすでに隣同士で座っている。確かに空いているのは奈知の隣だけだった。なぜか恥ずかしくなって、俯くと、奈知が笑いながら言った。
「隣が嫌ならまたオレの膝の上に座る?」
「隣に失礼します」
即答して奈知の隣に座る。奈知は肩を震わせながら笑っていた。
「和馬君。からかうのもほどほどにしなさいよ」
みかさが非難したが、奈知はニコリと笑顔を返しただけだった。
「とにかく、本題に入るぞ」
美月が無表情で話を始める。すると、他の二人も真剣な表情に変わった。空気が張詰めたようだった。時計を見ると八時を過ぎた頃だった。
「おそらく、明日あなたのお母さんは帰ってくると思うわ。なので、私は明日の朝には事務所に帰ります。月曜日からは今まで通り、ただのクラスメイトってことでよろしく。いきなり態度が変わるとみんな怪しむだろうから。香山さんって意外とみんなの注目あつめちゃうから」
真剣に頷きながら聞いていたが、最後の一言は同意できなかった。
「注目を集めているのはわたしじゃないと思う」
「そうかな。今まで香山さん気づかなかっただろうけど、遠巻きにだけどあなたクラスメイトに見られているのよ?」
「え。そんなはずは…」
今まで、周りになんて興味なかったから、気づかなかったのだろうか。誰も自分のことなんて気にしていないと思っていたのに。注目されないように気配を消していたつもりだったのだが、逆効果だったのだろうか。
「原因のほとんどは、河嶋君だと思うけどね」
「河嶋?どうして、あいつが関係あるんだ?」
確かに、河嶋とは時々、というより向こうが話しかけてくるからしゃべっているが、それがクラスメイトの関心とどう繋がるのだろう。
「河嶋君は誰とも仲がいいけど、自分から話しかけたことは一度もないのよ」
「そんなバカな。あいつの周りはいつも賑やかじゃないか」
「彼の周りには確かに人は集まるけど、彼が話しかけて集まっているというより、みんな彼と話したくて集まっているだけなの。そんな彼が唯一話しかけているのが、あなた。みんなあなたたちがどんな会話をしているのか聞き耳を立てているのよ」
「まさか…」
予想もしていなかったことをいわれて愕然としていると、美月が呆れた声を出した。
「あんたは自分のことしか考えてこなかったから、周りの反応なんて興味なかったんだろう。これからはそんなわけにはいかなくなった。気をつけてもらわないとこっちも困る」
「こら、美月!そんな言い方だめでしょう!」
みかさが、隣に座っている美月の膝を叩いた。叩かれた美月は少しバツの悪い顔をしたが、すぐにそっぽを向いてコーヒーを一口飲む。美月の眉間にシワが寄った。
「ごめんなさい。この子、口は悪いけど、本当は優しい子なの。許してね」
みかさが申し訳ないと頭を下げる。謝らなくていいと言おうとして慌てて立ち上がると足をラグに引っ掛
けて転びそうになった。
「わぁっ!」
ローテーブルにぶつかると思ったら腕を強い力で後ろに引っ張られ柔らかい何かに抱きとめられた。衝撃に備えて瞑っていた目をゆっくりと開けると、優しい目をした奈知が笑いかけていた。
「大丈夫?キミは意外とドジなんだね。やっぱりオレの膝に座っとく?」
「あ、ありがとう」
奈知の隣に再度腰を下ろして礼を言った。顔が熱くなっていくのがわかった。俯くと美月が咳払いをした。
「時間がないので話を進める。基本学校内でのガードは和馬に任せる。下校時のガードは俺とみかさが一緒に帰ることでまかなう。それでいいな」
最後の一言はこちらに向けられていたので頷く。
「だけど、本当にこの男の子は誰なんだ?」
ローテーブルの上に置いてあった写真を手にとって美月が眉間にシワを寄せる。みんなで首をかしげていると、ふと、夢のことを思い出した。
「そういえば、二、三日前に学校で倒れたときに見た夢で、子供の頃のわたしが出てきてなにか言っていたような…」
記憶を呼び戻そうと宙を見つめていると、三人の視線がこちらに集まっていた。あの時、確か三歳くらいの自分が出てきて、夢の話をした気がする。
「ゆめ、わたしの夢は、好きな人のお嫁さんになること。同じ年の、お兄ちゃんの知り合いの家の男の子…確か、そんなこと言っていたと…」
「その子か!」
突然、言葉を遮られてびっくりした。三人はなにか頷きあっていたが、一人取り残されてわけが分からなかった。後は何か言ってなかったか考えていると、突然、恐怖が襲ってきた。暗い暗い、闇。部屋は電気がついていて明るいはずなのに、暗闇にいるみたいに冷や汗と振るえが襲う。自分の腕を抱きしめる。遠くで救急車の音が響いていた。
「い、いや、こわ…い。たすけ、て…っ」
異変に気づいた奈知が振り返る。
「どうしたの?」
みかさと美月も気づいてこちらを見た。
「大変だ。何かのトラウマに引きずられている。何とかして現実にひきもどさないと…」
美月が言い終わるより先に、奈知に抱きしめられ、背中を優しく撫でられる。
「大丈夫。大丈夫だ。オレがそばにいるから」
耳元で優しくささやかれると、強張っていた身体から力が抜けていく。震える手で奈知の服を握る。目を閉じると、目じりに溜まっていた涙が流れた。
そのまま意識が遠のいていった。意識が途切れる間際に奈知の声が聞こえた。
「オレが必ず守る…」
抱きしめられた腕の中は、暖かかった。
ふわふわと、揺れる夢を見た。毛布に包まっているように暖かい。その温もりを放したくなくて強く握る。すると握り返された気がして、意識が浮上してきた。
目を覚ましたとき、目に入ってきたのは窓から差し込む暖かい日差しだった。もう朝なのかと、起き上がろうとすると、肩になにかの重みを感じて、振り返ると、息が止まるかと思った。そこには、奈知が規則正しい寝息を立てていた。
そろりと自分の格好を見ると、昨日の服のままだった。何故かほっと息を吐き、奈知を起こさないようにゆっくりとベッドから降りる。そして、昨日のことを考えた。そういえば、途中で何か怖いことがあって、それからの記憶がない。
不思議に思いながら、とりあえずシャワーを浴びようと引き出しから着替えを取り出し、下へ行く。階段を中ほどまで下りたところでリビングから軽快な包丁の音がして、母が帰ってきたのかと急いで下りると、キッチンに立っていたのは母ではなく、みかさだった。
「あ。おはよう。体調はどう?もう大丈夫?」
「なんのこと?」
「憶えてないの?」
「何を…?」
きょとんとしてみかさを見つめていると、驚いた顔をしていたが、苦笑に変わって、何でもないと言った。
「ところで、和馬君は?」
「まだ寝てると思う。起こさないように下りてきたんだけど」
「ほう。まだ寝てるのか…」
みかさは思案するような顔で二階を見つめていたが、すぐに笑顔に変わり、持っていた着替えに目を留めた。
「あら。今からシャワー?ちゃんと温まった方がいいわよ。浴槽は洗ってあるから今、お湯入れるわね」
「何から何まですみません」
お辞儀するとみかさは笑っていった。
「気にしないで。これが仕事だから」
「ありがとう。みかさも入る?」
「私は今朝、家に帰って入ってきたからいいわ。それより着替えは……え?」
「え?」
みかさが、固まってこちらを見た。なにかおかしなことでも言ってしまっただろうかと不思議に思っていると、ゆっくりとみかさの口元が弧を描いていく。
「いま、みかさって呼んでくれた?」
「だって、そう呼べっていったじゃないか」
恥ずかしくなって、横を向くと、急に抱きしめられた。
「な、なに!」
「嬉しい!ありがとう!よろしくね!」
抱きしめられて、そこまで喜んでもらえるとは思ってなかったからどうすればいいのか分からなくなる。ゆっくりと抱きしめ返すと、みかさは満面の笑みで強く抱きしめてくれた。
「出入り口でなにやってるの。邪魔なんだけど」
後ろから不機嫌な声が飛んできて、慌てて離れる。声の主は奈知だった。機嫌の悪い声など聞いたことなかったのでびっくりした。みかさは特に気にすることなく答える。
「別にいいでしょー。さぁ、ご飯の続きをしようー。あ、香山さんは先にお風呂ね」
持っていた着替えをみかさに取られた。そしてみかさはうきうきと風呂場へと歩いていった。
「本当に、なにやってたの?」
「みかさって名前呼んだら、喜んでくれて…」
「ふーん」
聞いてきたのは奈知なのに興味なさそうな返事だ。寝起きが悪いのだろうかと思ったら、前髪をかきあげてこちらをじっと見ていた。学校で会うときとは印象が違っていて、なぜかドキドキする。
「美月は?」
「見てないけど」
「ふーん」
奈知が一歩近づくと、一歩下がる。そんなことを繰り返していたら、足が椅子に当たった。横目で後ろを見るとすぐ後ろはテーブルだった。
「お風呂できたよー」
みかさがリビングに戻ってきたとき、奈知はいつもの調子で軽く伸びをした。
「あー。よく寝た。おはよう」
「寝すぎじゃない?もうお昼前よ」
その言葉に驚いた。奈知は気づいていたのか欠伸をしてそ知らぬ顔だ。
「えっ!本当に?」
壁の掛け時計を見ると、まさに十二時になるところだった。
「そんな…」
愕然としているとみかさが明るい声でいった。
「さぁさ。香山さんは暖かいうちにお風呂入ってきて」
「でも…」
「入ってきなよ。ご飯もまだできてないし。ゆっくりしておいで」
「そうよ。ほらほら」
みかさに背中を押され、お風呂場へ連れて行かれる。奈知は笑顔で手を振っていた。
「それじゃごゆっくりー」
みかさが脱衣所を出て行くと、一気に脱力感が襲ってきた。
「さっきの、奈知はいったい」
長くため息を吐いて、気を取り直して服を脱ぎ、風呂場へと向かった。
手早く髪と身体を洗い、湯船にゆっくりと浸かる。深く深呼吸すると、アロマの匂いが香っていた。お湯の温もりと相まって身体の緊張が解れていくようだ。
「みかさが用意してくれたのかな」
もう一度、深呼吸をして湯船から上がった。
脱衣所で身体を拭いていると、リビングから話し声が聞こえてきた。急いで服を着て、髪はタオルで拭くだけにしてリビングへ向かった。
「あなたたちのことはあの人から聞いているけど、もう大丈夫だから依頼はなかったことにして頂戴」
「そうはいきません、依頼人はあなたではありませんので」
「あの子のことは私一人で大丈夫です」
「ですが、これからなにがあるかわかりませんし」
「なにも起きません。あの子は私が守ります。お引取りください」
みかさと母が言い争っていたが、母が帰ってきた喜びのほうが大きくて、勢いよく抱きついた。
「母さん!」
「雪彦!よかった。ごめんなさいね。一人にしてしまって」
「大丈夫だったよ。伯父さんが助けてくれたから」
「そう…」
母の声は少し沈んでいたが、気にせずあったことをいろいろ話す。
「この人たち、同級生なんだ。伯父さんが連れてきた。晩ご飯も作ってくれて…」
「待って、雪彦、一度に言われたら混乱してしまうわ。ゆっくり聞かせて」
「あぁ、ごめん。母さんが帰ってきたのが嬉しくてつい。そうだ。もう疑いは晴れたんだよね。だから帰って来れたんでしょ?」
「そのまえに、あなた髪を乾かしなさい。冷たいわ」
軽く突き放されて、俯く。
「ごめんなさい。すぐに乾かしてくる」
「ちゃんと乾かすのよ」
「はい」
脱衣所に戻ろうとしたとき、みかさの声が聞こえた。
「分かりました。私たちは帰ります。ですがまたあとで来ます」
後ろを振り向くと、ソファに座って成り行きを見守っていた奈知と目が合った。何か言おうと口を開いたが、言葉が出てこなくて、目を逸らしてしまった。
「もう来なくて結構よ。さっさと帰って」
もうきっと何を言っても聞いてくれない。いつもそうだから、諦めることが身についてしまった。脱衣所について、ドライヤーのスイッチを入れる。肩まで伸びた髪が、鏡の中で熱風に煽られていく。
髪を乾かし終わってリビングに戻るとみかさと奈知はもういなかった。
「二人とも帰ったの?」
「ええ。また来るって言っていたわ。あなた彼女たちに勉強を教えてもらの?」
「それ、誰が言ってたの?」
「男の子のほうよ。今さら勉強したって遅いんじゃないの?」
「分からないところを二、三個聞くだけだから」
「そう、それならいいの。まさか、就職するとか言わないわよね」
「言わないよ。どうして?」
実は、就職することは母には話していない。約束を果たせば、伯父が就職先を紹介してくれる。それは母から離れるのが条件でもある。だけどもしかしたらそれまでに自分のことを思い出してくれるのではないかと、勝手な希望を持っている。
昔のような冷たい態度ではなく、今と同じように愛してくれるのではないかと、勝手な希望を抱いているから、就職のことは話せずにいる。
「いいえ、それならいいの。ご飯は食べた?まだなら作るわ。お母さんもお腹空いちゃった。食べながらいろいろ話しましょう」
「うん」
みかさが途中まで作ってくれていたオムライスを作って、少し遅めの昼ご飯を食べながら、母と何気ない会話を交わして、昼ご飯は終わった。だけど母は頑なに警察へ連れて行かれた経緯を話してはくれなかった。
しばらくして夕方六時頃みかさと奈知、美月も家にきた。
「おまたせ。教科書とか取りに行っていたら遅くなっちゃった」
玄関先でみかさは笑った。
「教科書って自宅まで取りに行ってたの?」
「いや、学校まで」
「でも今日休みでしょ。よく入れたね」
「そこは、ほら、校長先生に許可取ったよ」
「それって、職権乱用って言わない?」
「言わないよ」
奈知が目を細めて笑った。いつもと違う優しい笑顔に心臓がドキドキする。
「とりあえず、上がって。あまり時間ないけど」
「おじゃましまーす」
階段を上ってすぐのところにある自室に入る。来ることを事前に知っていたので、軽く掃除は済ませてある。
部屋の中央にローテーブルと床には毛足の短い絨毯が敷いてある。窓は少し大きめで、今はカーテンが閉まっている。窓際にベッドと勉強机、部屋に入って右側の壁に本棚がある。本棚には主に学校の教科書と参考書、辞書くらいしか入っていない。
「あまり物がないのね」
「みかさは必要ないものばかり部屋にあるよね」
部屋を見回していたみかさと美月が、軽く睨み合いになる。そんな二人を苦笑して見つめていた奈知だったが、一回手を叩いて注目を集める。
「そんなこといいから、本題に入るよ」
「本題?勉強じゃないの?」
「勉強は口実だよ。そうでも言わないと家に上げてもらえそうにもなかったからね」
「そうだったんだ。ごめんなさい」
頭を下げると、奈知が優しく頭を撫でた。
「キミが謝ることじゃないよ。オレたちが未熟で信用してもらえなかっただけさ」
「なんのこと?」
その場にいなかった美月が首をかしげたので、奈知が、かいつまんで説明した。
「ふーん」
それだけ言って、美月は絨毯の上に座った。それを機会にみんな座った。
「それで、本題って?」
居住まいを正して聞くと、真剣な顔をしてみかさが切り出した。
「昨日も話したと思うけど学校と帰宅時のこと。念のためにこれを持っていてほしいの」
そういってみかさが鞄から出したのは、手のひらに乗るくらいの黒い小さな丸い機械だった。それをテーブルの上に置いて、話を続ける。
「これは、GPS送信機能がついた緊急警報機なの」
「俺たちはボディガードのプロじゃない。手は抜かないつもりだが、それでも見落とすことがある。だから常にこれを持っていて欲しい」
器械を手にとってよくみると、真ん中にスイッチみたいなのがあった。
「もしこの前みたいに襲われそうになったときこれを押してくれたら、急いで駆けつけることができる」
奈知がニコリと笑ってこちらを見た。襲われたときと言われ、あのときのことを思い出して、一瞬身体が強張る。別にトラウマになるほど気にしてはいないが、できれば余り思い出したくない出来事だった。
「結局、あのときなにがあったの?突然保健室に来るからびっくりしたんだけど」
みかさが聞いてきた。奈知は苦笑して肩をすくめた。
「別に。頬を殴られたりお腹を蹴られたりしただけだよ」
答えようとしたら、先に奈知に言われた。だけどそれは正確じゃない。確かに殴られたり蹴られたりしたが、そんなことは瑣末だ。本当に嫌だったのはそのあとやられそうになったことだ。どうして言わないのかと奈知の顔を見ると、ウインクされた。
「私は香山さんに聞いているのに、どうして和馬君が答えるのよ」
「オレもその場に居合わせたから。どっちでもいいじゃないか」
「そういえば、保健室には和馬が連れてきたんだったな。仲良く手を繋いで」
「そうだろー。仲良く見えただろー。妬いた?」
「そんなわけないだろう」
いつものようにおどけたようにいう奈知を、美月が呆れた顔で言い返す。割り込めない雰囲気に胸が苦しくなって俯いた。
それから本当に勉強でわからないところを聞いて、七時前にみんな帰ることになった。先に部屋を出た美月とみかさから少し遅れて、奈知が部屋を出ようとしたので呼び止める。
「奈知、どうして本当のことを言わなかったんだ?」
「何を?」
「さっきの…」
「あぁ。別に話すようなことでもないと思ったから」
「それだけ?」
「それだけ」
奈知は笑って頭をポンポンと撫でてきた。その笑顔は優しかった。
玄関まで三人を見送り、部屋に戻ろうとしたところで母がリビングから顔を出した。
「雪彦、ちょっといいかしら」
「なに?」
母に続いてリビングに入り、向かい合いにソファに座る。いつになく真剣な顔をした母と対峙して、緊張する。
「さっきの三人、幸樹さんが依頼したそうね。あなた、いつから知っていたの?」
「いつからというか昨日、母さんが警察に連れて行かれた後連絡をもらったからって急いで駆けつけてくれて、そのときに紹介された。それまでは全く知らなかった」
「幸樹さんそのときなにか言っていた?」
「母さんは何もしていないからすぐに帰ってくるって」
「それだけ?」
母がなにを聞きたいのかわからないが聞かれたことは答えようと必死に記憶を呼び覚ます。
「父さん、は事故で亡くなったわけじゃないって」
本当は兄もいたのだが母の中で妹、つまり『りょう』の存在はいないことになっているので、その一言は伝えない。
「そう」
母は何かを耐えるようにしばらく目を瞑っていた。しかし数秒もたたないうちに笑顔になった。
「晩ご飯、作ろうか」
そういってソファから立ち上がり、キッチンへ向かう。その後姿に向かって声をかけた。
「なにか手伝おうか?」
「大丈夫よ。部屋で勉強してきなさい」
「…うん」
きっと今は何を聞いても無駄なのだろうと思った。おとなしく部屋に戻って参考書を開いても、やる気はでなくて、階下からご飯ができたと呼ばれるまで、ただボーっと座っていた。この日の夕食は静かで、テレビの音だけが虚しく響いていた。
夜、夢を見た。いつもの森の夢。
樹の香りと風を感じて目を開けてみると、青々と繁った森の中に佇んでいた。そして自分を見下ろすとパジャマ姿に素足だ。
遠くに、ひと際大きな樹が一本立っている。あとは、どこまでも森が続いている。遠くにあるひと際大きな樹に近づく。歩いているのに地面を踏みしめている感じがない。
幹が太くかなり大きい樹。葉は生い茂っていて、日陰ができている。そこに腰を下ろし、樹を背もたれにしてしばらく空を見上げていた。ゆっくりとまぶたを閉じる。意識を手放す時、誰かの声を聞いた。悲しい声で、誰かの名前を呼ぶ声。
夢はいつもここで終わる。目を覚ますと、暖かい日差しが、部屋に入り込んでいた。
(そういえば、一昨日はこの夢見なかったな…)
みかさたちが泊まりに来た日、森の夢は見ていなかったことに気づいた。だけど、意味などないだろうと、制服に着替え、階下に下りた。顔を洗ってからリビングに行く。
「おはよう」
「おはよう」
朝食はもうテーブルの上に並んでいた。キッチンに立っていた母に挨拶をして、椅子に座る。
自然とテレビを見ると、朝のニュースが流れていた。アナウンサーがニュースを読み上げる声をなんとなく聞いていると、聞きなれた単語が出てきたので画面に釘付けになった。
「一昨日の夜、九時ごろ、美津市竹田三丁目の公園で、近くに住む高校生三人が、何者かに襲われ、重症を負って救急車で運ばれました。三人はいまだ意識は戻らず、警察は、先ごろ三人が通う高校で起きた転落事件との関連を調べている模様です。次のニュースです…」
画面に釘付けになっていると、母が、濡れた手を拭きながら同じようにテレビを見ていた。
「物騒ね。またこの近くで事件なんて。雪彦も気をつけなさいね」
「うん…」
「早く食べないと遅れるわよ」
そう言われて壁の時計を見ると、確かにゆっくりしている場合ではない時間だった。急いで朝食を食べ終え、いってきますといって家を出た。
走らなくても間に合うが、どうしてか、気が逸っていた。急いで学校へ向かうと、案の定、校門前にマスコミがいた。それと数人の制服警官が門の前で仁王立ちしていた。前回の二の舞にならないように、裏門へ回る。みんなやることは同じなのか、表の校門に生徒はいなくて裏の校門には生徒がごった返していた。
「おはよう」
突然、後ろから声をかけられてびっくりする。振り向くと、奈知がいつもの愛想笑いで立っていた。
「おはよう」
「表、門閉めて入れないようにしているみたいだね」
「そうなんだ。だからこっちにいっぱいいるのか」
奈知と一緒に校舎に入り、教室まで一緒に行く。とくに会話はないが、どうして居心地悪くないのか不思議だ。
教室に入り席に着くと、河嶋が声をかけてきた。
「おはよう。休日はなにしていたの?」
「なんだっていいだろ」
「ちょっとくらい教えてくれてもいいじゃないか」
「…勉強していたよ」
答えると、河嶋がつまらなそうな声を出した。
「なんだよ。休みの日まで勉強かよ。香山、就職組じゃなかったのか?」
「進学も一応考えているだけだ」
「今から?遅くない?」
「まぁ、な」
このまま卒業できたら就職するつもりだが、母にどう言ったらいいのか迷っている。だから一応体裁のつもりで大学受験も視野に入れているだけだ。
ボーっと考え事をしていると、ひらひらと目の前を誰かの手が動いているのに気づいた。手を辿っていくと河嶋だった。
「大丈夫?」
心配しているのか面白がっているのかよくわからない顔で聞いてくるので、まだ目の前にある手を叩く。
「大丈夫だ」
「そう。よかった」
河嶋がホッとしたような笑顔を見せた。驚いて顔を見ると、いつもの面白がっているような笑顔だったので、さっきのは見間違いだったと、窓の方を向いた。
窓の外ではまだマスコミがうろついているようで、校長と教頭が撤収を呼びかけていた。
しばらくしてチャイムが鳴り、みんな席に座って担任がくるのを待つ。そこで奇妙なことがあった。クラスの男子三人の席が空いている。遅刻かと思ったが、教室に担任が入ってきてHRが始まった直後、思いも寄らない発言があった。
「今朝のニュースを見たやつもいるだろうが、うちのクラスの男子生徒が土曜日の夜、何者かに襲われて、現在入院中だ」
空席の生徒の顔を思い出すとみかさのファンで、三日前の放課後に教室で襲ってきた三人組だった。ちらりと奈知とみかさと美月を見た。奈知は真ん中の席、みかさは廊下側の前から四番目、美月はその隣だ。だけど、廊下側を見るとどうしても河嶋が視界に入る。
河嶋は机の上で組んだ手の上におでこを乗せて下を向いていた。気のせいじゃなければ口元が笑みの形をしていた。
(河嶋…?)
「そこで、入院している三人に回復を祈願してみんなで千羽鶴を折ることに決まった」
「先生。みんなってうちのクラスだけですか?」
誰かが質問した。ざわざわと教室が騒がしくなる。
「いや、学年で折ることになった。受験を控えた生徒もいるだろうが、協力して欲しい」
担任が教壇から降りて頭を下げた。すると、水を打ったように教室が静かになった。
「じゃあさっさと折り紙を配ってください。時間がもったいないので」
先ほど質問した生徒が、気まずそうに言った。
「ありがとう。一人二十五羽ずつ折ってくれ」
教壇に戻った担任は折り紙を配っていく。前の席の生徒が枚数を数えながら折り紙を後ろに回していく。
「足りない奴はいないかー。ズルするなよー」
回ってきた折り紙を数えて、二十五枚あるのを確認する。さっきの河嶋の表情が気になって横を向くと、無表情で折り紙を受け取って数を数えることをしないで、そのまま鞄に仕舞っていた。視線に気づいた河嶋はいつもの笑顔を向けてきた。
「なに?」
「いや、なんでもない」
チャイムが鳴ってHRが終わる。クラスメイトたちは、次の授業の準備をする前に、鶴の折り方を周りで話し合っていた。今日は、授業も休み時間も関係なく、みんな折り鶴を折っていた。
昼休みになり、弁当を持っていつもの場所へ向かう。そこは図書室だ。
ここは、用事がある生徒しかこない。この時間は司書の先生がいるだけだ。先生に会釈して入り口に近い場所に座る。静かに弁当を食べていると、微かに話し声が聞こえた。聞いたことのあるような声だったが、何を言っているのか聞き取れなかった。
弁当を食べ終えて声が聞こえる方に近づいてみる。一番奥の本棚でその人を見つけた。
「はい。そのようにお願いします。失礼します」
「奈知?」
声の主は奈知だった。どうやら携帯電話で電話をしていたようだ。声をかけられた奈知は明らかに動揺していた。
「い、今の聞いていた?」
「ううん。聞こえなかった」
「そう。それならよかった」
心底ホッとしたような笑顔だ。そんなに聞かれたくない内容だったのだろうか。
「お昼、ここで食べてるの?」
さらりと話題を変えられた。話してくれないことはいくら聞いても答えてはくれないだろう。諦めて、話題転換を受け入れる。
「あぁ。司書の先生に頼んでここで食べさせてもらっている。本と部屋さえ汚さなかったらいいって」
「へぇ。そうなんだ。ここ静かだし、ゆっくりするには丁度いいな」
「うん」
それきり会話がなくなり、二人で窓の外を見つめる。窓からは誰も居ないテニスコートが見えるだけだ。
窓に映る奈知を盗み見る。頭一つ高い彼の顔は最初の印象とは違って、頼りがいがあるように見えた。
「もうすぐチャイムなるね」
「本当だ。教室に戻らないと」
回れ右して歩き出そうとすると、奈知に手をつかまれた。
「どうした…」
奈知の目を見ると、金縛りにあったように動けなくなった。真剣なその目に射竦められて、固まっていると、軽く手を引っ張られて、前に倒れそうになった。実際は倒れることはなく、奈知の腕の中にすっぽりと抱きしめられてしまった。
「りょうちゃん…」
呼ばれ慣れない名前で呼ばれて、身体がびくりと反応する。だけど、奈知の温もりに心臓が壊れそうなほどドキドキしている。耳元で低い声がささやく。
「オレのこと、信じてくれる?」
「信じてって…どうして…」
「オレはキミを裏切らない。絶対に守る」
「そんなこと…」
「信じられない?」
こくんとうなずく。奈知は一度きつく抱きしめると、体を離した。その顔は少し傷ついているような笑顔だった。
「じゃぁひとつだけ約束」
「約束…」
おでこをくっつけて、奈知は言った。
「何かあったときは必ず知らせて。なにがあっても絶対に一人でなんとかしようと思わないこと」
「どうしてそんなこと…」
「いい?約束だよ?」
有無を言わせない口調にうなずくしかなかった。
「わかった」
「よし。それじゃあ約束のしるし」
指きりでもするのかと手を持ち上げると、その手を逆につかまれてまた引き寄せられる。そして、唇にやわらかいものが触れた。それが奈知の唇だと認識するのに数十秒かかった。
認識した途端、手が出ていた。静かな図書室に、渇いた音が響く。
「いって…」
頬を押えて顔を歪めた奈知の顔がある。頬を叩いてしまった罪悪感で手のひらがジンジンと痛んだ。頭の中は真っ白で、言葉が出てこない。痛む手を握り締めて、奈知に背を向け歩き出す。
司書室から司書の先生が、何事かと顔を覗かせていたが、机に置いていた弁当箱をつかみ足早に図書室を出て行く。一刻も早く、奈知から離れるために。
教室に入って、椅子に座ると一気に脱力して机に伏せた。冷静になると、どうして奈知があんなことをしたのか考えてしまう。触れた唇の熱さを思い出して、自分の唇に触れてみる。
「唇がどうしたの?」
声をかけられて、飛び上がった。
「うっ…わっ!」
飛び上がった拍子に椅子から転げ落ちた。幸い、椅子は倒れなかったので教室にいた生徒に気づかれることはなかった。
「なにやってるの?」
目の前に差し出された手を辿ると、河嶋が呆れた顔をしていた。
「ありがとう」
礼を言って差し出された手を借りて立ち上がる。奈知の手とは違って河嶋の手は、少し冷たかった。
(奈知の手は暖かかったな…って何考えてるんだ!)
さっきつかまれた手の温もりを思い出して慌てて頭を振って振り払う。その様子を見ていた河嶋が怪訝な顔をして聞いてきた。
「本当に大丈夫か?保健室行くか?」
「大丈夫だ。気にするな」
「それならいいけど。変な香山―」
焦って額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。座ろうと、椅子に手を掛けるとちょうどチャイムが鳴り、後方のドアから奈知が教室に入ってきた。目が合ってしまって、思わず逸らしてしまう。さっきの図書室の出来事が頭に浮かんで、顔が熱くなった。
そのまま俯いたので、河嶋がこちらと奈知を見比べて、険しい顔をしたことなど気づかなかった。
午後の授業も滞りなく終わり、帰宅する。朝には表門にいたマスコミも下校時刻にはもういなかった。念のためか、教師たちが門の前に立って帰る生徒を見送っていた。
門を出てしばらく歩いていると三メートルくらい後ろにみかさと美月が歩いているのが見えた。同じ方向に帰る学生風を装っているようだ。昨日言っていた通り警護してくれているらしい。意識しない方がいいのだろうと思っていると、前方の電信柱の影から男性が出てきてびっくりした。
「香山、雪彦君だね?」
男性は警察手帳を出して聞いてきた。後ろにいたみかさたちは後方の電信柱に隠れて様子を見ていた。微かにシャッター音が聞こえるので証拠写真でも撮っているのだろうか。
男性は五十歳くらいで白髪交じりの短髪で、ベージュのトレンチコートにスーツ姿だ。背は低めでお腹周りがぽっちゃりだった。
「そうですが、何か用ですか?」
「先日、この近くの公園で男子生徒が襲われた事件、ご存知かな?」
「ええ。今朝ニュースで見ました」
「彼らと面識はあるかね?」
「担任から聞きました。同じクラスの生徒ですが、話したことはあまりありません」
「そうかい。実は情報提供があってね、彼らに君が襲われたって聞いたんだけど本当かな?」
ドクンと心臓が跳ねる。無意識に手のひらを握りこんだ。
「確かに、殴られたり、蹴られたりしましたが、それが何か」
「本当にそれだけかな?性的暴行を受けたんじゃないかね?」
男性刑事はニヤニヤと笑いながら、頭から足の先まで舐めるように見る。その視線に嫌悪を感じた。
「確かに女の子に見えなくもないが、今の時代は男もそういう対象になるのかねー」
「そんな事実はありません」
きっぱりと否定する。正確には受けたんじゃない、受けそうになっただけだ。
(奈知が、助けてくれたから…)
奈知の笑顔を思い出し、今日の図書室での出来事も思い出してしまって、顔が赤くなる。 ちょうど夕日のおかげで男性刑事には気づかれなかったようで、彼は面白くなさそうに鼻を鳴らしただけだった。
「ふん。まあいい。今日のところは帰るが、またくるよ」
去り際に肩をポンと叩かれた。触られたところが気持ち悪くて払う。刑事が去ってから、美月とみかさが近づいてきた。
「香山さん、大丈夫だった?あの人刑事?」
「なにを聞かれた?」
二人の姿を見て、全身から力が抜ける。
「誰かに襲われて病院で眠っている三人のことを聞かれた。」
「あぁ。今朝、担任が言っていたやつらか」
「そのことと香山さんと何の関係があるの?」
握り締めていた手を開くと、汗をかいていた。ズボンのポケットからハンカチを出して、手のひらの汗を拭く。
「その三人が、三日前の放課後に、俺を襲ったやつらだったから」
みかさも美月も驚いていた。
「どうして、警察がそんなことを知っているんだ?」
美月が眉間にシワを作る。みかさも口元に手を持ってきて何かを考えている。
「情報提供があったってさっきの刑事は言っていたけど…」
「誰がそんなこと…」
「誰か心当たりある?」
みかさが真っ直ぐこちらを見て聞いた。
(心当たりは、ある。だけど…)
黙っていると、美月がため息を吐いた。
「心当たりはあるけど言えないか」
「ごめん…。確かめてから、話す」
「できれば後手には回りたくない。早めに確かめてくれ」
「分かった」
あの刑事は、暴行されそうだったことを知っていた。それを知っているのは当事者の自分と襲われた三人を除けばあの場にいた奈知だけのはずだ。だけど奈知は、裏切らないと言った。信じてくれと。信じられないと言ったら、悲しい顔をした。あれが演技だとは思いたくない。
自分で確認するまでは、みかさたちにも言えなかった。引っ叩いてしまったこともできたら謝りたい。
とりあえず家まで送ってもらった。
「明日、またあの刑事が現れたら極力なにも話さないようにして。対応はこっちで考えるから香山さんはいつも通り生活して。なにかあったらいつでも連絡してね」
電話番号が書いてある名刺を渡された。頷いて受け取ったそれを制服の内ポケットに入れる。
「じゃあまた明日」
「ありがとう」
みかさたちが見えなくなるまで見送って、家の中に入ろうとしたとき声をかけられた。
「りょうちゃん…」
「あなたは…」
そこにいたのは、先日声をかけてきた女性だった。確か、いおりと名乗っていたと思う。
「なにか御用ですか?」
前回、この女性が来た日、母の様子がおかしかったのが気にかかって少し構えてしまう。
「あなたとお話がしたいの。前は邪魔されてしまったから」
「どういうことですか?」
「本当はあなたのお母さん、つまりあたしの姉が亡くなったときにあの子と一緒に引き取るはずだったんだけど、引っ越してしまってから今まで消息がわからくて探していたの。最近になってやっと見つけたと思ったら、こんな暮らししているって知って…」
こんな暮らしとは、おそらく性別を偽って兄の雪彦として生活していることだろう。
「幸せに暮らしているなら見守ろうと思ったけど、こんな生活だめよ。あたしたちと一緒に暮らしましょう。今のような不自由はさせないわ」
いおりさんは必死な表情で訴えてきたが、そんな言葉は胸には響かなかった。こんな性別を偽った生活でも、昔得られなかった母の愛情がもらえるなら、それでいいと思っているから。
「お断りします。俺は今の生活に満足していますから」
きっぱりと拒否すると、いおりさんは心底驚いた顔をした。だけど、半分嘘だ。満足なんてしていないことは自分がよくわかっている。でも、この温もりを手放したくなかった。 矛盾しているな、と自嘲する。
そういえば、と思い出して、今度はこちらから声をかけた。
「俺も聞きたいことがあるんです」
「なにかしら?」
いおりさんは少し落ち込んだ声を出した。先ほど断っておきながら勝手だなと自分でも思うが、この機会に聞いてみようと思った。
「俺の、母親が亡くなっているって本当のことなのですか?」
「本当よ。あなたを産んだ母親はあたしの姉。名前はさおり」
「どうして亡くなったんですか?」
「元々、身体が弱かったの。前の夫との間に子供を身ごもって、その一年後今度はあなたの父親と出会って、あなたを産んだ」
「俺の、父親って……」
「そこでなにしているの」
「母さん…」
声がした方を見ると、ちょうど母が買い物袋を提げて立っていた。その表情はいおりさんを見つめて険しい顔をしていた。
「あなた、また来たの?雪彦、家に入りなさい。こんな女と話すことなんてないわ」
「奥さん!いい加減、彼女を解放してあげてください!こんなこと、可哀想過ぎます!」
「彼女?誰のことを言っているの。うちには息子しかいません。帰ってください。雪彦、家に入りなさい」
再度、冷たく言われ、ビクリとする。震える手で玄関のドアを開ける。
「うん。わかった」
母はいおりさんの横をすり抜け、玄関に立って彼女を見据えて言った。
「もう二度と私たちの前に現れないで」
そして勢いよくドアを閉める。バタンと音が家の中に響く。
「お、かあさん…あの…」
「あの女が言ったことは忘れなさい。でたらめよ」
「本当に?」
「あなた、私とあの女とどっちの言葉を信じるの?」
こちらを向いた母の目は、昔、幼い頃に向けられた冷たい拒絶の目だった。心臓が冷たくなっていく。また存在を認めてもらえなくなるのが怖くて、震える手を気づかれないように強く握りこむ。
「もちろん、母さんだよ」
「だったら今日のことは忘れなさい。さあ、晩ご飯にしましょう」
さっきとは打って変わって優しい笑顔を向ける母に笑顔を返す。
「うん。着替えてくるよ」
手が痛くて見ると、爪が手のひらに食い込んで血が流れていた。部屋に入って、電気をつける。手のひらを見ながらドアに凭れた。先ほどの母の言葉が、頭の中をぐるぐる回っている。
(息子しかいない、か……)
「…痛い、なぁ…」
もう割り切っていたはずなのに、目の前ではっきりと言われると、心臓が引き裂かれるように胸に痛みが広がっていく。その痛みが、心の中のなにかを壊していく。こちらが何を言っても聞いてくれないのも諦めたはずだった。それなのに、少しだけ希望を持ってしまった。だけど、パンドラの箱の底には絶望しか入っていなかった。
「…誰か、たすけて…」
どうしていいのかわからなくて、掠れた声で呟いてその場にうずくまる。手のひらからは涙のように血が流れていた。
しばらくうずくまっていたが、ずっとこのままではいられないので簡単に手当てをして階下に下りる。
「なにか手伝う?」
「大丈夫よ。手を洗ってきなさい」
「はーい」
洗面台に向かい、蛇口をひねって水を出す。一応防水用の絆創膏を張ったけど、滲みるのは嫌なので、指だけ洗う。手を拭いてリビングへ向かうと、ご飯のいい匂いがした。
「おいしそうだね」
今日の夕食は和食だった。ご飯と豚汁、焼き魚に煮物、テーブルの真ん中には大きなサラダボールにサラダが入っていた。
「野菜もちゃんと食べなさいよ」
「わかってるよ。いただきます」
「召し上がれ」
会話もなく、テレビもついていないから、食器のこすれる音と掛け時計の秒針の音だけが響いていた。
静かな夕食の時間は終わって部屋に戻る。
「じゃあ勉強してくる」
「あとでお夜食持って行こうか?」
「ううん。いらないよ」
「そう。九時ごろお風呂にするから」
「わかった」
リビングを出て、ゆっくり階段を上っていく。部屋に入ってちらりと壁に掛けてある制服の上着を見つめた。
ノロノロと歩いてそこまで行き、上着の内ポケットを探って携帯電話を取り出す。連絡先は家と、伯父の自宅だけだ。頻繁に連絡を取る相手などいないから、持っていなくてもいいのだけど母が、持たせてくれた。
携帯を出した拍子に、さっき貰った名刺が落ちた。しかしそれは拾わずに電話帳から伯父の自宅の番号を表示して、通話ボタンを押した。数回のコールののち、電話口に女性の声が聞こえた。
「ハイ。三田村です」
「あ、あの…。香山、ですが…」
「香山、どちらの香山様ですか?」
電話に出たのはお手伝いさんだろうか、電話口で困惑している声が聞こえた。
「あの、そちらの幸樹さんの、親戚です」
「だんな様の…少々お待ちください」
保留音が流れる。緊張して、心臓がドキドキしている。立っているのも疲れたのでベッドに腰掛けた。しばらくして、保留音が途切れたと思ったら、慌てている音が聞こえた。慌てすぎて受話器を落としたよう
だ。
「も、もしもし!」
「伯父さん…」
「どうした!何かあったか!」
「何にもないです。すみません」
「いや、なにもないならいいんだ。すまん。ここに電話してくるなんて初めてだったから慌ててしまった」
伯父の家は、ここから一駅先にある。結婚相手は名門私立学園の理事長の娘だ。一人娘だったために、伯父は婿養子になった。高校受験の前に一度だけ母と伯父の家に行ったことがあるが、結構な大きさの家だったと記憶している。伯父も伯母も優しくてとても仲が良かった。
「すみません」
「謝らなくていい。それで、どうした?」
どう切り出そうか考えていると、伯父が心配そうな声を出した。
「…どうした?やっぱりなにかあったか?」
「何かあったというか、伯父さんに聞きたいことがあって」
「どんなことだ?」
「わたしの…本当の両親のこと、知っていますか?」
電話の向こうで息を呑む音が聞こえた。
「知っているんですね。教えてください」
「どうして、そのこと…。啓子さんが…いや、それはないか」
伯父は思案しているのかしばらく無言が続いた。
「この前と、今日と、いおりって人が来て」
短く説明すると伯父は何かを思い出したようで小さくつぶやいた
「いおり…いおり…あぁ。さおりさんの妹だったか…」
「さっき、いおりさんに聞いたんです。産んでくれた母親が亡くなっていること。それに、わたしのことを引き取りたいって」
またしばらく無言が続き、伯父が固い声を出した。
「啓子さんは、このこと知っているのか?」
「このことって、いおりさんが来たこと?それとも今、伯父さんに電話していること?」
「どっちも」
「いおりさんが来たのは知っています。電話していることは知りません」
電話口でため息が聞こえた。
「それじゃあ、話せない。啓子さんに了承を取らないと…」
「どうして?わたしのことでしょ?どうしてお母さんに許可を取らないといけないんですか?」
手のひらの傷が、ジクリと痛む。苦しくて、胸元の服を握り締めた。
「啓子さんだって、なにか考えがあって黙っているのかもしれないだろう」
「考えって何?息子しかいないって言ったあの人が何を考えているっていうの!」
「…もうすぐ卒業だろ。あと少しの辛抱だ」
「わかっている。わかっているけど…」
母の言葉が頭を回る。もう割り切ったと思っていたのに、感情が溢れる。怒りと悲しみが心の中で渦巻いている。
「必ず認めてくれる。だから頑張るんだ」
伯父さんが苦しい声を出した。だけど、感情が本流となって流れ出して、止められない。わかっている、これは八つ当たりだ。
「いつ?いつ認めてくれるの?いつ、わたしを見てくれるの?」
「…」
答えられない伯父に痺れを切らした。
「もういいよ!」
「おい、待て、りょう!…」
伯父の制止の声も聞かず、電話を切った。携帯電話を枕に向かって投げつける。跳ねた携帯はヘッドボードに当たって床に落ちた。
着信音が鳴っているが、伯父の名前が表示されているから無視する。デジタル時計が、午後九時前を表示していた。卒業して母から離れたとしても、何も変わらないのだろうと気づいてしまった。きっとこのまま、母の心の中に、自分の居場所はないのだと。
着替えを準備して階下に下りる。リビングからテレビの音がして覗き込むと、母がニュースを見ていた。学校の転落事件は事故として片付けられていた。生徒三人の事件はなにも解決していないと報道していた。
ボーっとニュースを見ていると、母がこちらに気づいて笑顔を向けてきた。だけど、さっきの母の言葉が心に暗い影を落として目を逸らしてしまった。卒業したら自由にはなるが、本当は自分の存在を認めて欲しかっただけなのだと気づいてしまった。
「お風呂、もうすぐ沸くわ。入る?」
「うん」
リビングを後にして風呂場に行く。脱衣所の籠に脱いだ服を入れていく。胸を隠しているさらしをくるくると解いていくと、程よい大きさの胸があらわになる。鏡に映る自分は間違いなく女だった。そんな自分からも目を逸らして風呂に入る。髪と身体を洗って、浴槽に浸かる。膝を抱え、背中を丸めた。
(わたしが生きている意味って…なんだろう…)
お湯の中から両手を出して手のひらを見る。血はもう止まっていた。防水の絆創膏はその役目をしっかりと果たしていた。
(こんな思いをするならあのとき、いおりさんについて行ったほうがよかったのかな)
だけどそれは、おそらく母を裏切ることになるのだろう。そこまで考えて自嘲気味に笑う。あれだけはっきりと否定されて、まだ母の愛情を求めている自分が、滑稽に思えた。
ため息を吐き、風呂から上がる。バスタオルで髪と身体を拭き、さらしを巻いて胸を隠す。下着とパジャマを着てドライヤーで髪を乾かす。肩まで伸ばした髪は、母へのサインだったのだが、母の中に『りょう』の存在は微塵にも存在しない。思い出してもらおうとしても無意味だったようだ。
(髪…切ろうかな…)
鏡に映る自分を直視できなくて俯く。ドライヤーを片付けて、リビングに居る母に声をかけた。
「お風呂、空いたよ」
「そう。髪はちゃんと乾かした?」
「うん」
「これから勉強するの?」
「ううん、今日はもう寝るよ」
「そう。暖かくして寝るのよ」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ」
母は一度もこちらを見ずに返事をした。それが悲しくもあり、まっすぐ目を見られないことから安堵もした。
部屋に入ってドアを閉めると、床に落ちた名刺を拾ってベッドまで持っていく。ベッドの横に落ちたままの携帯も拾って着信履歴を確認すると、一分ごとに伯父からの着信が十件入っていた。
伯父との電話は結局八つ当たりで終わってしまったから、罪悪感がある。伯父の電話番号を画面に表示して、だけど通話ボタンは押せなかった。携帯電話は枕元に置いて、名刺を見た。
表は八島探偵事務所の固定電話番号が印刷されていた。裏にかえすと手書きでみかさ、美月、奈知の携帯電話の電話番号が書いてあった。しばらく考えて、携帯を手にとってみかさの番号を押していく。
コール音がしている間デジタル時計を見て、しまったと思った。時間はもう夜の十時だ。慌てて電話を切ろうとすると、通話口からみかさの声が聞こえた。どうやら繋がってしまったようだ。
「もしもし?」
応答がないのを疑問に思って何度も呼びかけていた。黙っているわけにもいかず、恐る恐る声を出す。
「も、もしもし。香山ですけど…」
「香山さん?どうしたの?こんな時間に」
「ごめん、こんな時間に…」
申し訳なくて声が小さくなっていく。するとみかさは笑って答えてくれた。
「大丈夫。まだ寝ていなかったし。いつでも電話してきてって言ったのはこっちだから気にしないで」
「ごめん…」
「もう謝らないで。それでどうかしたの?」
「うん…」
どう言おうか迷っていると、みかさの後ろから『ただいまぁー』と声が聞こえた。
「今の…奈知?」
「あぁ。うん。事務所に八島さんを迎えに行っていたの」
『疲れたー。風呂空いてる?なにみかさ電話?誰から?』
「おかえり。誰でもいいでしょ。お風呂は今、美月が入っているわ」
『美月入ってるのかー一緒に入ろうかな』
「好きにすればー。ものすごく怒られるだろうけど」
『ちぇ。怒られるのはヤだな』
そして奈知の声は遠ざかっていった。
「一緒に住んでいるんだっけ?」
「そうよ。といっても私と美月は居候みたいな感じだけど」
「そうなの?」
「うん。私たちは和馬君のおかげでここにいれるだけだから。八島さんには感謝しているわ」
「そうなんだ。羨ましいな」
「私は、香山さんのほうが羨ましいと思うわ」
「俺?」
「たとえ偽りだとしても、あなたはお母様に愛されてる。私たちは親の愛情がわからないから」
「愛情…。本当に愛されているのかな」
「え?」
携帯電話をきつく握り締めた。手のひらの傷が痛んだ。
「俺は、本当に望まれて産まれてきたのかな…」
「香山さん…?」
「みかさ、頼みがあるんだ」
決意を決めて、真っ直ぐ前を見つめる。
「頼み?」
みかさは怪訝な声を出した。
「みかさに依頼したい。一緒に俺の過去を調べてくれないか?」
「依頼…」
「依頼料は、今すぐには払えないけど必ず払うから」
電話口で、みかさはクスクスと笑った。
「わかった。友達割引にしといてあげるわ。善は急げね。明日学校さぼりましょうか」
「いいの?」
「ええ。それじゃあ明日、制服だと目立つから私服で、八時に駅前に集合ね」
「あ、あの。奈知たちには知らせないで欲しいんだけど…」
「うーん。わかった。じゃあ二人だけで行きましょう」
みかさはしばらく考えていたが、了承してくれた。
「ありがとう。じゃあ明日」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
電話を切って、枕元に置く。一度手のひらを見つめて、握りこむ。電気を常夜灯にして、ベッドに横になった。明日に思いをはせて、目を瞑った。
また、森の夢を見た。大きな樹をじっと見上げる。触れても感覚はない。だけど、匂いはする。周りを見回しても樹があるだけだった。しばらく遠くを見ていると、頬に冷たいものが落ちてきた。
いつも晴れていたのに突然、雨が降ってきた。小雨だった雨は段々と強くなってきた。
いくら夢の中だといっても冷たいのは我慢できなくて、大きな樹の下で雨宿りをする。雨はそれからしばらく降り続いたが、次第に止んでいく。完全に止む手前で、声を聞いた。
いつも悲しく名前を呼んでいる。誰の名前を呼んでいるのか聞き取れなかった。それが、雨と一緒に、はっきりと聞こえた。
「ごめんなさい…。りょう…。ごめんなさい…」
ハッとして起きた。心臓が激しく脈打っている。外は、どんよりと曇っていた。まるで今の気持ちと同調しているかのようだ。
「今のは…いったい…」
ドクドクと鳴る心臓をパジャマの上から押える。夢で聞いた声は、確かに名前を呼んだ。呼ばれることはないと思っている声に、呼ばれることはないと思っている名前を呼ばれた。 自分の願望が強く夢に出てしまったのだろうか。大きく息を吸ってゆっくり吐き出す。
(落ち着け。ただの夢だ。夢なんだ…)
自分に言い聞かせると、次第に落ち着いてきた。ため息を吐いて、枕もとのデジタル時計を見ると、午前七時だった。みかさとの約束は八時だが、学校に行くフリをしないといけないから、一応制服に着替えて下に下りる。
いつもはテレビの音が聞こえるのに、今日は何の物音もしなかった。不思議に思ってリビングを覗くと、そこに母はいなかった。どうしたのだろうと歩いていくと、テーブルの上に書置きと二千円があった。
(体調が悪いので、今日のお昼は買ってください…?)
二階を仰ぎ見て大丈夫だろうかと心配する。だけどこれは好都合だと部屋に引き返して、制服から動きやすい服装に着替えた。部屋を出て、母の部屋を向いてお辞儀をする。そしてなるべく音を立てないように階段を下り、お金を財布に入れて家を出た。
駅までは歩いて十五分くらいかかる。家を出たのは七時過ぎくらいだったので、ゆっくりと歩いていく。朝の冷たい風が頬を通り過ぎていく。空を見上げると、分厚い雲が空を覆っていた。
財布しか持ってこなかったのを少し後悔する。手ぶらの方が動きやすいと思ったのだが、甘かっただろうかと考えていると、駅に着いた。
改札で待っていると、みかさが走ってきた。
「ごめんなさい。待ったよね」
息を切らしながらみかさが謝る。
「いや、俺も今来たところだから」
「そう。よかった」
息を整えてみかさが笑った。彼女もパンツスタイルだったが、ショルダーバッグを持っていた。そして
バッグから何かの書類を出した。
「調査資料をコピーしてきたの。香山さんが産まれた町はここから電車で一時間くらいの場所ね。本当は車でもよかったんだけど誰にも言わないって約束だったから、使えなくて。電車でごめんね」
「いや、電車でいいよ。車だとみかさに負担かけちゃうから」
そういうと、みかさはにこりと笑った。
「ありがとう。それじゃあ行こうか」
「どこまで切符買えばいいかな?」
「はい。昨日のうちに買っておいた」
「えっ」
切符を渡されて慌てる。昨日電話したのは夜十時を回っていたはずだ。そのあと買いに来たというのか。
申し訳なくて謝る。
「ご、ごめん」
「いいのよう。昨日はここまで車で来たし。気にしないで」
「ごめん、結局負担かけている…」
俯いて謝ると、みかさが頭をポンポンと撫でてきた。顔を上げると、みかさは笑っていた。
「気にしないでって。ほら行こう」
「うん。ありがとう。切符代はあとで返すから」
「うん」
二人で改札を抜けて目的のホームまで歩いていく。朝の早い時間なのでスーツ姿のサラリーマンや学生が、駅に溢れていた。見失わないようにみかさの背中を追いかける。
ふと、既視感を感じた。子供のころ、誰かの背中を同じように追っていた気がする。誰だったのかは思い出せなかった。
人にぶつかってハッと現実に戻ってきた。目的のホームまでたどりつき、並んで電車を待つ。さっきのことを思い出そうと考えていると、みかさに声をかけられた。
「どうしたの?」
「うん。なにか思い出しそうで…」
「どんなこと?」
「昔、子供のころに誰かの背中を追っていたような気がして」
「追っていた?」
「うん。誰かと追いかけっこして遊んでいた記憶が…」
首をかしげていると、電車がホームに入ってくるアナウンスが聞こえた。しばらくして電車は止まりドアが開いて大勢降りていった。
比較的空いた車内で、みかさと二人並んで座った。ドアが閉まって電車が発車する。もう後戻りできない思いで遠ざかっていく駅を見つめていた。
いくつか駅を過ぎたとき、みかさがのんびりつぶやいた。
「今頃、美月たち慌てているかなー」
「本当に誰にも言ってこなかったの?」
「八島さんには言ったよ。ごめんね」
「ううん。無理言ったのはこっちだし。ありがとう」
みかさはにこりと笑って首を振った。
「だけど、どうして過去を調べようと思ったの?」
「それは…」
「言えないこと?」
「言えないというか、なんて言っていいかわからなくて」
電車の中は暖かいが、窓に雨粒が当たる音が聞こえた。走り去る景色を眺めて、昨日のことを考えた。あると信じていたものが、初めからなかったなんて信じられなくて足掻こうとしているのか。それとも、初めから絶望しかなかったことを確認しに行くのか。自分でもよくわからない。だけど、自分の出生を知らずにこのまま生活するなんて、もう無理だった。
「昨日、俺の産みの親の妹のいおりって人が来て、俺の事を引き取りたいって…」
「産みの親?」
「うん」
駅に停まってドアが開くたび、冷たい風が車内に入り込んでくる。暖かかった車内が寒くなった気がした。
「俺はずっと、今の母親が産んでくれたんだと思っていた。だからどんなに辛くても我慢できた」
「我慢?」
「まだ父と兄が生きていた頃、母はいつも俺の事を冷たい目で見ていた。それは、俺が悪い子だからなんだと思っていた。だからいい子になろうといろいろ頑張ったけど、結局押入れに閉じ込められたり、怒られたりしただけだった」
「押入れ…」
「それ以来暗闇が怖いんだ…」
自分の手のひらを見つめた。昨日の傷は四つの爪の跡となってかさぶたになっていた。その手を横から見ていたみかさが、優しく握ってくれた。それだけで心が少し暖かくなった気がした。
「父と兄が亡くなったとき、母はやっとこっちを見てくれたと思った。名前も性別も違う、兄の身代わりだったけど、それでもいいと思った。笑顔と温もりをくれるなら、身代わりでもいいと思っていた」
電車は、人を降ろし乗せてまた走る。外の雨は止んでいた。コンクリートが濡れた匂いが冷たい風と一緒に車内へ入り込む。
みかさと手を繋いで、過ぎ去っていく景色を遠い目で見つめる。
「きっと錯覚してしまったんだ」
「錯覚?」
「母が向ける愛情が、自分に向けられているって。いつか本当の姿になっても愛してくれるって思ってしまったんだ。だけど、それはありえないことだって気づいてしまった」
「どうして?」
「あの人の心の中に、娘は存在しなかった。息子しかいなかったんだ…」
「そんなこと…」
「昨日、はっきり言われたんだ。いおりさんに向けてだったけど、うちには息子しかいないって、はっきり言われた。じゃあどうして産んだんだって思った。だけど違った。俺を産んだのはあの人じゃなかった。だから知りたいんだ。俺の本当の母親と父親のこと、本当に俺は愛されて産まれてきたのか。知りたくなった」
「そう。そんなことがあったのね。分かった。全力でサポートするわ」
みかさはにこりと微笑んで、握っていた手をさらに強く握った。それから二回ほど電車を乗り継いで目的地についた。改札を出て、きょろきょろしていると、みかさが案内所で場所を聞いている声が聞こえた。
雨は小雨になっていて傘がなくても何とかなりそうだった。
「そうですか。ありがとうございます」
「わかったの?」
「うん。ここから歩いて十五分くらいだそうよ。行きましょうか」
「うん」
みかさの後ろをついていく。駅はさほど大きくもないけど、無人駅というほど小さくもない。平日にも関
わらず人が行き来していた。タクシー乗り場に四、五台ほどタクシーも停まっていた。バスの時間も頻繁にあるようで、二、三台停留所に停まっていた。駅から大通りに出て歩道を歩いていく。信号を渡って、真っ直ぐ行くとショッピングモールがあった。そのショッピングモールを通り過ぎ、左に曲がると住宅街があった。
「このショッピングモールは最近出来たみたいね」
みかさが建物を見上げ言った。同じように建物を見上げると、確かに外装が新しい。駐車場には車が少しの隙間を残して停まっていた。なかなか賑わっているようだ。
路地に入ってみかさが書類の住所を確認する。その書類をちらりと盗み見た。そこには名前と今の住所、産まれた場所、普段の生活などが書いてあった。見られていることに気づいたみかさは慌てて書類を畳んだ。
「見たらだめだった?」
「だめってわけじゃないけど、一応社外秘だから」
みかさはにこりと笑って歩き出した。釈然としない思いでみかさのあとをついていくと、住宅地の一角でぴたりと止まった。
「このあたりなんだけど…」
住宅地をうろうろ歩いて、一軒一軒表札を確認しながら歩いていく。すると、一軒の家の前に止まった。
「ここ?」
「うん、住所ではここなんだけど…」
その家は、元は病院だったようで、古ぼけた看板があるだけだった。建物は今にも倒れそうに建っていた。
「ここは昔、産婦人科だったの。今は閉院してしまったけど、昔勤めていた看護師さんが家族と住んでいるらしいわ」
インターホンを押すと、元産婦人科の建物ではなく隣の家から年老いた女性が出てきた。
「どちらさま?」
「こんにちは。駅前の案内所から連絡があったと思うのですが、京本と申します」
「あぁ。十七年前のことが聞きたいって人かい?」
「はい」
女性は八十歳になろうかという風体だった。白髪と目じりと口元にシワを刻んでいたが、腰は曲がっていなくて、真っ直ぐ立っていた。足が悪いようで、杖を突いていた。笑ったときに目元のシワが深く刻まれて、絵本に出てくる魔女を連想させた。
「まあ、上がんなさい。立ち話は疲れるからね」
「お邪魔します」
「お、お邪魔します」
緊張しているのか、心臓がドキドキしている。家の中は女性が過ごしやすくリフォームされていた。各所に手すりがつけてあり、段差もなかった。玄関近くの部屋に案内されて入ると、そこは応接室だったようで、テーブルとソファが置いてあった。
二人がけのソファにみかさと並んで座った。正面に女性が座ると、家の奥から若い女性がお茶を運んできてくれた。お茶をそれぞれの前に置いているとき、年老いた女性が言った。
「ありがとう。あぁ、隣から十七年前のカルテを持って来てくれないかい?」
「わかった」
若い女性は笑顔で返事をして、部屋を出て行った。
「今のは?」
「孫だよ。よく気が利く子なんだ」
みかさが聞くと、女性は嬉しそうに微笑んだ。
「十七年前のカルテがあるんですか?」
恐る恐る聞いてみると、女性はニヤリと笑った。
「あるよ。命が産まれた記録だからね。捨てられないさ」
「命が産まれた、記録…」
「もちろん、産まれて来られなかった記録もある。それも捨てずに置いてある」
女性は少し悲しい顔をして、シワのある自分の手を見つめた。その手で一体何人の出産を手助けしてきたのだろうと思っていると、こちらに気づいた女性がじっと見つめていた。
「なんでしょうか?」
「いや、あんたにあったことがあるような気がして…」
「今回伺ったのは、彼女についてなのです」
みかさが、こちらを手で示して言った。すると女性は軽くため息を吐いた。
「そうかい。どうりでさっきから緊張していると思っていたよ」
緊張していることがバレていたことに、恥ずかしくなって俯いた。しばらく待っているとお孫さんが応接室に戻ってきて、真ん中のテーブルの上に分厚いファイルを三冊置いた。
「これで全部だと思う」
「ありがとう。もういいよ」
「はーい。ごゆっくり」
こちらに笑顔を向けて、お孫さんは部屋を出て行った。
「それで、母親の名前はなんて言うんだ?」
「さおり、です」
「苗字は?」
「苗字は、わかりません」
そういうと女性は老眼鏡をかける手を止めた。
「わからない?」
「どうやら彼女は産みの親と離れて生活していたようで、最近その事実を知ったのです。ですから母親の名前しかわからないのです」
女性はため息を吐いて、再度老眼鏡をかけた。
「同じ名前の女性が何人いると思っているんだい。何かないのかい?父親の名前とか、あんたの誕生日とか」
「父親は、香山…という苗字だと思います。誕生日は、十二月です」
「香山ね。あぁ。あんた名前は?」
「…りょうです」
自分で名乗るのはまだ抵抗があった。でも女性はこちらのそんな感情など気にしていなくて、情報を口の中で復唱しながらファイルのページをめくっていく。しばらくページがめくれる音と、時計の秒針が響いていたが、女性の手がぴたりと止まった。
「あぁ、これかな。十二月六日。さおりという女性から女の子が産まれている」
開かれたページをこちらに向けて見せてくれた。そこには、さおりさんの名前と年齢、誕生日、住所、それに産まれた子供の体重、身長、名前などが書いてあった。それを見て、頭が真っ白になった。さおりさんの苗字が、『河嶋』だった。
同じ苗字なんてどこにでもあるだろうが、第一子の欄に『葵』と書いてあった。この世に同姓同名の人物は何人いるのだろう。だから確信じゃない。だけど、衝撃が身体を貫いて身動きが取れなくなってしまった。
「さおりさんはお子さんがいたのですね」
みかさが言っている言葉も遠いところから聞こえてくるみたいだ。
「そうだね。この前の月に一歳の誕生日だったって言っていたっけね。年子なんだって喜んでいたよ。実は切迫早産しそうでね、入院していたんだ。自分の身体より赤ちゃんの心配をしていたよ。一時先生に赤ちゃんは諦めた方がいいって言われていたんだが、この子は絶対産むんだってさおりさん言っていたよ。どうしてそこまでするんだって聞いたら、この子はこの世で一番愛した人の子供だからって言っていた。もう一人の子供に兄妹が出来るのが嬉しいって」
「よく、憶えていますね」
「そりゃね。退院してから一度会いに来てくれたんだ。あのときの子がこんなに大きくなりましたって。確かそのとき写真を撮ったんだ。どこにあったかな」
女性はソファから立ち上がって部屋を出て行った。部屋には沈黙が落ちた。
「世界で、一番愛した人の…子供…」
ぼそりとつぶやく。みかさが優しく頭を撫でてくれた。
河嶋と兄弟かもしれないのは衝撃だったが、それでも聞きに来てよかったと思った。しばらくして女性が一枚の写真を手に戻ってきた。
「あったあった。これだよ」
そういって見せてくれた写真にまた衝撃を受けた。それは、大事に持っていた家族写真と全く同じだった。家の前に女の人と男性が二人、その前に仲良く手を繋いだ男の子と女の子。今までこの女の人は母の若いときなんだと思っていた。でも違ったようだ。滴が写真に落ちた。それは何滴も落ちていった。必死に嗚咽をかみ殺すが、溢れる涙は止められなかった。
写真を胸に抱きしめて、泣いた。写真の中の女の人は、隣の男性と腕を組んで幸せそうに笑っていた。男性も笑っていた。その人は今まで兄だと思っていた人だった。幼いころ母に冷たくされていたとき、一番愛
してくれていたのは他でもない、雪彦兄さんだった…。
まだ続きます。




