魔女の住む森
最初に出会ったときは、老婆だと思っていた。深くかぶったフードの奥からこちらを見る瞳はどこか疲れて枯れていて、への字に曲げられた口もとには年輪のような皺が見えた。
「気まぐれだよ」と言った声も掠れていて、ただ彼の髪を撫でた荒れた指先だけがやけに細く美しかった。
さて、彼は実にありきたりな孤児であった。国はかつての戦乱と疫病の爪痕が消えきらない時代で、親を亡くした子も子を亡くした親もありふれていた。ありふれすぎていて、助けようにもどうしようもなかったのだろう。狭い路地は孤児で溢れ、そこで生きていく力のないものは消えるしかなかった。それはこの世との別離であったり、彼のように街を囲む塀の外への逃亡であった。まあ、両者が迎える末期にさほどの差はない。壊れた石畳の上で力尽きるか土と木の根の上で力尽きるか、それくらいのことだ。
その中では彼は間違いなく幸運であった。それは偶然がほとんど全部、それからひと匙ばかりの彼の思い切りの良さがもたらしたものだ。彼は確かに街の中では生き抜けないほどに弱かったが、弱り切る前にそこから抜け出す潔さがあった。石や煉瓦の上で朽ちていくよりも土や野獣の糧になるほうが幾分かましだと思ったのだ。
街の横に寄り添うように脅かすように広がる森は、深く暗かった。布とも言えない襤褸だけを巻きつけてそこへ踏み入れたとき、彼はもう、どれだけ奥へ行けるか、それまでに何か少しは愉快なものが見られるか、くらいのことしか考えていなかった。最後にものを食べたのはいつのことだったか。しょっちゅう雨が降っていたことは幸運の欠片だった。渇きだけは遠かったが、もう彼には木の枝から果実をもぐ力さえ残っていなかった。何かに取り憑かれたかのように、遠く、ただひたすら、奥へ、奥へ。奥へ。
もしかしたら呼ばれていたのかもしれない、と今になって思う。そうでなければ、自分が呼んだ。きっとそんな「何か」があったのだと、そう思っている。
深い深い森の奥でついに倒れた彼を拾ったのは濃い色のローブですっぽりと身を隠した魔女だった。「人間の死体なんて役に立たない」とぼやきながら蹴られてぼんやり見上げた彼に「おや」と屈み込んでくれた魔女の顔はフードに隠れてほとんど見えなかったが、魔女だ、と分かったのは街で聞いていたからだ。
森の奥には、魔女がいる。人を喰い人を呪う、おそろしい黒い魔女がいる。
「……おれ、たべる……?」
それでもいいか、と彼は思っていた。分かっていて森に入ったのだ。彼からすれば、獣に喰われるのも魔女に喰われるのも変わらなく思えたのだ。もしかしたら、魔女ならば獣と違って苦しまずに死なせるくらいの願いは聞いてくれるかもしれない、というささやかな期待もあった。
死んでも仕方ないとは思っていたが、苦しいのは嫌だな、とごく尋常に彼は思っていた。
「美味くもないもの食べるわけないだろ」
「たべない……まじょ、じゃ、ない?」
「魔女だけどね」
薄い革手袋のはまった指が彼の頭に触れた。埃と脂にごわごわと縺れる髪の中に差し込まれた手に皮膚を探られ、首を左右に向けられた。検分されている、と思ったのは、ほんの少しだけフードの縁が上がったからだ。その中に一対の瞳がひかって彼を見ていた。
食べられるか、美味しいかを見ているのかとこの時は思っていた。実際は、ただ怪我の有無や健康状態を確認されていただけだったのだけど。
ただ、最初に蹴られたことを除けばちっとも乱暴ではなかった。この魔女ならば、もし気が変わって彼を食べることにしたとしても、きっと不必要に自分を苦しめはしないだろう、そう思うことができた。
「何を笑っている?」
気がつけば笑っていたらしかった。彼女に向ける、最初の表情らしい表情が笑顔だったのなら、それはとても素晴らしいことだ。
「たべるなら、いたく、しな、いで」
「食べないったら」
まったく、と仕方なさそうに魔女はため息をついた。
あれ、と思う暇もなく体が浮き上がっていた。背負う、という言葉すら当時の彼は知らなかった。背中の温かさ、ローブの柔らかい肌触り、ゆらゆらと揺られる安心感。その何もかもを彼は初めて知ったのだ。
連れて行かれた森の奥の小さな庵で、彼はたくさんの初めてを知った。人の手で洗われる心地良さ、きちんとした衣服にくるまれること、腹の満たされる食事。誰かに守られるというくすぐったさ。泣きたくなるほど、誰かが好きだということ。
それから、胸のときめき。
初めて会ったときには老婆だと思った。ローブに隠された顔はよく見えず、声は嗄れて、口もとには窶れが刻まれているように見えた。何より、街で聞いた魔女の話は醜い老婆のものだったから。ただ、指の細さだけが幼い彼にも美しく見えた。
庵に連れ帰った彼の世話をひと通り終えてひとつの寝床で休むとき、彼はひどく驚いたのだ。皺やしみに覆われていたはずの肌の滑らかな白さ。濃い睫毛の下の瞳は枯れていたけれど、そこに横たわっていたのは若く美しい、間違っても老婆とは言えない女だった。
やさしい仕草で肩まで掛け布を引き上げられるのも構わず伸ばした指は、あっさりとその頬に触れるのを許された。
「まじょは?」
「ここにいるよ」
「まじょじゃない」
「あたしが魔女さ」
「だって、」
「いろいろあるのさ。もうお休み」
抱きしめられて、何かの草のような青く爽やかな香りと温かい柔らかさに包まれ、気がつけば彼は眠っていた。飢えも不安も恐怖も何もない、生まれて初めての真っ白な溺れるような眠りだった。
彼を拾った魔女は、話に聞くものとはまったく違っていた。若く、美しく、人も食べない。面倒だと言いながら彼の世話を焼き、たくさんのことを教えてくれた。
あまりに酷い生活を送っていたからか、拾われてしばらくはまともに動くこともできなかった彼がまず知りたがったのは彼女のことだ。夜、寝る前には確かに滑らかだった肌は朝起きるとまたしみや雀斑に覆われ、目もと口もとには皺さえ見えた。別人かと思えど目と声は変わらなかった。まるで魔法か呪いだ、と幼い彼は思った。
「やっぱり、まじょ?」
「魔女さ。そう言ったろ」
「ゆうべは、ちがったのに」
「ああ。あれはね」
可笑しそうに、忌々しそうに、魔女は笑った。
「人間の世界は、面倒が多いからね」
嘯いてローブの肩を揺らしながら、彼女はゆっくりと鍋を掻き回していた。その中に入っているものの正体を彼はその時知らなかった。初めて嗅ぐ匂いをまず認識したのは、彼の胃袋だ。彼が何かを考えるよりも先に、ぎゅうぎゅうと震えてその鍋の中に彼に必要なものがあると主張していた。
「まじょなのに」
「魔女だからさ。もう少しお待ち」
魔女は恐ろしいものだと言われている。気が遠くなるような昔から深い森の奥に住み、毒や薬や呪いのわざに長け、迷い込んだ人を襲っては喰う愛を知らない不死の化け物。
「人間の言うことは、そりゃ当たってることもあるけど、間違ってることはそれ以上にあるもんさ」
そう言って、彼女は嗄れた声で笑っていた。そうして作ってくれたスープは美味しくてやさしくて、彼は魔女が人を喰わないことを知った。
魔女は老婆ではなかった。彼女は昼の間はいつでも草や木の実を潰したものを肌の上に塗ってはまるで老婆のように粧っていた。子どもだった彼にはよく分からなかったが、彼のように森の奥へ迷い込む人間は稀にいる。そういうときのためにやっているのだと彼女は言っていた。だから彼は、彼女がそれを落とす夜の時間がとても好きだった。
魔女は、薬や草木にとても詳しかった。森のそこかしこに生えるものを採っては煎じたり乾かしたりして、食事に入れるものもあれば怪我や熱に苦しむ彼に与えてくれたりした。その中には幼い彼が触れてはならない毒もあったが、彼は彼女がそれを使うのは見たことがなかった。
ただ、魔法や呪いはできないようで、「そんなことができるなら、もっと苦労なく生きてるさ」と肩をすくめるだけだった。
魔女との暮らしは、平穏で幸福だった。彼女はやさしく物知りで、ほんの少しだけ素っ気ない。彼女は彼に森で生きていくすべを残らず教え、その代わりに成長した彼に力仕事をこなさせた。初めて彼が一人で仕掛けた罠に獲物が掛かったとき、初めて彼が狩りで得た獲物を彼女に差し出したとき、彼女はひどく喜んでくれた。これで一人前だと、あの枯れた瞳がひときわ温かく綻んだのを見て、彼は初めてのときめきを知ったのだ。
彼女は、いつまでも変わらないように見えた。彼の身長が伸び、肉がつき、力が強くなって、いつしか彼女に抱き上げられるのではなく抱き上げるようになっても。一緒に休んでいた寝床が手狭になって別々になっても。いつの間にか、彼女に守られるのではなく守りたいと、彼がそう思うようになっても。
いつでも魔女は彼にやさしく素っ気なく語り、さまざまなものを惜しみなく与え、彼の成長をことのほか喜んだ。森の中の暮らしは季節こそ敏感であらねばならなかったが、時の流れはどうでも良いものだった。彼の身長だけが時を計るものさしで、それが止まってしまってからは本当にそれさえ気に留めなくなっていた。
だから彼は、気づけなかったのだ。幼い日に街で聞いた魔女の噂、その中にあった本当と嘘。何がそれなのかを考えることはいつしかなくなってしまっていた。
彼が大人になってから、力仕事はすべて彼の役目だった。怪我や病も少なくなり、彼女の手を煩わせることもなかった。その隣で少しずつ、少しずつ彼女が弱っていっていることは、彼の成長に紛れて見えなくなっていた。
寝床を分けてからというもの、彼が彼女の素顔を見る機会はめっきり減ってしまった。彼女は寝るとき以外には気を抜かないようだった。それでも時おり彼女の床へ忍び込むこともあったが、彼女への胸の高鳴りと大きく変化してしまった自分への後ろめたさを知って以来、そういうことも絶えていた。
理由はいくつもある。彼が気づかなかったこと。彼女が気づかせなかったこと。
すべてが明らかになって、何もかものつけを払うことになったのは、彼が彼女に拾われて二十何年も経ってからのことだった。彼はとうに立派な大人になって、もはや彼女への心も望みも隠すことに我慢ならなくなっていた。
幼子は、大人になった。男になった。魔女は、彼女は、若く美しい女であった。時たま現れる迷い人を二人が迎え入れることはなく、男と女は森の奥にただ二人きりであった。
男が、女に恋して女を欲するのはごく当たり前のことでしかなかったのだ。
彼女がそういった事柄からどれだけ慎重に彼を遠ざけたとしても、人間にとて本能というものはある。ついに彼が心のままに彼女を求めたのは、彼が彼女を弱々しいと感ずるようになり、珍しくも病みついたときだった。
水仕事に荒れて草の色が染み付いた指を取り、寝床の横に膝をついて懇願した彼の頬を、彼女はやさしく撫でてくれた。言葉にされたことのない愛の、かなしさの、彼女の心のすべてがその指には籠められていた。
「あんたは本当に、ばかな子だねえ」
「もう、子どもじゃない」
「子どもさ。いくつになったって、どれだけ大きくなったって。なぁんにも知らない赤ちゃんだ」
笑った顔で、辛そうに、彼女は嗄れた声で「あたしのせいだ」と呟いた。
「あんたのためだと思っていた。何にも教えないまんま、生きる方法だけ仕込んで、いつか手放すんだと。手放せたら、それで良かったのに……」
あたしのおばかさん。かわいいかわいい、あたしのとんま。歌うように、彼女は彼をそう呼んだ。どれだけ彼が学んでも。森や薬の知識が彼女に追いついても。
事実、彼は何も分かっていなかったのだ。
「手放せなかった、あたしが悪い。いつまでもいつまでも、あんたとあたしが望んだままに一緒にいたいなんて、ばかな夢をみたあたしが悪い。なぁんにも教えなかった、あたしが悪いんだ」
彼に指を握らせたまま、はらはらと彼女は初めて涙を流した。彼女の、愛する女の泣き顔にたまらなく思った彼は、彼女が何を言っているのかを考えることもやめて、ただその頬を拭った。透明な雫が彼の指を濡らし、幾筋も幾筋も、止まることなく彼女の頬を流れていった。
「気づけなんて、無理な話なんだ。あたしが言わなきゃいけなかった。あたしが」
彼女は、泣きながら息を詰まらせた。
「あたしに、それを言えって言うのか!」
しみと皺に覆われた顔を歪め、彼女は嗄れた声で慟哭した。
濡れた彼の指を痛いほどに握りしめ、額に押し頂いてしばし泣き叫んだ魔女は、ついに彼に懺悔した。
「気づかないかい。あたしは、いつから化粧を落としていない。あんたは、いつからあたしの「素顔」を見ていない。
あんたのこの指に、何かの色は付いているか。あたしの頬は、あんたが擦って何かが変わったか。
あたしは、」
彼は、何を言われているのか分からなかった。ただ、心臓がどくんと大きく波打った。頭ではなく、体が先に理解していた。
長らく、彼と彼女は二人きりだった。女という生き物の変化を、彼はつぶさに見たことなどなかった。女は、若く美しい顔を化粧で隠した、魔女であった。
彼女は。
「あたしは、魔女だけど。魔女と呼ばれたけれど」
彼は、彼女の頬を両手で包み込んだ。彼のてのひらにすっぽりと入ってしまう、小さな顔であった。
彼の指先は、そこに長い間に荒れたざらつきと、労苦に刻まれた皺を知った。かつて、あのやさしく温かい夜に触れた白く滑らかな頬は、もう遠い昔に失われてしまっていた。
「あたしは、化け物じゃない。ただの人間なんだ」
秘密は、ついに暴かれた。ああ、と彼は絶望の声をあげた。彼の瞳からも、涙は流れて途切れなかった。
ごめんね、と彼女は何度も繰り返した。
何にも言わなくてごめん。
教えなくてごめん。
手放せなくてごめん。
愛させてしまって、ごめん。
嘘をついて、
「不死の魔女だなんて、嘘をついて、ごめんね」
初めて会ったときには、老婆だと思った。街で聞いた噂が、人喰いの不死の化け物の話であって、その中で魔女はいつでも醜い老婆であったから。
拾われて、魔女の姿を知った。人から逃れるために隠した若さと美しさを知り、人間の話の本当と嘘を学んだ。
魔女は、老婆ではない。
魔女は、人を喰わない。
魔女は、毒や薬に詳しい。
魔女は、魔法や呪いは掛けられない。
魔女は。
「あんたを騙したまま、消えられなくてごめんね」
魔女は、老婆であった。森の中に暮らす苦労と長い時間に滑らかだった肌は衰えしみが浮き、目もと口もとには筆で描いたのではない皺が刻まれていた。いつの間にか本当になっていたそれに、女というものをよく知らなかった彼は気づけなかった。枯れた瞳と指の細さだけが、変わらないまま彼に向けられていた。
「置いていって、ごめんね」
魔女は。老婆は。彼女は。森に追われたただの人間だった女は、今やすべての秘密を脱ぎ捨て、ようやくただの女として、追いついたはずの男を置いてゆこうとしていた。
彼は、泣いた。何も言わなかった彼女を責めた。何も知らなかった自分を責めた。こぼれ落ちて止まらない彼女の時間を、嘘ばかりだった街の噂を責めた。
もし彼女が、彼の信じた通りの不死の魔女であったなら。彼が追いつくのを彼女は待っていてくれただろう。彼の愛を彼女は受け入れ、彼が覚悟していた通りに彼が彼女を置いてゆくことになっただろう。彼はいつか、森と魔女の思い出のひとつになれただろう。
彼女の嘘はたったひとつ。それが、もしかしたら彼を喰うたったひとつの魔女の呪いになった。
すでに彼女の時間は尽きていた。病みついた彼女は、二度と起き上がることはなかった。最後まで、魔女は彼に置いていく愛を告げなかった。
魔女は、拾った子どもをやさしく慈しみ、さまざまなことを教えた。草木や薬のことを、森で生きるすべを、自分の知識のかぎりを。子どもが、一人でもきちんと生きていかれるように。
けれど男は、彼女なしに生きてゆく方法など、教わった覚えはとんとなかった。
その森の奥深くには、魔女が住んでいるという噂であった。恐ろしい老婆の顔をしたその魔女は、毒や呪いのわざに長け、人を喰って永遠を生きる愛を知らぬ不死の化け物という。
その森へ迷い込んだ男は、何もかもを魔女に喰われてしまった。だから、森へ入ってはいけないよ、と大人は子どもたちに語って聞かせた。