蚊 (万作と庄屋 1)
むし暑い晩でした。
万作が寝床についたときのことです。
「すっても……」
どこからともなくかすかに声がしました。
ですが、人がやって来た気配はありません。
――気のせいか。
万作は思いなおして横になりました。
するとまた、さきほどのかぼそい声が聞こえてきます。
――こいつはそら耳ではねえぞ。
万作は起き上がって、入り口のあたりを見まわしました。
やはりだれもいません。
「だれかいるのか?」
「ここ、ここでございます」
声はすぐそばのようです。
万作が枕元に目をこらすと、一匹の蚊がじっと見上げておりました。
「なんだ、蚊ではねえか」
「申しわけありません。寝るところをおじゃまいたしまして」
「いや、かまわんよ。で、ワシになんか用かのう?」
「まことに申し上げにくいんですが、あなたさまの血をいただきたくて」
「ワシの血がほしいだと?」
「さようでございます。今夜、あなたさまの血をすってもよろしいでしょうか」
その蚊はあわれなほどにやせこけていました。よほど腹をすかせているにちがいありません。
万作は血をすわせてやることにしました。
「ああ、すうがいい」
「まことにありがたいことでございます」
蚊は手をすりあわせました。
その晩。
万作が眠っているときに、蚊はそっと血をすわせてもらいました。
朝になると……。
万作は蚊のことなどすっかり忘れており、いつものように庄屋のところへ畑仕事に行きました。
その日の夜。
「すってもよろしいでしょうか」
昨晩の蚊がふたたび枕元にあらわれました。
「ああ、すうがいい」
万作も気がるに承知しました。
次の晩も、その次の晩も……万作が寝るころになると、蚊はいつものように枕元にあらわれました。
「すってもよろしいでしょうか」
「ああ、すうがいい」
万作の返事も同じです。
毎晩。
蚊は血をすわせてもらいました。おかげで元気を取りもどし、日に日に体がふっくらとしてきました。
ある日のこと。
万作は庄屋の用で、山を越えた町まで荷物を運ぶことになりました。
朝早くに発てば、暗くなるまでには村にもどってこれます。馬の背に荷を積み、町へと向かいました。
道中、町との境に大きな川があるのですが、その川にはひとつとして橋がありませんでした。
万作は馬を引き浅瀬を渡りました。
町での用件はつつがなくすみました。それが帰るころになって、どしゃぶりの雨が降り始めます。
万作は急いで川へと向かいました。雨で川の水かさが増せば、浅瀬が沈んで歩いて渡れなくなるのです。
しかるに着いたとき。
川はすでに上流の雨を集め、濁流が浅瀬を呑みこんでいたのでした。
雨が降り続きます。
川の水かさはいっこうにひかず、万作は翌日も足止めをくってしまいました。家に帰り着いたのは、村を出て三日目の夜のことでした。
その晩も、蚊は枕元にやってきました。
「すってもよろしいでしょうか」
しばらく血をすっていないせいか、蚊はまたもとのようにやせていました。
「ああ、すうがいい」
「ありがたいことです。ところで、かってなお願いではございますが、これから家を出られるとき、わたしもお供をさせていただけませんか」
蚊はあやうく、餓え死にするところだったのです。
人のいい万作。
「ああ、かまわねえ。ついて来るがいい」
これまた気がるに承知しました。
次の日からどこへ行くにも、蚊はいつも万作の肩にとまっていました。
そして腹がへるとお願いしました。
「すってもよろしいでしょうか」
「ああ、すうがいい」
万作の返事も同じでありました。
そんな、ある日のこと。
万作は熱を出して倒れてしまいました。歩くこともままならず、庄屋の屋敷で、しばらく療養することになりました。
万作は庄屋の屋敷で床に伏せていました。
枕元には蚊もいます。
その晩。
庄屋は枕元にいる蚊に気づくと、すぐさま両手を打ち合わせました。
ですが……。
たたかれる寸前、蚊はいち早く飛び立ちました。それから命からがら屋敷を逃げ出しました。
蚊は万作の家で帰りを待ちました。
けれど、万作はいっこうに帰ってきません。病気の万作のことが気になってしょうがありませんでした。
数日後。
蚊はいてもたってもおられなくなり、万作のもとへと向かいました。
久しく血をすっていません。ふらふらしながら庄屋の屋敷まで飛びました。
万作は寝床に伏せていました。
「ぐあいはいかがでございましょうか?」
耳元で声をかけてみましたが、万作から返事はありませんでした。
庄屋に見つかれば、あのときのようにまた打たれてしまいます。
蚊は部屋の隅から見守ることにしました。
さらに三日が過ぎました。
その間、庄屋は食事を作って運んだりと、こまめに万作のめんどうをみていました。
万作はカユをやっと口に入れ、あとは死んだように眠っています。
かたや蚊は一週間も血をすっていません。病気の万作から血をいただくなんて、とても言い出せないでいたのです。
ですが、このままでは餓えてしまいます。
長いこと迷ったすえ、蚊は万作の枕元に飛んでいきました。そして、いつものように声をかけました。
「すってもよろしいでしょうか」
けれど返事がありません。
それからも幾度か耳元で声をかけてみましたが、万作から返事は聞かれませんでした。
――こっそりすわせてもらおうかしら。
蚊は何度もそう思いましたが、そのたびに思いとどまりました。
――病気の万作さんから、かってに血をいただくわけにはいかない。そんなことをするぐらいなら餓え死にした方がまだまし。
蚊がそう覚悟したところへ、
「万作、どうじゃ?」
庄屋が部屋に入ってきて、万作のぐあいをみようと枕元に座りました。
蚊はあわてて飛び立ちました。ところが、弱った体が空中でふらついてしまいます。
と、そのとき。
庄屋がとっさに両手を打ち合わせました。
それは一瞬で、庄屋の手のひらにはつぶれた蚊がいたのでした。
「あわれなものじゃ。蚊に生まれてこなけりゃ、打たれずにすんだものを」
庄屋がしみじみと言います。
そのかたわら。
目をさましたばかりの万作が庄屋の顔をぼんやり見上げていました。