第六章 ~親鸞は弟子一人ももたず候ふ~
【私訳】
念仏歩む同朋を、「自分の弟子だ」「他人の弟子だ」とか言って、門徒の取り合いや派閥闘争が今でもある。
バカじゃないのw
オレには弟子なんて一人もいないよ。
よく考えてみろよ。
念仏って何なんだ?
純粋な信仰行為だろ?
おまえ自身が阿弥陀さんに救われたいと願ったからでてくるんだろ?
念仏するのはおまえ自身だろ?
オレのはからいでおまえは念仏者になったんか?
そうならおまえはオレの弟子といえるけど、よく考えたら違うだろ?
おまえの口から「南無阿弥陀仏」が溢れ出るのはなぜなんだ?
いったい何がおまえに念仏させるんだ?
おまえ自身も認知できないほど深い深いこころの奥底から、身を貫くように輝く純粋な願いに気付いたか?
「本願」ってんだ、覚えとけ。
おまえの奥底からの叫びは、如来の本願がはたらいている証拠だ。
これに逆らうからオレらは苦悩する、わかっちゃいるけどやめられない。
でもおまえは本願の申し子だ。
おまえこそが如来から願われた、仏の子なんだよ。
何も心配することはなかったんだ。
──称えよ、それが「南無阿弥陀仏」の念仏だ。
オレらはこの願いに突き動かされて念仏しているんだ。
阿弥陀仏のはたらきによって念仏してるんだ。
だから「そいつはオレの弟子だ」「あいつの弟子だ」なんてこだわるのは、本当におさむいことだと思わないか?
──人間ってのは、たとえせっかく仏さんから真実を知らされても、煩悩具足のオレみたいに結局損得で勘定して生きている。
あさましいことだな。
真理に触れながら、それを価値が低いって切り捨ててしまう。
だから、人ってのは、弟子だろうと妻子だろうと大切な友だろうと、つくべき縁があれば一緒に歩むことにもなるし、離れるべき縁があれば離れていくものなんだ。
オレもこの諸行無常の事実はつらいよ。
だからと言って、他を批判するな。
自分の弟子だ云々とこだわるな。
人が思い通りにならないからって、自分を正義に祭り上げるな。
「オレの正しい教えに背いて念仏する者は往生できない」なんて言うことは、本当にバカ丸出しだ、どうしてそんなことが言えるんだ?
おまえの信心は、おまえが生み出したのか?
おまえが仏教勉強して修行して育まれたおまえの信心か?
──違うんだよ、ご縁なんだよ。
ご縁があって、たまたまおまえはそういうヤツになっただけなんだ。
立ち止まって自分を観察してみろよ。
一旦停止するんだよ。
左右確認してからようやく進み方が決まるよな?
つまり状況や環境がおまえの生き方進み方を定めてきたんだ。
そこにおまえの意思はなにも介在していない。
おまえの意思自体がご縁によって構築されていたんだよ。
「縁起」ってんだ、覚えとけ。
ご縁が、おまえと成っているんだ。
だから、おまえの口から念仏がでるのは、ご縁のはたらきだ。
「自然」ってんだ、覚えとけ。
それがおまえのあるがままのすがたなんだ。
阿弥陀如来はあるがままのおまえを「尊い、愛しい、必ず救う」と抱きしめているんだよ。
だから、阿弥陀さんに願われて、オレらは全員全部、成仏する。
如来の方から願われていることを信心というんだ。
「他力」ってんだ、覚えとけ。
他力よりたまわりたる信心だ、おまえの自力で起こしている信心じゃない。
それをまるで自分が与えたものであるかのように勘違いして、弟子や門徒を取り返すとか言うのは、マヌケな話じゃないか。
──この人生、色々なモノがついたり離れたりだったろ?
だが阿弥陀如来だけがおまえを決して見捨てない。
絶対だ。
今日ここまでの人生すべての縁が、今、念仏するおまえと成るための師であった。
これからもありとあらゆるものがおまえにとって道を説く師となるだろう。
おまえに念仏を報せた無数のご縁に自然に報謝しろ。
──称えよ、すべては南無阿弥陀仏に成就する。
このことを、親鸞聖人が教えてくれたんだ。
【本文】
一 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。
親鸞は弟子一人ももたず候ふ。
そのゆゑは、わがはからいにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。
弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。
つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。
如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。
かへすがへすもあるべからざることなり。
自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々(うんぬん)。